2021年4月3日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
13:15 奈良井宿をあとに鳥居峠へ登っていきます。
楢川歴史民俗資料館を過ぎて80mほど行くと石の階段があり、ここを登って行きます。
一旦、舗装道路へ出て70mほど進むと右手に鳥居峠への入口がありました。
鳥居峠の開削
官道として美濃と信濃の境を通っていた
東山道は中津川から神坂峠を越えて飯田へ通じていましたが、道が狭く危険であったため、713年(和銅6)新たに木曽路を開削したといわれています。
階段を登ると
石畳の道が続いています。
『熊注意』の看板がありました。熊よけの鈴はつけていますので大丈夫かな。
沢に沿って登っていきます。木曽という名称は
『険阻(きっそ)』からきていると言われるように、往時から山また山の寂しい山道が続いていました。
石仏
小さな可愛らしい石仏が左手にあり、ここを登ると『展望台』があります。
くるみ沢展望台
奈良井宿が一望できる展望台と休憩所があります。
先程までいた「奈良井宿」が一望できますね。
展望台から下りて、元の旧中山道へ戻り進んで行きます。木製の小さな橋を2つほど渡ります。
本沢自然探勝園(葬沢)
1582年(天正10)木曽義昌が武田勝頼を迎撃し、大勝利を収めた古戦場です。この時、武田方の戦死者500名余が埋もれたと言われ、戦死者を葬った場所として葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれています。また、1986年(昭和61)の文献によれば葬沢には3体の石仏があったと書かれていますが、見当たりませんでした。
中の茶屋
菊池寛の「恩讐の彼方に」の舞台になったため、休憩所が作られたようです。分間延絵図には記載がありませんので江戸時代に茶屋があった場所ではないでしょう。休憩所の中に小説の一節が記されています。
恩讐の彼方に
主人殺しの主人公、
市九郎が駆け落ちした女性とこの
茶屋を開き、峠を越える旅人を誘い、油断させては
追い剥ぎを働き暮らしを立てていました。3年後、自らの罪に耐えられなくなった市九郎は
出家し、僧となり全国行脚の旅にでます。旅の途中、豊前国の難所の鎖渡しで亡くなった馬子に出会い、この難所の岩場を掘削し安全に通行できるよう誓いを立てますが、工事は難航、18年もの時が過ぎます。そんな頃、市九郎に父を殺された息子は
仇を討とうと市九郎を探し、ようやく見つけ出します。仇討ちに向かい、市九郎は素直に討たれようとしましたが、村人や石工によってこの道の開通まで待ってほしいと懇願されます。21年目、ようやく洞門が開通、いよいよ市九郎が仇討ちされる日がやってきましたが、工事の成り行きを見守ってきた息子は復讐心をなくし、ただ号泣するだけでした。
崩れかけた道
中の茶屋を過ぎると「地蔵坂」、1986年(昭和61)発刊の資料によれば、「勾配がきつく、途中ロープがあり、ロープをつかんで登らないと登れないところもあった」と書かれていましたが、現在はそのような場所はありませんでした。
鳥居峠一里塚跡
信濃国と美濃国は吉蘇路の境界について揉めていました。貞享年間(859〜877)朝廷は藤原正範らに調査を命じ、実地検分の上、713年(和銅6)に吉蘇路を通したのは美濃の国司であったことなどから木曽は美濃国とし、朝廷は879年(元慶3)懸坂(あがたさか、鳥居峠)を両国の境界と定めました。
大きなトチノキがたくさんあるな・・と思うと石畳が少しあり、幅の広い道路へ出ました。すぐに峰の茶屋が見えました。この幅の広い道は明治23年頃に整備された『馬車道』です。
馬車道
明治13年、木曽路が
明治天皇行幸の道筋となり整備が行われましたが、このときは馬車の通れるような道ではなく、天皇は
板輿に乗って木曽路を通行しました。現在の鳥居峠を巻くような新道ができたのは明治23年頃で、
製糸業に伴う輸送量増加のため馬車が通れる道が造られました。奈良井〜本山間、藪原〜福島間が馬車で通行できるようになりました。
明治42年には中央線、塩尻−奈良井間が開通し、明治43年に鳥居トンネルが開通しました。鉄道の開通により峠を徒歩で通行する者は少なくなり、旧道は草で埋もれていたといいます。
峰の茶屋跡と芭蕉句碑
立派な山小屋でした。トイレは冬季使用できないようでした。今の時期は鍵がかけてあり、中にも入れませんでした。水場も冬季のためか、水が出ていませんでした。江戸時代、中村利兵衛がやっていた茶屋はもう少し上の「明治天皇駐蹕所碑」がある場所にあったといいます。
芭蕉句碑
「皆無事に詣帰るや六根寿司し 鳥居峠口書俳人 柳月」と刻まれ、裏面には「中村利兵衛この地に眠る 長女 坂江はま江 中利文化財記念に建之 昭和45年6月」と刻まれています。塗櫛の創始者、中村恵吉の分家にあたるのが中村利兵衛で、奈良井宿で櫛問屋を商っていました。
それにしても
『六根寿司し』句の意味がよくわかりませんが・・・最初は『六根寿司』なる食べ物があるのかと(笑) 調べると「六根」とは目や耳などの五感と第六感(意識)を加えた6つの根幹ということで、これと「寿司」がミスマッチ・・さらに碑には「口書」となっているので、もしかしたら「六根すずし」と読めばいいのでしょうか。当て字?
皆で鳥居峠の御嶽神社へ詣でて、無事に麓へ戻り、お参りをしたことで体中が凛と涼しい・・というようなことでしょうか。またこの句は本当に芭蕉の句なのでしょうか・・・?芭蕉っぽくないような・・
峰の茶屋跡横に旧道が残っていますのでそちらを登っていきます。電柱に赤いペンキで矢印があります。すぐ左手の斜面に「御嶽講明覚霊神碑」があり、さらに進むと標高1197mの「鳥居峠」です。
明治天皇駐蹕所碑
江戸時代の峯の茶屋はこの明治天皇駐蹕所碑がある場所にあったそうです。明治天皇は1180年(明治13)にここで小休し、「御野立の松」と記念碑が建っています。
峠を下るとサテライト道にでますがここから先、御嶽神社までは旧道が残っていません。一旦、馬車道へでて、付替えの新しい登山道を進んでいきます。
ミネバリ植林地
お六櫛の材料のミネバリの木が植林されています。ミネバリは水に沈むほど比重があり、過酷な環境に生きるため年に0.2ミリほどしか太くならず、その生長はきわめて遅いそうです。そのため密度が高く緻密な組織になるのです。
熊よけの鐘
この熊よけの鐘から先は旧道がなくなっています。旧道のような未舗装の道ですが後にできた道です。
子産みのトチノキ
昔、この空洞に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が育てて幸福になったことから、この木の皮を煎じて飲めば子宝に恵まれると言い伝えられています。
斜面に沿って細い道が続きます。
御嶽神社鳥居
木曽川と信濃川の分水嶺として、古くは信濃国と美濃国の国境に当たり「岐蘇路」が開通した頃には「懸(アガタ)坂」と呼ばれていました。峠一帯では境界争いがあり、879年(元慶元)には美濃国に属することで一旦は決着しますが、そのとき両国との境となったのが「懸坂」と呼ばれていた鳥居峠でした。その後「奈良井坂」「藪原坂」と記されている時代もありましたが、室町時代に木曽義元が戦勝のお礼として御嶽神社の鳥居を再建し、以来「鳥居峠」と呼ばれるようになったと言われています。
木曽義元が建立したという鳥居はその後朽ちたのか・・江戸時代の中山道分間延絵図には街道左手に
「此所御嶽山鳥居跡」となっています。現在の鳥居は明治時代の再建です。
御嶽神社
北から木曽路へ入り、初めて御嶽山を臨むことのできる場所として御嶽神社(御嶽遥拝所)がありり、境内には御嶽を信仰する講社の人々が建てた石碑、石仏、石塔がたくさんあります。
御嶽山方面
峠からは西に御嶽山、南に駒ケ岳雄峰が眺められるといいますが、今日は曇っており、御嶽山は見えませんね〜
義仲硯水と御嶽手洗水鉢
昔、木曽義仲が木曽の宮ノ越で平家討伐の旗揚げをして北国へ攻め上がる時、鳥居峠の頂上で
戦勝祈願の願書をしたためて御嶽山へ奉納したときの
硯の水と言い伝えられています。今は水が湧いている様子はなく、水たまりのようです。
御嶽手洗水鉢は、500m先の峠山からの湧水とのことですが、今は出ていません。冬場は止めているのでしょうか。
英泉『中山道六十九次』 藪原宿
御嶽山が見える鳥居峠で休憩する旅人、義仲硯水と芭蕉句碑が描かれています。
鳥居峠の石碑群
芭蕉句碑
『木曽の栃うき世の人の土産かな』
書は木曽第十代、代官山村良喬(たかてる、俳号:風兆)であり、碑の裏面に雲雀の句はこの峠で生まれたものではないので、この栃の句に建て替えたとあります。1842年(天保13)藪原の俳人、兆暁らによって建立されました。
月雪花句碑(左)・古戦場の碑(右)
頭部が欠けていますが、3つの句と「華表嶺眺望」が彫られてます。
『雪ならば動きもせふに山桜』道元居
『染上し山を見よとか二度の月』以雪庵
『雪白し夜はほのほのとあけの山』雪呑園(せっかえん)
いずれも美濃の人で、木曽の俳人仲間の師。句碑の書と建立は木曽代官、山村良喬です。「月雪花」は四季折々の良い眺めという意味で、「華表嶺」は鳥居峠のことです。
古戦場の碑
1582年(天正10)に木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍とこの峠で戦ったことや峠の様子などが刻まられています。藪原の「青木原」、奈良井の「葬沢」などの地名が見られます。明治32年に木曽の有志によって建立されたものです。
方眼護物の句碑
『嶺は今朝ことしの雪や木曽の秋』
護物は伊勢の人で僧侶(法眼)であり、俳諧の研究者、建立年は不明ですが、建立者は藪原の俳人岡田不登根らです。
芭蕉句碑
『雲雀よ里うへにやすらふ嶺かな』
いつ誰が建立したのか不明ですが、「栃」の句碑よりも古いと思われます。大和の臍峠(ほそとうげ)で詠んだ句です。
木曽路名所図会「鳥居峠」
こちらの絵にも御嶽山、芭蕉句碑、義仲硯水が描かれています。
藪原宿が見えました。
展望台
展望台の左の方には、森林測候所跡があり、トイレも設置されています。
経塚牛馬供養碑
後ろには小さな庚申塔でしょうか・・だいぶ傷んでいて彫られているものがよくわかりませんね。
藪原側の石畳
東町稲荷社
森林の中にぽつんとある稲荷社です。
天降社と大もみじ
天降社境内の森は古来、「大神宮の森」といって
カエデが多く見られたそうです。現在は森はないですが、1本の大きなカエデが街道沿いにあります。今の時期はまだ葉もなく、寂しいですね。
原町清水
ここ原町は江戸時代両側に家があり、すでに宿場のような雰囲気があったといいます。一膳飯、粟強飯などの茶店、お六櫛などの看板がでていました。
尾州御鷹匠役所跡
はじめは妻籠宿にありましたが、伊奈川にあった鷹の飼育場も統合し、1730年(享保15)藪原宿に移されました。毎年春になると尾張藩より鷹匠と役人が出張し、鷹の巣を見つけ飼育調教をしていました。
飛騨街道追分
この場所にはかつて十王堂(薬師堂)があり、奈川を経て野麦峠、飛騨高山へ通じる飛騨街道(奈川道)の追分でした。直進が中山道、右手の線路側への道が「飛騨街道」でした。しかし中山道はこの先線路で分断されてしまいますので、一旦奈川道へ入り、跨線橋をわたり進んでいきます。
飛騨街道(奈川道)
小木曽地域を抜けると美濃と信濃の国境であったことから
境峠といわれていました。当時、この峠は険しい道で木曽側は湿地であり、板橋をかけて渡っていました。奈川側は岩石だらけの悪路で馬を使うことが困難であったといいます。かわりに尾州陸舟(おかふね)と呼ばれた
奈川の牛が、飛騨ブリの魚介類や塩等の運搬に使われました。明治44年に中央西線が開通すると岡谷の製糸工場で働く
飛騨の女工達が頻繁に往来するようになりました
陸舟(おかふね)で荷物を運ぶ様子
津島大明神と水神・跨線橋
分水嶺となる鳥居峠を下ると中山道と
木曽川が初めて出会う場所です。津島大明神と水神の石碑を過ぎ、跨線橋を渡ります。
藪原宿本陣跡
藪原宿は問屋が2軒あり、15日交代で務め、1714年(正コ4)には問屋と庄屋をか兼ねて勘右衛門が務め、もう1軒の問屋を又佐衛門が務めていました。
1868年(明治元)には、庄屋・問屋を兼務して古畑又佐衛門が、問屋を寺島十佐衛門が務めています。
本陣・脇本陣は1軒ずつあり、本陣は元木曽氏の家臣であった寺島家が務めていました。脇本陣は木曽氏の支族にあたる古畑氏が務めていました。
藪原の町並み
1568年(永禄11)武田氏が相模の海藏寺住職にあてた文書によると「犀不原」と記され、「甲陽軍鑑」には「屋護原」、1685年(貞享2)貝原益軒の「岐蘇路之記」には「藪原」、「木曽路名所図会」にも「藪原」とあり、ヤゴハラ・ヤブハラと呼ばれていたようです。現在は「ヤブハラ」です。
14代将軍徳川家茂に嫁いだ
皇女和宮も藪原宿に宿泊し、翌日鳥居峠を越えました。
貝原益軒
江戸時代中期の儒学・本草学者であり、教育者でもありました。(1630〜1714没)
「岐蘇路記」は、1685年(貞享2)彼が56歳のときに江戸から京都へ帰ったときの紀行文、旅日記です。
藪原宿は険しい鳥居峠を控え奈良井とともに江戸時代から峠越えする旅人で賑わいました。大名の宿泊は木曽十一宿で一番多かったそうです。木細工、花漬などを売る家が軒を連ねていました。
藪原宿の中心部は、1663年(寛文3)、1695年(元禄8)、1850年(寿永3)、1884年(明治17)の大火などで焼失し、宿場の面影が失われてしまいましたが、所々に古い建物が見られます。
旧米屋旅館
藪原宿の旅籠は大1軒、中3軒、小6軒の計10軒ありました。米屋は1613年(慶長18)創業、木曽路でも最も古くからの旅籠であり、江戸時代には脇本陣も努めた旧家でした。明治17年の大火で全焼し、現在の建物は再建したものです。大田南畝、藤田嗣治、伊藤左千夫、作家の堀辰雄なども宿泊しています。
湯川酒店
江戸時代には「菊水」という銘柄のお酒を製造していましたが、現在は「木曽路」というお酒を作っています。大きく「木曽路」という看板が掲げられています。
極楽寺の碑にある「湯川比良夫」はこちらの出身です。本名を寛雄といい、酒造店を営みつつ村長、郵便局長も努めたといいます。アララギ派の歌人がよく藪原に集まり、比良夫は歌人・文人たちに湯川家の離れを「枕流館」と呼び開放していました。
米屋のすぐ先の路地を左へ曲がります。JRの下を通り
「藪原神社」へ向かいます。鉄道を越える場所がほとんどないので、ここを逃すとなかなか鉄道を渡れません。
藪原神社
680年(天武9)の創建と伝わります。三野王(美濃王)が勅使として信濃国巡視を行った際、熊野本宮大社より勧請したものとされ、当初は熊野社として縣坂山頂(鳥居峠)に鎮座していましたが、鎌倉時代に入った1192年(建久3)に縣坂南方(十王)へ遷座、熊野大権現と呼ばれるようになり、1511年(永正8)現在地に移りました。
芭蕉句碑?
「杜かげにワれらもきくや郭公 はせを」
藪原神社参道にありました。「祠官奥谷周防守謹誌」の銘が入りますが、この句は芭蕉の作品という根拠がないようです。誤伝か或いは偽作か・・・・
極楽寺
元亀年間(1570〜1572)郷主、古畑右エ門正貫の創建で、茂林禅師を請じて開山、当初は現在の小学校のある所にあり、禅林寺といいました。度々洪水にあい、現在地へ移り極楽寺と改称しました。1686年(貞享3)古畑勘右エ門が現在の境内を寄進し、1691年(元禄4)禅外和尚が現在の堂宇を建立しました。
湯川比良夫の歌碑
「山川は常静かなり人もまたつちの底ひに安けからまし」
「一心に祈願の甲斐はあらはれよ 朝夕につくかねのひびきに」
藪原宿の湯川酒店の湯川比良夫は「馬酔木(あしび)」同人、後に
「アララギ」同人となります。毎年のように極楽寺に歌人・文人が訪れ、長期に渡り開放し、面倒を見てくれた寺へ記念になるようにと湯川自身が建立したものです。
極楽寺のお六廟
藪原の名産品「お六櫛」のお六を祀った廟です。若いときに極楽寺に逗留したことのある世界的な洋画家、藤田嗣治や近藤浩一郎が描いた街道風俗の絵が合天井や掛け軸に残されています。
極楽寺から眺めた藪原宿
同じ道をたどり、中山道へ戻ります。
防火高塀跡
1695年(元禄8)藪原宿のほとんどが焼失した大火の後、2箇所に四つ辻の広小路を造りました。更に文化年間に石垣を築き高い土塀を作って
防火壁を造りました。現在は一部が残っています。「明治天皇駐輦碑」がなぜかここにありました。
二又水道組合の水場
日曜画家公園を右手に見て進んでいきます。日曜画家公園にも二又の水が引いてあります。木祖村は
全国一の画材(キャンパス枠)の生産地であり、「日曜画家の村」宣言がなされています。
お六櫛工房
お六櫛はミネバリの木で作られ、職人が1本、1本歯を挽いて作ります。妻籠が発祥ですが、ミネバリの木が不足し、享保年間から現在まで藪原宿を中心に作られています。現在、妻籠では生産されていません。
お六櫛のいわれ
いわれについては多くの説がありますが、一般的なものは以下のものでしょう。
江戸時代、妻籠宿の旅籠にお六という娘がおり、脳の病を患ったため御嶽山に願をかけたところ、ミネバリの木で櫛を作り、朝夕髪を漉けば病は癒えるとのお告げを受け、その通りにすると病が治ったといいます。
また、「オロコ」という髪のフケを指す方言が訛ったもの、寸法が六寸だったから・・などの説もあります。
「木曽街道続膝栗毛」のお六櫛工房
1816年(文化13)刊、十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」、挿絵は歌麿の筆であるとされます。
使いやすいというお六櫛を世に知らしめたのが
山東京伝の著書「於六櫛木曽仇討」、後に歌舞伎にもなりました。また、川柳には「木曽山へさしこむ月もお六形」、「木曽山のお六通りのいい女」など多数詠まれています。
高札場跡
高札場から下る坂道を「出口」と呼んで枡形になっていました。
津島社と小林秀之助碑
小林秀之助さん、どなたかわかりませんが、碑の裏側は歯医者さんの小林さん・・ご先祖様でしょうか。
本日は藪原駅から帰宅します。小さな川に架かる小さな橋を渡り、階段で川の下へ降りて線路下を渡ります。
藪原駅と望月紫晃の句碑
藪原駅前公園に望月紫晃の句碑がありました。「逢うも駅訣るるも駅いわし雲」平成10年に地元の「黒姫俳句会」が建立した新しいものです。
16:00 午後からお天気がスッキリしないのが残念でしたが、鳥居峠を越える旅は楽しいものでした。本日は藪原駅から帰宅します。