2019年11月4日
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本日も塩尻駅西口の駐車場へ車を停め、中央本線に乗り、日出塩駅で下車。
7:03日出塩駅をスタートします。
道祖神・筆塚
日出塩の集落を抜けると、国道19号を進みます。結構交通量が多く、大型車が多いです。
初期中山道
初期中山道の看板があります。旧道は廃道となっていますので、現在はこの分岐点より牛首峠に向かいますが、もう少し先の山中に本来の初期中山道との分岐点があります。
初期中山道(小野街道)
1601年(慶長6)、
大久保長安によって整備された中山道は、牛首峠を越え、小野宿を経て三沢峠へ抜ける街道で、1615年(元和元)まで利用されていました。長安は木曽路の森林開発を促進するため諏訪と木曽を結ぶ近道としましたが、長安が没すると塩尻峠越えの道へ変更されました。
境橋(桜沢橋)
木曽路の入口あたりで横切り、奈良井川に注ぐ桜沢(境沢)にかけられていた橋は、尾張藩と幕府領(松本藩預かり)との境にあたり、「お境橋」と呼ばれていました。橋の中央を境とし橋のかけ替えや修復の費用は、両藩で公平に負担しました。
荒沢不動の伝説
お境橋とその近くの沢に、祀られている荒沢不動についての言い伝えがあります。病で倒れていた山伏を娘が救いました。よんどころない事情を持つ山伏は、不動明王の占いとまじないを娘に教えて去ります。娘は、なけなしの銭で不動様を作り、人目につかない滝のそばに安置します。そして山伏の安否を占うと、「死」と出、娘は山伏が架橋中のお境橋の真中から落ちたことを知りました。
木曽路の碑
木曽路の北側の入口であり、江戸時代には尾張藩領の北境でした。石碑は桜沢の茶屋本陣、藤屋百瀬栄が昭和15年に建立したもので、裏に「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とあります。
桜沢
木曽路は「桜沢」より始まります。桜沢は
間の宿で、中山道と伊那谷へ抜ける
小野街道(初期中山道)との追分として賑わいました。江戸時代、桜沢橋から東が松本藩、西は尾張藩となっていました。
木曽という名称は
『険阻(きっそ)』からきていると言われるように、山また山の寂しい山道が続いていました。
木曽十一宿
中山道のうち「木曽路」と呼ばれるのは、桜沢から馬籠、落合間にある立場茶屋までの88kmで、贄川・奈良井・藪原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠を『木曽十一宿』と呼びます。
木曽路の碑を過ぎてすぐに左手のコンクリート吹付けの坂道を登ってくと旧道が残っています。
馬頭観音・文字塔
文字塔の台座に「東山方いな道」と彫られ、この場所が初期中山道との分岐点だったといいます。初期中山道は400mほど進むことは出来ますが、その先を進むことは出来ないようです。
待受擁壁横の細い道を進みます。眼下には国道19号、奈良井川が見え、かなり高い場所を進みます。柵もないので気をつけましょう。
観音堂
明和9年の念仏碑、観音様が祀られています。ここから右手、国道へ下ります。
大岨トンネル
明治42年に開通した中央本線のレンガ造りのトンネルが残っています。1978年の複線化の時に線路が東へ移動したのだと思われます。トンネル前の草道は線路跡でしょう。
桜沢茶屋本陣(藤屋)
明治天皇桜沢御前水
主屋に上段の間を持つ藤屋(百瀬栄右衛門)は、国道拡幅のため5mほど後退していますが、往時の面影を残す立派な建物です。
「中山道十四垣根」を記した錦織五兵衛も藤屋で一休みしています。店先に色々な動物の皮が売っており、安く、熊胆を進められましたが、偽物であったと記しています。駕籠かきが皮を購入するよう勧めてくるそうですが、駕籠かきは店からマージンを貰っていたのですね。
奈良井川片平取水場
奈良井ダムを水源とし、ここで取水して 本山浄水場へ送水され、松本市、塩尻市水道水を供給する施設です。昭和57より開始され、平成21年からは山形村へも供給しています。
旧片平橋
国道19号を挟み、白山神社対面には国道19号の旧道であった「片平橋」が残されています。車道としては廃道ですが、人は渡ることができます。奈良井川に架かるRC開腹アーチ(リブ+柱)橋として昭和10年に建設されました。平成20年に土木学会推奨土木遺産として認定を受けています。
白山神社
かなりの急勾配の階段を登っていかなくてはなりません。白山神社の由緒はわかりませんが、江戸時代の中山道分間延絵図にも描かれていますので、それ以前からあったようです。小さな神社ですが、立派な石垣の上に拝殿が置かれています。
庚申塔
片平集落
国道から外れると旧道が残っており、数件の集落がひっそりと残っています。中山道分間延絵図によると、この辺りは立場だったようです。
鶯着(おうちゃく)寺
由緒などはわかりませんが、中山道分間延絵図にも記載されていますのでそれ以前からあったお寺です。
ニツ沢は少し上流へ行ったところに土橋があったということで少し上流へ向かおうと階段を登ってしまったのがいけませんでした。丸太の橋があったりして楽しく、ついつい延々奥まで歩いていってしまいました。
桜沢トンネル工事の上部に出てきました。いくらなんでも違うとは思いつつ、景色もよく更に奥に進んでしまいました。
ニツ沢の上流
最終的には沢の上流に達したところで道がなくなり、戻りましたが、ニツ沢の上流の綺麗な川の流れを見られましたので良しとしましょう。
供養塔と双体道祖神
この双体道祖神は二ツ沢にあったそうですが、近年国道脇へ移されました。
桜沢トンネル工事
ニツ沢の旧道は川のすぐ横に残っていたようですが・・現在は桜沢のバイパス工事でトンネル出口となるようで、大規模な工事を行っています。また景色が一変するでしょう。
若神子一里塚跡
明治43年、鉄道の敷設により1基が壊されましたが、現在鉄道の軌道が変わり、国道の反対側に通っています。現存する1基も国道19号線の拡幅により切り崩され、現在は直径5m、高さ1mほどを残すのみとなっています。当時は両塚ともに榎が植えられていたそうです。
水場
若神子のバス停の水場を過ぎるとすぐにもう一つの水場があります。生活用水に利用してきたと思われますが、火事に対する備えでもあったのでしょう。沢から導水した水と思われます。
諏訪社・石仏群
ここから細道を登っていきます。あちこちから集められたと思われる石仏がたくさんありました。
国道よりも高い位置を歩き、中央線や国道を見下ろし進みます。
贄川の水場
藤岡筑邨(ちくそん)の句
揚雲雀(あげひばり) 母校はいまも 山を背に 藤岡筑邨(ちくそん)
切絵 柳沢京子
藤岡筑邨は、長野県松本市生まれの俳人で作家です。高浜虚子、富安風生に師事しました。母校の教師をしながら学校で世話をしていた犬のクロを題材に1998年に「職員会議に出た犬・クロ」を執筆し、ベストセラーとなり、2003年には「さよならクロ」として妻夫木聡主演で映画化されました。柳沢京子さんは、長野県佐久市生まれ、切絵作家として素敵な作品を作り続けていらっしゃいます。
贄川駅と関所亭
10:50 贄川駅到着。関所亭でご飯でも・・と思いましたが開店する雰囲気はありませんでした。閉店してしまったのでしょうか・・・
あかい靴
贄川駅より中央線に乗り塩尻へ。ランチを食べようと見つけたお店が塩尻駅前の「あかい靴」というお店です。この小さなお店にも山賊焼がありましたので、またまた山賊焼定食を注文してしまいました。
山賊焼定食
小鉢や茶碗蒸しなどもついて900円くらいだったと思います。山賊よりも片栗粉が少なく、にんにくも少なめで硬さがほどほど。昨日の「山賊」の山賊焼も美味しかったのですが、こちらのお店のほうが私は好みでした。小鉢などもついてリーズナブルです。
車をピックアップし諏訪方面へ走らせます。お腹もいっぱいになりましたので、汗を流しに行きます!塩尻駅からは車で30分ほどですが、帰り道方向です。
片倉館
1873年(明治6)に岡谷で製糸業を興した片倉組の中で、シルクエンペラーと呼ばれた二代
片倉兼太郎は、大正末期にヨーロッパ、北米などへの視察旅行で地域住民への福祉施設が充実していることに感銘をうけ、温泉大浴場やサウナを備えた施設を建設しました。片倉館が完成したのは1928年(昭和3)でした。現在でもほぼ当時のままの姿です。
国重要文化財に指定されている建物の温泉に750円で入ることが出来ます。お風呂は諏訪の温泉で、大理石の浴槽は100人入れるとも言われ、
「千人風呂」と呼ばれています。かなり深い浴槽で底には玉砂利が敷かれています。
テルマエロマエの撮影でも使用されています。卓球やもぐらたたきをしているシーンですね。
クラッシックな温泉はロマンが漂います。時間的にも人が少なく、のんびり入れました。このような施設が昭和3年からあったなんて驚きます。2階には広い休憩室もあり食事もできます。
もう少し時間がありましたので、車で10分ほどの茅野市、
放浪美術館へ足を伸ばしました。
放浪美術館
放浪の画家、山下清の作品を多く展示しています。小さな美術館ですが展示物の多さにはびっくりしました。よく集めましたね〜という感想です。山下清は放浪先でたくさん作品を残しているとは思いますが、集めるのは大変だったと思います。貼り絵はやはり本物を見ないといけませんね。細かさや凸凹感などが感じられました。素晴らしい味のある作品がたくさんありました。そして山下清の半生もより深く知ることができました。最近は「裸の大将」のドラマをやりませんね。またドラマを放送してほしいものです。