2019年7月13日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
前日の夜に長野新幹線で上田入りし、上田駅前の
「ルートインGrand上田駅前」に宿泊しました。前回、長久保から上田駅へのバスがありましたが、逆に上田駅から長久保へ行く
バスは、夕方しかありません。
朝のバスは、始発が「丸子中央病院」となります。今回、長久保から和田、そして下諏訪まで一気に行かなくては帰れなくなりますで、方法としては2つあるかと思います。1つは、夕方のバスに乗り、長久保へ行き長久保宿の唯一の宿、浜田屋さんへ宿泊して次の日、和田へと出発する方法。もう一つは上田から大屋駅までしなの鉄道へ行き、そこからタクシーでバスの始発「丸子中央病院」へと向かう方法です。もちろん、長久保までタクシーという方法もありますが、料金がいくらになるか・・・恐らく目が飛び出る金額でしょう。仕事がお休みの日程、自分の歩ける距離などを考えて、後者にしました。長久保から下諏訪まで約30km、一日で歩いてしまう健脚の方もいらっしゃると思いますが、私はノロノロなので・・・
大屋駅
朝、7:20頃上田のホテルを出発。7:42上田駅発のしなの鉄道で大屋駅へ向かい、大屋駅前のタクシー乗り場へ行きます。朝早かったため、タクシーは1台もいなかったのですが、そこへ書いてある番号へ電話すると10分くらいで来てくださいました。「丸子中央病院」までの料金は1,900円、乗車時間は10分ほどでした。
大屋停車場跡碑
官設鉄道信越線は1888年、上田〜軽井沢間が開通し、田中・小諸・御代田・軽井沢駅が開業し、資材を運ぶことができるようになりました。1893年、横川〜軽井沢間も完成し、東京まで鉄道が繋がったことにより生糸を輸送するために駅設置の請願が出され1896年に大屋駅が開業されました。
丸子中央病院バス停
バスの時間は8:27でしたが、充分に間に合いました。長久保までのバス料金は、670円くらいだったでしょうか・・ハッキリと覚えていません。約30分、9時頃に長久保に到着しました。
長久保では、まず前回寄れなかったところへ行きます。残念ながら今日は空がどんよりしています。今年は長梅雨です。そろそろ梅雨明けしてもいいのに・・3日ほど前は晴れの予報も出ていまして安心していましたが、急にまた天気予報が変わり、雨の予報です。
道祖神
「道祖神社新築記念 平成20年」と書かれていました。この小さな社は平成20年に建て直されたようです。社の中の石には文字も彫られていませんでしたが、社がなければただの自然石にも見えます。社の外の石には「道祖神」と文字が刻まれています。しかし、何も彫られていないもののほうが大事にされている、ということでしょうか。道祖神信仰とは奥が深いものです。
五十鈴川
観音寺
1449年(宝徳元)、覚信の開祖。元は依田川沿いにありましたが、1629年(寛永6)の依田川洪水により流出し、同年に現在地に移りました。現在の本堂は1799年(寛政11)年に建立されたものです。1710年、第七世弘慧住職は、即身仏になるため石室に入定したそうです。本堂に安置される木造地蔵菩薩像は室町時代の作とされ、高さ1mほどといいます。長和町の文化財として指定されています。
道祖神
こちらの小さな社にも「道祖神社新築記念 平成20年」と書かれていました。だるまが一緒に祀られていました。なんとなくここの道祖神はだるまの形に似ています。そのため、だるまが一緒に祀られているのでしょうか・・・
長安寺
1618年(元和4)依田川の牛子河原(現中河原)にあった阿弥陀堂を曹洞宗道場「宮昌庵」として創建されました。1627年(寛永4)、小諸藩主松平憲良は、徳川家康の生母「於大の方(傳通院)」また久松家縁の位牌を安置、供養したため「久松院」としました。憲良は於大の方の曾孫にあたります。1629年(寛永6)依田川大洪水のため流出し、翌年現在地へ再建されました。現在の本堂は1881年(明治14)に再建されたものです。
長安寺経蔵
江戸時代末期の建立と考えられています。内部には経文を収める回転式の書庫である
「輪蔵」があり、大般若経600巻が納められています。輪蔵は朱塗りの八角形で閲覧を便利にするため考案されたと言われています。格天井には地元狩野派の絵師、
武重桃堂(武重正重)などの絵が描かれています。
子育て地蔵尊と筆塚
筆塚は明治14年に門人によって建立されました。
青面金剛像が彫られた庚申塔
旅籠「辰野屋」
武重家が営んでいた大きな旅籠です。長久保甚句には「長久保良いとこ板屋根造り、瓦ないから来ておくれ」と唄われていました。江戸時代は板屋根でしたが、現在は瓦屋根に変わっています。
牛宿「もろや」
宿場から宿場へと荷物を運ぶ「伝馬」に対して目的地まで運ぶ「中馬」は信州が盛んでした。中馬の馬や牛を宿泊させる施設がありました。昔は牛舎が西から北を取り巻き、大きな敷地だったとされます。
9:35 これより長久保宿をあとに和田宿へ向かいます。
馬頭観音と髭題目碑
中央が「南妙法蓮華経」の髭題目碑、その他は文字馬頭観音です。
不聞道祖神(きかずどうろくじん)
以前は中山道長久保宿南入口に道祖神がありました。川端の崖の上に祀られ、県道端には鳥居もあったそうです。耳が聞こえるようになったと評判となり、お参りの人が絶えなかったといいます。反対の言葉が使われるようになったのは、戦国時代の武田信玄が敵を欺くために使用していた言葉が由来とされています。
長門昔話
昔、中山道長久保の村外れに
道祖神がありました。
「どうろく神様」と呼び、色々な願い事をしてきました。あるおじいさんは、孫の耳が聞こえるようになるよう、毎日お参りに来ていました。百日ほど続けたある日、孫と一緒にお参りをすませ、帰ろうとしたところすごい雷の音が鳴り響きました。あまりの恐ろしさにおじいさんも孫もその場に座り込んでしまいました。夕立がやみ、おじいさんがやっと立ち上がると崖の下に流れる依田川に虹がかかっていました。すると孫の耳が聞こえるようになっていたのです。おじいさんはなんとか道祖神にお礼をしたいと思いましたが、貧乏なためお金はありません。そこで家で一番大切にしていた
お椀でお礼することにしました。聞こえるようになったのは耳に穴が開いたからだと考え、お椀の底に穴を開け、紐を通して差し上げました。
四泊一里塚跡
江戸から48番目の一里塚です。「エノミの木のある所」として地元の人々にも親しまれたエノキの大木がありましたが、1960年(昭和35)の道路改修の際に伐採されました。
矢ヶ崎城
一里塚右手の標高939mの「矢ヶ崎山」の山頂に
矢ヶ崎城があったそうです。「矢ヶ崎山」という名称は今の地図に記載がなかったのですが、中山道分間延絵図には
「宇矢ヶ崎山」と記載があります。本郭東西八間、南北二十間、堀切や土塁が廻らされていました。和田城主大井信定の家臣、
秦次郎右衛門幸清が守っていたそうですが、1553年(天文22)武田信玄に攻撃され、幸清、和田城主、大井信定親子も闘死しています。城はその後信玄ののろし台として利用されました。
慈福寺跡
1814年(文化11)、大門村下大門の名主であった内田安良太が上田城下金窓寺より通夢道人を招いて住職としました。通夢道人は、高井郡福島村(現須坂市)の出身で特に書を好んだとされます。代官の川上金吾助がその書体に感じ入り、憔獨庵の額を送りました。
通夢道人遺跡(つうむどうじん)、お墓と筆塚
お墓はお堂の裏を少し登った所にあり、奥のものです。
「當菴中興崑山紋大和尚」と刻まれています。1850年(嘉永3)、74歳で逝去しました。使用後の筆は非常に多くあり、後に門弟が筆塚を建立しました。加賀藩の行列が通りかかったときに、殿様が駕籠を止めて「田舎にもこんな素晴らしい書家がいるのか」と村人に訪ねたと伝わっています。古町上宿や和田上宿にも通夢道人の書による馬頭観音の石碑が残されているそうです。
双体道祖神と文字道祖神
大門街道追分・落合橋
大門街道は大門峠を経て諏訪に出る道です。戦国時代、武田信玄の軍用道路、「信玄の棒道」へ通じています。
大門川を渡り、すぐに依田川を渡ります。広重はこのあたりから「長久保」を描いています。
顕彰碑と百万遍供養塔
顕彰碑は斜面の上のほうにありましたので、望遠で撮ったため文字を読み取るのが難しいです。「翁」という文字は読み取れ、顕彰碑でしょうか。地理院地図には建物があるようになっていますし、現地には石垣がありましたので、少し前まで建物があったのではないかと思います。
依田川の河原に積んであった石。絶妙なバランスで積んであります。誰が作ったのかしら。
青原バス停
国道へ戻ると、青原バス停があり、井戸水が流れ出ています。
水明の里、黒耀石のふるさと
黒耀石は溶岩が固まって出来た天然のガラスです。同じくガラス質で丸い割れ目の多数あるものはパーライト(真珠岩)といいます。黒耀石は、石器時代には、やじり・刃物などの材料として利用されていました。当時の黒耀石の産地は大きく3つに分かれており、その成分的な特徴から古代の交易ルートが推測できるといいます。現代では、眼球や心臓用のメスや、研磨して装飾品などにも利用されているそうです。
水明の里には「馬頭観音」がズラッと並んでいます。周辺から集められたものでしょう。
藁葺き屋根のバス停と金剛正面像の庚申塔と道祖神
牛頭天王常夜灯
この牛頭天王は、「中山道分間延絵図」にも記載があります。常夜灯には寛政12年と彫られています。
いぼ地蔵
元々は、慈眼寺の地蔵堂へ祀られていたお地蔵様です。慈眼寺が廃寺となったためこの地蔵を寄進した角龍藤右衛門家の墓地に移設されました。享保12年に寄進したものです。地蔵の周囲にはたくさんの古い墓碑があります。地元では、子供の治してほしいところを小石でナデナデし、その小石をお地蔵様に供えて拝みました。そのため、小石がたくさん乗せられています。なんとも可愛らしいお顔のお地蔵様です。
馬頭観音
下和田中組バス停裏にある大きな馬頭観音碑です。江戸時代のものと説明がありました。上部が折れてますが、補修されています。
蚯蚓道祖神
蚯蚓(みみず)の彩色双体道祖神で、たいへん珍しいものです。「蚯蚓」は、この地の字名です。蚯蚓は土壌に栄養を与える農地にはありがたい生物ということで祀られているのでしょう。
蚯蚓神社
蚯蚓神社へは、蚯蚓道祖神を過ぎてすぐの「和田バス」と書いてあるバスの車庫のような建物の手前の細い道を右へ入っていきます。山へ入っていくと「湧水」の古い看板があり、ワサビ田について書かれていますが、今では一面どくだみが茂っています。神社には「おきん様」と掲げられ、蚯蚓様がお昼寝しています。
蚯蚓神社のいわれ
大昔、何日も続く大雨の時、この奥の険しく狭い北沢山から大水が出た時、長さ一尺(約30cm)ほどの大蚯蚓が群れをなして死んでいました。不思議に思っている矢先、近辺では伝染病のコレラや腸チフスが発生して大変な騒ぎになりました。蚯蚓の祟と考えた村人はお堂を建てて蚯蚓を祀りました。北沢山の奥にもお堂がありました。
下立場の門
当時のものかよくわかりませんが、立場の門とされています。
立派な長屋門と「呑み水」
慈眼寺跡の大日堂
慈眼寺は、明治6年廃寺となり、和田学校(竹屋学校)の分校となりました。大日堂や石碑だけが残されています。大日堂の中には、大日如来が納められています。周囲には灯籠や石仏が多く残されています。いぼ地蔵や三千僧接待碑などもこの慈眼寺にあったようです。仏像などは、和田宿の
信定寺へ移されているそうです。
三千僧接待碑
慈眼寺より1795年(寛政7)にここへ移されました。当初は一千人の僧へ接待を行うことを初願し建立したもののようですが、それが達成し、二千人、三千人となると石碑の一の文字を後から付け足して、二と三に改刻しています。接待には米だけではまかないきれないため、麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等などをだし、天保6年までの凶作続きの際にはじゃがいもの粥などをふるまっていたようです。
大社造りのバス停、招き猫石仏、獅子舞の石碑
珍しいものが続きます。
下和田上組の家並み
石仏群と阿亀馬頭観音
「阿亀」は、おかめと読みます。なぜ阿亀としたのか・・おかめ信仰からなのか、わかりません。
地下道
交通量の少ないこの場所に「地下道?」と不思議に思いますが、南の国道142号線が出来上がる平成4年までは国道で、交通量が多かったそうです。地下には高山植物が描かれていたそうですが、現在は地下へ入る口は閉ざされています。
若宮八幡社
創建はわかりませんが、本殿には1721年(享保6)の棟札があります。仁徳天皇を祀っています。ケヤキはかなりの大木です。
大井信定親子墓碑
戦国時代の1553年(天文22)に和田城主、大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で戦い、信定父子をはじめ、一族郎党がことごとく戦死し、父子の首がここへ埋葬されました。1693年(元禄6)に信定寺第六世来安察伝和尚によって若宮八幡社境内に墓碑が建立されました。矢ヶ崎城代、羽田幸清の墓もあります。羽田幸清は、第80代首相、羽田孜(つとむ)氏のご先祖様です。
芹沢一里塚碑
一里塚は両側ともなくなり、碑が建つのみです。後ろのかわいい建物は「長和くるみ農園」とあり、周囲にはくるみの木がたくさん植えられています。
狐坂を経て和田宿へ
和田宿
中山道開通当時、宿場として整備されました。中町・下町は従来より民家が並んでいましたが、近隣の村より民家を移して上町を形成し、中町に本陣、問屋を置き、宿場の中心地としました。1713年(正徳3)、宿場が手狭になったため、追川橋を越えて八幡林まで橋場新田を作り、宿場が延長されたということです。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠は1630年(寛永7)28軒、1804年〜1829年が最も多く、70軒余りでその後は減少してます。
和田埜神社
1800年(寛政12)に建てられた和田神社の大きな石造りの一の鳥居です。和田神社はここより北へ400mほどの場所に社殿があります。鳥居の扁額は「和田埜神社」であり、江戸時代には「和田埜神社」という名前だったと思われますが、本殿鳥居は「和田神社」となっています。いつの間にか名前が変わったのでしょうか・・
和田中学校跡
映画の撮影に使われそうな古き良き時代の木造校舎、昭和22年に開校し70年、2017年で閉校となり近隣の中学校へ合併したようです。
八幡神社
応神天皇を祀っています。和田城主、大井氏の居館の鬼門除けに造られたとされます。本殿は18世紀前期の建築と推定されています。
追川
追川を渡ると、和田宿の中心地となります。下流のほうに木製の橋が見えます。今でも使われているようですが・・・渡るのは怖いです。右側奥には、「黒耀石石器資料館・林業資料館」があります。黒耀石石器資料館は男女倉遺跡や和田峠遺跡から出土した石器類が展示されています。入ってみたかったのですが、時間がなくなってきましたので、先を急ぎます。
和田宿文久の大火
1861年(文久元)3月、和田宿は
宿場全体が焼失する大火に見舞われました。火元は源五兵衛裏辺りとされ、70件ほどが焼けたと、代官への報告書にはありますが、類焼家屋は、100軒余りとの書状も残っています。火元の源五兵衛は手鎖(鎖をして自宅で謹慎)、連帯責任である5人組は押し込め(自宅謹慎)などに処せられました。この年の11月に
皇女和宮が降嫁するため、大至急、宿場全体を再建する必要がありました。幕府からの援助や借金でなんとか急ピッチで再建が行われましたが、残ったのは借金です。この借金は明治になり有耶無耶になったようですね。恐らく返さなくて良くなったのではないか・・ということです。和田宿にとっては和宮降嫁が救いだったようです。このイベントがなければ幕府からホイホイお金が出てこなかったでしょうし、再建にはかなり時間を要したことでしょう。
下町の問屋場とかわちや
右側が「旅籠かわちや」、左側が下町の問屋場(遠藤家)でした。かわちやも焼失し、文久元年に再建されました。旅籠の中では大きい方で、江戸時代末期の建築様式をよく伝えています。資料館として公開しています。江戸時代は道と建物は同じ高さでした。明治時代に道が掘り下げられたため、道路と段差ができてしまいました。
旅籠大黒屋
明治時代に道路が掘り下げられたときに大黒屋は奥に移動しました。
蕎麦徳田
羽田野家の古民家が蕎麦屋となっています。この古民家も文久元年の大火後に京都から宮大工を呼び建てられたものです。梁は釘を1本も使わずに組まれているそうです。
羽田野家の古民家
かつての脇本陣羽田野家ではないかと思われます。中山道分間延絵図では、この場所が脇本陣となっています。
徳田のメニュー
メニューはざる蕎麦のみで、天ぷらなどの揚げ物や温かいお蕎麦などはありません。十割蕎麦で、蕎麦師、徳田偉(すぐる)氏が打っているそうです。韃靼そばは、前に食べたことがあったのですが、モンゴル周辺原産の栄養価が高いお蕎麦だそうですが癖のある味です。余り好きでは無かったので、無難に「田舎そば」にしました。
田舎そば
そばつゆは、カツオの香り高く、本当に十割蕎麦なのかな〜と思うほどボソボソしていませんでした。
信定寺・和田城跡
蕎麦徳田左手を北へ向かうと
「信定寺」、更に奥へ進むと
「和田城」へ登る道があります。信定寺は、武田信玄により闘死した大井信定の冥福を祈るため、和田六騎(上野・上原・遠藤・長井・羽田・境沢氏)が中心となり大井信定の居館跡に武石村信広寺二世雲天を招いて開祖としたとされます。「信定禅寺」の額を掲げています。14代住職活文禅師は、寺子屋を開き佐久間象山も通っていました。
和田城跡には土塁や空壕が残り、主郭に祠、二の郭に石尊神社が祀られています。
長井本陣
本陣も大火で焼け、同年再建したものです。明治になるまで長井家が務めました。明治12年には戸長役場となり、その後和田村役場となり、昭和59年まで使用されていました。和宮が使用した座敷棟は明治年間に丸子町の龍願寺、「御入門」は向陽院に移設されています。平成2年より一般公開されています。
本陣石置屋根
本陣建坪は、天保14年の調査では209坪、門構え、玄関を有していました。
一旦、国道へ出てコンビニに寄ります。この後、コンビニがないためここでパンやお菓子など明日の和田峠越えのための食料を買い込みました。
上の問屋跡(米屋鐵五郎)
改築されて、インフォメーションセンター、休憩所として開店しています。軽食なども提供しているそうです。
翠川脇本陣
脇本陣も文久元年の大火で焼失し、昼夜兼行で再建されました。建坪164坪、門構え、玄関を有し、上段の間、二の間、風呂場、厠など江戸末期の姿を留めておりますが、現在もご子孫が居住しておられます。もう1軒の脇本陣は、羽田野家です。恐らく徳田のあたりがそうだと思います。
秦燕格
長久保の長安寺経蔵の格天井絵を描いた狩野派の
武重桃堂の師である秦燕格は、1732年(享保17)和田村に生まれました。初めは狩野玉燕の研究をしますが、後に江戸へ出て狩野栄川典信のもとで学びました。人物山水花鳥を得意とし、晩年は遠州秋葉山の宇堂再建の際、模写図を描いています。羽田燕二も彼の門弟でした。
旅籠本亭跡(なが井)
庄屋(名主)であった敷地に、平成23年まで旅籠が営業していました。和田峠を越えるために宿泊した方も多くいらしたでしょうが、現在、本亭がなくなり、大門の「民宿みや」を利用する人が多くなったでしょうね。
よろずや
本卯建が一際目立つ「よろずや」は、江戸時代は質屋と両替商を営んでいました。現在でも酒店(雑貨店)を営んでいます。和田宿では、卯建が上がっていいた建物はここだけでした。
高札場跡
正面三間(約5.5m)、奥行き七尺(約2.1m)の1段高い敷地に正面二間(約3.6m)の屋根付きの高札場がありました。旅人はここでは笠などのかぶりものを取ることが習わしとなっていました。
馬頭観音と道祖神
中山道分間延絵図には、「馬頭観音堂」となっていますので、江戸時代にはお堂があったと思われます。
曲水句碑
『天ほの我(?)村 雪に山笑ふ』 曲水(曲翠)は、松尾芭蕉の門人で膳所出身の武士です。膳所藩の中では中老であり、重臣です。芭蕉を経済的に支援しました。1717年(享保2)、不正を働く家老、曽我権太夫を槍で一突きにして成敗し、自らもその際に切腹しました。清廉潔白な人柄だったようです。墓所は芭蕉と同じく、義仲寺にあるそうです。
14:40 和田宿をあとに本日の宿泊地を目指してもう少し進んでいきます。