2019年11月3日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
12:15 引き続き、洗馬宿を後に本山宿を目指して進んでいきます。
滝神社
中山道分間延絵図には「滝太郎」と記されています。何か伝説がありそうですが、わかりません。滝神社はここから奥に約300m、少し遠いため奥までは行かなかったです。
牧野一里塚跡
1614年(慶長19)中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えへ変更され、洗馬宿が開かれた時に併せて築かれました。江戸より60里目の一里塚です。明治以降の開発により、当時の面影は跡形も亡くなっています。
薬師堂跡
この場所には
薬師堂がありました。中山道分間延絵図では街道右手だったので、いつ頃か向かい側へ移されたのでしょうか。その後は
牧野公民館となり現在の可愛らしい学校風の建物が建っていますが、公民館は300m先の集落内に移され、現在は空き家のようです。牧野は薬師信仰が盛んで、毎年5月に「桃薬師」、11月に「柿薬師」のお祭りが行われています。「おもり」という団子(おまもりの訛ったもの?)を作り、子供が食べると健康になると伝わるそうです。現在も行われているのかは不明です。
墾田記念碑
本山宿は、洗馬宿と同じように1614年(慶長19)中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更となった時に開宿となった宿場です。
本山宿下町石造群
南無阿弥陀仏は文化2年の建立、徳本上人の南無阿弥陀仏は文化2年、寛政2年の道祖神、火除の神様秋葉社などが並んでいます。これらの石仏は本山宿北端の下木戸(池生神社入口付近)にあったものが移されたものです。中山道分間延絵図には宿場入口右手に「地蔵堂」が描かれていますが、この地蔵堂の石地蔵がここにあるお地蔵様です。
本山宿そば切り発祥の地
宝永3年の風俗文選に「そば切といつぱもと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける」と紹介されました。また本陣ではそば粉やそば切りが諸大名に献上されています。
そば畑は、刈り取り後のようです。
池生神社社業入口
前面に奈良井川、背後に向剣沢を控え、社殿の下から昏々と湧き出でる豊かな水が、池生神社の社叢である広葉樹の古い森を形成し、松本周辺での市天然記念物の第一号に指定されています。
本山そばの里
平成6年に宿場内の女性が集まり、そば屋が開店されました。大変人気で、休日は待つことを覚悟しなければなりません。この日は、20分ほど外のベンチで待ち、ようやく入店できました。
そば切り
現在のように麺として食べられるようになる以前は、
蕎麦がきとして食するのが主流でした。蕎麦がきはそば粉を熱湯でこねて餅状にしたものです。古くから食べられているものですが、平安時代の貴族はまずいとして食べなかったそうですし、大河ドラマ真田丸でも「蕎麦がき」はあまり美味しくないもの、として登場していました。江戸時代になると
「そば切り」が登場し、現在のような麺となってから人気が出たといいます。そば切り発祥の地としては、本山宿の他に須原・天目山の3つの説があるとされます。
宿場御膳 ¥1,160円
おそば、そば団子の汁物、そば餅、そばの実のセットです。おそばは、地元のそば粉のみの二八蕎麦です。全てが美味しくいただけました。そばの実は柔らかく似てあり、なめたけと混ぜ込まれ美味しい。お団子の汁の味もいいです。特にハヤトウリのお漬物、シャキシャキでいい塩梅、手作りの美味しさがありました。
野菜の天麩羅盛り合わせ ¥300
こんなにたっぷり盛られていてなんと300円!どのメニューもリーズナブルです。天ぷらも野菜は新鮮、揚げたてサクサクで美味しかったです。
本山宿は、開宿する以前より集落が形成され、713年(和銅6)吉蘇路(木曽路)開通により東山道となります。筑摩(千曲)・木曽双方からの要衝にあたり、中世には本山氏の居城が置かれていました。また、1600年の関ケ原の戦い前日には徳川秀忠(後の二代将軍)の軍が本山宿に着陣していたとの記録が残されています。
下社参道跡
この奥に下社(諏訪社)があったようですが、昭和26年に上社である八幡宮に合祀され本山神社となりました。八幡宮は本山城時代からの鎮守だったとされます。碑は戦争へ出兵した方の碑のようです。
川口屋・池田屋・若松屋
川口屋・池田屋・若松屋が続いています。三軒とも明治2年の大火後の再建とされ、国の有形文化財に指定されています。間口は五間から七間の上級旅籠で道筋に沿って斜行交に建てられています。
下問屋跡
明治6年下問屋跡地に清行学校が創設され、廃寺となった長久寺の材木が使われました。明治8年には本山学校と改称し、明治13年の明治天皇行幸の際には警護詰所として使われました。本山学校は明治19年宗賀学校本山支校となり、長久寺跡地へ移転されました。
本山宿本陣
本山宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠34軒がありました。
本山城
本陣裏手の山に
本山城がありました。
掛上城(かけあげじょう)とも呼ばれていたといいます。奈良井氏の支流といわれる
本山氏の城で木曾氏の松本口の備えとして築かれました。1528年(天正10)木曾義昌が織田信長に内通したため、
武田勝頼は木曾を押さえるため甲州から奈良井・贄川へ出兵したとされますが、この時に本山城が落城したと考えられるそうです。主郭には石垣が残り、頂上からは筑摩・安曇を一望できるといいます。山を南に下ると本山八幡の裏に出て長久寺から上町へ通じていました。
水場
古くから飲用水として利用してきた本陣の沢より引水しているそうです。また、飲料水の検査はしていないそうで、手水として利用するよう注意書きがされています。
本山宿脇本陣・下問屋場跡
本山宿の問屋は1ヶ月の上旬15日までを上問屋・本陣を務める小野七左衛門(後に花村氏)に、下旬を下問屋・脇本陣を務める小林弥右衛門に命じ、半月交代で行い、幕末まで続きました。
七変化モミジ、赤、黄、緑の見事なグラデーションが綺麗です。
本山口留番所跡
1642年(寛永19)から幕末まで松本宿の南境として口留番所が設けられ、米穀・塩・女改が行われていました。なお、1726年(享和11)〜1744年(延享元)の17年間は塩尻組が幕府直轄領であったため、村井宿(北国西街道)へ口留番所が設けられていました。
荒澤不動尊
荒澤不動尊についての経緯は不明ですが、
中山道分間延絵図には「不動」として記されていますので、それ以前から祀られていたものと考えられます。宝暦5年、寛政4年の念仏供養塔、文政2年の名号石、寛政12年の上町中町の庚申塔などの石仏が並んでいます。
本山学校跡碑・松田鉄弥先生頌徳碑
下問屋跡に創設された清行学校は明治8年に本山学校と改称し、明治19年に宗賀学校本山支校となり、ここ長久寺跡に移転されました。
長久寺
天正年間に
奈良井治部少輔義高が開基し、開山は長興寺三代の康翁寿泰大和尚、二世は充澤普和尚で勢州渡会郡小林氏と縁あって当所へ来たる、と記されています。1713年(正徳3)には1900坪の敷地に客殿、衆寮、庫裏、十王堂などが建立されていました。明治4年、松本藩の厳しい
廃仏毀釈により十五世関宗和尚で廃寺となりました。
木材の一部は下問屋跡の清行学校の校舎へ転用されました。
国道の造成のため山が切り崩されたようで、長久寺の六地蔵や本山神社へ行くには荒澤不動尊より人道橋で国道を越えます。
長久寺跡の六地蔵
長久寺は、橋を渡る前の本山学校跡碑の場所からこの六地蔵まであったと思われます。途中は国道開発で切り取られてしまったようですが、1900坪という広大な敷地であったとされます。
松本藩の戊辰戦争
慶応4年、本山宿
長久寺において
松本藩主、戸田(松平)光則は東山道軍総監督、岩倉具定に勤皇の誓約をしましたが、態度決定の遅れの理由に3万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられました。松本藩の戊辰戦争の始まりとなり、会津など東北へ出兵しました。
本山神社
昭和26年に下社(諏訪社)を上社である八幡宮に合祀され本山神社となりました。八幡宮は本山城時代からの鎮守だったとされます。
1861年(文久元)、本山宿は家茂へと嫁ぐため中山道を江戸へ向かっていた皇女和宮の宿泊地となりました。京方1万人、江戸方1万5千人、松本藩などの警護1万人、助郷人足など総勢8万人が4日に渡り通行し、助郷、馬などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は提灯の明かりで昼間のように明るかったと伝えられています。
高札場跡
宿の入口より30間南に建てられていたとされます。秋葉様は文政13年の建立、常夜灯は元治元年の建立とされます。
旧道の踏切が撤去されるようで、この先旧道を歩くことができなくなってしまいました・・
釜の沢・常光寺
青いトタンの建物奥が「釜の沢」でした。この釜の沢の奥に中世からの古寺、「常光寺」があったとされます。
『奈良王という者、牛に経巻をつけて伊那路を超え、釜の沢に出る途中、山中に観音様を見つけたので堂を建て安置し、そこを堂平という』とあり、その後宿入口に寺を建て小沢山常光寺と称しました。1582年(天正10)小笠原貞慶と木曽義昌の戦いにより観音堂付近で小笠原家臣が戦士しています。この頃堂が焼失した、あるいは1680年頃の天和年間に耶蘇教(やそきょう・キリスト教)であったため廃寺となったとも伝えられています。以後、幕末までは長久寺領の常光寺観音堂として残りましたが、明治4年の廃仏毀釈により観音堂は松本市今井の宝輪寺に買い取られ再建されますが、本尊の十一面観音が行方不明となっていました。明治9年、篠ノ井の岡沢彦次郎が偶然知った古物商から買い取り、篠ノ井の「常光寺岡田観音堂」として現在も安置されています。
釜の沢は上流に150mほど迂回し土橋が架かっていたとされますが、現在は廃道となり、沢は埋め立てられ国道となっています。
日出塩の青木
「洗馬の肱松、日出塩の青木、お江戸屏風の絵にござる」と歌われた青木の名木があったそうです。現在は写真の会社裏に碑があるそうですが・・・疲れて戻りたくない・・と通過してしまいました。
日出塩一里塚跡
1614年(慶長19)街道が塩尻峠超えへ変更された際に築かれました。江戸より61番目の塚です。現在塚は残っていませんが、両塚とも榎が植えられていたとされます。
長泉院と開墾頌徳碑
日出塩は立場として栄え、
熊胆(くまのい)や
熊の皮が多く売られていたといいます。熊胆は熊の胆嚢を乾燥させた生薬が古くから秘薬とされ、中山道では宿場や立場ごとに売られていました。
日出塩駅
15:00 日出塩駅到着です。次の電車は・・16:12です。1時間以上ないですね。1時間に1本ほどです。
日出塩駅裏の日出塩桜の丘公園には
、「セツブン草」の群生地があります。「節分草」の意で、早春に芽を出し節分の頃に花を咲かせることから名がついているといいます。高さ10〜30cmの小さな草花で2月から4月に白い花を咲かせます。希少植物になっています。時期であれば、電車待ちの時間に見に行きたい場所です。
電車で塩尻まで戻り、車をピックアップし温泉へ向かいます。今日は少し遠いですが、
「みのわ温泉 ながたの湯」へ向かいました。汗を流した後は再び塩尻へ戻り、夕食は
元祖山賊焼きの「山賊」でいただきました。
山賊焼き
山賊は小さなお店ですので、お店に付いた時には席がなく予約を入れ、車の中で待っていました。約40分後、携帯に連絡をいただき、ようやく店内へ入ることが出来ました。
驚いたのは、「焼き」なのに揚げていることです。鳥の唐揚げのようですが、1枚の大きなお肉を揚げているため、お肉はジューシー、外はカリカリ。にんにくたっぷりの味付けも美味しいです。片栗粉もたっぷりなのでたくさんは食べられません。結構お腹にガッツリきますね。
焼きおにぎり
甘辛いお味噌が焼きおにぎりにとっても合います。いかにも信州の味、関東では見かけません。また食べたい味です。
今日もお泊りは
「道の駅 小坂田公園」で車中泊です。