2021年5月23日
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7:00 藪原駅を出発します。本日は晴れの天気予報ですが、どんよりと曇っています。藪原駅に車を駐車しておきました。
菅橋
国道から旧国道のほうへ少し入り、菅橋を眺めます。戻って再び国道を進みます。菅橋
昭和6年に藪原スキー場が開設、また菅には野中眼科・奥原医院(民蘇堂)という全国的にも名医として知られた病院があり、藪原駅で下車し、3kmほど歩いて菅に向かう患者が増えました。しかし木曽川は歩いて渡っていたため、昭和8年に村内初の永久橋として菅橋が架橋されました。 新しい国道ができ、現在は橋の先が道路とつながっていませんが、土木遺産として保存されています。 菅橋先の中山道は、国道よりも少し西側へ入り、更に吉田洞門の上部斜面を少し上り、高巻きで通行していましたが、今は廃道となっていますので「吉田洞門」を進んでいきます。吉田洞門
洞門の右手、木曽川沿いに歩道がありますので安全に通行できます。山吹山
標高は1087m、木曽義仲の愛した女性の一人、山吹御前が由来とされます。現在、国道は山吹山を巻くようにカーブしており、JR中央東西線はトンネルで貫かれています。 古来より紅葉の名勝として知られ、山頂には木曽義仲の築いた物見の跡があるらしいです。 この山の山吹には煎じて飲めば安産、虫歯を押さえれば痛みが取れるなどの色々な言い伝えがあります。権兵衛街道
木曽は狭い谷のため水田が少なく、伊那や松本領から米を運んでいました。神谷に住む古畑権兵衛は山を隔てた伊那から最短で米を運ぶことを考え、幾多の難工事の末、馬の通れる峠道に改修しました。権兵衛街道は「米の道」とも言われ、伊那から米、木曽から漆器などが運ばれ、多い日には千頭もの牛馬が往来し重要な通商路として栄えました。権兵衛街道開通以前は「鍋懸峠」と呼ばれていましたが、開通後は「権兵衛峠」と呼ばれるようになりました。権兵衛茶屋
左は1978年頃、営業していた権兵衛茶屋。右は2012年のストリートビューで、在りし日の権兵衛茶屋が写っていました。2012年には既に営業はしておらず、草に埋もれた廃墟となっています。権兵衛街道の民話
藪原宿にそば好きの僧がやってきました。藪原のそば屋を食べ歩き、そばが全てなくなるほど。困ったそば屋は僧を食い負かす者がいないかと探していました。 近隣の神谷には木曽一の力持ちといわれる権兵衛という木こりがいました。大食漢としても有名で、そば屋は権兵衛にそば食い競争をさせることにしました。二人は喜んでそばを食べていましたが、権兵衛が苦しくなってきた頃、僧は突然倒れ、息絶えてしまいました。権兵衛は僧を死なせてしまったことを後悔し、これからは人のために尽くそうと木こりをやめ、荷物を運ぶ馬方になりました。往時、木曽では米が取れないため伊那から運んでいましたが、道は狭く崩れ、谷へ落ちる人が絶えませんでした。ある日、権兵衛が馬で峠越えをしていましたが、崖崩れにあい馬は谷底に・・またしても自分は生き残ったことから、罪滅ぼしのためにも峠道を直すと誓い、村々に呼びかけ、最後には木曽代官山村氏までも動かし、伊那へ抜ける新しい道を開拓したのでした。農業用水路
社殿の修理をしていた氏子さんか神主さんかわかりませんが、いろいろお話をしてくださいました。社殿を柿渋で補修するので秋には綺麗になるとお話されていました。旭乃瀧
古文書に記された幻の滝でしたが、2014年に氏子ら有志が山腹を流れる農業用水路(上堰)からパイプを引くなどして落差20mほどの滝が復元されました。 冬には凍りつき幻想的なのだそうです。社殿も綺麗に補修されるそうですので、冬にもう一度来てみたいですね。謡曲「巴」と巴淵
木曽の僧が滋賀の粟津原に来ると、一人の里女が「木曽義仲が討ち死にした場所で弔ってほしい」と社の前で泣いていました。僧が読経していると女は武装して現れ、「私は巴という女武者、義仲の供をして自害しようとしたが、女だから許されなかった」と語ります。巴の霊は主君の義仲と最期を共に出来なかった無念さと義仲への恋慕から成仏できずにいたのでした。そして義仲との合戦の日々や、義仲の最期と自らの身の振り方を克明に描き、執心を弔うよう僧に願って去って行くのでした。南宮神社手洗水
中山道分間延絵図には「義仲嗽(すすぐ)水」と書かれています。上の石碑に「往昔木曾義仲公鎮守南宮神社手洗水也唱来發年歴事歎今新石船造立仕者也 願主 村中」と彫られています。 水は一筋のみ滴り落ちている状況で、いずれ一滴も出なくなるかも・・・心配です。徳音寺の道祖神と石仏
右手の道祖神から右へ入っていくと墓地が残され、石仏が並んだ覆屋があります。このあたりは旧寺屋敷で、石仏や共同墓地が残されています。徳音寺の旧家
有栖川宮碑がある旧家は、元豪農で苗字帯刀を許されていたといいます。右の旧家は「まるや」と屋号が掲げられています。葵橋公園
ここでちょっと一休み。 「葵」は木曽義仲の供をした女性で「源平盛衰記」に登場します。巴と並ぶ女性戦士でしたが、倶利伽羅峠の合戦で戦士したとあります。 「葵橋」を渡り、右へ曲がると宮ノ越宿ですが、ここでちょっと寄り道。正面のJRガードをくぐり、河岸段丘を登り「旗挙八幡宮」へ向かいます。旗挙八幡宮の大ケヤキ
木曽義仲の元服を祝って植えられたとも旗挙げ時に植えられたとも言われています。樹齢800年の大ケヤキは落雷や台風によって傷つき、平成14年に延命のため枝一本を残し、上部は伐採されました。また傍らの2代目のケヤキは樹齢150年になります。左・木曽宣公奮里之碑(きそせんこうふるさとのひ)右・木曽義仲公出陣之地碑
1813年(文化10)木曽代官山村良由(たかよし)が撰文、揮毫した木曽義仲の生涯が漢文で記されており、名文として知られています。元は中山道からの参道入口にありましたが、国道や鉄道の敷設に伴い、現在地へ移設されました。「かけはしの記」によると正岡子規はこの碑の拓本を徳音寺で購入しています。 「木曽義仲公出陣之地碑」は、義仲がこの地より北陸へ出陣した旨が七言絶句で記されており、作者は千村春潮となっています。巴淵にあった歌碑と同じ方ですね。旗挙八幡宮と木曽義仲館跡碑
幼名を駒王丸といい、養父中原兼遠によって育てられた義仲はこのあたりの平地に城を構え、八幡宮を祀ったと伝えられています。13歳で元服、木曽次郎源義仲と改め1180年(治承4) 27歳の義仲は高倉宮(以仁王もちひとおう)の令旨を賜り、千騎を従えここで平家打倒の旗挙げをしました。木曽義仲館跡碑は昭和57年に「木曽義仲公800年祭」を記念して建立されました。 宮ノ越付近は木曽谷には珍しく、河岸段丘の発達した土地です。旗挙八幡宮から宮ノ越宿を眺めるとよくわかります。新緑が美しいですね。 旗挙八幡宮をあとにして、先ほどのJRガードまで戻り、宮ノ越宿へ向けて進んでいきます。馬頭観音と日義村道路元標
義仲と巴の銅像
義仲館の庭にある銅像です。工事中でしたが、庭に入っていいよ〜とのことで、入らせていただき、写真を撮らせていただきました。義仲ツリーハウス
手作り感100%の遊具、とても楽しそうな遊具ですよね〜でも使用禁止になっています。 新緑が綺麗ですね〜色とりどりの緑色。お泣き地蔵
泣きたいときにお参りすると代わりに泣いてくれるそうで、笑顔で帰れるといいます。20cmほどのとても小さなお地蔵様です。徳音寺山門と本堂
鐘楼門は木曽義仲24代の孫、木曽玄蕃尉義陳の発願により、尾張藩の犬山城主、成瀬年人正藤原正幸の母堂が施主となって1723年(享保8)に巾番匠棟梁藤原朝臣大和流狩戸弥兵衛久正の手によって建立されたもので、「木曽八景」の一つに数えられています。木曽八景
横井也有が選んだとも、天保年間に歌人でもある代官山村良由(蘇門)が尾張藩士の松本秀雲に選ばせたとも言われています。 徳音寺の晩鐘のほか、小野の瀑布、棧の朝露、寝覚の床の夜雨、風越山の晴嵐、与川の秋の月、御嶽の暮雪、駒ケ岳の夕照が選ばれています。徳音寺
木曽義仲が母の小枝御前を弔って1182年(寿永元)に先程通ってきた徳音寺集落に柏原寺を建立したのが始まりです。柏原は宮ノ越の旧名です。2年後に粟津で義仲が討死すると、大夫坊覚明(西仏上人)が小枝御前の隣に義仲の墓を建て、義仲の法名にちなみ「徳音寺」と改めました。その後衰退しますが、1579年(天正7)に大安和尚が中興、2度の水害にあい、1716年(享保元)に現在地へ再建されました。木曽義仲霊廟
木曽義陳の発願により天明年間に建立されました。木曽一族郎党の位牌が祀られています。義仲像は昭和50年に奉納されたものです。義仲墓
一番上の中央が義仲の墓、1段下の左手が巴御前のお墓、右手が小枝御前墓です。巴御前の法号は「龍神院殿」巴淵の龍神伝説に因んでいるのでしょう。山吹御前
山吹御前は義仲に伴って京都へ入りましたが、重病となり義仲最後の出陣において行かれました。後を追いますが、会えずに敵方によって殺された。あるいは重病により路傍で倒れたとも言われています。大津駅前には山吹御前の碑があります。白蛇の清水
覚門和尚は霊夢により白蛇が遊ぶ清泉を発見し、この地に決めたとされます。本堂裏には滝のような水が流れており、犬山城主、成瀬公はこの滝をこよなく愛したそうです。葉わさびがびっしりと茂っています。