2021年7月23日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

6:55 木曽福島駅前の駐車場に車を停めて出発します。この駐車場は少し変わっており、置いてある封筒に駐車料金を入れてポストへ入れておくようです。今日から3日間停めますので、1回500円と書いてありましたので1500円を封筒へ入れておきました。

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木曽福島駅前

駅前は観光地化されており、宿場の面影はありません。

駅を出て左手へ進むと大きな歌碑が目に入ります。

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太田水穂歌碑

『山蒼く暮れて夜霧に灯をともす 木曽福島は谷底の町』

太田水穂(本名貞一)は長野県東筑摩郡広丘村(塩尻市)の生まれで、長野県での教員生活のあと上京、日本歯科医専(現日本歯科大学)倫理科教授のかたわら、歌集の出版、評論家としても活躍しています。芭蕉研究会をおこし、芭蕉研究に力を注ぎました。また若山牧水夫妻の仲人でもありました。

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御嶽元宮神明社

木曽福島駅前の坂を下りていくと左手に「御嶽元宮神明社」があります。
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日本一安価な自動みくじ

なんと20円!安さに引かれてついつい20円を入れてしまいました。ちゃんとしたおみくじが出てきました。ちなみに「中吉」でした。

神明社の裏の道が中山道なのですが・・裏口はなさそうです。神明社から少し戻り高架の自動車道右手横の細い人道があり、入っていきます。案内板がでていますのでわかりやすいです。

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木曽町役場裏あたりの街道

木曽町役場の手前で右に曲がります。木曽川の段丘崖の上を細い道が貫いており、ここを下ると「塩渕集落」へ至ります。

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塩渕一里塚跡

段丘崖を下り、200mほど進んだ左手に石碑があります。塚はなくなり、石碑が建つのみです。

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塩渕の石碑群

廿三夜塔、勢至大菩薩碑、新田記念碑、堤防記念碑、塩渕開発記念碑が並んでいます。

塩渕(しょうぶち)

1724年(享保9)の「岩郷村家数書上帳」によると「家数拾四軒塩渕」とあります。塩という地名は川の曲流部につけられることが多く、塩渕も木曽川の曲流部に出来た渕から命名されたと思われます。 塩渕の命名については一つの言い伝えがあります。 昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、馬が木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったことから「塩渕」という地名がついたとも言われます。

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肥畑沢

「塩渕一里塚跡」から200m左手に沢があります。岩郷村の庄屋村井家住宅へはここの階段を登っていくと行けるようです。戦国時代の面影を残す住宅だそうですが、寄らずに先へ進みます。
さらにその先は電力施設?のため道がなくなっていますので、一旦、県道へ出て50mほど進んで左手の坂道を登っていきます。

TOO001 坂を登り、木曽川を眺めると「関西電力塩渕堰堤(えんてい)」が見えます。しばらく人家のない道を進みますむと「中平立場」へ至ります。

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中平立場

1837年の「木曽巡行記」には「中平は木櫛挽き売る」とあり、立場茶屋があり木櫛を売っていました。

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津島様の祠?

立場を過ぎ、アスファルトの広い道へ出るとすぐ左手にこの立派な看板がありましたが、いくら周囲を探しても祠が見つかりませんでした。

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沼田野

沼田野は湿地を意味する地名とされ、1724年(享保9)の記録によると家数7軒とあります。
この先も国道や県道の工事で旧中山道は廃止されています。国道は高架ですが、このまま真っ直ぐ国道に沿うように草の中を進めば冠木門(現在はない)がある広場まで行けるかもしれませんが・・・どのようになっているかわかりませんので、諦めました。

「木曽義元の墓」へ寄り道したいので、県道461へでて50mほど進んだ右手の細い道を下りて行きます。

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道は徐々に悪路となり、砂利道になると濡れており滑って転びそうになった危険な道です。
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木曽義元の墓

このあたりは「御墓島」という字名で、戦後の農地開放までは福島の長福寺領でした。木曽家16代、木曽義元の墓標が建立されていますが、この地が木曽家累代の墓地ではないかと言われています。石碑には「朝日将軍苗裔木曽弾正少弼伊予守義元公墓」と刻まれています。文化年間(1804〜1817)の建立です。

木曽義元

1475年(文明7)、木曽家豊の子として生まれます。1504年(永正元)、飛騨国三木修理重頼が木曽に侵入してきた際、王竜で戦い三尾に退く途中、敵の追撃にあい負傷し、部下とともに福島へ引き上げる途中、川合で死去したためほど近い御墓島に埋葬したとされます。

下ってきた坂を登り、県道461へ戻り先に進みます。本来は左手の段丘上を進んでいた中山道ですが、このあたりは廃道だらけでよくわかりません。

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冠木門があった広場

県道と国道が合流するY字路から国道へ入り、北へ。以前は冠木門があったという広場へ進みました。冠木門はすでになく、手入れもされておらずに草がボウボウ。ベンチもなく・・何のための広場だったのでしょうか。
旧中山道は国道から1本東側の道になりますが・・その道に入っていく道がありません。国道を通るか、さらにもう1本上の道を進むか・・私達は交通量の多い国道を避けて上の道を通ることにしました。冠木門があった広場向かいの坂を登っていきました。

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通行止めの看板

向かいの斜めに登る道を入り、鳥居集落へ。鳥居集落のすぐ下の道が中山道ですが、下りる道は集落が終わる辺りにしかありませんでした。下りていくとそこには京都方面からきた旅人のために「通行止めの看板」がありました。江戸側からは案内はなかったかな?「国道を進め」と書いてありました。。
鳥居集落には「栃木」という茶屋があったとされますが、どのあたりだったのでしょうか・・・全くわかりませんでした。

旧中山道へ合流しましたが、すぐに国道と合流します。さらに国道を400m、国道20号と県道20がぶつかる丁字路「元橋」交差点を少し過ぎたところでJRの高架下をくぐり、左手へ入っていくと神戸集落です。

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神戸集落

国道から外れ、静かな里山という感じ、緩い坂道を登っていきます。

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御嶽逢拝所

木曽路の御嶽山四方逢拝所(長峰峠・三浦山・鳥居峠)の一つです。

鳥居は1632年(寛永9)に破損したという記録があり、それ以前のかなり古くからあったようで、1705年(宝永2)山村良忠が再建、それも朽ちて1821年(文政4)金剛院明順によって石の鳥居に建て替えました。石碑には「御嶽神社、八海山神社、三笠山神社」と刻まれています。常夜灯には文政の銘があります。

樹木が生い茂り、雲も架かっているのか、ここから御嶽山は見えませんでした。

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旧中山道は御嶽逢拝所をすぎると線路に沿うようにしながら少し高い場所を通っています。
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御嶽山

ずっと雲がかぶっていて見えなかった御嶽山、少しだけ雲が切れて顔をだしました!

御嶽山

御嶽山の最高峰は剣ヶ峰の3063m、頂上には御嶽神社が祀られ、信仰の山として知られています。古くは「王嶽」と呼ばれていたため麓の村は「王滝村」として名残があります。 尾張の覚明により黒沢口の登山道が開かれ、1782年(天明2)夏、御嶽に初めて登山しまし、その後は毎年信徒とともに登山するようになりました。続いて武蔵国秩父大滝村の普寛は1792年(寛政4)王滝口より登拝し、登山路を改修しています。各地に講が作られるようになりましたが、覚明講と普寛講の間に亀裂も生じたとされます。

2014年には大規模な噴火があり、多くの犠牲者がでました。たいへん痛ましい事故でしたが、現在は噴火警戒レベル1まで下がり、シェルターなども増設し、日時限定で剣ヶ峰や王滝頂上への登山が可能となっているようです。

TOO001 国道へ合流後「阿古多丸の墓」へ向かうため、板野工芸さんの左手の未舗装の坂を下りますが・・・かなりぬかるんでいて雑草も茂りコケそうに。遠回りになりますが、道の駅木曽福島まで戻り整備された道を行くほうがいいですね。

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途中、立派な松林がありました。水田を縫うように進みます。
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阿古多丸の墓

阿古多丸は京都北白川の宿衛少将重頼の子で、継母に憎まれ陰謀により父殺しの濡れ衣をかけられました。家を追われた阿古多丸は父方の祖母のいる奥州へ向かう途中、この地で病にかかり、

『この山に 捨つる命は おしからで あかではなれし 父ぞ恋しき』

という歌を残し、925年(延長3)15歳の短い生涯を終えたとされる悲劇の少年です。そして同じように継母のもとで辛い仕打ちを受けた姉の利生御前は、『先たつも 後るも同じ 草の露 何れの秋ぞ あはで果つべき』という歌を残し、この墓前で自害してしまいました。

御嶽山の最高峰は剣ヶ峰ですが、その両側の峰は継母岳と継子岳という名がついています。

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戻る時は安全を優先し、道の駅福島の方へアスファルトの道で戻り、道の駅で休憩。地元の牛乳を使ったソフトクリームを食べて充電します。
TOO001 道の駅から国道19号を300mほど進み左手の旧道へ入ると「板敷野集落」になり、さらに「沓掛集落」を進むと未舗装との道となり、更に進むと正面に「沓掛馬頭観音」があります。

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沓掛馬頭観音

以前は南の観音坂にありましたが、明治43年鉄道工事のため現在地へ移されました。この場所が元は一里塚だったとされます。

沓掛馬頭観音の伝説

昔、木曽義仲の愛馬は人の言葉がわかっていたといいます。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり、目算で「73間飛べ!」と号令をかけました。馬は正確に73間飛びましたが、実際には74間あったので人馬とも川へ転落してしまいました。義仲は助かりましたが、馬は死んでしまいました。そこで義仲は金の観音像を作らせて堂を建てて弔ったといいます。

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沓掛一里塚跡

沓掛馬頭観音堂がある場所が西の一里塚でした。石碑は国道近くにあり、石碑に「右坂上に在り」と彫られています。
400mほど進むと赤い「かけはし」が見えてきました。旧国道とかけはしのT字路に「山頭火の句碑」があります。

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かけはし

赤い鉄橋は「かけはし」といいますが、「木曽の桟(かけはし)」ではありません。旧国道下の石積みを指します。

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山頭火句碑

『かけはしふめば旅のこゝろのゆるゝとも』

種田山頭火が木曽路を訪れたのは1939年(昭和14)、「旅日記」にその行程が記載されています。
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木曽の桟(かけはし)跡

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木曽の桟跡

応永年間に木曽家代11代右京太夫親豊が街道の難所に『波計桟道(はばかりさんどう)』を設けたのが始まりで、1648年(慶安元)に主要箇所を石積みに改修し、中間に桟道を架けました。明治に入り桟道を廃止し、全部を石垣としました。

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木曽の桟改修の変遷図

当初は険しい岩の間に丸太と板を組み、藤蔓等で結わえた桟(左)でした。これが『波計桟道』でしたが、1647年(正保4)に通行人のたいまつで焼失してしまいました。その後石積みを行い、橋がかけられました。(右)

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木曽路名所図会の桟

TOO001 石垣完成の銘文 石垣に組み込まれている石垣完成の銘文だと思われます。「此石垣、慶安元戌子年六月良辰成就焉畢(おえる)」と彫られているらしいです。場所は恐らく右側の柱、下から3段目くらいでしょうか。

中央に橋が架かっていた頃の名残は、石垣の積み方が違うため、はっきりわかります。赤い線のところが境目になっています。

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芭蕉句碑

『かけはしや命をからむ蔦かづら』

赤い現代のかけはしを渡り、右手、岩の上にあるのが「宝暦の芭蕉句碑」のレプリカです。昭和10年頃、拓本から制作されたものです。「宝暦の芭蕉句碑」は福島宿の津島神社にあります。

1761年(宝暦11)に巴笑により桟に建立されましたが、数年後がけ崩れのため地中に埋まり行方不明となっていました。そこで1829年(文政12)に飛騨の友左坊が建立しました。他の資料では10代木曽代官山村良喬が新たに句碑を建立したと書かれています。(写真右)

その後、埋まっていた句碑を発見し、明治15年に津島神社へ移しました。この津島神社の句碑から拓本をとりレプリカが作られました。

この句碑には「咄々房建立、巴笑加之」と彫られています。巴笑が師である「咄々房」の名で建立したことが1766年(明和3)に出された「かけはし集」横井也有の序文でわかります。

巴笑

宝暦から明和にかけての俳人。八沢川畔に住み、その家を「望橋舎」と呼んでいました。横井也有が「巴笑もとより一知己なり」と記していることから交遊があったと思われます。桟の芭蕉句碑建立後、句集「桟集」を作っています。

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正岡子規句碑

『かけはしやあふない処に山つゝし 棧や水へとゝかす五月雨』

『むかしたれ雲のゆきゝのあとつけて わたしそめけん木曽のかけはし』

正岡子規は1891年(明治24)上野を出発し、故郷の松山に帰省する際に木曽路を旅しました。1983年(昭和58)上松町教育委員会、上松町文化財審議委員会により建立されました。

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明治天皇碑

1880年(明治13年)の巡幸のさいに柏原家で休憩したそうです。碑の揮毫は東郷平八郎のものです。
「木曽の桟」をあとに中山道を南下します。350mほど左手、擁壁の切れている場所に「賽の河原地蔵」があります。

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賽の河原地蔵

このあたりの木曽川の川原は賽の川原と呼ばれ、石仏が8体あります。往時の旅人は川原に下りて石を拾い地蔵に供えて旅の安全を祈願したといわれています。現在は簡単に河原へは下りられませんので石を供えることが出来ないですね。
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木曽川

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新茶屋立場跡

賽の河原地蔵から600mほど進むと左手の分かれ道を登るよう案内板がありました。坂を登り、さらに折り返して登ると「新茶屋立場跡」があるようです・・中央の白い綺麗な家の更に奥でしょうか。奥までは戻りませんでした。大田南畝の「壬戌紀行」には「弥生の新茶屋立場」とあります。
TOO001 そしてそのままJRの線路に沿って雑草が生える道を進むと・・なんと行き止まり!!だいぶ来たのに・・戻ってみると国道へ下りる道がありました。うーん・・ぜんぜん気づかなかった・・不思議。

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釜岩(天狗岩)

木曽川沿いの旧国道へでて150mほど、木曽川の中に大きな釜岩(天狗岩)が見えます。木曽川の石は真っ白です。白い中にエメラルド色の水が悠々と流れ、とても美しいですね。
300mほどで国道19号へ合流しますが、手前で右手側へ人道の道が作られていますので、ここを通れば安全に通行できます。国道19号の下をトンネルでくぐり反対側へ出られますが、ここで歩道は終了。160mくらいは歩道のない国道を進みます。道路幅も狭く結構怖いです。早足で路肩を通り抜け「笹沢」交差点で右手の道へ入ります。ここからは歩道もあり安心です。

「笹沢」交差点から350m,左手の墓地の中に彰功碑がありました。

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杣総頭(そまそうとう) 橋本三之助彰功碑

木曽や飛騨の伐木運材に従事した杣(そま)、総頭と呼ばれた指導者が存在し、その技量が伐木運材 の出来不出来に大きく影響したといいます。優秀な総頭は、帝室林野局(林野省)の信頼も厚く、尊敬されていたそうです。碑は1908年(明治 41)建立。
さらに250m、十王橋交差点に「十王堂跡」があります。

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十王堂跡・上松高札場跡

十王沢の十王堂は現在ありませんが、祀られていた閻魔大王像は玉林寺に安置されているそうです。現在ある地蔵は十王堂にありましたが、1867年(慶応3)の大洪水で十王堂と共に流されましたが、75年後のお彼岸に川の石の間から発見され、対岸の山腹にあった馬頭観音と共に祀られました。国道敷設や橋の架替に伴い、現在地へ移転しています。 江戸側の高札場は、十王橋の橋詰にありました。

十王橋

昔は「小野川」と呼ばれていましたが、十王堂が建てられてからは「十王沢」と呼ばれるようになり、橋も「十王橋」と呼ばれるようになりました。

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上松宿

十王橋を渡り、左手へ入っていくと上松宿です。

本陣、脇本陣は各1軒、共に本町にありました。旅籠は35軒ほどあったようです。

護摩の灰

「続・膝栗毛」での弥次さん、喜多さんは上松宿で宿泊していますが、宿の主人に『護摩の灰』と勘違いされてドタバタ・・・・という展開ですが、『護摩の灰』とは何なのでしょうか。

道中、旅人に害を与える人々で、伊勢を根城に駿河、遠江、三河などにいました。伊勢参りなどの参宮道に僧侶の姿をして現れ、紙に灰を包んだものを差し出し、「これを持っていれば道中災難なく、息災なり、灰は○○寺の護摩を灰にしたもので、貴いものである」などといい、無理やり手渡し金を要求、逆らうものならば仲間が出てきて袋叩きの上、金を奪っていくような悪党です。「護摩の灰」が知れ渡ると、今度は薬売り、朝鮮人参売などに化けて同じようなことをしていたようです。
古い町並みを進み、大きく右カーブを過ぎたところで左へ入り、八幡宮へ向かいます。

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八幡宮

玉林和尚が甥の木曽義豊(上松蔵人)のために源氏の守護神である八幡社を館の近くに勧請したものと伝わります。本殿は棟札によると正徳4年の建築であり、上松町では一番古い神社とされます。

奉納獅子狂言

幕末の頃、三河の神田徳七により伝えられた八幡神社の獅子狂言です。狂言の立女方(女主人公)は全て獅子が演じ、18の演目があるそうです。

八幡宮から南へ向かう細い小路を通り、玉林院へ

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玉林院

明治26年の火災により本堂と庫裏は焼失しましたが、鐘楼門と土蔵は火災を免れました。鐘楼門は1766年(明和3)の建立で、上松宿庄屋、問屋の藤田治郎兵衛、原金右衛門ほか、大工は藪原の川村弥平治ほか、多くの人々の協力で完成したとあります。

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野生のさる!!

玉林院の住宅部分の屋根に電線をつたって移動していました!5匹くらいぴょんぴょん来ましたよ〜。びっくりして慌てて写真を撮りましたのでちょっとピンぼけですが。

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上松宿脇本陣

問屋、庄屋を兼ね、原家が務めていました。幕末の当主、美道は山岡鉄舟とも親交があったといいます。

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双体道祖神

本陣横にある小さな双体道祖神と水速女命(ミズハヤメノミコト)の石碑です。ミズハヤメノミコトは『古事記』においては、イザナミ命が火の神カグツチを生んだ際、陰部をやけどして苦しんだ末に漏らした尿から誕生したとされます。灌漑用水・井戸の神・水の神として信仰されています。

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上松宿本陣

藤田家が務めていました。昭和25年の大火で焼失し土蔵造りになっています。現在は歯医者さんです。

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上松(本町)一里塚跡

上松宿の枡形となっている場所に碑があります。一里塚は現在地よりも30mほど京都寄りにあったそうです。
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寺坂

一里塚跡を過ぎると大通りに合流し300mほど進み、清水屋商店、歩道橋のあたり、左手の幅の狭い坂を登っていきます。上り詰めると上段の車道へ合流します。この細い小路が旧中山道の「寺坂」です。

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駒嶽石塔・御嶽登山道道標

もとは寺坂を登りきった場所が御嶽登山道との分岐点でしたが、明治道が出来たため分岐点が変わりました。少し車道を戻ると駒嶽石塔、御嶽登山道道標などがあります。「駒ヶ嶽太神宮碑」には安政2年の銘があります。

さらに進み、上松小学校の角に「斉藤茂吉歌碑」があります。

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斉藤茂吉歌碑

『駒ヶ嶽見てそめけるを背後にし小さな汽車は峡に入りゆく』

昭和11年、木曽教育会五十周年記念講演のため木曽へ来られ、上松より森林鉄道に乗り、王滝へ向った折に詠んだ短歌だそうです。書は辻村麦雨ということですが、どのような方かわかりません。
その先、上松小学校には「島崎藤村文学碑」、学校へ少し入り、中央の階段右手にあるようですが、見おとしました。芭蕉の「洒落堂の記」の一節を藤村が書いたもの、「山は静かにして性を養い 水は動いて情を慰む」が刻まれているそうです。昭和30年、創立80周年を記念して建立されたものです。

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上松材木役所碑

寛文5年、山村氏に管理を任されていた木曽木材の管理は、尾張藩により材木役所(材木奉行所)が置かれ、藩の直轄の管理下へ置かれました。材木役所は案内板の向かい側の民家のあたりにありました。明治4年に廃止され、建物も同時に取り壊されています。
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諏訪神社

諏訪から直接勧請したのではなく、京都より勧請したため、御柱を建てないといいます。神主は1556年(弘治2)頃より代々徳原氏が務めているそうで、写真にある碑は「徳原勇雄彰功碑」とあり、神主を称えるものです。

境内にある五社神社は明治4年までは材木役所の敷地にあったものを移したものです。津島神社も祀られています。

13:15 諏訪神社より300m、坂を下り中沢。これより上松宿をあとに須原宿へ向けて進んでいきます。