2019年5月1日
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13:00 本日の最終目的地、望月を目指して進みます。望月までは僅か3.7kmです。
大きな馬頭観音・小さな道祖神
百沢橋
左手の山裾に五郎兵衛用水の「百沢堀貫(約153m)」があるそうですが、どのあたりから見えるのかわかりません。近くには1661年(寛文元)に掲げられた「八幡制札場跡」もあったようですが場所は不明です。案内板があるようですが、場所がわかりません。山の中でしょうか。制札には、五郎兵衛新田の用水のため立ち入らないように、という内容だったようです。
五郎兵衛用水
五郎兵衛用水は寛永年間に
市川五郎兵衛真親が中心となり、旧春日村より旧五郎兵衛新田村まで約20kmに及び引水した用水です。戦国時代が終わると五郎兵衛の祖父は、
家康に士官を請われますが、これからの時代は鉱山や田畑の開墾の事業を行いたいと申し出、家康からそれらの事業が行える
朱印状をもらい、佐久に領地を与えられ、上州より信州に移り住みます。水源は蓼科山の
湧き水(五斗水)、水源の水を岩下川(細小路川)に落とし、湯沢川との合流点で堰き止めて取水し、そこから山沿いに掘貫で矢島原まで用水を引水し、五郎兵衛新田が開墾されました。
布施川
五郎兵衛用水の絵図を見ると、布瀬川と並行し、山裾を通っているようです。布施川を渡り少し山を登ると見られるのかもしれません。
八幡裏用水隧道竣工記念碑
石碑は布施川より少し上部の山に見えました。「五郎兵衛用水土地改良区、昭和57年土地改良事業」などと彫られていて、昭和30年台より用水は近代的な用水への改良工事が行われています。
百沢橋から旧道へ入ると景色が一変し、旧道らしいのどかな景色になります。
百沢の集落には旧家が残っています。
双体道祖神
精巧な彫りは、中山道最高傑作の双体道祖神と言われています。祝言型の道祖神で、男神は衣冠束帯、女神は十二単の宮廷貴族様式で、伊那の高遠石工の手によるものと考えられています。
高遠石工
信濃国の高遠の石工集団で、1187年(文治3)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっており、由緒に基づき全国を行脚しており、その作品は全国に存在します。とりわけ地元の伊那谷周辺や安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものだそうです。
二十三夜塔・百沢集落
元禄の中山道道標
「右中仙道 左布施谷」と彫られ、1697年(元禄10)の建立です。中山道の表記は当初はバラバラで「中山道」「中仙道」の両方が存在していました。1716年(正徳6)に「中山道」に統一されました。この道標は、統一される前のものです。
元禄の中山道道標から山道へ入り、金山坂を登ると、突き当りのところで旧道が消滅してしまいます。看板のところから迂回路を進み、瓜生坂へ向かいます。
国道を開削したため旧道が消えましたが、一部残っている場所がこちらです。この看板から東側の地形は変わっていないと思いますが、草刈りなどがされていなく、歩けるようにはなっていません。西側は国道になっており、地形が全く変わりました。畑や草むらを歩いてトンネル上部を越えることも出来そうな気もしますが、危険なりで迂回路をぐるっと回り瓜生坂へ向かいます。
むらおこし道祖神
むらおこし道祖神は、商工会が行政や住民の協力を得て、昭和61年に建立し、高さ2.3mもある日本一の巨大なものです。地元の畳石地区から産出された「大門石」と呼ばれる自然石でつくられています。望月地域は石仏の里と呼ばれ、鎌倉時代以降、辻つじに建立されてきた石仏は3000体を超えるそうです。道祖神は140体あまりが点在しています。
瓜生坂一里塚
ほぼ原形を留めていません。エノキが植えられていたと伝わっています。
東の瓜生峠はその先で甲州道が分かれており北へ行くと北国街道の田中宿があり、上田城下や祢津町陣屋へつながっています。
瓜生坂碑・百万遍供養塔・観音様
瓜生坂は東山道にあたると考えられており、その痕跡も発見されています。坂を下らずに真っ直ぐ行くと「望月城」へ行けます。当初は寄る予定でしたが、雨が酷くなってきましたので、残念ですが寄らずに望月宿を目指します。
瓜生坂碑のところからジグザグに未舗装路を下っていきます。瓜生坂には
松並木があったそうですが、昭和13年には消滅してしまったといいます。
瓜生坂の道祖神
かなり古そうな道祖神が佇んでいました。
雨に霞む望月宿が見えてきました。長坂を下りていきます。
大応院跡
当山派の修験寺で、寺社奉行からでる命令や交渉ごとを司る
触頭(ふれがしら)も務めていました。ここから2kmほど下った古宮の鹿曲川左岸の断崖にあった佐久補陀山観清寺の別当も兼ねていましたが、明治5年に廃寺となりました。今は石仏だけが残ります。
長坂の道祖神
僧衣姿のあどけない表情に人気があるそうです。
新町宿と上宿分岐点
中山道は、長坂を下りると鹿曲川で右手へ折れて新町を通り中之橋で鹿曲川を渡り、大通りの望月本町へ至っていましたが、1742年の「戌の満水」とよばれる大洪水で新町宿52軒が流出したため、現在のように長坂を下りて左へ向かい、長坂橋を渡りぐるりと回るような道筋になりました。
望月宿には古い街並みが残っています。カメラに雨粒がついてしまったようです・・・・
16:00 本日宿泊する
井出野屋旅館へ到着しました。井出野屋旅館は、映画金田一耕助の撮影が行われた宿として知られています。雨がかなりひどくなってきましたので、宿場内の散策は明日にして、早々に宿へ向かいます。