中馬は信州のおはこ。追分は北国街道との分岐点として賑わう。

2019年4月30日

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8:30 ゆうすげ温泉旅館を出発します。残念なことに朝から弱い雨が降っています。

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女街道入口(下仁田街道)

女人が関所を避けて裏街道を通り、「女街道」、「姫街道」と呼ばれていました。これより本街道と分かれ油井釜ヶ淵橋を渡り、風越山、地蔵ヶ原を横切り、和美峠または入山峠越えで下仁田へ至ります。『関所さけて女人が多く往来せし女街道といふは寂しも』向かいは立場茶屋でしたが、今は廃屋があるだけです。左側には大きな馬頭観音があります。

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遠近宮(おちこちみや)

元々は浅間山社といい、浅間山を御神体とする浅間様が祀られていました。創建年は不明ですが古くから安産の神として信仰が厚かったといいます。在原業平の歌にちなんでこの地域を「遠近の里」といい、遠近宮と改称しました。

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玉垣明神(魔の石)

昔、神社の前の道端に大きな石があり、馬の乗り降りの時に便利でしたが、利用した人に足を患う人が多く、「魔の石」と呼ばれていました。和宮輿入れの際、災があってはと取り除こうとしましたが、重たく動きませんでした。後の明治天皇巡幸の際には簡単に掘り出せました。村人あまりの不思議さに驚いて、石を境内に安置して玉垣をめぐらせ「玉垣明神」として祀りました。

遠近の里と在原業平

昔、浅間山麓一帯は、いくつかの谷のようになっていて、その谷にぽつぽつとわずかに人家があり広い範囲に点在していたため「遠近の里」といわれていました。在原業平がこの里を通った時に「信濃なる浅間の嶽に立つけぶり 遠近人のみやはとがめぬ」(伊勢物語)の歌を残したと言われていますが、この歌を詠んだ地は浅間山の景観が最も美しい借宿の地に違いないとして、借宿界隈を遠近郷と自称し、1771年(明治8)に浅間山社を遠近宮と改称しました。

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西長村道路元標

天皇道の入口付近、「布屋」前の道路脇に置かていましたが、車の往来が増えたことで場所を移され、その後も数度の移設を経て現在は元の場所から2m移動しています。軽井沢町から引き続き台座に乗せられ、大切にされているようです。

借宿

借宿は、沓掛宿と追分宿の間の宿でした。女街道の分岐点であったことから人馬の往来も盛んで立場茶屋、穀屋、質屋、作り酒屋、小商屋、職人、中馬稼ぎ等出現し、特に穀取引と中馬継荷は、浅間下三宿をはじめ、佐久地方と上州間の中継地として賑わっていました。田畑が少ない村でしたが、塩沢新田開発後は田畑が増加し潤いました。
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布屋 土屋作右衛門家

1670年(寛文10)、11代作右衛門によって土屋氏本館からこの地へ新築して移り住み名主を務めました。佐久平の米を買い付け、群馬県へ売る大きな米穀問屋であり、水車を持ち、造り酒屋、質屋、ちゅうま場(中馬業)、立場茶屋などを営んでおり、江戸末期には寺子屋も開いていました。その後焼失してしまいましたが、すぐに再建され現在は23代目のようです。追分郷土資料館には、作右衛門家の嫁入り籠など土屋家が所有していたものも展示されています。

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旧造り酒屋

中馬は信州の農民が行ってきた輸送システムです。通常、街道は伝馬により各宿場で馬の荷物を付け替えて次の宿場まで送る「継ぎ送り」ですが、中馬は荷物を目的地まで直送する「付け通し」でした。荷物を付け替えなくて良いため便利がいいのですが、利用者が多くなると宿場の問屋と利害が対立し、度々紛争が起きましたが、1764年(明和元)には、幕府に公認され制度化されます。中馬が特に多かった地域は、松本町から飯田町に至る間だったそうです。
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寒念仏供養塔

寒念仏供養塔は天明元年の建立のようです。藁葺の屋根は倉庫でしょうか・・珍しいですね。

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借宿の湧水

借宿の地名の由来

1. 追分宿、沓掛宿が満員の時、宿を借りた 

2. 頼朝が浅間狩りの時、泊まったところが狩宿(借宿) 

3. 緊急用簡易宿泊施設、などの説があります。

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馬頭観音

大きな馬頭観音です。常夜灯には馬が彫られ、大小6基もの馬頭観音が並んでいます。中馬で栄えた借宿ならではでしょうか。注連縄も新しく、現在でも大切にされているようです。

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上州道道標(草津道)

「従是左上州大さゝ・くさつ・あがつま道」と刻まれています。峰の茶屋を通り、上州の大笹、草津、吾妻への道を示す道標です。

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焼石の石積み上部に焼石で造られただるまが並んでいました。面白いのですね。

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追分の一里塚

標高1000mの一里塚です。国道を挟んで両側に残っていますが、北塚は国道工事のため5m移動しています。

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追分宿

追分宿は、古来の東山道が通っていたと考えられており、宿場中央の諏訪神社の庫裏には鎌倉時代以前の「大般若経」が多く残されているそうです。
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石の不動尊・キビタキ

浅間神社の入口にある石の不動尊。天明3年の浅間山噴火の犠牲者供養のため、追分宿の油屋が奉納したものと伝わります。キビタキは渡り鳥でゴールデンウィークの頃、夏鳥として全国の平地から山地の落葉広葉樹林に渡来し、巣を作ります。秋遅くまで日本にとどまり冬を避けて南下してしまいます。美しい鳥ですね。

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御影用水

浅間神社前の御影用水は、下流の佐久平の用水路として造られたものです。江戸時代からあり、宿場内に入ると街道の中央を流れていましたが、現在は端に寄せられ蓋がかかりわからなくなりました。

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浅間(あさま)神社

本殿は室町時代のもので、町内の木造建築として最古のものです。明治2年5月より浅間山の鼓動が激しく、鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名です。

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芭蕉句碑

『吹きとばす 石も浅間の 野分哉』更科紀行中の句で、書は春秋庵二世長翠の書で、寛政5年に建立されました。浅間焼石に覆われた追分原に野分吹く頃の風情が偲ばれます。

追分節

追分節は、碓氷峠の急坂を馬を曳きながら馬子達が歌った馬子唄が由来していると言われ、それを宿場の飯盛女が歌い、客に聞かせて全国に広まったといいます。碓氷峠の馬子唄も追分節も元は同じと言われますが、小諸馬子唄から発生しているという説もあるそうです。浅間神社内に「追分節碑」があります。

浅間神社を過ぎると、宿内に入ります。

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夢の箱・青空文庫

3箇所ほど見かけました。自由に借りて読めるようです。本が無くならないなんてすごいですね。図書カードで借りる図書館でも返さない人たくさんいるそうですから。

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堀辰雄文学記念館

門は本陣裏門を移築したものです。軽井沢を愛した堀辰雄の住居や書庫を公開しています。
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脇本陣・油屋

脇本陣の中でも素晴らしく壮麗な建物だったそうですが、昭和12年の火災で全焼しました。その後再建されたものが現在の建物です。信濃追分をこよなく愛した堀辰雄は、油屋に滞在し「風立ちぬ」など数々の名作を生みました。抒情詩人、立原道造もここで「村ぐらし」などの詩を残しました。

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土屋本陣

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追分宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒がありました。

本陣は、土屋市佐右衛門が務め、問屋も兼ねていました。建坪350坪、中山道の中でも塩尻、上尾に次いで大きな本陣でした。問屋を兼ねていたので、表門の左右に長屋を配し、表門を入った左側に問屋場と貫目改所が建てられていました。

土屋市佐右衛門は、1654年(承応3)児玉新田村を開発していますが、度々宿民から訴えられています。内容は様々ですが、年貢を差別したり、運送の独占などが主なもののようです。

本陣裏門は、明治末期頃、御代田町塩野地区の内堀家の表門として移築されました。内堀家では本陣門を大切に扱い、門に覆いをかけて約100年の間大切に使われてきました。平成17年に内堀家より軽井沢町へ寄付され、現在は堀辰雄記念館の門として移築されています。

脇本陣の1軒は「甲州屋」、もう1軒が「油屋」でした。飯盛女も多く、客引きも強引だったとされます。

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明治天皇行在所

明治11年の北陸巡幸の際、行在所として利用されました。明治26年に信越線が全線開通すると宿場機能は失われました。

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高札場

問屋前の街道中央にありました。昭和58年古文書から高札場を復元しました。高札は複製品で、現物は追分宿郷土館に展示されています。

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浅間山への登山道

「浅間山道路第一詣石」と彫られています。血の滝、石尊山を経て浅間山へ向かう道です。案内板には浅間山4km以内は立入禁止とありますが、現在は規制が緩和されているようです。雨の中、右折していく登山者を見かけました。

孝女「きん」

きんは、追分宿の農家に生まれ和田村の百姓と結婚し、男子二人を設けますが、文政5年に父の後妻が亡くなったため、父と体の不自由な兄の面倒を見るため、夫と離縁し子を連れて追分宿に戻ります。飴や菓子を商い、多少の金が貯まると馬を一疋買い、伝馬を務めるようになります。農業の日雇い、洗濯などをして父と兄を養い、きんの14歳の子も伝馬をしています。このような行いが報奨され、1828年(文政11)幕府より銀5枚、父に対して1日米5合を一生の間支給されることになりました。

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蔦屋青三

江戸時代は旅籠を営んでいました。

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諏訪神社

創建はわかりませんが、庫裏には鎌倉時代以前の「大般若経」が多く残されているそうですからそれ以前の創建だと思われます。

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小林一茶句碑

『有明や 浅間の霧が 膳をはふ』有志により平成6年に建立されました。軽井沢出身の書家、稲垣黄鶴氏の筆で刻まれています。

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立原道造詩像

『咲いてゐるのはみやこぐさと 指に摘んで光にすかして教へてくれた 右は越後へ行く北の道 左は木曽へ行く中仙道つつつ』 追分公民館は、立原道造と石本建築事務所の同僚であり、追分に別荘があった武基雄が設計しました。立原道造の詩のレリーフがはられています。

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泉洞寺

1598年(慶長3)、上州常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創されました。

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カーリング地蔵・卓球地蔵

泉洞寺には近年に建立したと思われる変わったお地蔵様がずらりと並んでいました。
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歯痛地蔵

堀辰雄は大正12年に軽井沢を訪れて以来30年、軽井沢をこよなく愛しました。堀辰雄の名作「樹下」に登場し、素朴な姿に心惹かれ朝夕ここを散歩したそうです。今でも村人に歯痛の神様として信仰されています。

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稲垣黄鶴句碑と筆塚

『浅間嶺の 今日は晴れたり 蕎麦の花』 貞明皇后に書を教えたといわれる稲垣黄鶴は、長く日本書道院副会長を務めた書家です。軽井沢の出身で本名を「はま」といって追分宿三浦屋の子孫でもあります。句碑と筆塚は昭和37年に建てられました。
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追分宿西入口

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枡形の茶屋(つがるや)

宿の西入口にあり、江戸時代は高さ2.5mの土手が築かれていました。二階の壁面には、枡の形と屋号を漆喰で浮き出しています。
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分去れ

左は中山道、右は北国街道へ至る追分です。北国街道は、善光寺を経て越後の高田まで続く街道です。道標には、「従是中仙道 従是北國海道」と刻まれており、京都白川橋の延宝6年の次に古い、1679年(延宝7)建立です。森羅亭万象の歌碑は、「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」の唄が彫られ、安永年間に建立。森羅亭万象(桂川甫祭)は、多くの句歌を残し、平賀源内に師事しました。常夜灯は、1789年(寛政元)の建立。

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子持地蔵

地蔵の台座には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」と歌が彫られています。右へ行けば北国街道、月の名所の更科や越後路に、左へ行くと桜の名所、吉野や関西方面に分かれたところです。
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赤報隊史跡、御影陣屋の刑場跡

馬頭観音や供養塔がたくさん並んでいます。御影陣屋の刑場跡であり、相楽の下で隊を率いた桜井常五郎ら赤報隊3名がここで処刑されました。軽井沢を出発した先発隊は追分宿へ入ると新政府より偽官軍と連絡を受けていた小諸藩と衝突します。これを「追分戦争」などと言われます。隊を率いた相楽総三は、下諏訪の外れで処刑されています。

赤報隊

幕末に結成された相楽総三率いる新政府の一部隊でした。新政府は倒幕を実現するために農民の支持を得ようと、倒幕に成功すれば”年貢半減”を公約としました。これを農民に周知するために組織されたのが「赤報隊」でした。赤報隊は公約を全国の農民に伝え歩き、結果農民の支持を得た新政府は有利に倒幕を進めることができました。しかし新政府は財政難により年貢半減は赤報隊が勝手に触れ回った偽官軍だとして処刑すると言い出し、相楽総三を含め8人が処刑されてしまいました。

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シャーロック ホームズ像

アーサー・コナン・ドイル(1859〜1930)か書いたホームズ全60作品を翻訳家、延原謙がここ追分で全訳したことにちなみ、ホームズ100周年を記念して像を建てました。

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コスモス街道歌碑

資料館館長が建てた碑だそうです。『右は越後へ行く北の道 左は木曽まで行く中山道 続いているコスモスの道が』追分宿の分去れを狩人が歌った「コスモス街道」の一節です。

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中山道69次資料館

中山道の69宿を順に辿って旅を楽しめる全国唯一の資料館だそうで、写真や資料でわかりやすく街道周辺の歴史を知ることができるそうです。今日は閉まっていたようですが。

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庭にミニ中山道が造られています。日本橋から三条大橋まで数分でゴールできてしまいます。

10:20 追分宿をあとに小田井へ向かって進みます。