2018年10月7日
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宿を出発し、中山道筋まで戻るのですが、結構距離があって大変でした。
9:40 ようやく中山道まで戻ってきまして、いざ出発です。
東大成の庚申塔(猿田彦大神)
1697年(元禄10)に建立されました。青面金剛像、二鶏、三猿が彫られています。地元では耳、眼の神さまとして大切にされ、耳や眼の病気の時にお参りするそうです。
加茂宮一里跡
岩槻道と与野道が分岐する辻に栗の木と榎が植わる塚があったそうですが・・案内などはないですね。このあたりでしょうか。
石橋供養塔
かつて、この場所に石橋があったのでしょう。石橋供養塔は橋の安全や行きかう人々の無事を祈るとともに、石橋から先の村内に疫病や災いを入り込むのを防ぐ意味もあります。
天神橋の欄干
かつて「天神橋」がかかり、たもとは「天神橋立場」となっていました。島屋・福島屋などの茶屋があったそうです。特に島屋は、参勤交代の加賀前田家の休憩所に使用されました。
天満宮
天神橋の庚申塔
民家と駐車場のとっても狭いところへ押し込められています。1690年(元禄3)建立。正面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が彫られています。
加茂神社
創建年代は不詳のようですが、山城国(京都)一宮の賀茂別雷神社を勧請したものとされます。加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなったそうです。
英泉の「上尾宿 加茂之社」はこの辺りを描いたものですが、加茂神社の横に描かれているのは
天神橋の立場です。実際には近いけれど、真横ではないです。付近の見所を一つの構図に収めているようです。
10:30 賀茂神社で朝食&休憩
宮原町の馬頭観音
左側は、1896年(明治29)、右は1843年(天保14)建立とあります。確かに右のほうがよりボロボロですね。台座は綺麗な御影石に変えられていて、大事にされているようです。
宮原町道路元標
傍に植わっているヒマラヤスギ?は、ドイツのリユップケ大統領が昭和33年に視察に訪れたときに植樹したものだそうです。
南方神社
信濃国一宮諏訪大社の大神を村の鎮守として勧請したものとされます。鳥居やその周囲も綺麗で新しく、平成21年に改修されたそうです。
漬物 河村屋
江戸時代、後期の創業だそうで、当時は酒や醤油を扱い、初代が酒粕で漬物をつくりはじめたそうです。
河村屋の漬物カフェ
ホームページでメニューを見ると、とっても美味しそうでした。先ほど朝食を食べたばかりですので、食べられません・・残念です。
庚申塔道標
正面金剛像が彫られ、寛政12年の建立です。「川越へ三里」と彫られています。
愛宕神社の庚申塔
上部の屋根の部分と下部の石の感じがあまりにも違います。下の部分は復元でしょうか、、、コンクリートにも見えます。正面金剛像と三猿が彫られ、横には享保7年と彫られていますが。
愛宕神社
以前は、現在の愛宕二丁目にあった神社ですが、明治42年にこの地へ移ったようです。
愛宕神社を過ぎると、宿場内に入ってきました。
上尾一里塚跡
岩槻道、川越道分岐点にあったとされます。左にエノキ2本、右には松が1本、エノキが1本、植えられており、鉄製常夜燈があったようですが、今は行方不明だそうです。
伊勢屋の鐘馗様
伊勢屋さんは、創業180年余の和菓子の老舗です。献上銘菓「ゆず最中」、大臣賞受賞「鐘馗羊羹」などが販売されています。
上尾宿脇本陣
塀の装飾に脇本陣の鬼瓦を利用し「井上」の紋が入っています。井上家のほかに白石家、細井家、3軒が脇本陣がありました。
新井屋さんの鐘馗様
鐘馗様は、上尾宿では中国伝来の神様で魔よけ、火事よけとして5箇所ほど見られるようです。ほかに、京都や滋賀、松本などでも見られるそうです。
上尾宿本陣跡
現在は病院です。本陣は、林家が努め、紀伊徳川家の鷹場鳥見役を兼ねており、幕府直轄地の御領でした。1843年(天保14)においては、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠41軒がありました。
氷川鍬神社
1632年(寛永9)創建の上尾宿の総鎮守です。小さな2つの鍬を御神体として祀り、五穀を司る農業神を祭神としています。
二賢堂碑
1788年(天明8)建立の「聚正義塾」(しゅうせいぎじゅく)という学問所がありました。中国の朱文公(朱子)と学問の神といわれる菅原道真の二人の賢人を祀る意味で「二賢堂」と名づけられたそうです。
聖徳太子像
上尾駅
1883年(明治16)開業の高崎線内では最も古い駅の一つです。2011年(平成23)駅舎改修工事が完成し、機能的になったそうです。
こんなカワイイマンホール蓋がありました。左から「アッピー」「あゆみ」「まゆみちゃん」。アッピーは、上尾市のゆるきゃら、一番右のまゆみちゃんは、友好都市、福島県本宮市のゆるきゃらだそうです。
この二人のゆるきゃらが結婚して生まれたのが中央の「あゆみ」だそうです。ゆるきゃらも結婚するのですね。
遍照院
1394年(応永元)、室町時代創建の古刹で、本尊は不動明王です。
孝女お玉の墓
1820年(文政3)、11歳の清は、越後から上尾の旅籠大村楼に下働きとして奉公に来ました。主人にわが子のように可愛がられ、後に「玉」と呼ばれるようになりました。お玉14歳のときに大村楼は焼失し、再建のためお玉は飯盛り女となりました。たちまち評判となり、加賀藩の武士に見初められ結婚し、江戸へ行きますが、20歳の時に病没。大村楼の主人はたいそう悲しみ、お玉の墓を建立しました。
遊女のために立派な墓を建てることはほとんどなかった時代、たいていは無縁仏でした。お玉がどれほど愛されていたかが伺われるお話です。
12:30 上尾宿をあとに、次の桶川宿へ向かいます。