2022年5月1日
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8:30 宿泊した
「但馬屋」さんをあとに落合宿にむけて出発します。今日は曇っています。いつ雨が降ってくるか心配です。まず少し戻り島崎家菩提寺である
永昌寺へ寄っていきます。
永昌寺
馬籠島崎家初代の
島崎七郎左衛門重通が一族の菩提のため建立しました。創建年は資料によりバラバラで1558年(永禄元)、1584年(天正12)、1665年(寛文5)など様々です。永昌寺の
観音堂には
円空による観音像が安置されています。
島崎藤村の「夜明け前」では「万福寺」として登場しています。
島崎藤村の墓は永昌寺前の斜面を下ったところにあります。藤村の父、島崎正樹の墓はさらにその2段下くらいにありました。
島崎藤村(春樹)の墓・島崎正樹の墓
島崎藤村は神奈川県大磯町にて亡くなり大磯の地福寺に墓碑がありますが、遺髪と爪がこちらに収められています。
「夜明け前」主人公、
島崎正樹の墓は妻のぬいと共に一族と離れて建立されています。正樹は厳格な
神道でしたので、神道様式の上部が四角錐になっている墓石が建立されています。島崎家の皆と離れているのは・・宗派の違いと思いたいですね。
島崎藤村詩碑
詩碑は本堂西側の眺めのいい小さな広場に建立されています。碑には「母を葬るのうた」が刻まれています。1896年(明治29)に亡くなった実母ぬいへの挽歌で、島崎藤村の「若菜集」に収められています。
永昌寺の庚申塔と観音堂
永昌寺をでて中山道へ戻り、馬籠宿の坂を下っていきます。
馬籠宿
坂を利用して一軒、一軒階段状に造られた宿場町は旅情を感じられます。
看板猫
ずっとこの木の上に座っていました。とってもおとなしいね。
宿泊した但馬屋の前を再び通り、すぐ左手に
「清水屋」、さらに数十メートルで馬籠宿、
「西の枡形」があります。
清水屋(原家)
宿役人を努めた家で、島崎藤村の作品「嵐」にでてくる「森さん(原一平)」の家です。2階は清水屋資料館となっており、藤村の資料を中心に陶器、馬籠宿の生活遺品などが展示されています。
馬籠宿
1892年(明治25)木曽川沿いに国道が整備され、1912年(明治45)には国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命は終えました。
1895年(明治25)、1915年(大正4)の2度の大火により江戸時代の古い建物はほとんど焼失しました。現在の江戸時代を模した街並みは全て
復元で蘇ったものです。
車屋坂の枡形
枡形は1905年(明治39)の道路改修により当時の原形を失いましたが、その後の1985年(昭和60)に復元されたものでが・・往時は階段ではなかったのではないかと・・・
さらに車屋坂を下ると再び枡形になっており、正面に「阿弥陀堂」 があります。
阿弥陀堂
中山道分間延絵図では車屋坂は
「阿弥陀坂」と記されており、現在と同じ位置に阿弥陀堂が描かれています。多くの石仏が並び、現在は集会場も併設されています。
急勾配の車屋坂を下りきると、県道を渡り少し緩やかな
「石屋坂」をさらに下りていきます。
石屋坂
こちらは中山道分間延絵図でも「石屋坂」となっています。
馬籠宿をでると道は緩やかな下り坂となり、徐々に視界は広がり水田地帯が広がり、その中を中山道が貫いています。
石屋坂から250mほど左手に高さ1mほどの道標があります。
中津新道道標
「左 中津新道」と彫られています。明治38年建立。
落合から東山道を利用した中期中山道から分岐して、この先諏訪神社の西側へ通じていましたが、その中期中山道の途中から分岐してこの辻へ出るのが「中津新道」です。
丸山の坂
緩い丸山坂を上ると右手に「馬籠城址」の案内板、そのすぐ先右手に庚申塔などの石仏群があります。
馬籠城址と庚申塔
孫目城とか、丸山城などとも呼ばれており、室町時代から砦があったと言われています。小牧長久手の戦いの時、木曽義昌が島崎将監重通に命じ、徳川軍の攻略を防衛させ拠点になった場所です。
さらに100mほど左手に
「諏訪神社参道」、参道を100m奥へ進むと拝殿があります。参道入口右手の大きな石碑が
「島崎正樹頌徳碑」です。
諏訪神社
931年(承平元) 藤原伊房により祀られたという文献もありますが、詳細は不明です。
島崎正樹頌徳碑
馬籠宿最後の本陣当主、島崎正樹を称えるもので、島崎家先祖や正樹の経歴、人となりが刻まれています。島崎正樹は島崎藤村の父で、藤村の「夜明け前」の主人公、青山半蔵です。1912年(明治45)の建立で、撰文は正樹の友人で後に熱田神社宮司となった角田忠行です。
諏訪神社参道すぐ先の左手から南へ一時期中山道が通じていました。落合川に架かる
下桁橋(落合大橋)が洪水の度に流され、通行に差しつかえたので1741年(寛保元)より30年間、
湯舟沢経由となっていました。古い文献では「荒町の新道へ入る辺りは家が古い道へ張り出して軒下に近い所を通っており」とあります。現在その道が具体的にどこなのかわかりませんが、軒下ではないですが、恐らく田んぼの間を抜ける道なのではないかと思います。しかし先は既に廃道に近いようです。
双体道祖神
田んぼと散在する家の間を1kmほど進むと右手に
「信州サンセットポイント100選」というちょっとした休憩所があり、大きな
「正岡子規句碑」がありました。
正岡子規句碑
『桑の実の木曽路出づれば穂麦かな』
正岡子規は1891年(明治24)上野を出発し、故郷の松山に帰省する際に木曽路を旅し、「かけはしの記」を残しました。馬籠を下り麦穂が育っている田畑を目にして、木曽の峡谷では桑ばかりだったため、このあたりで「今こゝに至りては世界を別にするの感あり」と記され、この句が添えられています。
サンセット景勝地
天気が良かったなら絶景だったかも・・・確かに夕日が綺麗に見えそうな場所です。
右手は田畑、左手は樹林地の眺めのよい道を300mほどで
「新茶屋立場」に至ります。右手に
「新茶屋立場」左に
「芭蕉句碑」、
「木曽路の碑」、そのすぐ先に
「新茶屋の一里塚」、新茶屋の建物と西側一里塚の間に
「信濃美濃国境の碑」があります。
新茶屋立場
かつては落合側に数100m入った場所にありましたが、幕末に現在地へ移ったため、「新茶屋」というようになりました。
わらび餅が名物でした。
芭蕉句碑
「送られつ送りつ果は木曽の秋」
1842年(天保13)美濃派の俳人により建立されました。更科紀行掲載の句です。更科紀行は1688年(貞享5)、芭蕉45歳の時に岐阜を立ち、木曽へ入り松本平から猿ケ馬場、姨捨、善光寺を経て江戸へ向かうまでの記録です。
木曽路の碑
「是より北木曽路 藤村老人」
1940年(昭和15)当時65歳であった藤村が地元の要請によって揮毫したものです。藤村は60歳頃から自身を「老人」と記すようになったそうです。碑は1957年(昭和32)ふるさとの会によって建立されました。
信濃美濃国境の碑
1698年(元禄11)に美濃と信濃の国境論争が始まり、元禄13年にこの場所(小ミゾ)で決着したそうです。現在の県境は「馬籠峠」ですが、往時の国境はここ、新茶屋でした。
素晴らしい古道が残っていた木曽路は終了です。ここから
美濃国へ入っていきます。
新茶屋の一里塚
西塚は1993年(平成5)に復元し松が植えられました。東塚は大きさや形がそのまま残っているのを1993年(平成5)に発見し整備したものです。榎が植えられていました。
一里塚の先から
落合の石畳へ入っていきます。すぐにアスファルトの道にぶつかりますが、そのまま真っ直ぐ石畳が整備されています。
落合の石畳
1994年(平成6) 往時の姿を残していた3箇所、70.8mをつなぎ合わせて復元整備がなされ、全長840mの石畳ができました。石畳は急坂を越える旅人の便を図って造られたもので、同時に坂を大雨から守る役目も果たしています。
落合の石畳休憩所
案内板には「休憩所からの遠望」として笠置山、苗木城跡と書かれていますが、樹木に覆われてなんも見えません・・・・
鬱蒼とした薄暗い石畳の道をさらに進むと左手に
「なんじゃもんじゃの杜」と彫られた石碑、その先左手に建物があり
「十曲峠うさぎ茶屋」と書かれています。
なんじゃもんじゃの杜
ヒトツバタゴの木を指します。モクセイ科の植物で木曽川流域の山間湿地のほかは、対馬で自生しているのみの珍しい樹木です。自生地が狭いため珍しがられ、木の名もわからず、「なんじゃ、なんじゃ」と不思議がられ、「なんじゃもんじゃの木」という名がついたとされます。日本においては希少種とされ、絶滅危惧U類に指定されています。ここにある木は、1976年(昭和51)、落合老人クラブで植樹したもので、自生しているものではありません。
往時のものと思われる石畳
十曲峠
1570年(天正2)木曽義昌が武田勝頼に従い東濃侵略の際、妻籠から落合の道を大改修し、峠道は難路のため石畳とし、馬籠峠と十曲峠が通じ木曽の本街道となりました。里の人は「十石峠」というそうです。険しい山道であったため開発からとり残され、往時のままの姿を残しています。
十曲峠うさぎ茶屋跡
「出羽三山神社 修検道」と書かれていますが、すでに営業していないようです。1991年(平成3)の資料によると「石畳山荘」という茶屋がまだ営業していたようですが、それが「うさぎ茶屋」なのか、他にも茶屋があったのか・・今となってはわかりません。
昔はこの峠道に5、6軒の茶屋があったといいます。
狐膏薬(きつねこうやく)
山中村は
「狐膏薬」で知られていました。新茶屋から落合大橋(下桁橋)に至る中山道沿いに狐膏薬や火縄を売る店が7軒ほどありました。
「小笠原秘伝 本家きつねかうやく 十曲峠寿仙」という看板が井口宅に三枚、医王寺に一枚現在も残っているそうです。
狐膏薬の由来は落合宿の
本陣井口善兵衛家に泊まった旅の浪人が重病となり、家人に頼み数種類の薬を買い集め練り合わせて使い、平癒しました。浪人は
稲荷大明神が夢枕に現れて教えてくれた切り傷の妙薬であるからお礼に当家へ伝えておくといい残したとされます。善兵衛の子が十曲峠へ分家の折、狐膏薬の秘伝を譲り、分家の二代寿仙が薬を広げたと見られます。
十返舎一九「木曽街道続膝栗毛」に描かれた十曲峠の狐膏薬
『サァサァお買いなさってござりませ 當所の名宝「狐膏薬」は道中のお足のいたみ、金瘡(切り傷)、切疵(刃物傷)、ねぶと(根太)、はれものところきらわずひとつけにてなおる事うけあい、「すいがうやく」のすいよせる事は金持ちの金銀をすいよせ、他にほれた女中方をもびたびたとすいよせる事は奇妙稀代おたしなみにお買いなされ』と膏薬の効能を囃し立てて売る様子が描かれています。
うさぎ茶屋跡から500mほどで石畳は終わり、アスファルトの道になります。鬱蒼とした森林も終わり明るいのどかな道を進んでいきます。すぐ左手に
鐘鋳り場跡とその少し奥に
馬頭観音が祀られています。
鐘鋳り場跡と馬頭観音
1705年(宝永2)(他の資料では1742年(寛保2))に医王寺の梵鐘を鋳造した場所ですが、昭和18年に戦争で供出され現在残っていません。
鐘鋳り場案内板の奥の方には馬頭観音が佇んでいます。
鐘鋳り場跡から200mほど進むと左手に
「医王寺」があります。医王寺には
「枝垂桜」や
「芭蕉句碑」があります。
医王寺(山中薬師)
創建は不詳ですが、天台宗の名刹として栄えましたが、戦国時代に兵乱にあい一時途絶えたとされます。1544年(天文13)に正誉存徹が再興し浄土宗に転じました。
奈良時代、諸国に疫病が流行したので聖武天皇の勅令を受けた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し、病気治療法を伝授したと伝わり、医王寺もその一つでした。
子供の虫封じ(疳の虫)薬師としても有名だったとされます。
医王寺の枝垂桜
落合宿の俳人、嵩左坊(すうさぼう)は樹齢300年の枝垂桜を「その日その日風に吹かせる柳かな」
と詠みましたが、伊勢湾台風で倒れ、若木が跡を次いでいます。
芭蕉句碑
『梅が香にのっと日の出る山路かな』
1853(嘉永6)俳人・嵩左坊が蕉翁160回忌雅会を催しこの句碑を建立しました。俳人・嵩左坊については落合宿で追記します。
医王寺の三重石塔
三世、香誉春我の時に建立したと伝わります。
医王寺を出る頃には結構な雨になってきました。カッパを着込んでいると医王寺の女将さんが返さなくていいからとビニール傘を持ってきてくださいました。カッパで充分なので丁重にお断りしましたが、その気づかい感銘いたしました。こうした地元の方々の優しさは旅の大切な思い出の一つです。
医王寺を出て200mほどで道は突き当り、左へ曲がります。曲がってすぐの左手民家前にイボ観音と呼ばれる馬頭観音があります。
馬頭観音(イボ観音)
西向観音とも呼ばれ、イボができると石を借りて患部をさずり、治ったら石を2つにして返す習慣がありました。
イボ観音から180mほどすすむと右手から合流してくる道があります。ここは元
「湯舟沢軽便鉄道」の軌道の跡です。このまま中山道を越えて左手竹やぶの中へ入り落合川、湯舟沢川沿いに走り、熊洞を抜け、中切から味噌野へ通じていました。湯舟沢国有林の木材は馬車によって搬出されていましたが、昭和13年に
湯舟沢軽便鉄道が敷かれ木材を運搬していましたが、昭和29年の豪雨により線路が破損しトラックに切り替えられました。今でも藪の中にはうっすら軌道跡が残っているそうです。
下桁橋から見た落合川
砂防堰堤の滝の水量が多く、大きな音を聞きながら橋を渡ると突き当りに「飯田道道標と石仏群」があります。
下桁橋(落合大橋)
中山道分間延絵図には「落合板橋」となっていますが、「下桁橋」のことです。江戸時代には現在より少し下流にあったとされます。往時の下桁橋は欄干があり、両岸より木材で組み上げた見事な橋と言われ、広重の絵にも描かれています。谷が深いため刎橋としていましたが、水の勢いが強いため橋台が痛み洪水でよく崩れました。
木曽路名所図会に描かれた「落合橋(下桁橋)」
「宿の入口にあり 釜が橋ともいふ。双方より梁を出して棧橋とす。橋杭なし」と記されています。
飯田道道標と石仏群
東山道神坂峠への分岐点であるこの場所に1896年(明治29)に建立された道標があり、「右飯田道 左御嶽善光寺」と刻まれています。
中山道の変遷
古代・中世の東山道は落合から神坂峠(1569m)を越えるルートでした。当初の中山道は医王寺からつづら折れに山中を越える道筋でしたが、下桁橋がよく洪水で流されるため、1741年(寛保元)に東山道の湯舟沢経由で諏訪神社西に出るよう付け替えられ、30年以上使用されましたが、1771年(明和8)に17町長かったため廃止され、以前の十曲峠を経由する道筋となりましたが、医王寺からのつづら折れの道は廃止され、現在の北側に大きく曲がって緩やかに上る道になりました。
落合川
飯田道道標から60m道がカーブしている石垣のある場所に
「白木番所」「下馬庚申堂」があったとされます。白木番所は1669年(寛文9)から1727年(享保12)までここに置かれ、また庚申堂もこのあたりにあり、お堂の前は下馬して通らないと落馬するほど神威が強い庚申様で、「下馬庚申」と呼ばれていたといいます。
さらに130mほど進むと左手に
高札場が復元されています。
落合宿高札場跡
2022年(令和4)に地元の方々により復元されたものです。この辺りは「滝場」という地名で滝場に高札場があったという記録があります。また中山道分間延絵図にも「滝場」に高札が描かれています。これより『美濃十六宿』第一の宿場「落合宿」へ入っていきます。
美濃十六宿
「美濃十六宿」とは、落合・中津川・大井・大湫・細久手・御嶽・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今津を指します。
徳川家康は美濃国に防衛の拠点を置こうと長女、
亀姫を十万石大名とした奥平信昌の妻として、
加納城を新築して嫁がせました。後に亀姫の弟、義直が尾張藩主となると犬山から弥富まで木曽川沿いに大きな防衛線となる堤防を築きました。これが「御囲い堤」です。
美濃十六宿は多くは既存集落を元に街道整備が行われましたが、大湫(大久手)・細久手・河渡などは宿間距離が長すぎるため計画的に新設されました。
復元された高札場から県道を越え、東の枡形に右手に
「上の井戸と秋葉常夜灯」があります。
落合宿上の井戸と秋葉常夜灯
1792年(寛政4)建立の常夜灯があります。 かつては当番により火を灯し防火を祈っていました。
落合宿の枡形
落合宿は道の中央に用水が流れていましたが、1880年(明治13)の明治天皇巡幸の際に道の右側に寄せられました。
中津川市は中山道のみカラーの石を練り込んだ舗装を施してあるため、道がわかりやすいです。
枡形から70m左へ曲がりさらに80m正面、
「高福寺」へ寄っていきます。
高福寺
1542年(天文12)円誉上人によって開山・創建されました。落合村
庄屋市岡喜平兵治が開基となりました。阿弥陀如来の本尊は
恵心作と伝わります。門前の徳本上人名号碑は1817年(文化14)住職、教誉により建立されたものです。
また俳人、
嵩左坊(すうさぼう)の墓があります。嵩左坊は安政3年、84歳で亡くなっています。
高福寺より中山道へ戻り、落合宿中心地へ向けて進んでいくとすぐ右手に
「上の上田屋上田家住宅土蔵と常夜灯」、さらに4軒ほど先が
「泉屋跡」の案内板があり、すぐ先左手が
「脇本陣跡」その正面に
「常夜灯と落合宿本陣」となっています。
上の上田屋上田家住宅土蔵と常夜灯
趣のある土蔵は明治時代の建築とされ、土蔵の他住宅も有形文化財として登録されています。土蔵前の常夜灯は1813年(文化10)建立。落合宿の常夜灯は上町の物以外、明治天皇巡幸の折によそへ移されていましたが、再び宿場通りへ戻されました。
泉屋跡
島崎藤村の小説「夜明け前」の青山半蔵の内弟子、林勝重(本名は鈴木弘道)の生家跡です。屋号は「泉屋」で造り酒屋を営んでいました。弘道は9代目で、後年は酒屋を廃業し蚕種をつくり村長を務めたりもしました。また、美濃派の俳人嵩左坊(鈴木清茂)は泉屋の6代目でした。
常夜灯
1815年(文化12)建立。この常夜灯も最近、落合宿へ戻されたものです。
1843年(天保14)の落合宿の記録では、本陣1軒、脇本陣1軒、75戸、人口370人、旅籠14軒でした。
落合宿脇本陣
問屋・庄屋を兼ねて塚田家が務めていました。落合宿は木曽衆山村氏と木曽衆千村氏の相給であったため、庄屋が2軒あり、塚田家は山村氏の庄屋を務めていました。
落合宿本陣
本陣は問屋を兼ねて井口家が務めています。木曽衆千村氏の庄屋も務めていました。
岐阜17宿の中で唯一、当時の姿を留めています。現在の建物は1815年(文化12)の大火後の1818年(文化15)に建てられました。正門は加賀藩前田家から火事見舞いに拝領したものです。
落合宿本陣
上段の間近くには丸い障子窓が設けられ、いざというときはそこから小姓の部屋に逃れることができました。小姓の間の天井一角は開くようになっており、忍びが上段の間を警護することができるようになっていました。また、非常用の抜穴もあり善昌寺裏へ通じていました。
七代目市川団十郎と落合宿
嘉永のはじめ団十郎(5代目海老蔵)が旅興行先から中山道経由で江戸へ戻る途中、タチの悪い雲助に付けられて難渋し、落合宿の村役人上田家や本陣井口家に助けを求め無事に江戸へ着くことができました。
落合宿本陣をあとに進んでいくと左手に大きな釜が展示してあります。さらに80mほどで西の枡形となり、枡形右手に門冠の松が目印の「善昌寺」が見えてきます。
助け合大釜
天草を煮ていた大釜と井戸が保存されています。10月末の落合宿祭りでは大釜で煮た千人キノコ汁が振る舞われています。
門冠松と善昌寺
1600年(慶長5)の創建、円人(慈覚大師)の作と伝えられている釈迦如来像を本尊としています。善昌寺の松は「門冠の松」と言われ、立派な松が道路ににょきっとはみ出しています。
境内には1695年(元禄8)の弥勒像、1725年(享保10)の名号碑、1816年(文化13)常夜灯などがあり、明治天皇御前水碑と井戸も残っています。
西の枡形の左手に大きな道標、右手には常夜灯が建っています。
道標と常夜灯
「右至中仙道中津町一里」と刻まれています。明治元年生まれの地元有志が大正11年に建立した道標です。常夜灯は1867年(慶応3)建立。この常夜灯も最近、落合宿へ戻されたものです。
枡形の先は公園となっており、公園入口に「落合村役場跡地」の石碑が建っています。
落合村役場跡地
この公園が村役場であったと思いますが、詳しくはわかりません。落合村となったのは、1889年(明治22)、その後1956年(昭和31)に中津川市となっていますので、その間に役場があったと思われます。
雨のときは休憩する場所がなかなかありませんが、この落合宿枡形にある公園はトイレもありますし、屋根の付いた四阿もあったためここでしばらく休憩していました。
11:00 ますます雨が強くなってきましたが、このまま中津川宿へ向かって進んでいきます。