2021年7月23日
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6:55 木曽福島駅前の駐車場に車を停めて出発します。この駐車場は少し変わっており、置いてある封筒に駐車料金を入れてポストへ入れておくようです。今日から3日間停めますので、1回500円と書いてありましたので1500円を封筒へ入れておきました。
日本一安価な自動みくじ
なんと20円!安さに引かれてついつい20円を入れてしまいました。ちゃんとしたおみくじが出てきました。ちなみに「中吉」でした。 神明社の裏の道が中山道なのですが・・裏口はなさそうです。神明社から少し戻り高架の自動車道右手横の細い人道があり、入っていきます。案内板がでていますのでわかりやすいです。木曽町役場裏あたりの街道
木曽町役場の手前で右に曲がります。木曽川の段丘崖の上を細い道が貫いており、ここを下ると「塩渕集落」へ至ります。塩渕(しょうぶち)
1724年(享保9)の「岩郷村家数書上帳」によると「家数拾四軒塩渕」とあります。塩という地名は川の曲流部につけられることが多く、塩渕も木曽川の曲流部に出来た渕から命名されたと思われます。 塩渕の命名については一つの言い伝えがあります。 昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、馬が木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったことから「塩渕」という地名がついたとも言われます。中平立場
1837年の「木曽巡行記」には「中平は木櫛挽き売る」とあり、立場茶屋があり木櫛を売っていました。木曽義元の墓
このあたりは「御墓島」という字名で、戦後の農地開放までは福島の長福寺領でした。木曽家16代、木曽義元の墓標が建立されていますが、この地が木曽家累代の墓地ではないかと言われています。石碑には「朝日将軍苗裔木曽弾正少弼伊予守義元公墓」と刻まれています。文化年間(1804〜1817)の建立です。木曽義元
1475年(文明7)、木曽家豊の子として生まれます。1504年(永正元)、飛騨国三木修理重頼が木曽に侵入してきた際、王竜で戦い三尾に退く途中、敵の追撃にあい負傷し、部下とともに福島へ引き上げる途中、川合で死去したためほど近い御墓島に埋葬したとされます。神戸集落
国道から外れ、静かな里山という感じ、緩い坂道を登っていきます。御嶽逢拝所
木曽路の御嶽山四方逢拝所(長峰峠・三浦山・鳥居峠)の一つです。 鳥居は1632年(寛永9)に破損したという記録があり、それ以前のかなり古くからあったようで、1705年(宝永2)山村良忠が再建、それも朽ちて1821年(文政4)金剛院明順によって石の鳥居に建て替えました。石碑には「御嶽神社、八海山神社、三笠山神社」と刻まれています。常夜灯には文政の銘があります。 樹木が生い茂り、雲も架かっているのか、ここから御嶽山は見えませんでした。御嶽山
ずっと雲がかぶっていて見えなかった御嶽山、少しだけ雲が切れて顔をだしました!御嶽山
御嶽山の最高峰は剣ヶ峰の3063m、頂上には御嶽神社が祀られ、信仰の山として知られています。古くは「王嶽」と呼ばれていたため麓の村は「王滝村」として名残があります。 尾張の覚明により黒沢口の登山道が開かれ、1782年(天明2)夏、御嶽に初めて登山しまし、その後は毎年信徒とともに登山するようになりました。続いて武蔵国秩父大滝村の普寛は1792年(寛政4)王滝口より登拝し、登山路を改修しています。各地に講が作られるようになりましたが、覚明講と普寛講の間に亀裂も生じたとされます。 2014年には大規模な噴火があり、多くの犠牲者がでました。たいへん痛ましい事故でしたが、現在は噴火警戒レベル1まで下がり、シェルターなども増設し、日時限定で剣ヶ峰や王滝頂上への登山が可能となっているようです。阿古多丸の墓
阿古多丸は京都北白川の宿衛少将重頼の子で、継母に憎まれ陰謀により父殺しの濡れ衣をかけられました。家を追われた阿古多丸は父方の祖母のいる奥州へ向かう途中、この地で病にかかり、『この山に 捨つる命は おしからで あかではなれし 父ぞ恋しき』
という歌を残し、925年(延長3)15歳の短い生涯を終えたとされる悲劇の少年です。そして同じように継母のもとで辛い仕打ちを受けた姉の利生御前は、『先たつも 後るも同じ 草の露 何れの秋ぞ あはで果つべき』という歌を残し、この墓前で自害してしまいました。 御嶽山の最高峰は剣ヶ峰ですが、その両側の峰は継母岳と継子岳という名がついています。沓掛馬頭観音の伝説
昔、木曽義仲の愛馬は人の言葉がわかっていたといいます。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり、目算で「73間飛べ!」と号令をかけました。馬は正確に73間飛びましたが、実際には74間あったので人馬とも川へ転落してしまいました。義仲は助かりましたが、馬は死んでしまいました。そこで義仲は金の観音像を作らせて堂を建てて弔ったといいます。木曽の桟(かけはし)跡
木曽の桟跡
応永年間に木曽家代11代右京太夫親豊が街道の難所に『波計桟道(はばかりさんどう)』を設けたのが始まりで、1648年(慶安元)に主要箇所を石積みに改修し、中間に桟道を架けました。明治に入り桟道を廃止し、全部を石垣としました。木曽の桟改修の変遷図
当初は険しい岩の間に丸太と板を組み、藤蔓等で結わえた桟(左)でした。これが『波計桟道』でしたが、1647年(正保4)に通行人のたいまつで焼失してしまいました。その後石積みを行い、橋がかけられました。(右)木曽路名所図会の桟
石垣完成の銘文 石垣に組み込まれている石垣完成の銘文だと思われます。「此石垣、慶安元戌子年六月良辰成就焉畢(おえる)」と彫られているらしいです。場所は恐らく右側の柱、下から3段目くらいでしょうか。 中央に橋が架かっていた頃の名残は、石垣の積み方が違うため、はっきりわかります。赤い線のところが境目になっています。芭蕉句碑
『かけはしや命をからむ蔦かづら』
赤い現代のかけはしを渡り、右手、岩の上にあるのが「宝暦の芭蕉句碑」のレプリカです。昭和10年頃、拓本から制作されたものです。「宝暦の芭蕉句碑」は福島宿の津島神社にあります。 1761年(宝暦11)に巴笑により桟に建立されましたが、数年後がけ崩れのため地中に埋まり行方不明となっていました。そこで1829年(文政12)に飛騨の友左坊が建立しました。他の資料では10代木曽代官山村良喬が新たに句碑を建立したと書かれています。(写真右) その後、埋まっていた句碑を発見し、明治15年に津島神社へ移しました。この津島神社の句碑から拓本をとりレプリカが作られました。 この句碑には「咄々房建立、巴笑加之」と彫られています。巴笑が師である「咄々房」の名で建立したことが1766年(明和3)に出された「かけはし集」の横井也有の序文でわかります。巴笑
宝暦から明和にかけての俳人。八沢川畔に住み、その家を「望橋舎」と呼んでいました。横井也有が「巴笑もとより一知己なり」と記していることから交遊があったと思われます。桟の芭蕉句碑建立後、句集「桟集」を作っています。木曽川
十王堂跡・上松高札場跡
十王沢の十王堂は現在ありませんが、祀られていた閻魔大王像は玉林寺に安置されているそうです。現在ある地蔵は十王堂にありましたが、1867年(慶応3)の大洪水で十王堂と共に流されましたが、75年後のお彼岸に川の石の間から発見され、対岸の山腹にあった馬頭観音と共に祀られました。国道敷設や橋の架替に伴い、現在地へ移転しています。 江戸側の高札場は、十王橋の橋詰にありました。十王橋
昔は「小野川」と呼ばれていましたが、十王堂が建てられてからは「十王沢」と呼ばれるようになり、橋も「十王橋」と呼ばれるようになりました。護摩の灰
「続・膝栗毛」での弥次さん、喜多さんは上松宿で宿泊していますが、宿の主人に『護摩の灰』と勘違いされてドタバタ・・・・という展開ですが、『護摩の灰』とは何なのでしょうか。 道中、旅人に害を与える人々で、伊勢を根城に駿河、遠江、三河などにいました。伊勢参りなどの参宮道に僧侶の姿をして現れ、紙に灰を包んだものを差し出し、「これを持っていれば道中災難なく、息災なり、灰は○○寺の護摩を灰にしたもので、貴いものである」などといい、無理やり手渡し金を要求、逆らうものならば仲間が出てきて袋叩きの上、金を奪っていくような悪党です。「護摩の灰」が知れ渡ると、今度は薬売り、朝鮮人参売などに化けて同じようなことをしていたようです。奉納獅子狂言
幕末の頃、三河の神田徳七により伝えられた八幡神社の獅子狂言です。狂言の立女方(女主人公)は全て獅子が演じ、18の演目があるそうです。 八幡宮から南へ向かう細い小路を通り、玉林院へ玉林院
明治26年の火災により本堂と庫裏は焼失しましたが、鐘楼門と土蔵は火災を免れました。鐘楼門は1766年(明和3)の建立で、上松宿庄屋、問屋の藤田治郎兵衛、原金右衛門ほか、大工は藪原の川村弥平治ほか、多くの人々の協力で完成したとあります。野生のさる!!
玉林院の住宅部分の屋根に電線をつたって移動していました!5匹くらいぴょんぴょん来ましたよ〜。びっくりして慌てて写真を撮りましたのでちょっとピンぼけですが。寺坂
一里塚跡を過ぎると大通りに合流し300mほど進み、清水屋商店、歩道橋のあたり、左手の幅の狭い坂を登っていきます。上り詰めると上段の車道へ合流します。この細い小路が旧中山道の「寺坂」です。駒嶽石塔・御嶽登山道道標
もとは寺坂を登りきった場所が御嶽登山道との分岐点でしたが、明治道が出来たため分岐点が変わりました。少し車道を戻ると駒嶽石塔、御嶽登山道道標などがあります。「駒ヶ嶽太神宮碑」には安政2年の銘があります。 さらに進み、上松小学校の角に「斉藤茂吉歌碑」があります。諏訪神社
諏訪から直接勧請したのではなく、京都より勧請したため、御柱を建てないといいます。神主は1556年(弘治2)頃より代々徳原氏が務めているそうで、写真にある碑は「徳原勇雄彰功碑」とあり、神主を称えるものです。 境内にある五社神社は明治4年までは材木役所の敷地にあったものを移したものです。津島神社も祀られています。 13:15 諏訪神社より300m、坂を下り中沢。これより上松宿をあとに須原宿へ向けて進んでいきます。