2025年5月3日

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宿泊した『ホテルルートイン東近江八日市駅前』を出発し、すぐ近くの駅前コインパーキングに車を移しました。本日は歩き残した短い区間のためのんびりとホテルを出発しました。八日市駅から近江鉄道へ乗車し、愛知川駅へ向かいます。

10:50 愛知川駅出発。250mほどで中山道へでます。愛知川宿の冠木門をくぐり、愛知川宿場へ入っていきます。

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近江商人亭

「国登録有形文化財」に指定されている近江商人屋敷を改装して現在は日本料理店となっています。

130mほど右手に「郡分地蔵堂」があります。

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郡分地蔵堂と宿入口碑

愛知川宿の北入口にあり、愛知川村の神崎郡と中宿村の愛知郡の境界線に安置されています。
さらに300mほど進み、右手に「宝満寺」、その先に「愛知川宿本陣跡」、本陣隣に「八幡神社」があり、八幡神社参道の1軒先に「脇本陣跡」がありました。このあたりが宿場の中心地ですね。

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宝満寺

光仁天皇の御代に僧知徳が開いたとされ、大日如来を本尊とします。786年(延暦5)に秦豊満が知徳のあとを継ぎ、宝満神社の別当寺となりました。元は大国寺と号しましたが、後に豊満寺と称しました。愛知氏の邸跡と思われ、古地図には堀をめぐらされていたとされます。

江戸時代には25カ寺の末寺を持つ大伽藍でした。1673年(延宝元)以来、現在まで蓮如上人御影道中の宿泊所の役割を果たしています。1873年(明治6)この地域で最初の小学校として利用され、1879年(明治12)には庫裏を貸し出して「愛知郡役所」としても使用されました。

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愛知川宿本陣跡

本陣は西澤甚五左衛門が世襲し、建物は明治初期に失われました。紀州徳川家が1794年(寛政6)の参勤交代宿泊に際して作成した間取図が残されています。
本陣跡に1926年(大正15)近江銀行愛知川支店として鉄筋コンクリートの建物が建てられました。コンクリート建造物としては滋賀県下でも初期のものです。1943年(昭和18)滋賀県物産(現ユニックス)が購入し、縫製工場として使用し、1955年(昭和30)頃まで倉庫として使用していました。2014年(平成26)愛荘町へ移管され保存修理を行い、現在は交流館として利用されています。

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八幡神社入口

社伝によると聖徳太子が物部守屋との戦いに際して身の安全を祈願した所、神託によりこの八幡神社に身を隠しました。その結果、無事難を免れることができたため、太子は田園を奉納したと言われています。
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八幡神社

中山道分間延絵図では「若宮大明神」となっています。創建は不明ですが、藤原不比等が717年(養老元)に社殿を改修、または養老年間(717~724)に創建したという説もあります。隣接する宝満寺の位置に居館があった愛智氏の守護神として勧請したとも伝わります。

八幡神社の拝殿の右手側をさらに奥に50mほど入っていくと、樹林地の中にひっそりと「淡海公御墓」と言われる墓石があります。

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淡海公御墓

「淡海公」とは藤原鎌足の次男の藤原不比等のことです。

もとは北西約500mに祀られていましが、工場建設のため1967年(昭和42)現在地へ移設されました。
1723年(享保8)に記された「御墓略書」によれば、墓碑がもとあった場所は「御墓遺跡」と呼ばれ、発掘調査により、信楽焼の骨蔵容器と1839(天保10)に墓を修繕したことを記す瓦製墓記などが発見されているそうです。

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高札場跡・脇本陣跡

高札場跡の1軒先が脇本陣です。現在は空地になっています。「天藤屋」という屋号で、門構え、玄関付で建坪は131 坪でした。

愛知川宿

「太平記」によると1336年(建武3)に北畠顕家がこの宿に着いたとあります。愛知川の川止宿として繁栄しました。江戸期は、伊勢から多賀大社への参詣のため通行した春日局をはじめ、多くの人が往来しました。中でも、紀伊徳川家の参勤交代の行列は大規模なもので、多いときには総勢1,800人にも及びました。幕末では、皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐときも行列が愛知川宿に宿泊しています。愛知川宿を通行した和宮の行列は、6,750余人であったといわれています。この他、が通ったという記録もあり、これは清の商人が徳川吉宗に献上するためであったといわれています。

脇本陣跡の隣が「旧八幡銀行愛知川支店」の趣ある建物で、さらに30mほど進んだ左手に「問屋跡」の石碑があります。

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旧八幡銀行愛知川支店

八幡銀行愛知川支店として昭和初期に建築された建物です。1933年(昭和8) 彦根の第百三十三国立銀行と合併し、滋賀銀行となっています。

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問屋跡

愛知川宿には本陣1軒、脇本陣1軒が置かれ、1843年(天保14)の資料によると家数199軒、人口929人、旅籠28軒でした。「木曽路名所図会」には「此宿は煎茶の名産にしてよく水に遇ふなり。銘を一渓茶といふ」とあります。
問屋跡から40m進み左手の路地へ入っていきます。正面に「春日神社」「大日堂」があります。

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春日神社・大日堂

宝満神社(愛荘町豊満、東南1km)の神宮寺であった真言宗の法満寺が浄土真宗に転宗して宝満寺と改められた際に、元の本尊である大日如来は別に大日堂を建立して移されたとされます。

大日堂前の路地を南へ歩いていくと「南地蔵堂」があります。

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南地蔵堂(堀川地蔵堂)

北の「郡分地蔵」と対の南口付近に祀られている地蔵堂です。伊勢参りなどの旅の安全を祈願した地蔵です。

南地蔵堂前で右へ曲がり、中山道へ戻ります。左手にあるのが「竹平楼」があり、その建物前に「明治天皇御聖蹟碑」があります。

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竹平楼

創業は1758年(宝暦8)、代々「竹の子屋」という旅籠を営んでいました。現在も日本料理屋として営業されています。明治天皇御座所と大広間は2000年(平成12)に「国登録有形文化財」に指定されています。

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明治天皇御聖蹟碑

明治天皇は「竹平楼」へ2度立ち寄られたそうです。侍従長の岩倉具視をはじめ、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟など明治を築いた者も供として立ち寄っています。
100mほど進むと小さな橋があり、橋を渡ると間もなく国道8号へ合流します。合流するとすぐ右手の駐車場の奥に「愛知川一里塚跡碑」があります。

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不飲川橋

「のまずばし」と読みます。親柱にはびん細工てまりのオブジェがありますね。中山道分間延絵図には「野間津井石橋」と記載されています。平将門が身の穢れを流したため、この川は飲料水にならないと名が付いたとされます。「近江国輿地志略」には「此水地脈の然らしむ所なれば、毒あるもしるべからず」とあります。

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愛知川一里塚跡碑

現在一里塚は無くなっていますが、中山道分間延絵図には両側に塚が描かれています。
国道を500mほど進むと左手に「祗園神社」があり、すぐその先は愛知川です。

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祗園神社

元は牛頭天王社といわれ、愛知川宿内に鎮座していましたが、愛知川での水難事故を減らすために架けられた「むちん橋」の守護神として1838年(天保9)現在地へ移されました。

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祇園神社の常夜灯

1846年(弘化3)建立、寄進者は愛知川宿の宿役人のほか、次宿、武佐の人々で構成される「武佐郷中」、伊勢参りの「伊勢講中」などの名が彫られています。

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近江鉄道愛知川橋梁

1898年(明治31)に建設され、橋長239mの鋼製9連桁および単トラス橋です。2008年(平成20)に国の登録有形文化財に指定されました。
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むちんばし

1829年(文政12)町人、成宮弥次右衛門ら4名が旅人の便宜を図ろうと「無賃橋」を築造することを彦根藩に申し出し、1831年(天保2)完成しました。

御幸橋

1878年(明治11)には明治天皇巡幸のため「御幸橋」が架けられ、終わり次第、取り壊す予定でしたが、地元有志が金を出し合い払い下げられました。その後暴風雨で壊れ、1891年(明治24)に架替、さらに1928年(昭和3)に鉄筋コンクリートの橋となりました。

御幸橋で愛知川を渡り、橋詰を左へ入っていきます。200mほど進むと右手に「睨み燈籠」と呼ばれる常夜灯があります。

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睨み燈籠

対岸の祇園神社の常夜灯と対峙しているもので、「睨み燈籠」と呼ばれています。1825年(文政8)中村講中が建立しました。恐らく中山道分間延絵図の「地蔵堂」の跡と思われます。
ここから旧中村へ入っていきます。130m進むと左手に小さな「愛宕神社」があり、さらに100m先、右手に「東嶺禅師誕生地」の石碑があります。

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愛宕神社

詳細は不明ですが、中山道分間延絵図に「愛宕」として描かれています。

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東嶺禅師誕生地碑

東嶺禅師は、1719年(享保4)この地に生まれ、9歳のときに五個荘中町の齢仙寺を経て能登川大徳寺に入り剃髪、出家。臨済宗中興の祖・白隠慧鶴に師事し、禅の道を定め一門の隆盛につくし、1792年(寛政4) 齢仙寺において亡くなりました。
小幡神社へ寄るために次の角を右へ曲がります。近江鉄道の踏切を渡り、さらに小さな橋を渡ると右手に「旧跡 轟橋」と彫られた石碑があります。左手は「小幡神社御旅所」でした。

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旧跡 轟橋碑・小幡神社御旅所

伊勢神宮参拝に向かう人々や旅人は中山道から愛知川を渡り、轟橋を渡り「祓戸四柱大神(小幡神社)」のお祓いを受け、再び中山道を旅したといいます。轟橋碑には歌が彫られているようですが、よくわかりません。

小幡神社へむけて120mほど進むと右手に「地蔵堂」があり、さらに60mほど進むと左手にへそ宮さんと呼ばれる「山王神社」があります。右手は広い公園になっています。その先100m、小幡神社のすぐ手前左手に「宮前地蔵堂」がありました。

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地蔵堂・山王神社(へそ宮さん)

山王神社は小幡神社の小宮です。

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へそ宮さんの大欅跡

かつては境内を覆い尽くす大ケヤキ(樹齢800年)でしたが、樹勢が衰えたため2012年(平成24)伐採されました。大きながあったので「へそ宮さん」とも呼ばれていました。

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宮前地蔵堂

立派な地蔵堂ですが、詳細は不明です。外にも多くの石仏が並べられています。
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小幡神社

創建は不明ですが、はじめは東殿を春日大明神、西殿を小幡八幡宮でしたが、1876年(明治9)合わせて「小幡神社」となりました。中山道分間延絵図には「春日大明神」と「若宮八幡宮」が併記されています。

春日大明神の拝殿裏には「森光稲荷神社」があります。

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森光稲荷神社

1825年(文政7)信濃国芋川村の徳武宗助が伏見の本社より勧請しまたが、愛知川宿に預けられたままになっていました。1843年(天保14)小幡神社の境内社として祀られました。
小幡神社の西隣に「齢仙寺」があります。こちらにも寄っていきます。

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齢仙寺山門

江戸時代五個荘金堂地区にあった郡山藩の陣屋の門と言われています。先ほど誕生地があった「東嶺禅師」はこのお寺で1792年(寛政4)亡くなりました。北側の墓地には禅師の墓もあり、中央には大きな塔(歯髪塔)があります。

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供養塔

碑文には「種々諸悪趣地 獄鬼畜生々老 病死苦以漸 悉令滅」と彫られているそうです。地元出身の近江商人、塚本源三郎が昭和初期に門前の湧水池「鳰戸(ニオウド)霊泉」で死んだ魚の塚の前に建立したものだとされます。
中山道へ向け500mほど戻ります。中山道へ戻るとすぐ左手へ入っていくと「厳島神社」があります。

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厳島神社の芭蕉句碑と市河公風の句碑

1871年(明治4)小幡の表鬼門の守り神として「厳島神社」が建立されました。1873年(明治6) 地元の俳人である市河公風がその境内に芭蕉句碑と自らの句碑を建立しました。

中山道へ戻るとすぐ右手に「小幡人形屋」があります。

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小幡人形屋

細居家の初代、安兵衛が享保年間に京都の伏見人形の製法を学び始めました。時代を経て原色を多用するなど伏見人形にない独特の特徴を持つようになり、近江唯一の郷土玩具、「小幡土偶」となっていきました。

近江鉄道を越えて300m歩くと右手に「善住寺」があります。斜向かいには「中澤酒造」、中澤酒造の向かいは小幡神社御旅所になっています。

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善住寺

聖徳太子が大阪の四天王寺をはじめ、諸国に四十八ケ所の寺院を建立されたとき、その瓦を八日市の瓦屋寺(瓦焼寺)で作り、大阪へ運ばれる際に雨宿りされたという旧跡です。本尊の阿弥陀如来は、聖徳太子作の金銅仏と伝えられています。その後、藤原道真が関東へ下向される時、この寺へ泊まり本尊の霊験にうたれ、阿弥陀如来仏を作られ安置されました。

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あけずの門

中山道を往来するものの中に無礼にも乗馬のまま参道へ入り、山門を通ろうとした者がありました。すると山門のところで突然馬が逆立ちになり、人馬もろとも亡くなりました。それ以来、山門を閉めて「アケズの門」と呼ばれるようになったとのことです。

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中澤酒造

1948年(昭和23)、小幡の地で創業しましたが、2000年(平成12)一旦休業、2015年(平成27)に蔵が復活しました。
ここからは、先日歩いていますので、本日はここまで。左へ曲がり五箇荘駅へと向かいました。

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小幡地蔵尊

小さな地蔵尊です。中山道分間延絵図には描かれていません。
13:00 150mほどで五箇荘駅へ到着しました。近江鉄道へ乗り八日市駅前で車をピックアップしました。本日でGWの街道歩きは終了です。

自宅へ帰る前に「道の駅東近江市あいとうマーガレットステーション」に立ち寄りました。道の駅から永源寺ダムの方を通って山越え。この区間なかなか楽しいドライブでした。東海環状自動車道の大安インターから高速道路へ乗り、一路横浜へ帰宅しました。

2025年5月3日

宿泊した『ホテルルートイン東近江八日市駅前』を出発します。連泊するので、本日は車をホテルに停めていきます。徒歩で八日市駅へ向かい、近江鉄道へ乗車し五箇荘駅へ向かいました。

9:00 五箇荘駅を出発。駅前に「小幡商人発祥の地碑」がありました。

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五箇荘駅・小幡商人発祥の地碑

小幡商人は五個荘商人の源流で、扱っていた商品は呉服・塩・魚・米などがあり、鈴鹿を越えて伊勢までも出ていきました。

西へ180m、中山道へ合流し左へ曲がりますが、この交差点に「御代参街道道標」があります。「御代参街道」との追分になっています。

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御代参街道道標

『右 京みち』『左 いせ ひの 八日市みち』と刻まれています。1718年(享保3)建立。 「御代参街道」は小幡から奥町を経て八日市、東海道土山宿へ至る道です。江戸時代に京都仙洞御所の代参として皇族が毎年正月・5月・9月に伊勢神宮と多賀大社へ御代参を派遣していました。この一行が通った道です。
武佐へ向けて140mほどで道が右に大きく曲がっています。ここに「大神宮常夜灯」があり、「正眼寺」の入口になっています。

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大神宮常夜灯

側面には「村中安全」と彫られています。周囲は「旧中仙道ぽけっとぱーく」となっており、屋根付き休憩施設もあり、休憩に良い場所です。
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正眼寺

この地の豪族、吉居三河守が創建したと伝わります。また、資料によれば石馬寺を創建した雲居国師が中興したとされます。

道なりに250mほど進むと右手の駐車場植樹帯に「神崎郡役所跡・五箇荘町役場跡」の石碑があり、そのすぐ先に松が数本残されています。

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神崎郡役所跡、五箇荘町役場跡

1879年(明治12)行政区としての「神崎郡」発足、2006年(平成18)東近江市へ編入され、神崎郡は消滅しました。

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名残りの松

このあたりは江戸時代には松並木がありましたが、現在わずかに残るのみです。
200mほど進むと古い家並が残る集落へ入ってきました。右手には「南無延命地蔵尊」があり、その先左手には「梵鐘鋳造所」である大きな旧家が残り、その向かいには「旧五箇荘郵便局」であったモダンな建物があります。

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藁葺の家と南無延命地蔵尊

「南無延命地蔵尊」の詳細は不明ですが、中山道分間延絵図には「地蔵堂」として記載があります。

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梵鐘鋳造所

1641年(寛永18)から1757年(宝暦7)までの100年余り大型の釣鐘(洪鐘)を作る技術をもった鋳物師が活躍していました。その後、1846年(弘化3)に再び「三俣鋳物師」として近年になるまで続いていました。

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旧五箇荘郵便局(松居家住宅)

1903年(明治36)この場所に竜田郵便受所が開設されました。1925年(大正14)幾何学的なデザインの洋館に建て替えられ、「五個荘郵便局」となり、1964年(昭和39)まで郵便局として使用されました。
先程の「南無延命地蔵尊」まで戻り左の路地へ入っていきます。少し遠いですが、「五箇荘金堂」地区へ寄り道していきます。300mほど進むと右手に「旧観峰館・淡海書道文化専門学校」があり、その先に「清林寺」があります。清林寺の門前左手には「松居遊見顕彰碑」があります。清林寺の先が「龍田神社」です。

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旧観峰館・淡海女子実務学校跡

1919年(大正8) 近江商人初代塚本源三郎の妻、塚本さとが女子教育の必要性を感じ、「淡海女子実務学校」を創設しました。現在は淡海書道文化専門学校となり、書道の専門学校となっているようで、北側に新しい校舎があるようです。緑の多い敷地には昭和初期に建築された校舎があり、中国式の立派な楼閣が目を引きます。

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清林寺

1553年(天文22)開基の寺院で、天皇陛下の御位牌を安置する滋賀の古刹です。寺内には聖徳太子御絵像、親鸞聖人御絵像及び御絵伝、蓮如上人御絵像の寺宝を所有しています。

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松居遊見顕彰碑

「奢者必不久」(奢れる者必ず久しからず)を生涯の格言とし、勤勉、慈善事業に金を惜しまない生き方を顕彰するため、1823年(万延元)に中山道のポケットパークに京都の儒学者、貫名苞(ヌキナシゲル)の漢詩を刻んだ顕彰碑が建立されました。その後2回移転し、1911年(明治44)この地に移設されました。

松居遊見

松居久左衛門遊見(幼名久三郎)は1770年(明和7)父、久左衛門行願の子として誕生しました。1809年(文化6) 行願の死に伴い跡を継ぎ、農業を本業としながら商売を手広く商い、江戸と京都に店舗を設け、京都には呉服染物業の工場もありました。生活は質素倹約、朝は星の出ている時間から働き出し、夜は星が出るまで働くことを旨とし、屋号は天秤棒と2つの星をデザインとています。

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龍田神社

創建は不明です。社伝によると、当地を開拓した位田氏により開かれ、1170年(嘉応2)に5柱の神を合祀し「大正神社」と称しました。1876年(明治9)社号を「六正神社」とし、1879年(明治12) 布田村村社大郡神社を合祀し、日本武尊を祭り、社号を「龍田神社」と改めました。
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龍田神社

拝殿は棟札から1830年(文政13)に坂田郡布施村(現:長浜市)の大工、平居庄次郎重政らにより建築されました。

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三十六歌仙色紙

後に昭和天皇后となられた良子(ながこ)様の母である俔子(ちかこ)様の染筆による「三十六歌仙色紙」が1937年(昭和12)に奉納されました。人物画は京都福知山の夜久臥橋(やくがきょう)が手掛けました。拝殿内に展示されているものは実寸大複製です。

龍田神社の西側の路地を左へ曲がります。200m進んだ丁字路を右へ曲がり、東近江市近江商人博物館を過ぎて左へ。100m進むと右手に「海老塚跡」があります。ここで右へ曲がり、五箇荘金堂へ入っていきます。

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東近江市近江商人博物館・中路融人記念館

近江商人の商法や家訓、暮らしや文化、教育など多岐にわたり展示されています。また、日本画家・中路融人の作品も展示されています。

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海老塚跡(天神塚・手鬢塚)

昔、金堂の産土神を勧請した際、ここで休んだことから「天神塚」となったという伝承があります。その後、1848年(弘化5)大城神社で行われた「初午祭り」は「山之前五ヵ村(金堂・川並・位田・七里・東之庄)」と合同で祭礼を行っていました。

川並村からの高張提灯に「川並村八幡宮」と書かれてあり、これを10歳くらいの子供に奪い去られたため騒ぎが大きくなり、鬢の毛(もみあげ付近)を抜かれるような大騒動になったとされます。その時の鬢(びん)の毛を集めて塚を築き「手鬢塚」と呼んだとされます。 後に「てびん」が「えび」に訛ったのか、子の付近の古名が「海老田」であったからかは不明です。 塚の中央には大きな古松があり、現在の松は三代目です。