2022年5月3日
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昨日は
『ルートイン中津川インター』へ宿泊しました。ホテルから
恵那駅まで車移動し、今日のゴールとなる恵那駅前のコインパーキングに車を駐車しJRで恵那駅から
中津川駅までやってきました。
9:00 新町交差点を右へ入り、中山道を西へ向けて進んでいきます。
すぐ左手に「すや」、ここから中津川の淀川町、新町、本町、横町、下町と進んでいきます。往時の面影は全く無くなり、現代の商店が立ち並んでいます。
栗きんとんの「すや」
初代は元禄年間に
「十八屋」の屋号で
酢の店を開きました。菓子作りは七代目からで、栗きんとんは八代目が創始だとされます。看板の「すや」の文字は
良寛上人の文字を写したものだそうです。
栗きんとんは一般的にお正月に食べる栗きんとんとは違い、茹でた栗の中身を取り出し、細かくほぐしたものを茶巾でしぼった菓子です。山栗が多く収穫されたことから焼き栗、ゆで栗、かち栗(干して煎る)などいろいろな食べ方がありましたが、砂糖が手に入る様になった頃から栗きんとんが作られるようになりました。
すやの向かいの銀行前に
「前田青邨誕生地碑」があります。
前田青邨誕生地碑
前田青邨は1885年(明治18)中津川のこの場所にあった乾物商の家に生まれ、1901年(明治34)梶田半古の書生となり青邨の雅号をもらい文展に入選、1929年(昭和4)院展で地盤を築き、皇后の絵の相談役となり、法隆寺金堂壁画の再現や高松塚古墳壁画の模写などを指導しました。
「前田青邨誕生地碑」から100mほど進み、左手、幅1.5mほどの細い路地を奥へ進み突き当りを右、更に左へ曲がると左手に
「桂小五郎隠れ家旧料亭」の案内板があります。
桂小五郎隠れ家旧料亭
料亭「やけ山」があった場所です。1862年(文久2)長州藩士、
桂小五郎(後の木戸孝允)は京都へ向かう藩主、毛利慶親を待つ間、幕史の目を逃れて中津川の平田門人、
間秀矩や
市岡殷政(しきまさ)の好意で「やけ山」に隠れて待機しました。毛利慶親の到着により中津川宿本陣上段の間にて行われた
「中津川会談」では桂らの主張により長州藩は尊王倒幕へと決断に至りました。
中山道へ戻り、さらに100m左手に「間家大正の蔵」、右手に「中山道往来庭」と名付けられたポケットパーク、その先は四ツ目川に架かる「四ツ目川橋」を渡るとすぐ左手に「秋葉神社」の小さな社があります。
間家大正の蔵
この時間はまだ門が空いていませんでしたので、外から眺めるしかできません。
1917年(大正6)に建てられた
間家の蔵です。大正時代の建物は素敵なものが多いです。 間家は江戸時代の初めごろには、中津川村に移り住み、中津川宿新町に屋敷を構えて
東濃随一の豪商と言われるようになりました。庭園の胸像は九代目
「間杢右衛門道矩」で、1906年(明治39) 中津高等女学校を建て教育の向上に大きな貢献をしたとのことです。
四ツ目川橋
往事は水面近くに板橋が架けられていたそうです。
秋葉神社
江戸時代、街道の中央に用水が流れ道の中央に秋葉神社が祀られていましたが、1880年(明治13)の明治天皇行幸の際に馬車が通れるよう、用水は埋められてしまい、秋葉神社も道の端へ移動されています。
中津川では秋葉講が作られ毎年旅費を集めて遠州(静岡)の秋葉神社本社へ代参を行っていました。
秋葉神社の先左手の
「中山道資料館」が脇本陣の土地の一部で、角を曲がると脇本陣の一部が残っています。脇本陣の向かいが
本陣のあった土地で、立派な和風の塀が作られていますが、駐車場になっています。
中津川宿本陣跡
本陣は市岡家が務めていました。往時、本陣入口には五軒続きの長屋が建ち、その中央の一軒分が門となっていました。門の右手が問屋、上段の間には湯殿・せっちんがついており、裏は庭で高塀で囲まれ「御退道」の門戸があり非常の際には大泉寺へ避難できるようになっていました。
昭和50年頃の資料では本陣跡には「郷蔵」があり駕籠や鬼瓦などが展示されていたようですが、現在は取り壊されているようです。
中山道は「姫街道」ともいわれ、楽宮(さざのみや)、寿明宮(すめのみや)、和宮といった姫たちが中津川宿に宿泊しています。
明治天皇中津川行在所跡碑
脇本陣は森家が務め、明治13年の明治天皇巡幸の際には行在所となりました。
中津川宿脇本陣跡
脇本陣跡は自由に見学ができるようになっており、「上段の間」と「御手水所」が移築され、土蔵も見学できます。
大田南畝の「壬戌紀行」には中津川は松屋のあんもち、菊屋の楊弓、二八うどんそば、瀬戸物の陶器、扇屋の人参康済湯などが賑わっていると記されています。
中津川宿脇本陣跡のすぐ先左手の立派な旧家が
「中津川村庄屋跡」、さらにすぐ先路地の角は「本町広場」で、常夜灯があります。
中津川村庄屋跡
庄屋の
肥田家は一時、脇本陣を務めたこともありました。江戸中期の建物と推定され、代々
「九郎兵衛」
と名乗り、屋号は
「田丸屋」といい、島崎藤村「夜明け前」には小野三郎兵衛として登場しています。江戸後期からは旅籠も営み、1893年(明治26)には恵那山へ登山し
たウェストンも宿泊しています。明治30年代には
曽我家が譲り受け、中津川で最初の
医院となりました。
ウォルター・ウェストン
恵那山を世界に紹介し、日本アルプスの父と言われるウォルター・ウェストンは外国人として初めて恵那山に登頂しました。宣教師として日本を訪れ恵那山の他、槍ヶ岳、乗鞍岳、立山、穂高、御嶽などを登山したとされ、
恵那山ウェストン公園には銅像もあります。
常夜灯・大坂屋跡(吉田家)
「大坂屋」は江戸時代から1937年(昭和12)までこの場所にありました。大坂屋善左衛門は伝馬役の一人で、宿内の有力者でもあり、商人向けの旅籠で桧笠、屋根板などの白木物の仕入れや販売も行っていました。また、画家の吉田耕雲は大坂屋の生まれで、結婚後京都へ出て肖像学校を開いたといいます。
本町広場から40m右手、駐車場に「大泉寺跡」の案内がありますが、この右手の路地を奥に進んだ突き当りに
大泉寺がありました。
大泉寺跡
もと恵下にあった瑞應寺が始まりで、1576年(天正4)にここへ移されたようです。本陣に休泊する大名などの避難所でもあり、火災や襲撃などの場合は本陣裏手の「御退道」から水路を通り避難するようになっていました。1862年(文久2)の落雷によって全焼し、1873年(明治6)になって北野大西に移転しています。
建物右手に地蔵などの石仏、更に裏手には墓地が残されています。
大泉寺跡の石仏
宝篋印塔や五輪塔、市岡家、岩井家など中津川宿の有力宿役人の墓石も残されています。
大泉寺跡から中山道へ戻るとすぐに左へ曲がる
「枡形」になります。枡形の先は中津川宿で最も宿場の雰囲気が残る街並みになり、川上屋、十八屋、白木屋、天満屋、杉本屋と商家が続きます。
中津川宿枡形と道標
川上屋前の道標は
「右木曽路 左なごや凡二十三里」と彫られていますが、元々どこにあったのか不明です。
中津川の名物として、「朴葉寿司」があります。酢飯に様々な具を乗せ、朴葉で巻いた「朴葉寿司」は中津川周辺の独自文化です。朴葉は1枚が大きく殺菌作用があることからもともとは畑仕事の昼食に片手で食べられるよう作られたようです。朴葉寿司を食べてみたく、色々調べてみましたが中津川中心部で販売しているところはなさそうで、中津川付知町のほうには数件あるようですが20kmほどあります・・・残念。
川上屋
「かやあられ」の川上屋は1864年(元治元)創業、往時は往還向かいに店を構えていたとされます。
かやあられ
「かやあられ」はその名の通り、
カヤの実でできています。カヤの実が食べられるとは初めて知りました。カヤはイチイに似た針葉樹で葉を触るとイタイ、イタイ。イチイは痛くないので痛さでいつも見分けてます。この実のアクを抜き、土に埋めて皮を腐らせて中の実を取り出します。銀杏と同じですね。見た目はアーモンド。これに密をコーティングしています。
十八屋(間家)
屋号を「十八屋山十」といい中津川の豪商でした。間杢右衛門家の流れを汲む間武右衛門が移り住み、旅籠を営んでいました。往事は宿役人だけが旅籠を営むことができたので、商人の中でも身分が高かったと思われます。
1864年(元治元)水戸天狗党が中津川を通行した際に和田峠の戦いで負傷した若い武士を隠し部屋にかくまい、その後武士は亡くなりましたが、遺品が残されているそうです。また、和宮降嫁の際には京都御供が宿泊しています。
白木屋・天満屋
右手が「白木屋(横井家)」左手のカフェが「天満屋(古井家)」です。
白木屋は山科屋遠山林蔵の依頼で宮大工の横井弥左衛門(藤原朝臣真行)が1842年(天保13)に建てたものとされ、中2階には4畳ほどの隠し部屋が今も残されているそうです。
天満屋は馬籠の出で、小間物を商っていました。
「中川旧記」によると川を流れてきた神様を子供が拾い、近所の者たちが祠を建立し家の裏に
天満宮として祀られていました。
1664年(寛文4)に天満宮は石灯籠1基と共に
旭ヶ丘に移されました。現在の
「旭ヶ丘天満宮」でしょう。
杉本屋(中川家)
枡形の左手一番奥が「杉本屋」です。
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛の屋敷の一部で、往事は南東側一帯の広大な屋敷であったと言われます。歌舞伎絵で知られる中川とも画伯の生家であり、昭和30年代初めまでは江戸時代の面影を残す帳場があり、ここを舞台にした映画「青い山脈」のロケが行われました。青い山脈は何度もリメイクがされていますが、雪村いずみさん主演のものと思われます。
杉本屋の前で再び右へ曲がる
枡形があり、枡形を左へ少し入ると
恵奈山への道標があり、枡形の角には酒林の下がる
「はざま酒造」の大きな建物があります。
恵奈山上道道標
1865年(慶応元)に建立された恵那神社への道標で、「恵那山上道」と彫られています。
恵那山
2189m、美濃第一の高嶺で美濃と信濃の国境にあり東山道や中山道を行き来する旅人が仰ぎ望んだことでしょう。天照大神が生まれたとき産湯を使い、その胎児を包んでいる膜および胎盤である
胞衣(えな)を納めたといい、麓の阿木には
血洗池があり、
血洗神社には天照大神を祀り北の麓には
湯舟沢と呼ばれる谷もあり、山頂には
恵那神社が祀られています。
はざま酒造(志水屋)
酒造りを始めたのは江戸時代中期とされ、「雛鶴」「恵那山」という銘柄のお酒を造っています。
2つ目の枡形からすぐ右手に
「津島神社」、その先80mほど進むと川が流れているわけでもないのに橋が架かる
「中央橋」を渡ります。
常夜灯と津島神社
手前の常夜灯の竿には「日露戦勝記念」とあります。奥の常夜灯には「安政三辰三月吉日 銭屋舛吉 松田屋伊助 車屋太右衛門」と三人の世話人の名が刻まれています。
往時の中山道はこの津島神社の北側の道を進み急な坂を下って中津川の河原へでて現在の中津川橋より100mほど下流に架けられていた橋を渡っていました。細い路地が途中までは残っているようです。
大正町と芝居小屋
このあたりを「大正町」といいます。1911年(明治44)
「中央座」という大きな芝居小屋が建てられ、盛況だったといいますが、1932年(昭和7)全焼してしまいました。実際どこにあったのか調べてみましたが、全くわかりませんでした。
中央橋
中央橋の下はかつて黒沢川が流れていましたが、明治40年に本州製紙の原料や製品を運ぶため軽便鉄道が敷設され、創業当時は軽便軌道を馬でトロッコを引いていましたが、1924年(大正13)からは蒸気機関となりました。1969年(昭和44)廃線となり、その後「ミニ中山道」として整備され、遊歩道になっています。
中央橋を渡るとすぐに中津川を渡る
「中津川橋」を渡ります。このあたりは往時の道筋ではありません。
中津川
往時の中津川大橋は100mほど下流(北)に架けられていました。中津川は水源を恵那山に発し、ここより2kmほどで木曽川へ注いでいます。
中津川橋を渡ると
旧駒場村へ入っていきます。400mほど進むとT字路に
「津島神社の参道碑」があります。
津島神社参道碑
津島神社はここから約400m北西にありますが、寄り道せずに進みます。
T字路を数十m右手に向かうと石積擁壁の上に小さなお堂があります。
駒場下町の弘法堂
中山道分間延絵図には記載はなく、堂の上に「八十六番札所」とあります。恐らく「恵那中部新四国八十八ヶ所」の一つではないかと思われます。
中山道まで戻り左手へ進み少し上る坂が
「石屋坂」で、右手に名号碑などの石仏があります。
石屋坂と石屋坂の名号碑
1806年(文化3)の馬頭観音、1816年(文化13)の名号碑があります。今は涸れてしまいましたが、石仏のすぐ上あたりから
清水が湧いていて旅人の喉を潤したといいます。
道なりに進み、大きく左にカーブ、最初の道を右へ入っていきます。曲がってから100m左手に
「駒場村高札場跡」があります。
駒場村高札場跡
何に使われている建物かわかりませんが、レトロな建物の壁面に高札が掲げられ、高札場の雰囲気を演出しています。なにもないよりはずっといいアイディアですね。
さらに150mほど進むと右手に最近設置されたと思われる
「東山道坂本駅碑」があり、その先左にも同じ石碑がありました。
東山道坂本駅碑
「東山道坂本駅 右阿智駅 左大井駅」と彫られた石碑や「米田川」と彫られた石碑があります。民地にあるようなので、個人で建立したもののようです。
駒場が東山道坂本駅と推定されています。付近の地名には「駒場」「大道上」「町裏」などで、駅を想像させるものが多く残っています。
東山道坂本駅
東山道の駅が置かれたのは大化の改新以後で、4里6町(約16km)ごとに1つの駅を置いています。東山道は都から美濃、坂本を経て
信濃阿智駅へ通じていたと考えられ、距離が長い上に急峻な
神坂峠(1595m)を控え、難所として知られていました。東山道坂本駅については諸説あり、駒場、湯舟沢、落合、中津川、茄子川、千旦林という説もあります。しかし、有力なのは駒場と千旦林で、両方とも古墳があり式内社に近く洪水の恐れが少ないこと、どちらかというと
駒場のほうが神坂峠へ近いため、最も有力視されています。
その先、米田川板橋(現上宿橋)は現在工事中でしたが、なんとか通り抜けることができ、100mほどで
「小手ノ木坂」へ至ります。
小手ノ木坂(こでのきさか)
坂の上に大きな
「こでの木(けんぽなし)」が生えていたことにちなんで名がついたと言われます。
1880年(明治13年)、
明治天皇を乗せた馬車が小手ノ木坂を通るとき、駒場村の青年たちが待ち構え、懸命に馬車の先引きをして通したといわれています。
馬車が利用されるようになると道の改修が行われ、1888年(明治21)には坂道の一部を取り壊し、緩やかなS字の道に整備され、1918年(大正7)バスが通るようになると道幅が拡張され、現在のようになりました。
小手ノ木坂を上り、途中のバス通りS字カーブの場所に「設楽牧童句碑」と彫られた石碑があり、小手ノ木坂を上り切ると
「苗木道追分」となり、
「双頭一身道祖神道標」を含む石仏群がその一角にあります。
設楽牧童句碑
「水車まで筧をかむり行く春の雨 牧童」
設楽牧童がどんな方なのかは全く不明です。
苗木道追分
中山道との追分を真っ直ぐ進むと苗木道で、苗木城へと至る道でしたが、今は廃道となっている部分も多いようです。
苗木城
苗木城主は
遠山氏で、祖先は源頼朝に従って武功をたてて遠山荘を賜りました。景廉(かげかど)に始まりその子、景朝が岩村に住み着いてから一族が恵那郡に拡がりました。関ケ原の合戦以降、遠山氏は大名となり遠山一雲入道または遠山直廉の築城とされます。竜が白壁を嫌うので赤壁に塗ったことから
赤壁城とも言われました。
双頭一身道祖神道標
たくさんの石仏があるのでどの石仏か、なかなか見つからなかったのですが、四角い土地の中央あたりに西を向いて佇んでいました。彫りが少々浅くなってきていますが、道祖神の両側に「右中山道 左苗木道」「是より苗木道」と彫られており、1816年(文化13)の建立です。
その先50m右手に
「上宿の一里塚」、さらに200mほど進むと左手にトイレもある広場があり、その一角に
「上用水之碑」がありました。
上宿の一里塚
一里塚は壊されましたが、1934年(昭和9)に中津町の辻助役が北塚のみ復旧しました。傍らに「明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟」の碑があります。
さきほどの小手ノ木坂を明治天皇が通行する際、駒場村の青年たちが馬車の先引きをしたことからこの碑が建立されています。
一里塚横の地蔵
上用水之碑
駒場村は台地のため水が乏しく水源は隣の手賀野村であったため、1887年(明治20)より水を引く交渉を続けていましたが、1897年(明治30)、駒場村、手賀野村、中津川町が合併し「中津川町」となったことで、1899年(明治32)ようやく用水路工事が完成し水田が開拓され、豊かな田園が広がるようになりました。
田畑と家屋が入り交じる旧駒場村の中山道を400mほど進み、旧手金野村に入る付近左手に小さなお堂と石仏が集まる一角があります。
会所沢石仏群
少し行くと左手に川があり、このあたりを会所沢といいました。この先は上り坂で「牛洞坂」といいます。上りきって250m、国道257号を横切ると「小石塚立場」へ至ります。
小石塚立場跡
1789年(寛政元)の「中山道筋道之記」によれば百姓家7軒があり、ここに「大野屋(鷹見家)」という茶屋があったといいます。恐らく不動産屋の場所だったと思われます。「嵐讃岐供養塔」は大野屋の敷地内にありました。
左手には
「恵那山道」と彫られた自然石があり、恵那山へ登る道の入口を示していましが、いつの頃か持ち去られてしまったそうです。
嵐讃岐供養塔
「空風火水地喝 月翁字清禅定門 十三回忌辰嵐讃岐 寛永三年初夏念日 孝子八男建焉」と刻まれて、嵐讃岐供養塔とされますが、古い資料では「行き倒れになった讃岐国の旅人の供養塔」とも記されています。1626年(寛永3)に建立され、五輪塔から板碑へ移った時代を示すものとして貴重な資料です。
嵐讃岐(あらしさぬき)
嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で
千旦林に居を構え、1574(天正2)の阿寺城落城の際、焼きはらわれてしまった千旦林八幡宮の再建に尽くした人と伝えら、関ヶ原の戦では西軍に属し敗れています。館跡はここから西へ200m、五輪塔1基が残っていると書かれていますが、具体的にどこなのかわかりません。
小石塚立場から
旧千旦林村となります。この先は国道工事のため、500mほど中山道は消滅していますので、付け替えられた新しい道を通ります。900mほどで右手に
「六地蔵石」があります。そのすぐ先左手へ曲がり70m
「旭松山」と書かれた石仏が並ぶ一角があります。
六地蔵石(大林寺跡)
ここから200mくらい入ったところに大林寺がありました。天正年間(別の資料では1633年、寛永10)、照庵和尚が創建しましたが、1925年(大正14)の落雷による火災で焼失し、千旦林中荒井に移転しました。1657年(明暦3)の六面幢六地蔵と傍の1709年(宝永6)の名号碑が残されています。名号碑は廃仏毀釈のとき破損され、補修してあります。
向かいの小径が「寺裏道入口」です。
旭松山(きょくしょうざん)
弘法大師と釈迦三尊像は浅野祥雲が作成したコンクリート仏像です。浅野祥雲は1891年(明治24)ここ千旦林の旭地区に生まれ、父親は農業の傍ら、土人形を製作する職人であったため、父の仕事を継いで土人形製作を始めますが、土では大きな作品がつくれないことから、コンクリートでの作成を思いついたそうです。作品は800体ほどが確認されています。
中山道へ戻り次の路地を左折、少し上った所に
庚申堂があります。また付近に1831年(天保2)の
観音講の碑があるそうですが・・・・見当たりません。
庚申堂
詳細は不明です。お堂は新しくなっていますが、中山道分間延絵図に描かれている庚申堂だと思います。
坂本神社八幡宮参道入口
さらに農地と民家が入り交じる街道を400mほど進むと右手が「坂本神社八幡宮参道入口」です。少し距離がありますが坂本神社八幡宮へ寄っていきます。
参道を入ってすぐ左手に
「千旦林学校跡」の案内板があり、すぐ先に石の鳥居、右手に大きな杉の木と妙見菩薩の祠、その隣に
「木村新次郎像」、その向かいに
「与ケ根弘法堂」があります。
千旦林学校跡
江戸時代、八幡神社前に別当願成寺がありました。明治の排仏毀釈により廃寺となり、その跡に1873年(明治6)「松風義校」が開設されました。1878年(明治11)「千旦林小学校」と改称され、1901年(明治34)中平へ移されました。
木村新次郎像
先程の旭松山と同じく浅野祥雲の作品で、1958年(昭和28)に制作されたものです。木村新次郎先生は千旦林小学校の校長を務めた人で浅野祥雲の恩師でもあり、没後29年に教え子たちにより建立されました。
こちらも銅像のように精巧に造られていますが、コンクリートです。
与ケ根弘法堂
新恵那中部四国八十八ケ所、第七十五番札所です。
中央線を踏切で渡り100mほどで「坂本神社八幡宮」へ至ります。
坂本神社八幡宮
702年(大宝2)に創建されたといわれ、社殿は兵火などで焼失し現在の社殿は1833年(天保3)、山村代官のもと村民協力して再建しました。熊野社、神明社、白山社、諏訪社、御鍬社など10社の境内社が祀られています。
八幡宮の神馬
この神馬も先程の旭松山と同じく浅野祥雲の作品で、最高傑作と言われています。1958年(昭和28)に制作されたものです。コンクリートでできているとは思えません。
八幡神社前から70mほど西へ向かうと
「弘法堂」があります。
鍛冶屋平の弘法堂
新恵那中部四国八十八ケ所、第七十六番札所です。先程の与ケ根弘法堂の次の札所ですね。
坂本神社八幡宮から中山道へ戻り、西へ向かっていきます。すぐ右手の畑の中に残る井戸があり、そのすぐ先に
「千旦林村の高札場跡」の案内があります。
鍛冶屋平の井戸と千旦林村の高札場跡
井戸と石仏がぽつんとあります。「鍛冶屋平の井戸」と書かれていましたが、いわれなどは不明です。
千旦林のことを
「千駄返し」ともいい、千もの荷物を積んだ馬が往ったり来たりした賑やかな村のことを指すそうです。
緩いカーブの続く道を200m、東野巣川にかかる大藪橋のたもとに石仏が2基あります。
馬頭観音
右側の大きいものが1806年(文化3)の馬頭観音、左のものは如意輪観音で1904年(明治37)大洪水の際に東野巣川を流れて来たものを拾い上げて祀ったものと言われています。1842年(文政7) に造られたもののようです。
畑が広がるのどかな中山道を250mほど進むと道が二股になりその間に道標があります。
追分指差し道標
一番上に手が彫られ、その下に「旧国道 大井町ニ至ル」と彫られ、反対側には「新国道美乃坂本駅ニ至ル」と彫られています。1876年(明治9)に国道・県道・里道制度が定められたので、それ以降に建立されたものです。
二股の道は左手へ進みます。すぐ先左手が「庄屋」の家だと思います。右手には
「笠置山」が綺麗に見えています。
庄屋の旧家
笠置山
標高1,128m、10世紀後半に在位した花山天皇が、京都の笠置山に似ているといわれたことから、その名前がついたと言われています。山中には4つ並ぶ
「ピラミッド・ストーン」があり、「冬至の日の出」と「夏至の日の入り」の一直線上にあるそうです。また、ピラミッドには
ペトログラフが刻まれているそうで興味深いです。一度行ってみたいですね。
さらに200mほど進み右手、畑のあぜに立派な常夜灯があります。
秋葉常夜灯
1846年(弘化3)建立の常夜灯も竿には「秋葉権現」と彫られています。
常夜灯の先50mほど左手の小高い丘に
「中平弘法堂」があります。
中平弘法堂
写真右手の右の石仏が
「准胝観音」、隣は馬頭観音です。
光背が日輪の馬頭観音は珍しいですね。准胝観音は争いを鎮め、病苦を癒し、悟りの道を歩ませる功徳があって、地元では「じゅんてん様」と呼び、春にはお祭りが行われるそうです。
12:00 半分ほど進んだでしょうか・・それにしてもなかなか進みません。亀よりノロノロ(笑)
後半へ続きます。