2019年4月30日
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10:20 追分宿をあとに小田井へ向かって進みます。だいぶ雨が強くなってきました。
笑坂
夕暮れに京都側から来た旅人は、この坂を登ると追分宿の明かりが見え、宿の飯盛女を想像してニヤリと笑ったとか・・・?!
追分原
天仁の噴火後、火砕流の影響でススキが茂る原野が広がっていたということですが、現在はあまりススキの原っぱは見られず、ペンションなどの建物や針葉樹林が多いです。
千ヶ滝湯川用水温水路
小諸の郷士柏木小右衛門が江戸初期、浅間山からの湧水を21km引き御影用水を作りました。
平均水温は13℃で、最下流でも15℃しかなく水温が低いための作物の減収は8%にもなっていたそうです。そこで昭和32年より改修が行われ、破損部の改良、近代的な自動堰の首頭設置、そして日本で初めての高冷地の低水温上昇施設である「温水路」の設置が行われました。温水路は、コンクリート3面張りとして、太陽の熱でコンクリートを温め、そこに流速を抑えてゆっくり流すことで水温を上昇させようと試みたものです。水深20cm、幅20m、延長934mの温水路が昭和42年に完成しました。これにより15℃だった水温は18℃まで上昇し稲作の冷害が改善されました。
御代田観音像
戦後に58軒が入植しますが、食糧難や経済難、過酷な生活にてこの世に生を受けられなかった子供達のために、水子地蔵と普賢菩薩を併せた観音堂を建立したと碑文にあります。
御代田町にはいり、暫くすると旧道は廃道となっており、明治の道となります。江戸時代は千ヶ瀧用水の手前でからはこの下の谷に向かって坂道を下り、また登るというような道だったようです。現在の明治の道は盛土して造られています。
大山神社・谷地沢堰用水竣工記念碑
創建などはわかりませんが、中山道分間延絵図には、山神となっているところがここ、大山神社と思われますので、江戸時代以前からあったようです。旅の安全をお願いしようとしますと、賽銭箱がなく、社の一部に穴が空いていてそこら中へ入れるようになっていました。賽銭泥棒がいるのでしょうか。
谷地沢堰用水は、軽井沢町にある笹沢と谷地沢を合わせ、御代田町を経て佐久市岩村田へと流れる用水です。いつ出来たのかわかりませんが、江戸時代には既に存在し、農業用水としてのほか、飲料水としても利用されていたものです。
御代田の一里塚
当初は一里塚のところが中山道でしたが、江戸初期に南へ30mほど移動したそうです。両側の塚が原型のまま残っています。
中山道分間延絵図
一里塚が街道から離れて描かれています。また、先程の大山神社手前の沢の部分です。
蒸気機関車D51
御代田駅は、スイッチバックを採用した長野県内で最初の駅でした。スイッチバックは急な斜面を前後の向きを交互に変えてZ字形に上り下りすることですが、旧御代田駅付近は急勾配が連続しており、そこにホームを設けた場合、蒸気機関車のパワーでは、一旦停車すると引き出せない状況となる恐れがあったため、スイッチバックが採用されました。1971年新駅である現在の御代田駅の開業と同時にスイッチバックは解消されました。スイッチバックの遺構も残っています。
龍神の杜公園
竜神が這った跡だとする久保沢を新幹線工事の残土で埋め、平成9年に完成しました。龍神まつりで龍が舞う円形ステージ、竜神をモチーフとした遊具、龍神の館、トイレなどの施設があります。
龍神の館
甲賀三郎の龍神伝説にちなんで、毎年「龍神まつり」が行われています。「龍神の舞」がまつりの最大行事で、まつりに使われる日本一長い45mの龍が常設されています。
真楽寺に伝わる竜神伝説
大豪族の甲賀家の主人が病となり、3人の子の内うち三男の三郎を後継者にしたことから兄たちが妬み、巻狩の折、蓼山の大穴に三郎を落としてしまいました。三郎は深い穴で横穴を這って歩くと、ようやく光のある場所にたどり着き、そこは真光寺大沼の池でした。大沼の池に住み着いたものの徐々に大きくなり、蓼科の双子池、更には諏訪湖と棲家を変え、諏訪大明神となり今も湖底に眠っていると伝えられています。
荒町立場
1108年(天仁元)の浅間山噴火により火砕流が発生し、この荒町立場まで到達したそうです。
平尾山
佐久平が見渡せる平尾山山頂は標高1,155m、大井山とも呼ばれ、謡曲鉢木に「吹くや嵐の大井山、捨つる身になき伴の里」と謡われています。かつて、この地域は大井荘という荘園であり、大井荘で最も高い山であることから、そう呼ばれたそうです。広重の描いた小田井の浮世絵の背後の山は浅間山とも平尾山とも言われています。
夢覚堂跡の石仏群
筆塚・道祖神
筆塚は明治25年建立、道祖神は明和7年と刻まれています。
宿場の名残をよく残す
小田井宿へ入ってきました。
おはる地蔵
明治36年小田井宿で生まれた安川ハルは、教員として小学校で働きますが、後にゴミや人糞を焼却して肥料を作る研究に没頭し、山中に入り炭焼きをしながら、ようやく炭焼釜を改良したような「安川式肥料燻炭炉」が完成しました。将来を期待されましたが、塵芥の中にある菌が手の傷から侵入し、難病となり軌道に乗せることなく断念したそうです。
長倉諏訪神社
創建は不明ですが、927年(延長5)に編纂された延喜式神名帳に記載された長倉神社の論社、又は同境内に鎮座していた春日神社とも云われています。当初は伍賀の宮平に鎮座していましたが1502年(文亀2)に上小田井に遷座し1588年(天正16)に小田井宿が町割りされた際、現在地に再遷座しています。
神馬舎
長倉諏訪神社に藁馬の
道祖神が奉納されています。かつて小田井には、初午にあわせてわら馬を作り、豊作を祈って道祖神にお参りをする風習がありました。途絶えていましたが、昭和46年に復活し、毎年2月に行われています。村の老人たちが孫子のためにと作った
藁馬を、子供らが掛け声とともに村内を引き歩き、道祖神のある夜盗道から小田井宿へと一周し道祖神にお参りします。最後は、小豆餡や黄粉の『おはぎ餅』を食べます。道祖神にお供えした後この餅を食べると、その年は風邪を引かないと伝えられています。
長倉諏訪神社の狛犬
明治16年の建立と、比較的新しい狛犬です。胸に彫られているものは家紋でしょうか。
安川本陣跡
安川庄右衛門が幕末まで務めています。1657年(明暦3)、伏見宮家の浅野宮(四代将軍家光御台所)、1861年(文久元)皇女和宮が休憩をしていることから「姫の宿」と呼ばれていました。建坪は195坪で、建物は、1756年(宝暦6)に大規模な改築が行われ、上段の間や客室部は原型をとどめています。また、湯殿と厠は幕末の1861年(文久元)の和宮輿入れの際に修築されたものと考えられています。厠は大小とも二畳の畳敷となっています。
拝領人形
小田井宿本陣にて昼食に立ち寄った和宮が、給仕の本陣分家の少年に童子の人形を拝領したと伝えられています。8月16日には小田井宿まつりが行われます。『姫行列』では和宮に扮した少女と、拝領した童子の人形をかごに乗せ、当時を再現した衣装を身に着けた行列が宿場内を練り歩きます。
宿場用水
江戸時代は街道の中央に宿場用水が流れていましたが、現在は街道南側に寄せられています。
1843年(天保14)の調査では、小田井宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は、かしわや・まるや・かのうや・しまや・小林屋の5軒がありました。
御代田村道路元標
小田井は、戦国時代は小田井又六郎兄弟の支配下にありました。1544年(天文13)小田井氏は、武田信玄の信濃侵略により死亡し、その後は大道寺政繁の支配下となり、1590年(天正18)からは小諸藩、千石氏の領地となります。以後、徳川忠長ら、幾度か領主が交代し1682年より幕領、1704年(宝永元)より岩村田藩内藤氏の領地となり幕末を迎えます。
上の問屋跡
1602年(慶長7)、安川新八郎が務めます。一時期退いていたこともありますが、再び八郎右衛門が明治になるまで務めました。建物は江戸時代後期(享保・文化の頃)のものだそうです。
(左)旅籠和泉屋 (右) 旅籠大黒屋
和泉屋は文化・文政年間の建物で明治期に養蚕のための改造がされているようですが、旅籠屋の原型をよく留めています。元禄期の建物とされる大黒屋など小田井宿には往時の姿を留める建物がたくさん残っています。
脇本陣跡
尾台又左衛門が務めていましたが、明治期に小田井を引き払い移転したため、建物が現存していません。屋号は「すはま屋」で、平日は旅籠を営んでいました。建坪126坪、8畳の上段の間が設けられていました。
下の問屋場跡
寛文初頭に2軒目の問屋として安川十兵衛家が務めましたが、宝暦年間に尾台治部右衛門が引き継ぎます。建物は1772年(明和9)の大火以降のものです。母屋は大きな切妻造で、長屋門や裏には土蔵や古い建物が残っています。
小田井宿の飯盛女
小田井宿では当初、飯盛女は置かれていませんでしたが、1822年(文政5)以降に置かれるようになりました。すると、隣の追分宿が疲弊し、小田井宿の飯盛女が原因だと訴え、小田井宿役人、旅籠屋全員が処罰されますが、それでも飯盛女を置く旅籠があるため、天保2年には廃止されています。その代償として家屋の修理費などは藩から交付金がでるようになりました。飯盛女を置かないようになると、旅人は小田井宿を素通りするようになり、立ち行かなくなる旅籠が多く、天保14年には5軒となったようです。
石仏群(道祖神)
13:20 雨は降ったりやんだりです。小雨の中を岩村田へ向かいます。