見透灯籠は波乱万丈。神流川を渡り、武蔵国から上野国へ

2018年11月24日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

15:00 本庄宿をあとに、新町宿へと向かいます。もう15:00ですので、行けるところまで行ってみます。

平成の馬頭観音(本庄市小島)

平成7年建立。近年でも馬頭観音を建てる方、いらっしゃるんですね。今まで見てきた中で一番新しい馬頭観音です。

二柱神社

このあたりは小島村といいましたが、慶長年間に分村して杉山村となり、さらに1677年(延宝5)の検地までには分村して下野堂村となります。地名の由来は神社前身の「四門堂聖天」によります。塩原家は元々武田信玄の家臣で、信玄は16体の聖天を作らせ主だった家臣に分け与え、塩原家の頭首、勘解由もその1体を拝受しました。

原勘解由の墓

勘解由は、永禄年間に所領であったこの場所に堂を建て、聖天像を祀ります。四方に門が配置されていたことから「四門聖天」と呼ばれました。1582年(天正10)、武田家が滅亡すると堂に面して居を構え当地の開拓にあたり、1590年(天正18)功が認められ、当地の所有を認められました。

万年寺一里塚跡

恐らくこのあたりだと思われますが、何も案内がありません。

浅間神社・浅間古墳

ポッコリした山が古墳であり、神社が祀られています。

直径38m、高さ6mの円墳です。鉄刀や鉄鉾、鉄環などが多数出土しています。築造時期は古墳時代末期7世紀半〜8世紀初頭まで墓として使用されたと考えられているそうです。

石室は横穴式で安山岩を積んだものです。江戸時代にはこの石室の中で夜な夜な賭博が行われていたそうです。江戸時代、賭博はご法度。見つからないよう、こんなところでやっていたのですね。

泪橋由来碑

助郷制度が暮らしに厳しくのしかかり、村の人々は泪橋に集まり泪を流したのだといいます。苦しさの涙か・・くやしさの涙か・・当時の橋の欄干があります。一夜待供養塔、馬頭観音、庚申塔などがは近くに放置されていたものが集められたようです。

田通り土地区画整備碑

こうした区画整理や圃場整備の石碑は各地にたくさん見かけます。碑文を読むと先祖が荒地を開墾し、後世のためにと土地を守ってきたことに感謝と敬意をはらっての文言が刻まれています。そういった思いを忘れないために建てられているのでしょう。

神保原村道路元標

現在16:00過ぎ。この次の駅は新町。もうすぐ日が暮れますし、今日はここで断念します。予約していたホテルは北藤岡駅。電車で行くしかないので、ここから神保原駅へ向かいました。

神保原駅

電車を待っている間に気づいたのは・・なんと「北藤岡駅」は高崎線ではない!地図を大きくしてみるとわかるのだけれど、全然気づきませんでした。乗り換えてぐるーっとまわってこれば行けるのだけど・・時間もかかります。なので、1駅、新町まで行って、あとはタクシーで行くことにしました。新町からホテルまでタクシーで1,000円程度でほっとしました。

今日の宿は「ルートインコート藤岡」です。

2018年11月25日(日)

ホテルにタクシーを呼んで、今日は電車に乗らずに直接、神保原まで戻りました。2,700円ほどかかりました。

金窪村(上里町金久保)

新町宿への街道が整備される以前は、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かい、この道は三国街道、伊香保街道などと呼ばれていました。

畑時能首塚

南北朝時代、南朝方の武将で新田義貞の家臣、新田四天王の一人とされています。「日本一の大力の剛の者」と言われ、言葉巧みな策士的部分も大きいそうです。「太平記」には軍用犬を用いて戦ったとも言われています。福井県勝山市伊地知で戦死し、近隣に村の人が「畑ヶ塚」を建てたそうです。首だけは時能侍従の児玉五郎左衛門光信が武蔵国へ持ち帰り、この地で供養しました。

陽雲寺・三条夫人(武田信玄夫人)墓碑

武田信玄の甥である川窪信俊は、養母の武田信玄夫人を伴い、神流川合戦で荒廃した金窪城跡に陣屋を構え、夫人は同様に荒廃した崇栄寺に庵をあみ1618年(元和4)に97歳の生涯をここで没したとされています。

三条夫人墓碑の謎

1205年(元久2) 創建。当初は満願寺、後に崇栄寺。

1333年(元弘3) 新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を建造します。

1582年(天正10) 神流川合戦でお寺は焼失します。

1591年(天正19) 川窪信俊は、養母の武田信玄夫人を伴い、夫人は同様に荒廃した崇栄寺に庵をあむ。

1618年(元和4) 97歳の生涯をここで没する。

・・・が、どうやら川窪信俊がこの地へやってきたのは確かだと思いますが、三条夫人がこの地へやってきたのちょっと違いますかね。 三条夫人は、信玄よりも先に死亡していますし、信玄の生前であれば夫人だけこの地に来るのはおかしいですね。甲府の円光院にお墓もあります。

慰霊之碑

何の慰霊碑でしょうか。書は「埼玉県知事 大沢雄一」とあります。大沢雄一が県知事だったのは1949年〜1956年のようです。そして「厚生大臣 橋本龍伍」とも書かれています。 橋本龍伍は、橋本龍太郎の父だそうですが・・何の慰霊碑かは分かりません。

賀美村道路元標

賀美小学校の緑地にあります。道路でない場所に道路元標があったのは初めてでしょうか。

庚申塔などの石仏

文久2(1862年)と読み取れます。

勝場一里塚跡

勝場で「かっぱ」と読むようです。一里塚跡地に地蔵堂が建っています。この勅使河原村が武州最後の一里塚です。上野国は目前です。

大光寺・勅使河原氏館跡

1215年(建保3)、武蔵七党の一党、丹党の勅使河原権三郎有直が創建しました。勧請開山は、日本へ初めて禅宗を伝えた栄西禅師。1582年(天正10)、神流川合戦により総門のみ残し焼失しました。明治42年にも高崎線の灰煙を被り全焼したため、再建し現在に至ります。

この門は、新しいもので古い総門は本堂裏へ移設されています。どこにあるかわからずに、見られなかったのが残念です。

武州側の見透灯籠

見透灯籠は、埼玉県側と群馬県側に1基づつありました。武州側の見透灯籠は、1815年(文化12)、本庄宿の戸谷半兵衛門が寄進しました。1822年洪水で行方不明となりますが、1857年(安政4)に発見され、この大光寺で保護されています。

神流川の渡し場

渓斎英泉によって描かれた「本庄宿 神流川の渡し場」 常水時には中州までは仮土橋で渡り、満水時には渡し船によって対岸へ渡りました。

神流川

神流川の中間で埼玉県ともお別れです。群馬県高崎市、こんにちわ。そして武蔵国を出て、上野国へと入っていきます。

見透燈籠のモニュメント

神流川古戦場跡

1582年(天正10)、織田信長の武将、厩橋城主、滝川一益と鉢形城主、北条氏直との2日に渡る戦い。明智光秀に討たれた信長の弔に出陣する一益を阻止し、関東の支配権を勝ち取ろうとする小田原北条氏が争いました。

そんな戦いがあったとは思えないゆったりした流れの神流川・・・

神流川古戦場跡

北条氏が戦力で優位にあり、勝利しますが、損害も大きく小田原へ引き上げます。この合戦では戦死者が両軍合わせて4000人以上といわれており、戦国時代、関東における最大の激戦でした。 「炎熱石を焦がし、流水煮える中に阿鼻叫喚の死闘であった」と伝えられています。

明和観音

中山道伝馬騒動で命を落とした人々の供養のため、明和5年に観音像が建立されました。新町の伊藤伊左衛門作とされますが、幕府の弾圧を恐れ、年月だけを彫ったとされます。

中山道伝馬騒動

1764年(明和元)から1765年(明和2)にかけて中山道で勃発した一揆。幕府は朝鮮通信使の来日、日光東照宮150回忌に備え、増助郷政策が続いたため、助郷村では反対する農民の組織化、村役人も多数参加。騒動はあっという間に広がり20万人にものぼりました。江戸へ飛び火するのを恐れた幕府は増助郷を取り下げましたが、治安は回復せず、暴徒化した村人により中山道の機能が麻痺する事態となりました。幕府側も380人余りを処罰し、特に関村の名主遠藤兵内が獄門とされました。

陸上自衛隊新町駐屯地

こんなのどかな場所にも駐屯地があるんですね。

群馬県側の見透灯籠、道標(復元)

洪水の度に往還が流され、瀬違いができ渡船場もかわり、昼間でも道筋が分からなくなり、多くの人が道に迷いました。灯籠を建てましたが寛保年間の洪水で流されたため、専福寺住職賢顕と宿役人が発願、旅人からも寄付をつのり、1815年(文化12)に再建しました。明治24年に高崎市大八木の諏訪神社に売られ参道に現存します。買い戻せなくて、昭和53年にレプリカが作られました。ここから15kmほどの遠いところにあります。なぜ売ることになってしまったのでしょうか?

俳人 小林一茶と見透灯籠

1810年(文化7)、一茶が新町の旅籠で寝ていたところ、夜更けに起こされ「神流川に灯籠を建てたいので寄付を・・」と言われますが、手持ちが少なく断わりますが、断り切れず結局12文を寄進したということです。12文は現在の200円〜500円程度くらいですかね。かなり強引だったようですが、村人も切羽詰まってのことでしょうね。

八坂神社

創建は水害や火災のため記録がなくなり、不明とされています。武蔵国から上野国に入る玄関口として病気の侵入を防ぎ、諸悪から守るために建立されました。

柳茶屋の芭蕉句碑

1793年(寛政5)〜1834年(天保5)この付近に柳の大木と「柳茶屋」があったことからこの句碑が建てられました。 『傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな』 ・・・傘で柳を押し分けて見る・・ってまんまだですね。情景はよく分かりますが。なにかもっと深い意味でもあるのでしょうか。

とかげの滑台 かなりリアルで驚きます。子供怖がって滑らないんじゃないでしょうか。

このあたりから新町宿へ入っていきます。新町宿が設けられたのは1653年(承応2)、中山道の中でも最も遅い時期でした。

諏訪神社

1573年〜1593年の天正年間の創建。笛木村(現新町)の鎮守として祀られ、1708年(宝永5)に現在地へ移されました。境内の奥にある石鳥居は、1702年(元禄15)のもので、新町で一番古い鳥居だそうです。1856年(安政3)に田口文五郎信武の算額(数学の絵馬)が奉納されています。

専福寺

1660年(万治3)創建。1666年(寛文6)火災により、本堂や本尊が焼失しました。1694年(元禄7)に再興、1775年に本堂を新築します。高瀬屋で小林一茶に寄付を求めたのもこの専福寺の世話人でした。

関流 田口文五郎信武墓所

1826年(文政9)、新町に生まれた田口文五郎信武は、江戸の和算権威、関流とは、和算の流派で関孝和を祖とします。諏訪神社に算額を奉納しています。

浄泉寺

1574年(天正2)創建。1716年(享保元)加賀前田藩の勘定方であった土師清大夫が国元から江戸へ大金を届ける途中、この新町宿で金を盗まれ、責任を取って切腹し、浄泉寺にお墓があります。境内の大銀杏は江戸前期頃、樹齢400年、高さ25m、目通5.2mもあります。

高札場

新町宿では落合新町と笛木新町の境に設置されました。

新町道路元標

明治天皇新町行在所

明治11年8月から11月にかけて北陸・東海地域の巡幸を行ったときに宿泊しました。

中は普通の民家・・・当時は木造瓦葺平屋の本屋と付属家の2棟で、旧中山道へ面して正門を設け、板塀で囲い、庭には若松が植えてありました。翌年には英照皇后、伊香保行啓の際も宿泊したそうです。

旅籠高瀬屋跡・一茶文学碑

一茶の灯籠への寄付は、ここにあった旅籠高瀬屋でのことでした。そのとき一茶が詠んだ句が 「手枕や 小言いうても 来る蛍」

専福寺の世話人は提灯を持っていたから蛍なんですね。・・・よっぽど気に食わなかったんだな、という句ですね。

小林本陣跡

新町宿には、小林本陣と向かいの久保本陣の2件がありました。脇本陣は、三俣脇本陣です。どちらも現在は面影はありません。 中山道では本陣2軒を最後まで維持できたのは、新町宿のほか3宿だけでした。

宝勝寺

この鐘楼門は1761年(宝暦11)に大黒屋高橋治左衛門が寄進したものです。かなり立派な小楼門ですね。境内には「小判供養塔」があります。

小判供養塔と土師清大夫

1929年、下水を掘っていたいたところ、小判の入ったかめが発見されました。協議の末、発見者・土地所有者・旧地主・旧借家人に分配され、分配された人々によって建立されたものが「小判供養塔」です。加賀前田藩の勘定方であった土師清大夫が新町宿で金を盗まれ切腹しましたが、そのとき盗まれたものではないかという噂もあり、供養塔を建てたようです。

八幡神社

応神天皇を御神体としています。本殿は鎌倉時代の建築様式、修築されています。本殿内には、新町宿の遊女達が奉納した絵馬があります。

遊女絵馬

左 「勿来関」1863年(文久3) 金井研香 作 高橋屋の遊女7名の奉納。郎党2名を従えた騎馬武者を中心の絵柄として背景に桜花が描かれています。

右 「花草図」1863年(文久3) 金井研香 作 丸富楼の遊女8名の奉納。豪華な桜花で覆われ、遊女8名の俳句が書かれています。

右奥 「紅葉狩」1863年(文久3) 千輝玉斎 作 絹屋の遊女9名の奉納。平維茂が鬼女を討たんとする瞬間の構図です。

ケヤキの大木

弁天島

温井川の中の島に祀られた弁天様です。昭和48年に川が改修されて中の島はなくなり、現在のようになりました。社は1783年(天明3)建立。島にはみどりの清水と呼ばれた湧水が湧き、旅人の喉を 潤したらしいですが、現在は影も形もないです・・・

弁天島芭蕉句碑

『むすぶより はや歯にひびく 泉かな はせを』 手に汲んで飲もうとするも、口に入れるより先に歯に冷たさが響く・・この句を作ったときには芭蕉は既に知覚過敏か歯槽膿漏になっていたのでは?・・・と解釈されているようです。この句が彫られた句碑は全国に15基もあって、いずれも清水が豊富な場所にあるそうです。1855年(安政2)、久保一静、斉藤速水らによる建立です。

温井川に架かる弁天橋

このあたりが広重によって描かれた「新町宿」です。

スリーデーマーチ碑

文字通り、3日間に渡って自分の体力に合わせたコースを自分のペースで歩く「歩け歩け運動」の発祥地。オランダの「国際フォーデーズマーチ」をお手本に新町の有志が発起人となって日本初の「スリーデーマーチ」を開催し、全国に普及してきたそうです。
温井川から先は群馬県藤岡市に一旦入ります。新町あたりだけが高崎市の飛地になっています。

11:30 新町宿をあとに次の宿場「倉賀野」へ向かいます。