2021年7月22日
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6:20 宮ノ越駅を出発します。天気予報は晴れですが、まだ曇っていてスッキリしないお天気です。
宮ノ越宿本陣
問屋も兼ねて村上氏が務めていました。何度も大火にあい、1865年(元治元)に焼失しましたが、すぐに再建されました。 1880年(明治13)明治天皇中山道巡幸の際は本陣で小休されました。1883年(明治16)の大火では主屋は焼失しましたが、客殿部は残りました。隣接地の事務取扱所は焼失し、本陣を一時的に村役場としていたこともあります。 その後改築はされましたが、木曽十一宿で唯一現存している本陣です。
旅籠田中屋
1883年(明治16)の大火で焼失したため、現在の建物は隣村から運んだ部材を使用して再建されたものです。玄関横の出梁を支えている「持送り」は棟梁の贈り物だそうです。木曽谷の大工は有名で、江戸時代の宮越には大工が14軒ありました。宮越の大工(木曽大工)
江戸時代(嘉永元)の宮ノ越村では大工、杣(木こり)、木挽き(こびき)が多く、隣村の原野にも多くいました。 棟梁大工を親方として6〜8名の弟子、手間大工、さらに杣が加わり、「一手合」という集団を作り、諏訪、松本平、伊那谷、三河、駿河など各地の寺社や民家の建築に携わりました。
原野八幡宮
1598年(慶長3)に木曽義昌の旧臣達が社殿を建立したという棟札が残されています。現在の本殿は1865年(慶応元)建築、手水には天明8年(1788)の銘があります。 神社入口左に明星岩への登山口がありました。かなり雑草が茂っています。あまり行く人がいないのでしょうか。ここから15分ほどで登れるようです。
原野の石仏群
中山道へ戻ると左手に庚申塔などの石仏群、さらに80mほど進むと大きな石仏や六地蔵などがあります。
明星岩
明星岩公園から「明星岩」を眺めます。岩には御嶽・駒ケ岳の両神社が祀られているそうです。大田南畝の『木曽路之記』、旗本、飯塚正重の『藤波記』などにも登場しています。谷文晁の「日本名山図会」の木曽駒ヶ岳は明星岩から木曽駒ヶ岳を見て描いています。石作駒石(いしづくりくせき)
1741年(寛保元)山村代官家臣、井沢喜兵衛の次男として生まれ、18歳で父が亡くなり家督を継ぎます。山村良由(蘇門)の御側役(おそばやく、側近)となり、1歳下の良由の学友となり、学問、武芸、兵法を学び、伊勢の南宮大湫の元でも学び、多くの学者と交流、漢詩で名を挙げたといいます。 1781年(天明元) 山村良由が9代木曽代官となった際には、財政再建のため駒石を勘定役に抜擢しました。駒石は倹約・節約のため商人には協力を求め、借金はなくなりました。天明の飢饉では良由と共に米の確保、酒造りを禁止し食料へまわし、開田、馬産、漆器、製薬に力を注ぎ、一人も飢餓者を出さなかったといいます。また、西方寺敷地に書斎「翠山桜」を建て、学問や詩作に励み「翠山桜詩集」を著しています。現在翠山桜は、山村代官屋敷に移築されています。1795年(寛政9)、57歳で亡くなっています。
さらに60mほど進み、小沢センターの建物前の左手から正沢川の河原へ下りる道があります。
正沢川に架かる人道鉄鋼橋
往時は上流150mに橋が架かっていたといいます。中山道分間延絵図では「正沢橋」となっています。 正沢川付近は「小沢川古戦場」で、1555年(天文24)武田軍と木曽義昌軍が戦った場所で、15歳の義昌は勇猛果敢に戦いましたが、力及ばず破れ、信玄と盟約を結んだとされます。木曽を支配した信玄は三女真理姫を木曽義昌の正室としました 鉄鋼橋を渡り、50mほど進むと舗装路に合流します。さらに200mほど進み栗本集落の中央付近で右へ曲がり、「中原兼遠屋敷跡」へ向かいます。中央西線を越えて約400mで到着です。案内板と大きな松が1本あります。
中原兼遠屋敷跡と義仲元服の松
木曽川、正沢川に囲まれた河岸段丘であるこの地に中原兼遠の館があったとされます。木曽義仲(駒王丸)はこの家で13歳の元服を迎えるまでの幼少期を隠れて過ごしたと言われます。松は「義仲元服の松」と呼ばれています。 「中原兼遠屋敷跡」の案内板から南西に170mくらいのアズマネザサが茂っている場所に「兼遠塚の碑」があります。道はありませんので、田んぼのあぜ道をクネクネ・・なんとかたどり着きました。
薬師堂
創建は不明ですが、昭和20年頃までは御堂があったとされ、その後の国道工事などで解体されていました。町制施行百周年記念事業として1996年(平成8)に御堂を復元し、薬師如来とともに十王像も祀られています。
手習天神の奉納絵馬
文久の頃に奉納されたもののようです。
手習天神のイチイ・石碑
社殿裏のイチイは、樹齢は千年とも言われています。
出尻坂と出尻坂の石仏群
出尻一里塚跡から旧道へ入ると急な坂道になります。地元の人は「音坂」と呼んでいたそうです。
坂道を登って、再び国道へおります。恐らく往時は木曽川の流れが迫っていた場所で、高巻きに通行していたのでしょう。
嘉茂七茶屋
安永〜天明頃、嘉茂七は関所が閉まり宮越宿に戻る旅人を見て、旅人のためにもなると思い、茶屋旅籠を始めまた。茶屋は繁盛し、次第に関所役人とも親しくなり、関所通行において少々の不手際は嘉茂七の口入れにより見逃されるようになりました。大名も世話になるほどでした。ある時、江戸の知人の妻が御嶽登山へ来ましたが、手形が片道だったので飯田へ廻って帰るよう手引をしましたが、違う道を通ったため山村氏家臣に見つかり、その罪を嘉茂七が負うことになってしまいました。赦免のため財産を処分し、百日の入牢で許されたといいますが、家運は傾いてしまいました。
芭蕉塚・経塚
『おもひ出す木曽や四月のさくら狩』
昔このあたりは、「桜狩塚」と呼ばれていました。嘉茂七茶屋にはこの芭蕉自筆の句の短冊があったとされ、後年、福島宿の亀子洞庵の主催する俳句同人「麻衣社中」が明治19年に句碑を建立しました。 経塚は、5代木曽代官山村良忠が曽祖父良候(初代)の百年記にあたる1701年(元禄14)に建立したものです。
芭蕉塚から国道と分かれて旧道へ進んでいきます。木曽川がぐっと近くに迫ってきました。


























