2021年7月24日

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8:30 宿泊した「民宿すはら」をあとに出発します。

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旧旅籠屋柏屋

茶屋町にある「柏屋」、軒下に「三都講」などの看板を掲げており、宿場らしい雰囲気が残っています。「三都講」は、1830年(天保元)に誕生した旅籠組合の全国組織でした。

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定勝寺(じょうしょうじ)

木曽三大寺の一つである定勝寺は、1430年(永享2)木曽親豊により木曽川近くに建立されましたが、洪水で3度流され、犬山城主石川備前守光吉により1598年(慶長3)、木曽義在の館跡に再建されたものです。

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ばねそ記念碑

「跳ねて踊る衆」という意味を持つ踊りで、お祝い事には欠かせない須原の名物の一つです。「素晴らしいぞえ須原の桜、漬けて煮え湯の中で咲く」と大和屋の桜の花漬も歌われています。
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定勝寺庫裡

山門、本堂、庫裡が重要文化財に指定されています。

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木曽路名所図会に描かれた「定勝寺」

1574年(天正2)仏殿修理の落成祝に「振舞ソハキリ」と書かれた古文書から「そば発祥の地」とされます。

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庫裡に残る上段の間

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本堂に吊るされている籠

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水舟と酒井朝彦の歌碑

『水舟 水舟の水 のきをめぐりて いのち つねにあたらし』 

須原小学校の校歌の一節とあります。

酒井朝彦

童話作家、酒井朝彦は1894年(明治27)現在の飯田市に生まれますが、5歳のときに父親が無くなったため、定勝寺に預けられ少年時代を過ごしました。小学校卒業後は上京し、旧制東京中学を経て早稲田大学英文科に進み、小川未明に傾倒し童話を書くようになりました。 木曽を舞台に少年少女の生活を題材に『ゆきむすめ』などの作品を残しています。ほかに『天に昇った蛍』、『青い光の国』、『月夜を行く川水』などがあり、1924年(大正13)には、日本で最初の児童文学同人誌『童話時代』を創刊し、『木馬の夢』『春のラッパ』などを書きました。

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鍵屋の坂

宿場中央に流れていた宿場用水が残っています。鉤の手であったため、「鍵屋の坂」と呼ばれています。
TOO001 鍵屋の坂から700mほどでJRの線路を越えると上り坂になってきます。

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木曽川伊那川水番の家

さらに進むと右手に木曽川伊那川水番であった三瀬町家が残っています。昔、木曽川と伊奈川の水番をするためにこの高台に移り住んだといい、「信濃なる木曽の岩手の山陰に穂並見てみゆる三瀬町の里」という歌が残されています。

橋場集落中ほどを「岩出観音」へ向かうため左へ曲がります。

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山神

岩出観音手前左手に小さな山神がありました。

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岩出観音(馬頭観音)

清水寺に似た現在の堂は江戸中期のもので、堂内には山村家の絵師「池井祐川」の絵馬をはじめ多くの絵馬が奉納されています。特に「木曽式伐木運材法」や「刈手」(干し草刈り)の情景を描いたものは当時の庶民生活を伺う重要なものとなっています。
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岩出観音のいわれ

昔、橋場の老人が茶屋を出し、草履やわらじ、馬沓(馬のわらじ)を作り商っていました。ある日、馬に乗った武士がやってきて馬沓を求めましたが、あいにく片足分しか無かったため老人は大急ぎで片方を作り、武士のあとを追い、渡しました。老人は急いで作ったため不出来なので代金を断りました。武士は道にあった木片に「馬頭観世音菩薩」と書き、老人へ渡すと「厚く信ぜよ。必ず利益あらん!」と言い残し姿を消しました。 後にこの木片を体内へ入れた観音像を刻み、堂を建てて安置しました。

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岩出観音からの景色

岩出観音は、伊奈川観音、橋場観音とも呼ばれています。

岩出観音から中山道まで戻り、再び野尻宿へ向けて歩いていきます。

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観音堂道標

元は岩出観音堂の入口にありましたが、伊奈川橋のたもとに移されています。
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伊奈川橋

木曽三代橋として知られ、左上に描かれているのが岩出観音です。伊奈川橋の管理をするために設けられたのが「橋場集落」とされます。

TOO001 1691年(元禄4)までは真っ直ぐ進み、木曽川沿いの鉄道のトンネルの上あたりを通行していましたが、斜面が崩落し「今井兼平古城」を迂回する長野を通行することになりました。崩れた場所を「今井のなぎ」といいます。薙(なぎ)とは斜面が崩落したところを指します。

水舟のある交差点から左手は大正時代に出来た道で、消防倉庫横からつながるのが旧中山道とのことです。草は綺麗に刈られ歩くことが出来ます。

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蛇行切断地形

長野の付近は「蛇行切断地形」です。川が極端に蛇行すると、蛇行部の根本が切れて河道が短縮され、旧河道は馬蹄形をした平野として残ります。つまり、中山道として通っている道、周囲の家やたんぼは木曽川の元河道であった場所です。
消防倉庫横からの未舗装の道からアスファルトの道へでて60mほど右手、急な山道を登っていくと「大島神明神社」があります。

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大島神明神社

大島氏の氏神と言われています。「須原邑有地分割記念碑」や五輪塔などもありました。

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大島神明神社の五輪塔

元は伊奈川左岸の大島氏五輪田にあったもので、室町時代の建立と推定されています。
TOO001 坂道を下り、さらに中山道を進んでいきます。

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八幡神社入口

この奥に八幡神社があり、その背後の兼平山が木曽義仲の家臣今井兼平の居城だったと伝承されています。500mほどありますので、寄りませんでした。
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木曽名所図会に描かれた「兼平羅城」

岩出観音(馬頭観音)、伊奈川橋も描かれています。

その先、100m左手に「水害記念碑」がありました。

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水害記念碑

大正12年の水害(蛇抜け)を後世まで語り継ぐために翌大正13年に建立されたものです。村中ほとんどの家が水に浸かり、また流され、長野地区では14名が亡くなり、田光発電所(伊奈川上流1.5kmほど)付近では50名もの死者がでました。
200mほどで左手に「天長院」があります。

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天長院の子育て地蔵

結ばれた紐が十字架のように見えることから『マリア地蔵』と呼ばれています。マリア地蔵は、天長院の参道を入り左手、多くの石仏が並ぶ後方にありました。

天長院

室町時代、木曽家祈願所として木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、天文年間、武田軍あるいは山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったとされます。その後の文禄年間、定勝寺の7代天心和尚を開山として旧地に天長院として開かれ、寛文年間に地蔵堂のあった現在地に移転しました。

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天長院にはいろいろな石仏があれますが、これは愉快な石仏でした。ばんざ〜い!!
中山道へ戻り、右手に水舟を見ながら進むと平沢立場跡になります。

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平沢立場跡

須原名物、花漬の発祥地であり、桃・桜・山吹などのつぼみを塩につけ、曲物鉢に入れて並べて売り出していたとされます。ほかにシソの実、山椒の若葉、ふきの煮物、金山寺味噌、カモシカの革や熊胆などが売られていました。 茶屋本陣は萬屋で、他に中屋・中島屋などがありました。

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400mほど進み、沢を渡り交差点を左へ曲がると大桑村役場、右に曲がると大桑駅です。
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大桑駅・大桑駅開駅記念碑

大桑は宿場でなかったため、駅は設けられませんでした。しかし、役場や郵便局・学校・農協など旧長野村の中心地であったため、地元住民は駅を設ける運動を行い、土地の提供、労働奉仕などの熱意ある運動が実を結び、1951年(昭和26)に大桑駅として開業しました。碑は開駅15周年に建立され、当時の小野壮蔵村長の「思い出の記」が刻まれています。どれほど駅を切望していたか・・ちょっとウルッときます。

10:20 本日は大桑駅より木曽福島まで戻り、車をピックアップし帰宅します。

2021年9月25日

6:50 車は天白公園に駐車し、南木曽駅まで歩き電車で大桑駅までやってきました。ところで『南木曽』ですが、「みなみきそ」と読んでいましたが「なぎそ」と読むようですね。大桑駅を出発します。

まずは、古中山道の一里塚「弓矢一里塚」へ寄り道します。

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シシゴ沢

大桑駅を出て西へ50m進み、右手の未舗装の道へ入っていくとすぐに水路隧道があり、このトンネルでJRと国道を越えていきます。シシゴ沢に沿って下りていき、橋のたもとで左へ曲がり20m左手に「石仏群」があります。

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弓矢の石仏群

屋根の下に西国巡礼供養塔、馬頭観音などが並んでいます。1715年(正徳5)の六十六部供養塔があります。
さらにシシゴ沢まで戻り、今度は橋の反対側へ、アスファルトの道がカーブしているところをそのまま真っ直ぐ草の道を右手に石積擁壁を見てこれに沿って40mほど奥へ進むと「弓矢一里塚」があります。

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弓矢一里塚

元禄4年以前の古中山道の一里塚です。現在は北側のものは約3分の1が削り取られ、南側のものはそのまま残っています。石碑は平成9年に建立されました。

シシゴ沢を戻り、大桑駅を南へ向かい中山道を三留野宿へ向けて歩いていきます。左手に郵便局、国道へ出る手前左手に水舟がありました。250mほどで国道へ出ます。国道300mに関所があったとされます。

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関山関所跡

中世の頃、関所があったところといわれていますが、国道工事などで山が削られておりよくわかりません。案内も何もありませんが、既に廃業したモーテルが石碑を建てたようですね。

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関山橋

中世には関所があった場所には江戸時代には「関山橋」が架かっていました。片欄干橋が架けられていた難所でした。「吉蘇志略」には「石を山崖に架けて梁とし、左に欄干を構える。奇観となす」と記されています。 中山道分間延絵図でもよく見ると片側干橋の橋が描かれています。

1979年の文献では文久元年の銘が入った馬頭観音と小さな案内板があったと書かれています。また「歴史の道調査報告書」が書かれた1990年代までは石垣の一部が残っており、案内があったようですが、現在は全くわかりません。案内板等もありません。

さらに国道を350m左手の草地奥に「明治天皇吉田原野立所」の石碑があり、すぐ先に道の駅「大桑」があります。

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明治天皇吉田原野立所碑

明治天皇はここで野点をして休憩されたようですね。現在は樹木があったりしてそんなに見晴らしの良い場所ではありませんが、往時は御嶽山が見えたのではないでしょうか。

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馬頭観音

道の駅大桑の奥の方に祀られていました。
道の駅でトイレを借り、国道を650mほど進むと右手に旧道が残されています。JRに沿って進み踏切を渡ると林の集落です。

なんだかさっきからけたたましく「ウーウー」とサイレンの音が鳴っています。火事でもなさそうだし、一体何なんでしょう・・・

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林集落

荒屋沢を渡り、進んでいくと木曽川の対岸にレンガ調の建物が見えてきました。
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大桑発電所

ここに来て、さきほどのけたたましいサイレンは放流の合図だとわかりました。すごい勢いで水が流れていきます。

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特徴的な山

正面にはポコッとした山が見えたのですが、なんという山なのでしょうか・・砂小屋山?伊勢山?

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踏切を渡り左手2軒目の横を「鹿嶋神社」へ入っていきます。
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鹿嶋神社

現在の本殿は明治期の再建とされます。須原の鹿嶋神社同様、小木曽荘の地頭真壁氏によって勧請されたと考えられます。

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鹿嶋神社の奉納絵馬

写真の絵馬は明治13年と読めますが、他の絵馬はほとんど消えかかりわかりません。1858年(安政5)の街道の改修に関する絵馬があるということですが・・わかりませんでした。

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くらん坂(倉坂)

郷蔵の横を通るところから名がついたと言われます。くらん坂を登り、左へ折れると野尻宿です。

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いぼ石・高札場跡

題目塔の台座部分が「いぼ石」です。イボの出来た人がこの石を触るとイボが治ったという言い伝えがあります。

高札場は往時は右手にありました。

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東のはずれの家

家の屋号も「はずれ」といい、ここから宿場が始まります。

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野尻宿

1602年(慶長6)に宿として指定され、7つの曲がり角があり馬の走り抜けが出来ないようになっており、「野尻宿の七曲り」と呼ばれていました。
南に木曽路最大の難所、「羅天」を控えていたため野尻宿は賑わっていたといいます。 野尻宿も多くの大火を経験していますが、1894年の大火で一帯が焼失し往時の景観は残っていません。それでも歴史がうかがえる民家が並び、雰囲気があります。

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お社と常夜灯

いぼ石より150m左手、妙覚寺参道横にあります。この道を登っていくと「妙覚寺」へ至ります。
TOO001 左手お社のところの細い坂道を登っていきます。途中右手に庚申塔、左手に二十三夜塔、さらに登ると国道を越えるトンネルがあり、妙覚寺前へ出ます。

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妙覚寺

火災により古文書や寺宝を焼失しており創建は不詳です。1624年(寛永元)に再建され、1720年(享保5)須原定勝寺の弘道法嗣秀峰(ほっすしゅうほう)和尚を講じて中興開祖としました。鐘楼は昭和28年の再建、現在の本堂は1726年(享保11)に建てられたものだそうですが(他の文献では1671年(寛文11))、かなり綺麗で新築したのか・・修繕したため綺麗なのか・・わかりません。

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マリア観音

1832年(天保3)の造立とされ、元は野尻川向にあったものを昭和46年に現在地へ移しました。左手に十字架を高く掲げています。

登ってきた参道を中山道へ戻り、西へ進んでいきます。140m左に「野尻宿本陣跡」があり、更に40m右手に「野尻宿脇本陣跡」があります。

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野尻宿本陣跡

本陣、問屋も兼ねて木曽氏家臣の森氏が務め、1802年(享和2)大田南畝は本陣森家へ宿泊しています。建物は木曽下四ケ宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)の中で最も大きかったのですが、南畝の「壬戌紀行」によるとだいぶ質素な造りであったとされます。
天保14年の資料では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19件、茶屋が16軒ほどありました。

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野尻宿脇本陣跡

脇本陣は木戸家が務め、問屋・庄屋も勤めていました。江戸後期の儒学者として知られる松崎慊堂(こうどう)は1829年(文政12)大井宿をたち、木戸脇本陣に宿泊しています。 本陣、脇本陣とも明治27年の大火で焼失しています。

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旅籠庭田屋

映画「男はつらいよ・噂の寅次郎」で、寅さんと博の父が木曽路を旅したときに泊まった宿として登場しています。
旅籠庭田屋横の小路を左へ曲がり、緩い坂道を40mほど登ると左手に大きなお地蔵様がありました。

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龍泉庵跡

元は野尻氏の館があったとされる場所に、木曽左京大夫家賢の四男、野尻左京助家益の末裔、野尻太郎左衛門が天和のはじめ頃開き、開山は定勝寺七世活山和尚、その後荒廃、1686年(貞享3、一説には元禄4)木戸氏が田畑を寄付し開基となり、妙覚寺の徹了を中興開祖としたようです。
大きな地蔵は1774年(安永3)の造立とされ、高さ約2m、中山道最大の地蔵と言われました。

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お地蔵様から中山道へ戻るとき、タイムスリップしたような景色でした。
TOO001 往還右手に元馬宿であった小松屋があるのですが、恐らく天理教木曽分教会となっているところが小松屋だったと思われます。改築がされていますが、1979年の資料では享保の頃の建物とされます。

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与川道分岐点、津島社、常夜灯

くねくね曲がりながら進むと左手に津島社、八坂社、秋葉社が祀られています。常夜灯には「文化十二年」の銘があります。ここが「与川道」との分岐点となります。

木曽川沿いの中山道は水害でたびたび通行不能となり、享保年間に尾張藩はその迂回路として三留野から野尻へと峠越えをする与川道(よがわみち)を通しました。徳川家重に嫁いだ比宮(なみのみや)、徳川家慶に嫁いだ楽宮(さぎのみや)一行も利用しました。
5時間程度で三留野へでるようですから、一度は歩いてみたい道ですね。

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西のはずれ

東のはずれと同じく「はずれ」という屋号の民家があります。野尻宿はここまでになります。
9:45 野尻宿をあとに三留野宿へ向けて進んでいきます。