笠取峠の松並木は、東海道の御油松並木と肩を並べる!

2019年5月2日

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11:30 芦田宿をあとに笠取峠へ進んでいきます。

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常夜灯

笠取峠へむかい、坂道が始まります。常夜灯は復元です。

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双体道祖神

石畳の江戸側入口にある大きな双体道祖神は復元です。石畳は元々あったものではなく公園整備の一環で行われた石張舗装です。
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TOO001 このあたりは「松並木公園」として1993年(平成5)に完成した史跡公園です。笠取峠の松並木は1kmにわたり樹齢150〜300年の老松が残っています。

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三石勝五郎歌碑

1888年(明治21)南佐久の青沼村で生まれた詩人です。五無斎が開いた私塾・保科塾で学び、五無斎(保科百助)に師事しました。「指圧の心母ごころ 押せば命の泉わく」日本指圧学院校歌「指圧讃歌」の一説で浪越徳次郎がわっはっは!とTVでやっていたことを覚えている人も多いと思いますが、浪越徳次郎と三石勝五郎は東京大空襲の際、壕内で知り合い、易もしていた三石とどちらも親指でさばくと意気投合し、「指圧讃歌」の原形は三石勝五郎が作ったとされます。郷土愛に溢れた歌を多く残しています。
『かりがね渡る笠取の 峠の茶屋はなけれども残るふもとの松並木 芦田の芦の先に見ゆ』

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街道脇には湧水が勢いよく流れています。
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保科五無斎歌碑

小さな石橋を渡った所に保科五無斎の歌碑があります。1868年(慶応4)北佐久郡横鳥村で生まれた鉱物学者、教育者。鉱物を集めるために長野県内をくまなく歩きまわりますが、その姿は乞食同然、尋常高等小学校校長に就任した際は、部落差別撤廃を実践し村を追われてしまいます。保科塾は、貧しさから進学できなかった者を対象として開きました。また、図書館の必要性を訴え、自らも寄贈し信濃図書館(現県立長野図書館)の創立には保科の貢献が大きかったようです。 1904年(明治37)読売新聞が募集した「奇人百種」では保科を紹介した文が一等に入選しています。

『我死なば佐久の山部へ送るべし 焼いてなりとも生でなりとも』

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1604年(慶長9)頃に小諸藩が江戸幕府より下付された数百本の赤松を近隣の村人ともに植栽し、その後も捕植を行い、保護・管理を続けてきました。

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桜は、ほとんど散っていました。

松が植えられた際、制札版と「従是西御並木敷地七拾三間定杭」と書かれた杭が建てられました。制札版には松の枝葉一切採ってはならない、などが記されていたようです。

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若山牧水句碑

『岨道(そわみち)のきわまりぬれば赤ら松 峰越の風にうちなびきつゝ』『老松の 風にまぎれず 啼く鷹の 声かなしけれ 風白き峰に』 毎年のように信州を訪れた牧水、妻は長野県塩尻出身の若山喜志子、彼女も歌人でした。

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金明水

笠取峠にある金明水を模して復元したものでしょう。金明水は峠が削られ、既にありませんので水源はどこから引いているのでしょうか。峠の復元金明水も涸れていますが、こちらにも水はでていません。

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和宮石碑レリーフ

和宮東下の行列のレリーフ「萬歳 皇代能豊水」の銅板が飾られています。

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広重 芦田宿

笠取峠の松並木は、「木曽街道 六十九次 芦田宿」に描かれています。

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吉村煙嶺句碑

北佐久郡横鳥村出身で、本名は吉村源太郎といいます。五無斎とも交流があり、大正14年に「一茶翁百年記念集」を編集しました。また、初代小諸町長となったそうです。小林一茶は、長野の生まれで北国街道柏原宿に生家があります。

『古道の名残も捨て難けれども 繕う多道や 春めく人通り』

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領界石

「従是東小諸領」と彫られた領界石は復元です。元々はここより1.7kmほどの笠取峠にあったもので、小諸藩が1806年(文化3)、領界の東西へ建立したもののうち、西側のものを復元しています。2度めに造られたものが、小諸の懐古園内に移設されています。東端の領界石は小田井と追分原(御代田町)にありましたが、現在はありません。1番最初に設置されたものは、芦田宿の土屋本陣の庭に上部が破損した領界石が横倒しにされているということですが、確認していませんので不明です。この西側領界石を堺に西は、幕府領でした。

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国道142号を横切り、すぐに旧道へ入ります。

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薬草園

あまり手が入れられていないようで、草が生えているだけのスペースになっているみたいですね。
TOO001 当時は700本の松が植えられていたとされますが、現在は70本程度とされます。記録が残っているものとしては、1845年(弘化2)には、602本、1924年(大正13)には、229本、1971年(昭和46)には、129本、2008年(平成20)には、73本、2010年(平成22)には70本とされます。

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笠取峠の松並木を抜けると国道となります。笠取峠は、峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことから名がついたとされますが、「雁取峠」とも呼ばれていました。

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笠取峠の一里塚

江戸より43番目の一里塚です。南塚は、昭和初期の道路改修のためなくなり、北側を残すのみです。残っている資料では左は松、右には木立がない、とされ後の資料にはエノキとあるようです。

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双体道祖神

一里塚のすぐ横にある双体道祖神です。かなり新しいように見えますが、近年建立したものでしょうか。

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笠取峠竣工記念碑

笠取峠は、古来は東山道、江戸時代は中山道として東西の交通の要衝でありました。交通の難所であった笠取峠の道路改修は昭和59年〜平成7年まで行われ、竣工した際の記念碑です。

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笠取峠は道が切通しとなっています。江戸時代は切り通されておらず、道路左右の斜面が繋がっていていました。明治34年に道路を通すために切り通されてしまいました。現道路より7.5mほど上部が江戸時代の笠取峠でした。標高は887mです。

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江戸時代の笠取峠

現道路より高い位置に笠取峠の杭があります。杭の高さの所が江戸時代の笠取峠でした。峠の峰には立場茶屋が2軒あったそうですが、小松屋のほうは規模が大きく、よく知られていたようです。

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立場茶屋

峰の斜面にていられていた茶屋の様子がよく描かれています。これは、幕末の頃に小松屋が宣伝用に店と風景を彫った木版画を発行しました。「三国一力餅」、「浅間山一見所紅葉松風の名所」などの文句が並びます。藤棚もあり、「道中たっしゃ薬」「せんきの妙薬」などの薬も売っていたようです。立場図の版木は長久保宿の竹内家(釜鳴屋)に保管されています。
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金明水・銀明水

立場茶屋の木版画にも描かれています。絵図からすると金明水は縦井戸、銀名水は横井戸だったようです。峠が削られ、無くなってしまいましたが、長久保宿の皆さんが平成17年に復元しました。当初から水量は少なかったようですが、現在は涸れているようですね。

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馬頭観音

江戸時代の笠取峠の木杭の横に佇む馬頭観音は、天保期の建立です。茶屋は明治34年の道路改修の際に取り壊されましたが、この時、小松屋は笠取峠一里塚の脇へ移転しました。

太田南畝(蜀山人)の「壬戌紀行」から

深谷から讃岐の金毘羅参りに詣でた親子、親は近江で病死してしまいます。残された幼い子供を竹籠に乗せて縁者の元へ継ぎ送りしていた一行が峠で休んでいる所に出会います。伝馬制度がこうしたことにも利用されていたことが伺い知れる一節です。

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学者村

昭和40年代に当時の長門町(現長和町)によって開発され、現在も町が管理をする長和町直営の別荘地だそうです。別荘地ですが、セカンドライフを過ごす定住者も多いそうです。

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峠の茶屋

ちょうどお昼ですので、こちらで頂きました。メニューはお蕎麦や定食が主で「茶屋」らしいメニューは無かったですね。焼き肉定食を頂きました。食後にコーヒーがついていまして900円でした。小鉢にたっぷりの昆布の佃煮とうめぼし2つ、塩分のとりすぎが気になります。味は普通ですね。もう少し「峠の茶屋」的雰囲気があるといいと思いますが・・・
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笠取峠立場茶屋版木

小松屋の木版画がタイルに焼いて擁壁に貼られています。絵図の中に「小松亭宝天之三光石」というものがイラスト入りで描かれています。この石はどんな石だったのでしょうか。また現在どうなったのでしょうか。とても気になります。

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中山道原道

道路と道路の間の未舗装道を下っていきます。ここから石原坂が始まります。明治期に国道ができると旧道は忘れられ、100年ほど放置されていたそうですが、長久保宿の皆さんが整備してくださったそうです。
TOO001 石が積まれた跡があり、何か建物が建っていたのでしょうか。

TOO001 所々に道案内があります。200mほど下ると、大きな枝垂桜のあるアスファルトの道にでます。町指定の保存樹木となっている枝垂桜で、樹齢は150年とされています。

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馬頭観音・地蔵

アスファルトの道を100mほどでS字カーブとなり、カーブの中心に馬頭観音とお地蔵様が佇んでいました。お地蔵様は首が折れてしまったのでしょうか。丸い石がくっつけてありました。
TOO001 ガードレールの切れ目から旧道へ入り、急な坂道を下ります。

TOO001 山道となりますが、次第にが多く見られます。しかも岩が割れたような石ではなく、明らかに川にある角がとれた丸い石です。石が多かったので「石原坂」なのでしょう。

TOO001 中山道原道西側

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石原坂

このあたりも舗装されていない斜面を見ますと、堆積した丸い石が多く見られます。石の地層のような感じで石の中から樹木が生えてきているようです。小諸や佐久はフォッサマグナにあたる中央隆起帯に入ります。隆起して山になったため、大昔はこのあたりは川かあるいは河岸段丘だったと思われます。

TOO001 しばらくアスファルトの道を下ると再び未舗装道への案内板があります。

TOO001 アスファルトの道から石積擁壁上のガードレールが途切れているところが松尾神社への入口です。石積擁壁の横を通るように下って行きます。

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松尾神社

京都の「松尾神社」祭神を分霊して祀り、酒造の守護神として近隣の酒造家の信仰を集めています。以前は長久保の横町裏にありましたが、小学校の校庭拡張のため昭和33年に現在地へ移動しました。拝殿は1827年(文政10)茂田井村の別府兵左衛門秀信の建築によるもので、本殿は1860年(万延元)に宮大工、三代立川和四郎富重により再々建築されたものです。

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大井廣歌碑

明治43年長久保町に生まれ、教育者として務め、最終的には立命館大学の教授に着任、歌の他にも書も素晴らしく、歌碑の文字は本人の書だということです。

『のぶどうのみのりて あらんふるさとや しなののくにの こほしかりけり』
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大山獅子

獅子舞の創始年代は不明ですが、1557年(弘治3)松尾神社の再建時、地固めに獅子舞を行ったとの伝承があります。舞は雄獅子2、雌獅子1の3頭で行われ、唄や笛、太鼓は京都系の優雅なもので舞いは古式を伝えています。現在でも秋季例祭で松尾神社に奉納されています。

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五十鈴川

川の中にも石がゴロゴロしています。

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長久保宿へ入ってきました。長久保宿は、当初は現在の位置よりも西下の依田川沿いに設けられていましたが、大洪水によって流出したため、1631年(寛永8)段丘上のこの地へ移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」を形成し、後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」を形成していったため、L字型の町並みになりました。

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吾一庵

江戸末期から明治初期の建物です。農家ですが、馬も取り扱っていたようです。農家らしい造りで主屋の後方に馬屋がありました。その後養蚕や乳牛を飼っていたこともあり、馬屋はその都度改装されて使われてきました。
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旅籠丸木屋

1867年(慶応3)に建てられた丸木屋は、トタン葺きの現代的な建物に改修されていましたが、平成27年に町が取得し、江戸時代の外観に復元しました。特に屋根は当時の板葺き石置き屋根を実現し、写真でわかりにくいかもしれませんが屋根に石が見えます。

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一福処濱屋

建物は明治時代の初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったために開業に至りませんでした。宿内でも大きな建物です。平成12年より旅人の休み所として資料などの展示スペースとして活用しています。
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石合本陣

石合家は建坪226坪、本陣・問屋を代々務めてきました。四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の娘、スエが嫁いできています。現在でも「御殿」と呼ばれる座敷棟と表門は残っています。御殿には、書院造りの上段の間が残り、1749年(寛延2)頃のものとされ、中山道に現存する最古の本陣とされています。1749年(寛延2)五十宮が十代将軍家治に輿入れの際、宿泊しています。

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高札場

建て直されているとは思いますが、当時のような大きな高札場です。

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天保14年の調べによれば長久保宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒がありました。旅籠43軒は中山道の中でも塩尻に次ぐ数を誇ります。大門街道、丸子、大門方面からの交通量も多かったからです。

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竹内脇本陣

当初は武重家(亀屋)が務めていましたが、1802年(享和2)より竹内家が務めています。建坪130坪、門、玄関を有していました。1872年(明治5)より校舎として利用されましたが、その後取り壊されてしまいました。

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釜鳴屋(竹内家住宅)

江戸時代初期より酒造業と醤油の醸造を手がけ、長久保宿の役職も兼ねていました。建築年代は明らかではありませんが、1749年(寛延2)の絵図に記載があることや、玄関の棟札が1731年(享保16)ということから、それ以前に建築されたものであるとされています。本うだつが一際目を引き、長野県内では最も古い町家建築であると言われています。現在も風情のある町家の様式を残しています。書家の大御所・細井広沢が釜鳴屋の酒「白菊」を褒めて、「上酒有」と看板を書いたといいます。また、笠取峠立場図の版木はこの釜鳴屋に保存されています。

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問屋(小林家)

問屋は、石合本陣と小林家が1ヶ月に15日ずつ交代で行っていました。主屋は明治3年の大火後の建築で、土蔵の板壁には谷文晁が描いたとされる恵比寿と大黒の壁画があります。屋根には真田氏との関係が伺われる「六文銭」の鬼瓦が見られます。

長久保宿と長窪宿

江戸時代は、「長窪」と表記されていましたが、住民が「窪」の字を敬遠し、久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついだといわれます。1859年(安政6)に代官所へ宿名変更の願書が出されましたが、許可はされなかったようですが、明治になりようやく認められました。

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濱田屋

長久保宿で現在でも唯一残っている旅館です。和田宿にあった宿もなくなり、中山道を歩く人には大切な宿です。

長久保甚句

「甚句」とは民謡の一種で、7・7・7・5の詩型と類似した旋律ですが、各地いろいろなものがあり、特に決まった形式はないようです。長久保の甚句がいつ頃から唄われていたのかわかりませんが、1843年(天保14)長久保宿には43軒もの旅籠があり、旅人に唄われた甚句が庶民や馬子らに愛唱され普及したと思われます。馬子唄などの発祥も峠を行き来する旅人や馬子によって口伝されているため、長久保宿も東に笠取峠、西に和田峠を控え、こうした唄が発達していったと考えられます。

『長い長久保 ヨーヨー 流れど焼けど イーサァー かわいゝあの子が残りゃよい ハァー イッササァー』

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善光寺道道標・長久保町道路元標

中央の古い道標は下部が無くなっています。左が新しい善光寺道標、右は道路元標です。善光寺道は大門街道上田道を経て北国街道で善光寺まで繋がります。

立岩紙

依田川流域では紙漉きが盛んでした。1789年(寛政元)頃には長瀬から上流に273軒もの紙漉きがあったとされます。特に古町に多く、昭和7年には組合を設立しますが、徐々に衰え、昭和52年に紙漉きは途絶えたといいます。

14:30 長久保宿内は全部見て回れなかったのですが、ここからバスに乗り一旦帰宅します。次回は、長久保宿内をもう少し見学して和田峠へ向かいます。

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JRバスを利用するため、善光寺道道標から右へ曲がりJRバスの長久保営業所へ向かいます。バスの時間は、15:00発、上田駅に15:58着で約1時間かかります。運賃は、970円でした。上田駅から北陸新幹線で東京へ戻りました。