紅花の価格は米の4倍。武州紅花の集散地、紅花商人が財を成す

2018年10月7日

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12:30 次の宿場、桶川宿へ向かって進みます。

上町の庚申塔

1745年(延亨2)建立。側面に「上尾上町講中」と刻まれています。上尾宿家並みの最北端だと考えられているそうです。

酒蔵 文楽

1894年(明治27)、上尾市平塚に創業。1904年(明治37)にここへ移転しました。創業120年以上の老舗ですが、蔵はとても新しく、近代的でおしゃれな建物です。

平成の道標

屋根の上にちょこんと鍾馗様がのっかっています。中国伝来の鍾馗様は、魔除け、火事除けとして上尾宿では5か所見られます。

昔、京三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ、向かいの住人が突如病に倒れたため、鬼より強いとされる鍾馗様を作り、屋根にのせ魔除けにしたところ、病が治ったとされています。

鍾馗をモデルに五月人形なども作られています。

紅花問屋の黒板塀

武州紅花仲買問屋であった須田家の敷地の壁です。中山道を利用して、加工した紅餅を京都へ出荷して財をなしたそうです。

紅花は、米の4倍程度の価格で取引され、特に桶川の紅花は温暖な気候のため、他の地域より1カ月ほど早く収穫されるため、重宝されたそうです。桶川あたりは、一面、紅花畑だったそうで、驚きます。 幕末になると、山形に次いで全国2位の生産量を誇ります。明治に入ると、化学染料が導入され、徐々に衰退していきました。

紅餅

紅餅は、食べるお餅ではないです。紅花から黄色色素を抜き、発酵させると粘りがでるので、臼でついて団子状に発酵させます。これを手のひら大に丸めて団子状にして乾燥、これが紅餅です。 紅花は、こうした紅餅にして出荷し、出荷先で口紅や食紅、染料などに加工します。

この木、なんでしょうか。見たことがない樹木です。

上町の文字庚申塔

1769年(明和6)に建立されました。こうした文字庚申塔は、江戸時代中期から後期にかけて文字のみで彫る形式が増加していくそうです。

これも江戸時代の合理化なのでしょうか・・

下の木戸口跡

建物はとてもく新しいのですが、屋根に鍾馗様が乗せられていました。

旅籠 武村旅館

1852年(嘉永5)に建てられた紙屋半次郎の旅籠を板橋宿から移転してきたそうです。旅籠武村は、明治初期に旅館業を営みました。

現在も当時の建物のまま営業を続けています。

明治末期頃には、正面東側部分を突き出させた寄棟造りに改築したと思われますが、間取りは現在もほぼ同じだということです。

「べにばなまんじゅう」のべにっこさん

2000年(平成12)町おこしのために、桶川の特産物であった紅花を使って作られたお饅頭、「べにばなまんじゅう」を売っているお店です。

浄念寺

1546年(天文15)創建。朱塗りの仁王門には二体の仁王像(阿吽像)が左右に収められ、荘厳です。仁王門は、1701年(元禄14)に再建とあり、二代目のようです。仁王門の上部には梵鐘がありますが、現在のものは昭和40年に作成されたものです。元々は、1741年(寛保元)に鋳造された美しいものでしたが、第二次大戦時に供出されてしまいました。

桶川駅

14:30 本日はここで終了します。

桶川宿の中心地はまだ見ていません。次回、見ることにします。

2018年10月27日

再び桶川へ戻ってきました!朝、雨が降っており、1時間ほど出発を後らせると雨はやみましたが、まだどんより曇っています。じきに晴れてくる天気予報です。期待しましょう。

9:00 桶川駅を出発します。

桶川町道路元標

島村家住宅土蔵「お助け蔵」

1836年(天保7)江戸後期の建築です。島村家は穀物問屋と紅花問屋を営みました。木嶋屋の総本家で、天保の大飢饉で失業した人々に仕事を与えるために作られました。

島村家の銀木犀

蔵を作った当時に植えられたものだそうです。金木犀はオレンジ色の香りの強い花を咲かせますが、銀木犀は白い花で香りはそれほど強くないです。金木犀と同じ10月頃に花を咲かせます。

小林家住宅主屋

江戸時代末期に旅籠として建築されました。その後は材木商を営み大きく改修されましたが、外観は当時の姿をとどめています。

矢部家住宅

矢部家は屋号を「木半」(木嶋半七)といい、穀物問屋、紅花の商いを行っていました。稲荷神社に残る「紅花商人の石灯籠」にも名を連ねています。奥のほうの蔵(写真だとちょっとだけ屋根が映っている)は明治17年建築。屋根の鬼瓦上から鋳鉄製の棘状の飾りがでており、「烏」あるいは「鳥おどし」と呼ばれる鳥よけだそうです。中山道に面した土蔵造りの店舗は明治38年の建築です。

桶川宿本陣

埼玉県内で唯一現存する本陣です。府川家が務め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっていました。「上段の間」「湯殿」などが現存していますが、住宅として住んでいらっしゃるようで、中を見ることはできないようです。1861年(文久元)皇女和宮、下向時に宿泊、また1878年(明治11)、明治天皇巡幸の際には行在所ともなっています。

中山道宿場館

桶川宿の情報や桶川市内の史跡、環境情報などを提供しています。

桶川宿手洗い処

トイレや休憩施設があるポケットパークです。手押し井戸は壊れているようでした。

お茶博士碑

辻村みちよ博士は、緑茶の中にカテキンが含まれていることを世界で始めて発見した研究者で、日本初の女性農学博士です。

こちらが辻村みちよ博士です。桶川で生まれ、学童期を過ごしました。この碑は元々、終焉の地であった豊橋市の自宅に建てられたものを生誕の地、桶川へ移譲されたものです。

今ではお茶といえばカテキン、という時代になりました。

稲荷通り

消防倉庫のシャッターには桶川のシンボル「紅花」が描かれています。

ケヤキの中のお稲荷様

稲荷神社

創建は1134年〜1227年、はっきりとわかっていないようです。1693年(元禄6)に桶川宿の鎮守となりました。

力石

薄くなっていますが、よく見ると文字が刻まれています。

三ノ宮卯之助

この力石は610kg、力比べに使われた力石としては日本一重いとされています。この石を持ち上げたのは、岩槻(現越谷市)の三ノ宮卯之助という江戸で勧進相撲を務めた江戸一番の力持ちとして評判の力士。卯之助の名が残る力石はこのほか千葉・神奈川・長野や兵庫など全国で32個が確認されているそうです。

このように彫られているそうです。「大盤石」とは力石の中でも特別大きい石を指します。大盤石は全国でも4か所しかないそうです。

興行の際のポスター

卯之助は45歳の時にこの力石を足で持ち上げる「足指し」で行ったといいます。ポスターに足で持ち上げる絵が描かれています。

いや〜いくらなんでも610kgを本当に持ち上げられたのでしょうか・・万が一自分のほうへ落っことしたらどうなるか・・考えただけで恐ろしいですね。

紅花商人の石灯籠

紅花商人24名の名が刻まれています。紅花で大変栄えたというからお礼として寄進したものでしょう。かつての紅花商人の繁栄を伝える灯籠です。

紅花の別名「末摘花」、花の赤い不美人という意味もあるようで、源氏物語の末摘花も「赤い花の不美人」という意味で付けられた名前だったようです。

村田家稲荷

案内板があるのですが、古くてなかなか読めず・・でも祠の中はからっぽでした。

大雲寺

1557年(弘治3)の開山です。本陣当主の府川家の墓や江戸時代の俳人府川志風も眠るお寺です。桶川宿の上方(京側)にあり、上の寺とも呼ばれていたそうです。

本堂

女郎買地蔵

飯盛女に熱を上げて通い詰める若い僧がいると聞いた住職は、必ず見つけ出して仕置きをすると約束しました。次の日、地蔵の背に鎹(かすがい)がうたれ、鎖で縛られて動けなくしてしまいました。住職は若い僧の罪を地蔵に被っていただいたゆえ、以後は心を入れ替えて精進するよう、若い僧を諭したのだといいます。

一番右のお地蔵さまです。

背中には今でも鎹(かすがい)が打たれています。

ぴっかちゅう〜

桶川一里塚跡

1876年(明治9)に取り壊されました。塚には杉が植えられ、根元には石の妙見様が祀られていました。妙見様は現在、駅前の個人宅裏庭に移されて現存しているそうです。

上の木戸址

松山道道標

東松山市にある箭弓(やきゅう)稲荷神社への道を示すもので、1836年(天保7)に建てられました。日本橋のたもとにあった魚市場の人々が稲荷講を組織し、神社参拝の目印に建てたとされます。「以奈り」は、魚を図案化した当て字だそうです。

魚のロゴが入っています。
10:30 次の宿場、鴻巣へ向かって進みます。