烏川沿いを行く。河岸道や牛街道も歩こう。

2018年11月25日

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11:30 新町宿を後に倉賀野宿へ向かって歩き続けます。

伊勢島神社

由緒のありそうな神社ですが、特に説明版などもなく、詳しいことはわかりません。

この辺りは既に群馬県藤岡市です。

豪農屋敷(川端家住宅)

立石新田の中山道沿いにひときわ大きなお屋敷があります。江戸時代に建造された母屋は明治中頃に二階建てに改造されましたが、この母屋をはじめ建物19棟が全て文化財に指定されているお屋敷です。かつては、一町屋敷とも呼ばれました。

信迎庵前の石仏群

手前のお地蔵様が橋供養塔1763年(宝暦13)建立。そのほか、洪水の供養塔など色々な石仏があります
関越道の手前を右に登ると景色がガラッと変わって烏川河川敷となります。

お伊勢の森

正面に見えるのがお伊勢の森です。このあたりは元々は砂原村といいましたが、いつの頃からか伊勢島村というようになり、村の北端に伊勢神宮を祀りました。しかし水害のため、江戸時代の初め頃には隣村の立石村と合併しました。1682年(天和2)、前橋藩、酒井忠拳が村名を立石新田と改め、現在に至っています。

お伊勢の森の祠

中山道は当初はお伊勢の森の北側を通っていましたが、1742年(寛保2)の大洪水により文化年間に森の南側を通るようになりました。

現在の祠は昭和62年に村の篤志家の寄進だそうです。

しばらくは、河川敷が旧中山道です。

新立石樋管

大きな川へ合流するときに合流する川の水位が洪水などで高くなったときに逆流しないように設ける施設です。鬼瓦で飾られていました。

中島一里塚跡

このあたりだと思われますが、案内等はありません。

大根がずらーっと並んで干されています。壮観です。たくあんになるんでしょうね。

堤防は近年になってできたものでしょうか。一旦堤防を下りて、旧道の残る道は旧道を歩きました。

柳瀬の渡し場

柳瀬の渡し場は、このあたりだったのでしょうか。案内がないのではっきりとはわかりません。今は渡しがないので、柳瀬橋を通って烏川を渡りました。川の中に石のようなものがぼつぼつ見える場所があります。これは、旧柳瀬橋の杭です。

少し戻る感じで旧中山道へでます。何も案内はないですが、道路標識に「中山道」とありますので、ここで間違いないようです。

烏川を渡るとまた高崎市に入ってきます。

旧中山道らしく、古い家並みが残っています。
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北向子育観世音

お堂には安産、子宝の神様、如意輪観音が収められています。本堂を北向きに建てるのは珍しいそうです。善光寺には、南向の善光寺と北向きの北向観音を両方詣ることが必要とされているそうです。 こちらの北向観音、相応する南向きの寺社があるのでしょうか・・・

社殿は小さいですが、子育観音大祭には大規模な花火大会が烏川で行われるそうです。

日本化薬研修センター

岩鼻陣屋跡の隣は、日本化薬研修センター、素敵なセンターですね。北東300mほどにある「群馬の森」一帯は陸軍岩鼻火薬製造所がありました。陸軍唯一のダイナマイト工場として製造を行い、戦後は日本化薬製造(現日本化薬)に払い下げられました。この付近は日本化薬の工場や社宅など関連施設が多いのです。

天神山の天満宮

学問の神様、菅原道真が祀られています。階段脇には「使いの牛」。菅原道真が祀られる天満宮にはしばしば使いの牛があります。道真が亡くなった日が丑の日だから、あるいは道真が丑年生まれだから、遺骸を運んだ牛車が動かなくなった場所を墓所としたからなどいわれはまだまだあります。

岩鼻陣屋跡、岩鼻県庁跡

1793年(寛政5)徳川幕府により設置されました。上野の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預かり所と武蔵国六郡を支配し、江戸の北辺の守りの中心となります。1868年(慶応4)、廃藩置県により陣屋は岩鼻県の庁舎となりますが、1871年(明治4)群馬県が成立すると、岩鼻県は廃止されました。

堀で囲まれた岩鼻陣屋は、昭和39年にはまだ堀があったようですね。いつ、なくなってしまったのでしょうか。

梅の木大神

飛脚の死を哀れんだ村人がここに墓を作り、後に梅の木に草履を結んで飛脚のように足が速くなるよう祈願するようになったといわれます。

梅の木大神の逸話

この「梅の木大神」については2つの逸話があるそうです。国元と江戸を往復していた加賀藩前田家の飛脚は、ある時この地で亡くなった、また、別の逸話は加賀前田の殿様が病気という知らせを飛脚が急いで運んでいたところ、倉賀野で飯盛女に引き止められ泊まりますが、夜が明けて辺りを見回すと原っぱであり、ムジナに騙されたと知ると、ここで切腹したというお話です。

篆書体で彫られていて、なんて書いてあるのか全くわかりません。

日光例幣使街道 追分の常夜灯、道標、焔魔堂

常夜灯は、1814年(文化11)建立。道標には「従是 右江戸道 左日光道」と刻まれています。常夜灯には寄進者の名が刻まれていますが、中には相撲関係者も多く、雷電為右衛門鬼面山与五衛門などの名が見られます。また歌舞伎の松本幸四郎、市川団十郎などの名も見られるそうです。こうした歌舞伎役者や相撲関係者の名が名が刻まれるのは、この倉賀野での興業が多かったからでしょう。そして興業が多かったということは倉賀野が繁栄していた、という証ですね。

日光例幣使街道

江戸時代、日光東照宮には毎年4月に行われる大祭の贈り物を奉納するために朝廷からの使いが派遣されていました。この使いの人々が日光例幣使と呼ばれ日光例幣使が通るために整備された道を日光例幣使街道といいます。京都から倉賀野までは中山道をつかい、日光例幣使街道は、倉賀野から楡木までを(栃木県鹿沼市)いいます。その間の宿場は13宿でした。帰りは江戸周りで東海道で京都へ戻ります。例幣使は、221年間一度も中断されることなく続いたそうで、驚きます。

閻魔堂

江戸時代には阿弥陀堂と呼ばれ、閻魔堂と言われたのは明治時代からだそうです。閻魔大王は、地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に落ちず救われると言われていました。

大山邸

1933年(昭和8)、陸軍特別大演習が開催される際、中山道の拡幅工事のために建て直されたそうですが、立派なお屋敷です。

倉賀野おもてなし館

大谷治三郎により創業された米屋「大黒屋」。昭和30年ころまでは営業していました。明治中期に建てられた母屋は土蔵造り店舗(見世蔵)の特徴が顕著。平成27年より休憩施設として「おもてなし館」として開館しました。

太い柱が立派です。階段箪笥(箱箪笥)が素敵です。ちょっと休憩させて頂きました。

「伝説の倉賀野」という本を頂きました。倉賀野の民話や伝承などが書かれている本で厚さ1cmほどある立派な本です。

最初に編纂されたのは昭和15年のようです。それを平成25年に再発行したみたいですね。古い写真や挿絵、文体も昭和初期で面白いです。

地図も入っていました。これらの史跡は現在でも残っていますね。もちろん、自宅で全て読ませていただきました。

おもてなし館でいただけるコーヒー(200円)と河岸最中(130円) 最中はお隣の丁字堂さんのものです。あずきが上品な甘さで美味しいです。

太鼓橋跡(寶蔵橋)

五貫堀にかかる橋は板橋だったため、幾度も大水で流されました。1803年(享保3)、板橋から石橋に架け替えられました。

当時は珍しいアーチ式の石橋で建設費200両余りは旅籠の拠金で、一説には飯盛旅籠の溜銭であるということです。石には飯盛女の名が刻まれていたといい、現在は倉賀野神社の境内に保管されています。現在、五貫堀は地下に埋められて、橋の下は道路になっています。

五貫堀は、長野堰幹線用水路を倉賀野で分水されている水田用の用水路でした。昔は水車もあったそうで、美しい景色だったのでしようね。

倉賀野町道路元標

双体道祖神

倉賀野本陣跡(勅使河原家)

現在はスーパーの駐車場で全く面影がありません。小さな石碑が建つのみです。

きりんのバックホウ、初めて見ました。工事が楽しくなりますね。

須賀喜太郎家脇本陣

江戸時代は河岸問屋を営んでおり、現在の建物は明治中期のものです。裏手の藥井門や桁十間の土蔵・味噌蔵は江戸期の建築と伝えられています。

須賀庄兵衛脇本陣

倉賀野宿には、旅籠71軒、茶屋9軒、商家34軒、造り酒屋2軒があり、大規模な宿場でした。

烏川

雁児童公園から撮影しています。

倉賀野城址

鎌倉時代、武蔵児玉党の一族が倉賀野氏を名のり、14世紀末に子孫が築城します。戦国時代は上杉、武田、後北条氏の勢力の狭間に翻弄され、1590年(天正18)、秀吉の小田原攻めの際に開城し、その後、廃城となりました。

倉賀野神社

倉賀野宿と近隣7ケ郷の総鎮守で、旧社名は「飯玉宮」といいます。明治末の国策で宿内数社を合祀して明治43年に現社名になります。多くの文化財が保存されています。

北向道祖神

元々は倉賀野城址付近に北向きに祀られていたそうです。台座には1805年(文化2)と刻まれています。1937年(昭和12)に倉賀野神社内へ移転されました。仲むつましい姿から縁結び、夫婦和合の神様と言われています。

北向道祖神の逸話

『伝説の倉賀野』の中には2つの逸話が書かれています。昔、倉賀野城付近の山中に怪獣が住んでおり、3年ごとに娘を生贄にしないと暴れてしまう。その年は庄屋の家に白羽の矢が立ち、恐れていると見かけない侍が対峙すると名乗り、娘を入れる箱に入り村人に運ばれていきます。翌朝、怪獣の死骸が発見されるも侍の姿は見えず、あれは神様だったに違いないと道祖神を祀りました。

日露戦争の凱旋勇士が次々と病に倒れ、町の人々は相談して「悪病には道祖神をお祀りするといいようだ」として建立され、勇士は快方に向かった。とする2つのお話。

日露戦争というのはないでしょう。時代が合致しません。
双体道祖神がいっぱいです。特に右下のがかわいいです。私たちも仲良く、最後まで中山道、完歩できたらいいですね。

冠稲荷

1909年(明治42)、横町から倉賀野神社へ合祀されましたが、再び横町にも冠稲荷神社が復活しました。

拝殿

拝殿は、彫工北村家の三代喜代松の作品です。喜代松は、信州鬼無里村を中心に活躍した宮刻の巨匠だそうです。拝殿向拝の「飯玉彫刻」は特に素晴らしいとされています。 拝殿前には冠稲荷が合祀された際に冠稲荷から移設された常夜灯が移設されてあり、1863年(文久3)のもので、飯盛女「三国屋つね」が寄進したものです。

倉賀野神社の玉垣

冠稲荷が合祀された際に冠稲荷から移設された玉垣です。玉垣には「金沢屋内 りつ、ひろ、ぎん」、「升屋内 はま、やす、ふじ」など数多くの飯盛女の名が刻まれています。

高札場(復元)・上町問屋場跡

倉賀野には三箇所の問屋場があり、各月の上旬は中町、中旬は上町、下旬は下町と各問場が10日づつ努め、20名程が業務を行っていたそうです。

伝説の「樅の木」

旧家の古い言い伝えによるとこのモミの古木に「初幟(のぼり)」を立てると、いつの間にかなくなり、古峯社神に納まっているそうです。楓もモミも数年前に枯れて植え替えられているそうです。

伝説「樅の木」の由来

1855年(安政2)、大火災により倉賀野は焼野原。百姓九右衛門が火元だとして「九右衛門火事」と呼ぶ。この大火の中ポツンと焼け残った旧家がありました。この旧家に大天狗が現れ、庭の楓の木からモミの木に飛び移り、屋根の上におり、じっと法文を唱えたといいます。大天狗を目撃した人は「古峯様」が助けてくれたに違いないと思ったそうです。

15:00 倉賀野駅到着

今日はこれにて終了します。

一旦、隣の高崎に出てお弁当を買って、JRグリーン席に乗り込みます。

お目当てはこの「だるま弁当」おいしそ〜本当は復刻版が買いたかったのですが、売り切れていました・・残念。 だるま弁当、初めて食べたけどすっごく美味しかったです。

ギンダラのおすしも買ってしまいました。手作り感満載で、こっちも美味しかったです。

倉賀野宿内はまだ半分程度しか見ていないので、次の機会にまた宿場を回ります。

平成30年12月15日

再び倉賀野へ戻ってきました。今日はもう真冬の寒さですね。今シーズンはこれで最後です。 10:30 倉賀野駅到着。いざ出発します。

永泉寺

1573年(天正元)倉賀野城主、金井淡路守秀景が開祖し、自らの菩提寺としました。境内は永泉寺砦と呼ばれ、倉賀野城の出城として機能していたとされ、周囲を囲む水路は、砦時代の堀跡と言われています。「千部供養塔」は、千回経を唱えて仏祖や寺祖の報恩に報いるために建立されます。

幽霊石

倉賀野城主、金井淡路守の奥方を埋葬するために掘った穴から出てきた石を石佛としたそうです。

倉賀野城主、金井淡路守墓所

1509年(天正18)、小田原の陣で討死した金井淡路守(倉賀野秀景)のお墓です。先の「幽霊石」の奥は、この方の奥方です。

森良齋灰塚

加賀藩御典医、森良齋は1846年(弘化3)の参勤交代において侍医として道中に加わりますが、倉賀野において急死。住職にお願いして荼毘に付し、遺骨は金沢の森家菩提寺開善寺に埋葬、残りの遺灰をここに埋葬し供養しています。

田子屋の二十二夜塔、馬頭観音

馬頭観音のほうは、「馬頭観音」のほかに何も彫られていませんが、二十二夜塔には「弘化二年」と彫られ、台座には「田子屋町女人講中」とあります。彫られている象は、「如意輪観音」でしょうか。健康や延命、安産、子宝に恵まれるなど、女性らしい願いを込めたありがたい神様なんですね。

田子屋の獅子

この場所には1909年(明治42)まで八坂神社(牛頭神社・祇園社)がありました。江戸時代中期から伝わる獅子舞が田子屋の獅子、古文書によると「天保の大干ばつ」「安政の三日コロリ」等の時に倉賀野中を振り廻ったそうです。明治末に倉賀野神社に合祀されますが、獅子は今でもこの獅子蔵に保存されています。

九品寺

1491年(延徳3)、倉賀野城主、倉賀野五郎行信により開祖されました。日光例幣使街道追分は、九品寺の飛地境内のため、焔魔堂と常夜灯がある。

飯盛女の墓

九品寺の墓地へ入ってすぐの場所に6基の飯盛女の墓があります。

九品寺の鬼瓦

汚れたり、欠けたりしているので恐らく、昔の本堂のものなのか・・最近、本堂を修復したようですので、モニュメントとして残したのでしょうか。

この瓦のモニュメントの後ろに「九品寺本堂修復寄進者」と彫られた石碑があります。その中には「五百万円 氷室京介」と彫られているそうです。ファンの方は是非!

太鼓橋の下を通ります。五貫堀は地下化されて、今は道路になっていますね。

冠稲荷神社

1674年(延宝2)に勧請され、1909年(明治42)に倉賀野神社へ合祀されました。社殿は倉賀野宿助郷村の一つ、川曲村へ売却、諏訪神社として移築されています。玉垣、常夜灯は倉賀野神社へ移設されています。ところがその後、村人の夢にお稲荷さんが現れ、「元の場所に戻りたい」と泣くというので、昭和11年に再建されました。

地元の方が大勢集まってお掃除をされていました。今でも大切にされているんですね。

河岸道

河岸が繁栄していたころは、両側には船問屋がひしめき合っていたそうです。

横町の石仏

一番左が1933年(昭和8)建立の双体道祖神、右から二番目が1756年(宝暦6) 建立の双体道祖神、一番右が同じく宝暦6建立の青面混合の庚申塔。だいぶ傷んでいますね。

倉賀野河岸跡

1561年(元禄4)、住人10名が舟による運搬営業を始め、舟問屋を開設します。利根川水系、烏川最上流の河岸として、全盛期には76業者、終日活気にあふれていたそうです。江戸への下り荷は米・麦・たばこ・麻・生糸・木材紙などを3、4日で江戸まで運び、上り荷は塩・茶・油・小間物・砂糖などで17〜18日かかったそうです。流れに逆らい戻るのは、大変だったんですね。

1783年(天明3)、浅間山噴火の降灰により川が浅くなり、舟道を作るのに膨大な費用が掛かり衰え始め、1884年(明治17)高崎線の開通とともに終止符を打ちました。

船着銘石と車川史

・・・と書かれた石碑。かなり小さくて目立ちません。雑草に覆われ、恐らく夏場は隠れてしまうでしょう。詳しくはわかりませんが、「横浜生糸貿易」「機械生糸製糸所濫」そして「船問屋 飯嶋興三、源三郎」「飯嶋亥作」など彫られています。

倉賀野の河岸と生糸

ここ倉賀野の河岸は明治時代、横浜への生糸の運搬がされていまして明治5年に富岡製糸場が建設されると、当時はまだ鉄道もない時代のため富岡で製糸された生糸は、倉賀野河岸までは荷馬車で運ばれ、ここからいかだへ乗せて利根川支流の烏川を下ります。平塚河岸(伊勢崎市平塚、上武大橋付近)で親船へ積み替え、日本橋へ。日本橋からさらに横浜へ運搬し、欧米へ輸出されていました。水上シルクロードなどとも呼ばれていたようです。また、富岡製糸場建設の際には、製糸器械も舟運で、倉賀野河岸から上陸させたようです。そういったいきさつの石碑だと思います。

五貫堀吐口

地下からやっと顔をだして烏川へ流れ出ていきます。左手の石碑は、昭和48年頃に行われた「烏川護岸工事完成記念碑」です。

倉賀野ほりべえ

雨水幹線をシールドで彫った時のシールドの一部をモニュメントとしています。φ2800mm、開削部はこのすぐ前にあり、ここからシールドは北上し、中山道下を西に向かって、松並木の手前、倉賀野一里塚あたりまでのようです。町中の水路が溢れないよう、大きなφ2800の雨水幹線へ流し、川に直接流すようにするものでしょう。

おだやかな烏川、水鳥もたくさんいたし、釣りを楽しむ人もいました。

お行ばあさん

かつて横町で河岸が盛んだったころに行をする女性がいました。この人に拝んでもらうと、色々なことが当たるし病気も治ったといいます。1812年(文化9)、その人が死ぬ時に自分を祀ってくれれば、町内に流行病を入れないとのことで、毎年7月14日を供養の日として、今も受け継がれているそうです。道路から見えずらい位置にあります。ウロウロしていたところ近所の人が案内してくださいました。ありがとうございました。

共栄橋の下をくぐり、牛街道へ

大杉神社跡

河岸が衰退すると河岸の守り神だった大杉神社も無人となり、明治41年に榛東村の八幡神社へ売られてしまったそうです。八幡神社は火災にあい、ちょうど社殿を探していたようです。八幡神社は今も健在で彫刻が見事な社殿だそうです。

倉賀野河岸の案内板

先ほどの石碑よりもこのあたりが一番近い河岸の跡地なんだと思います。

牛街道

河岸に荷揚げされた行徳塩(千葉県行徳の塩)等の上り荷は、牛の背で河岸道を200mほど行きます。

井戸八幡神社

倉賀野城三の郭跡の古井戸から一夜にして水が噴き出し、八幡大神が現れたのを起源とし、1646年(正保3)創建されました。手前の覆屋の中に井戸があるそうですが、井戸枠の上に神輿が乗っていて 井戸は見えません。このあたりは倉賀野城だったんですね。

左手が牛街道、右が馬街道

行徳塩などの牛の背での運搬はここを左手に進み、脇本陣「須賀庄」脇から中山道へでて、信州方面へ運ばれました。

上信越諸藩の廻り米は高崎方面から馬の背で、本陣西の「馬街道」から河岸まで運ばれ、高瀬舟で江戸へ運ばれました。

河岸の一番近くに堂らしき建物が描かれています。これが大杉神社でしょうか。

上の木戸はこのあたりだと思われます。

安楽寺・安楽寺古墳

七世紀末頃の築造と推定されています。主体部は横口式石槨、奥に石棺が取り付けられた構造。石室内部の壁面には鎌倉時代の製作と推定されています。仏像が奥壁に3体、左右の壁に2体づつ、計7体彫られているそうです。

七仏薬師と呼ばれ、本尊となっています。

異形板碑

板碑は、追悼供養などのために建てられた卒塔婆の一種です。中世の関東地方に多く作られた形状は、上部を三角形にしてその下に二条の線が彫りこまれ、安楽寺の2基の板碑は将棋の駒型をしていて、通常の板碑よりも厚みがあり、牛伏砂岩(天引石)が使用されています。鎌倉時代末期から南北朝前半の建立と言われています。

安楽寺ご本尊は、古墳石室内に掘られた七体の石仏です。巳年ごとの御開帳で普段は見られないそうですが、本堂裏に古墳に延びてドッキングしている廊下のような部分の奥にご本尊があるんでしょうね。

倉賀野一里塚跡

交差点の緑地部分に説明板がありますが、実際はもう少し高崎側にあったようです。案内板には、塚には榎が植えられていたと書かれています。

『伝説の倉賀野』では、「上町一里塚」と書かれていて織田信長の頃に作られ、もみの木が植わっていたと書かれています。また、明治24、25年頃まではあったとされます。 絵図では、松にしか見えないですね。どちらが本当なのでしょうか。

倉賀野は、日光例幣使街道追分と河岸によって大変栄え、賑やだった頃があちらこちらに見られました。そして現在でも町を大切にしている人がいらっしゃいました。とても素敵な宿場でした。

12:15 倉賀野宿を後に高崎宿を目指します。