2019年7月13日
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14:40 和田宿をでて、もう少し進んでいきます。
鍛冶足一里塚跡
塚はなく、石碑のみです。道標は大正15年に建てられたものです。道標には「右諏訪街道」とあり、中山道の道標ではなく、明治の新しい道を指しています。
消えた旧道
本来は「鍛冶足一里塚跡」を越えて、松沢橋の手前で右に折れていたそうです。その旧道の名残がこの草むらです。この先は途中で途絶えてしまいます。
旧道の馬頭観音
消えてしまった旧道の途中に馬頭観音が2基残っています。
依田川
消えた旧道から依田川を見ますと、水が澄み切っていてとても透明度が高くて驚きです。
藁葺き屋根のバス停
明治道へ戻り、暫く進むと「大井出バス停」があり、ここを左へ入っていきます。
先程の依田川沿いの道は、ここで合流していたようです。ここからは、旧中山道になります。
ねこちゃんに出会いました。
国道184号へ出てすぐ、右手の崖下に階段が1.2段ありその上に草に覆われた2つの大きな石碑があるのですが・・何の石碑なのか全くわかりません・・左手は「惣名原」と呼ばれていた場所です。
牛宿
中山道分間延絵図に「アラ井」の往還右手に、家が3軒ほど描かれています。ここが中馬などをとめおいた
牛宿だったところとされます。現在は荻原家の土蔵を残すのみです。「アラ井」とは「新堰」のことで2軒か3軒の牛宿があったと言われています。この内の一軒が「塩つけ牛」の休泊所で、茶屋も兼ねていたそうです。「
塩つけ牛」とは、塩俵を付けた牛のことでしょうか。牛宿はかなり儲かっていたようで、和宮降嫁の際には人足1000人を買い上げ本山宿へ出したと記録されているそうです。
双体道祖神
牛宿、対面の食事処 杉の屋前にある双体道祖神です。
15:20「食事処 杉の屋」で夕食
この先、食事ができる場所もありませんし、今日宿泊するバンガローには食事はついていませんので、ここで食べていきます。まださっきお蕎麦食べてからあまり時間が経ってないです〜今日のゴールまであと少しですし、ここで生ビール飲んじゃいましょう。メニューがすごく多かったです。私はおつまみ的なものを注文、連れは野菜炒め定食。よく食べられるな〜ごはん、丼だし。
パーライト工場(東邦パーライト)
東邦パーライトは、現在の「東邦レオ」です。一般的には馴染みのない会社だと思いますが、実は私は仕事の関係でお世話になることが多いです。
パーライト
パーライトは土の排水性向上、あるいは土壌の軽量化のために使用される土壌改良材です。大きく分けて、
黒曜石系のパーライトと
真珠岩系のパーライトがあります。黒曜石系のパーライトは、黒曜石を800〜1000℃以上の高温で、焼成・発泡させて製造します。恐らく長和町は黒耀石の産地ですからこのあたりは黒耀石系のパーライトを製造しているのでしょう。
2019.7.14
昨夜は20時頃に寝てしまったため、朝は3時半頃目覚めてしまいました。30分ほどゴロゴロしていましたが、2度寝はできなく、もう早くに出発してしまおう、ということで早々に出発します。しかし、今日は朝から雨です・・・強い雨ではありませんが、しとしと降っています。
6:20 バンガローを出発します。
一ノ橋
一ノ橋から先は唐沢の立場までは廃道となっており、国道を進みます。
依田川と頌徳碑
古中山道
「中山道」と案内がありますが、この道は江戸時代の道ではありません。それ以前の「古中山道」です。江戸時代の中山道はもう50mほど少し進み、右に曲がり唐沢を通ります。
茶屋本陣
後ろの現代的な白い家、唐沢のバス停横が茶屋本陣、羽田家です。表札に「本陣」と書かれています。
唐沢の立場
立場ではありましたが、運搬を行っていた者がよく利用し、問屋、本陣を合わせて5軒あったとされます。宿場以外の宿泊は幕府により禁止されていましたが、旅人を宿泊させていたらしく、1818年(文政元)、和田宿は、唐沢・東餅屋・西餅屋・樋橋・宮ノ坂は休憩のみの場所のため、食事を出したり宿泊させないよう代官所に願い出ており、
「禁制の書状」が残っています。
唐沢の西橋端にそのままの中山道が少し残っているということで、茶屋本陣より50〜60mほど行くと、道の左手に小さな「中山道」と書かれた看板があります。そこを進みますが、草がボーボーでなかなか勧めません。しかも!!
「罠がしかけてあります」という張り紙が!どんな罠が?足が挟まれる罠だったらどうしよ〜あったとしても草で見えないので恐る恐る進み、なんとか無事に抜けられました。
雑草が茂っているときは無難にアスファルトの道を進んだほうがいいかもしれません。
唐沢の一里塚
中山道から外れ、左手の階段を登り、少し進むと唐沢の一里塚があります。唐沢立場より手前から「古中山道」を行けば、この唐沢の一里塚へと至ります。江戸より51番目の一里塚です。南塚にはエノキ、北塚には樹木がありませんが、ほぼ原形をとどめており、素晴らしい一里塚です。
中山道分間延絵図
1831年(天保2)の中山道分間延絵図では既に中山道より外れた位置に描かれています。
一里塚の石仏群
線刻(ペトログリフ)の不動明王、御嶽山座王大権現、山神碑と祠などが付近にあります。山神は分間延絵図に描かれている「山神」だと思われます。
観音沢分教場跡碑
明治7年に和田宿の
信定寺に和田地区初めて学校が開かれました。明治25年には
和田尋常小学校となり、明治31年、現在の長和町立和田小学校の地に全てを統合しました。明治39年に観音沢のこの場所に
観音沢分教場が置かれました。昭和38年に廃止され本校に統合されました。今はほとんど家がない観音沢ですが、明治時代にはたくさんの子供達がいたようです。
男女倉
橋の下の川は男女倉川です。男女倉周辺の「男女倉遺跡群」からは1〜3万年前の
黒耀石のナイフ形石器が多く出土しています。男女倉谷の遺跡発掘調査は昭和32年より50年にかけて7回行われており、約20箇所の遺跡が発見されています。
いよいよ和田峠への山道が始まります。最初に登っていく坂は「観音坂」。緩い坂です。雨はやみそうにありません・・・・「壬戌紀行」によると蜀山人が和田峠を越えたときも雨だったようです。ですが、蜀山人はほとんど駕籠での移動だったようですので、歩いてはいないですよね。
避難小屋
往時はここに上町としまや(熊野氏)が茶屋を営んでいたそうです。
屋根付きの休憩所、今日はありがたいです。1時間ちょっと歩いたのでここで休憩です。トイレもありますが、使える代物ではありません・・・
三十三体観音
元々は分間延絵図の「観音坂山」の中腹にあった熊野権現宮の右下に並べられていたものを明治の廃仏毀釈の際に破壊され、放置され忘れ去られていました。その後、1973年(昭和48)和田村誌編纂委員会の調査によって33体のうち29体が発掘され現在地に移設されました。
八ツ房の栗
三十三体観音のかたわらに「
八ツ房の栗」と呼ばれる栗の木がありました。伝説によれば、国分寺建設地を探し歩いていた
行基が植えたものとされ、明治の末頃には
天然記念物に指定された栗の木です。串に団子を8つ指したようにイガが付くので名がついたといいます。大正8年老木のため雪の重みで倒れ、ひこばえを接ぎ木したそうですが、根付かなかったそうで、残念ながら現在はありません。
小さな橋をわたり、「
念仏坂」と呼ばれる坂道を進みます。坂といってもかなり緩やかな坂道です。崖下に見えるのは「和田川」です。接待手前の少し急な坂が「赤坂」です。
接待(和田峠永代人馬施行所)
江戸呉服町の加瀬屋与兵衛(有隣)は1824年(文政7)、箱根の東坂と西坂に人馬施行所を設けました。4年後の1828年(文政11)に中山道碓氷峠、和田峠にも人馬施行所を設けています。人馬に無料で粥や焚火、飼葉などを提供していました。1851年(嘉永4)大雨のための洪水で流出し、和田宿で仮小屋を建てますが、中之条陣屋へ願い出て嘉永5年に再建されました。1870年(明治3)まで続きますが、和田鍛冶足出身の工藤氏が下諏訪〜長久保間に運搬業を始め、茶屋を兼ねて施行所を使用したため現在まで残っています。
接待の奥に灯籠と殉職碑がありますが、この前が旧中山道ですが、草がボーボーで行けそうにもありませんので、70mほどは国道を行き、ヘアピンカープのところからまた山道へ入っていきます。
殉職碑
上田警察署丸子分署に勤務していた近藤谷一郎巡査は、明治22年8月、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、犯人に逃走され谷川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受け倒れ、さらに近藤巡査の所持するサーベルで切られて殉職してしまいました。まだ22歳の若い巡査でした。犯人は頭部を負傷し接待付近の茶屋に逃げ込みましたが、茶屋の主人は巡査に護送されていた犯人と気づき、通りかかった住民2人と取り押さえ、人力車に乗せ和田村駐在所に届け出たことから事件が発覚しました。翌日、捜索隊によって谷川で近藤巡査の遺体が発見されました。和田村では翌年より毎年、慰霊祭が行われ殉職から48年経った昭和12年慰霊碑が建立されました。
S字カーブから再び旧道へ
近藤谷一郎巡査殉職の地
こんな寂しいところで犯罪者を一人で護送なんて怖いです。下の川で発見されたのでしょうか。
避難小屋
雨が強くなってきました。避難小屋を過ぎると石畳が始まります。
石畳は復元されたものですが、石はこのあたりにあったものを敷き直したものでしょう。
広原一里塚
江戸より52番めの一里塚です。谷間にあったものを移設したものですが、東塚のみで、西塚は確認できません。
東餅茶屋跡
標高1531mの和田峠は急坂が多く、降雪の際はもとより雨や霧の日も旅人は難渋しました。当時は右手、手前から土屋・竹や・木曽屋・和泉やがあり、左手には小林屋がありました。現在案内板のある位置には、「土屋藤八茶屋本陣」があった場所です。1630年(寛永7)、幕府からは扶養米が支給され、家屋が破損したときにも修繕費が支給されていました。5軒とも餅を売っていましたが、餅をついたら固くならないよう、湯に浸したカメに餅を入れておき、注文が入るとカメから餅を取り出して、飴をつけて温かい、柔らかい餅を提供していたそうです。
東餅茶屋のその後
木曽屋(中牛馬会社)は明治31年に下諏訪へ移転してしまいます。明治35年に篠井線が塩尻まで、明治38年には中央線が岡屋まで開通すると、和田峠の往来は激減し、明治36年には小林屋は塩尻へ移転、竹屋は上諏訪町、他の家も東餅屋から去り、明治39年には誰もいなくなってしまいました。今は石垣しか残っていません。
東餅屋を過ぎてすぐに旧中山道へ入る細道がありますが、そこを入るとまたすぐに国道を渡り、再び山道へ入っていきます。
和田嶺神社跡碑
三大神社、 山之神社、 諏訪神社 、建部神社と縦に彫られ、裏面には漢文で由来が彫られていますが、よくわかりません。建立したのは昭和12年、「在東京 羽田」とあり、東餅屋から離れ東京へでた羽田氏が建立したようです。また、氏子の氏名も彫られており、小林家、土屋家、竹花家などいずれも東餅屋で茶屋を営んでいた方の名前が見られます。恐らく東餅屋の氏神様が祀られていたのでしょう。
コルゲート管
ビーナスラインに分断されたため、コルゲート管をくぐって進みます。管の中には歩道と沢の水が流れています。
このあたりから少しずつ雨が弱まってきました。
コルゲート管を出たところの沢には、柘榴石を採取しないよう注意書きがありました。インターネットで検索すると、びっくりするほど採集している人がたくさんいるのですね。柘榴石はガーネットのことです。和田峠の柘榴石は古くから知られ、「緒占石」として財布や煙草入の装飾として使用され、江戸時代には名産品として売られていたそうです。
コルゲート管からビーナスラインへ出て、更に2度ビーナスラインを横切り、最後の坂を登るとようやく和田峠にたどり着きます。
和田峠(鳩ノ峰)
雨はほぼやみましたが、峠からの眺望は全くありません。全てが白い世界です。残念・・・
峠の地蔵、賽の河原と馬頭観音
御岳遥拝所
11:20 雨の中、なんとか和田峠へ到着しました。屋根のある休憩所で長々休憩してしまい、ノロノロ歩いて随分と時間がかかってしまいました。今日はこの天気ですので、誰にも会わないと思っていましたが、途中、3人のお仲間に出会いました。少し立ち話し、お互い物好きですね〜なんて(笑)下諏訪まで残り11.5km。急がないと日が暮れてしまいます。