志村一里塚、清水坂を経て荒川を渡る

2018年10月6日

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都営地下鉄 志村坂上駅

6:30に自宅を出発し、前回のゴール、志村坂上駅へ向かいました。

8:20 志村坂上駅を出発します。

志村一里塚

両側が残っていて嬉しいですね。 前回は雨の中でした。今日は晴れていてこれからどんどん気温が上がりそうです。

出発してすぐですが、ここで朝食のためカフェへ寄り道します。

富士・大山道の道標と庚申塔

左側の道標は1792年(寛政4)建立。「是より大山道并ねりま川こへみち」(大山道ならびに練馬川越道)、右側の庚申塔は1860年(万延元)に建立。左側面に「是より富士山大山道」とあり、練馬、柳沢、府中への距離が彫られています。

清水坂

日本橋を起点として中山道の最初の難所といわれた急坂です。マンションなどの開発によって、勾配も緩やかにななっていったようで急坂という程でもないです。

旧道から急に大きな道、国道17号線に一旦出ます。、環八を横切ってまた旧道へ入ります。

旧道でふと、チョコレートの良い匂いが・・漂ってきます。地図で確認すると「日本チョコレート協同組合」となっていました。

南蔵院寺屋敷跡

先日、板橋宿の少しさきにあった「南蔵院」が元々あった場所です。このあたりは荒川低地の「道生沼」があり、その畔に南蔵院があったようです。度重なる荒川の氾濫で1724年(享保9)に志村坂上へ移転しました。

戸田の渡し碑

ここは、渡し場でもありましたが、「戸田河岸」でもあり、荒川の下流から積んできた塩、砂糖、雑貨品などが下ろされ、江戸へ向かう舟には大根や漬物などの特産品が積み込まれました。

荒川は江戸時代はとても蛇行していました。現在は、この蛇行を河川改修して(赤線)荒川と隅田川に分かれています。浮間公園がこの名残になります。洪水が度々あったのもうなづけます。
荒川河川敷きといえば・・この土手を歩くと、金八先生を思い出しませんか? 「くれ〜なずむ町の〜」贈る言葉が頭の中でグルグルします。

戸田側の渡し場跡

荒川には江戸防衛のため、橋はかけられませんでした。戸田河岸は、1772年(安永元)には幕府の公認となり、1832年(天保3)には五軒の河岸問屋がありました。

水神社

創立などの詳しいことは不明のようです。古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができた時にこの地へ移されたそうです。昔はその年に初めて採れたきゅうりをこの水神社に供え、荒川へ流してからでないと泳ぐことができないとされていたそうです。

川岸ミニパーク

「歴史のみち 中山道」の説明版が掲げられています。小さな休憩用の公園です。

商店街となっている「さつき通り」を抜けて、再び国道17号線へ向かいます。

戸田一里塚跡

つつじ幼稚園の付近だったようですが、現在案内などはないようでした。

UR戸田団地のけやき並木

URが建築されてからのものでしょうが、大きくて立派なけやきです。「板橋十景」にも選ばれていましたね。今日はとても暑いため緑陰がありがたいです。江戸時代の旅人も松並木を有難いって思ったのでしょうね。

蕨宿への案内碑

ここから旧道へ入っていきます。

蕨宿への冠木門

近年改装されましたが、明治末期に建てられた木造二階建てです。

浮世絵のタイルが埋められていますが・・このずれはちょっとひどいですね。

歴史民族資料館 分館

建物は、1887年(明治20)建築です。明治期に織物の買い継ぎ商で、市長も努めた金子邸を市が譲り受けたものです。分館は展示物はなく、この明治の建物とお庭の見学となります。

今日はお祭りのようで、街の人が準備をしている真っ最中で賑やかでした。

歴史民族資料館

蕨市の歴史と文化の特色である宿場と織物に関する展示、宿の旅籠・商家・本陣上段の間の一部を再現し、江戸時代の蕨宿の姿を中心に紹介されています。

蕨本陣跡

1606年(慶長11)、蕨城主渋川公の将、佐渡守岡田正信の子息・正吉が努め、蕨宿本陣・問屋・名主の三役を兼ねていました。

鈴木薬局(ギャラリイ河内や)

1931年(昭和6)に建築された木造二階建ての建物です。

地蔵の小径

地蔵の小径を奥へ入ると、子育て地蔵・六地蔵などがあります。

瀧澤家

瀧澤家は、1876年(明治9)には町の郵便事務を司り、その後の1877年(明治11)から暫くは蕨町の郵便局が置かれていました。。

中山道蕨宿景観建造物

中山道沿道に建つ江戸末期から昭和初期に建築された10件が指定されているそうです。

中山道ふれあい広場

11:20 この広場でちょっと休憩します。

火の見櫓に火消しが登るからくり時計のようですが・・動きませんでした。

公園内の壁画は、モザイクタイルで作られた大名行列

はね橋

綿織物で栄えた蕨の機屋(はたや・機を織るのを職業とする家)では、防犯や防火のため、屋敷の周囲に堀をめぐらせ、上げ下げができる板橋がありました。機織女工の逃走を防いだともされます。 現在の堀は、コンクリートの蓋で覆われています。

11:40 蕨宿をでて、次の浦和宿へ向かいます。

板橋から蕨までの道のりには面影らしきものは殆ど見られませんが、荒川周囲と蕨宿内だけが唯一面影を残しています。蕨宿内は、趣のある景観を残そうと頑張っておられ、感心しました。