2019年11月3日

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8:50 車を塩尻駅西側の「フレンドパーク塩尻駅西口」へ駐車し、線路沿いを南下し中山道へ徒歩で戻ります。

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三浦敏正顕彰碑

中山道へ戻る途中の線路沿いの道にあったまだ新しい顕彰碑です。「公害撲滅に一生を捧げた」と彫られています。三浦敏正は、昭和電工塩尻工場の粉塵公害に取り組んでいた人物ということです。塩尻粉塵公害訴訟は1989年に和解が成立しています。昭和電工塩尻工場は、石碑の左手、中央東線と西線が二股となっている間の大きな工場で、旧中山道に面して出入口があります。石碑は昭和電工の工場を見つめるように設置されています。
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平出一里塚

日本橋より59番目の一里塚です。1614年(慶長19)に牛首峠経由から塩尻峠経由となったため、その頃に造られたと考えられています。1656年頃には付近に茶屋2軒があったとされます。この二軒茶屋の立場は、蜀山人の「壬戌紀行」にも記載があり、さとう餅・あわ餅・焼酎が商われていたとあります。北塚は道路から見えにくいですが、家の裏側に残されています。両塚とも残っている貴重な一里塚です。

勘助子育の松

立派な松が植わっていますが、別名を「勘助子育の松」と言われています。武田軍の軍師山本勘助は桔梗ヶ原の合戦のおり赤児を拾いました。乳飲み子を不自由な足の自分が抱いていては彼の生死に関わるため一里塚の老松の元に置きました。合戦が終わり、勘助が老松の元に戻ってみると、松の雫が赤児の口に入り、元気に笑っていました。次第に話が広がり「勘助子育の松」と言われるようになりました。桔梗ヶ原の合戦は1553年(天文22)、一里塚が築かれたのはの合戦の50年後となりますので、年代的に?ですね。伝承ですので。

乳松

乳の出ない母親が松の枝を煎じて飲めばたちまち乳がたくさん出るようになると言われるようになり、枝を取る者が多くなり、特に関西の諸大名が帰国の際、枝を持ち帰りそれが元で枯れてしまったという伝説があります。

平出一里塚より中山道を離れ、平出遺跡公園へ向かいます。平出遺跡公園は、縄文時代から古墳・平安時代にかけての大集落遺跡です。現在までに290を超える竪穴住居跡や掘立柱建物跡や多くの土器、石器、鉄器が見つかっています。それぞれの時代の集落景観をエリアごとに復元しています。

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ぶどう畑と北アルプス

明治中頃よりぶどうの栽培が始まりました。「メルロー」などのワイン醸造用のぶどうがたくさん栽培されています。

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平出遺跡平安時代の村

平安時代に入ると住居は遺跡全体に広がり、50軒以上の住居跡が見つかっています。平安時代の1戸と呼ばれる複数家族の家並みを復元しており、ニワを中心に4棟の住居と1棟の納屋からなる住居群を中心に周囲には畠や林が取り囲み、11世紀前半の農村風景が再現されています。
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平出遺跡平安時代の村

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ガイダンス棟

平出遺跡では、縄文時代の早期から晩期までほぼ全期間の痕跡を辿ることができます。最も栄えたのは中期(約5000年前)で、110軒以上の住居跡が見つかっています。

縄文時代の村

縄文時代には中央の広場を取り囲むように長期に渡り住居が造られ続けた結果、住居が環状に配列する環状集落がよく見られます。ここでは環状集落が2つ並ぶ双環状集落という珍しい集落跡が発見されました。ここではドングリ林に囲まれた茅葺屋根の7軒の住居が孤状に並び、南側には信仰の対象となった立石を据えた広場が設けられています。

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平出遺跡古墳時代の村

当時の有力者の家と考えられる大型住居や高床式倉庫、周囲にはモモ園や林を復元し、6世紀末〜7世紀初頭の農村の様子を再現しています。

旧中山道へは戻らずに、平出の泉の方向へ進んでいきます。

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本棟造民家群

雀おどりのついた本棟造民家は19世紀前半から後半にかけて建築されたものです。これらの本棟造民家は江戸から明治にかけての特産品であった「石灰焼き」と関連するとされています。

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お地蔵様広場

ドンドを見守るようにお地蔵様、秋葉様、庚申塔などが並んでいます。ドンドとは平出の泉から流れだした川に設けられた水場(洗い場)です。このあたりの蟹が住むカワにはドンドがたくさん設けられています。

平出の蟹

昔、床尾に住んでいた蟹が地下を掘りつつ平出方面に大移動をはじめました。蟹は歩きやすい地層を選びながら小井道の下を通りやがて比叡の山の麓に抜け出ました。このため、床尾の水はこの穴から流れ出てしまい、平出へ抜け水便が大変悪くなってしまいました。反対に平出は水利が非常に良くなりました。今も平出の泉の少し上にある穴は蟹が開けた穴とされ、夏になると水が流れ出しているそうです。穴には今もたくさんの蟹が住んでいますが、昔隧道を掘った蟹の子孫とされ、この蟹を食べてはいけないと言い伝えられているといいます。

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念仏供養塔

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平出の泉

はるか縄文時代の頃から湧き出していたとも言われる「平出の泉」。周囲200メートル、水深6メートルの透明度の高い湖沼です。石灰岩の空洞に集まった伏流水が鍾乳洞の出口より湧き出していると言われます。湧水量は毎秒45リットル、水温も年間を通じてほぼ一定です。この泉の北側から流れ出る渋川の小河川が古代平出集落の形成に重要な役割を果たしました。堤は江戸時代に田用水として貯水のために築かれたものです。

水神釜石様の伝説

平出の泉、水源近くに「水神釜石様」が祀られています。昔、馬に乗った神と牛に乗った神が落ち着く先を求めてここまでやって来ましたが、馬の神は床尾近くで一休みしてしまいました。牛に乗った神は歩みが遅いため休まずに平出まで来ましたが、ここから一歩も動かなくなってしまいました。牛の神は付近の水を集めて牛に与え、これが平出の泉だといいます。

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石灰採掘場跡

平出周辺には石灰岩層があり、いくつかの石灰採掘場跡があるようです。明治期に至るまで漆喰や肥料として石灰焼きが盛んでした。「石灰焼き」とは、石灰石(炭酸カルシウム)を窯に入れて焼くことによって生石灰を生産することです。
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平出博物館・大場盤雄歌碑

国史跡平出遺跡をはじめ、市内出土の旧石器〜中世までの大量の遺物を展示しています。銅鐸、瓦塔、緑釉水瓶は県宝です博物館周辺は、古墳時代の竪穴住居や高床式倉庫、3基の古墳、古代の登り窯などが復元された歴史公園になっています。6世紀後半から7世紀前半にかけて平出の古代集落を治めていたと考えられる豪族たちの古墳が3基、博物館裏の尾根上にあります。いずれも円墳で、1号・3号は無石槨、2号は横穴式石室内蔵墳で、石室の復元が見学できます。出土した鉄剣、玉類、土器などは博物館に展示されています。

大場盤雄

1899年生まれの大正期、昭和初期に活躍した考古学者です。1950年(昭和25)より始まった平出遺跡発掘調査委員会の委員長として請招され、第1〜5次調査、発掘調査の実務と関連した各分野の調査を統率し、その前後10余年間にわたって平出遺跡に訪れて指導をしました。

盤雄歌碑から5mほど離れて『釈迢空(しゃくちょうくつ)歌碑』があります。

『ひらいでの村をめぐりてほしあげし 昔のいへのありどころ見つ』

釈迢空の本名は折口信夫です。折口信夫のほうが有名ですよね。国文学者で民俗学者、歌人でもありました。民俗学では柳田国男と共に先駆者として知られています。歌碑は昭和25年、発掘中の平出遺跡見て詠んだもので、弟子の大場盤雄の銘があります。

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根津甚平鷹遺石

以前は案内の標柱が建っていたようですが、今はなくなっており、わかりづらいです。アルプス展望しののめみちから南の細い道へ入ってすぐの石です。根津甚平は、信濃国小県郡祢津(ねつ)の武将で、源頼朝の命により桔梗ヶ原を荒らし、火を吹く八重羽の雉(きじ)を退治した場所とされていますが、美濃国甚平坂まで追っていったとも。木曽・甚平坂・大井長国寺・細久手日吉大明神などの中山道筋に同じような伝承が伝わっているそうです。

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比叡ノ山と比岳當佐神社

山頂には蔵王権現などを祀り、「でいだらぼっちゃ」武田信玄の言い伝えのある信仰と伝説の山とあります。伝説の大男「でいだらぼっちゃ」の伝説は信州の各地に伝わっています。

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菅江真澄歌碑

1783年釜井庵滞在中の旅日記「委寧乃中路(いなのなかみち)」の中で床尾を詠んだ二首を大堤公園竣工を記念して建立された歌碑です。

夏夜の床尾の嶺はいとはやも 明けてかすかに有明の月

むら雲の隔てにくらき遠方は 又もや雨になる神のみね

菅江真澄(すがえ ますみ)

1754(宝暦4)年に三河国(現愛知県豊橋市付近)に生まれ、本名は白井秀雄(幼少期英二)。江戸時代の紀行家で、1783(天明3)年から信濃、越後、出羽、津軽、蝦夷地(松前)まで旅をしました47年の間に数多くの日記や地誌・図絵などを残し、当時の生活習慣を知る貴重な民俗資料となっています。1811(文化8)年より秋田久保田城下に住み、秋田藩の地誌の編纂に携われますが、1829年(文政12)、地誌調査中に旅先で病み、角館(秋田県仙北市)の鈴木家にて76歳で亡くなりました。「委寧乃中路(いなのなかみち)」は、信州飯田から天龍川右岸に沿って北行し、中山道洗馬宿から本洗馬へ、長興寺近くの釜井庵を拠点として近辺を遊覧した日記です。釜井庵は現存し「本洗馬歴史の里資料館」として当時の姿を留めています。

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万蔵干しの碑

床尾の溝口万蔵は大変農業に熱心で、松本の殿様から度々褒美をもらっていました。万蔵の考えだした粟の干し方は実に便利で広く行われ、その名をとって「万蔵干し」と言うようになりました。と、碑には書かれています。「万蔵干し」がどのような干し方なのか・・調べましたが判りませんでした。
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床尾観音堂と庚申塔

ようやく中山道へ戻りました。少々、中山道を飛ばしてしまいましたが・・・・

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ジョウビタキ

ジョウビタキは、10月下旬ころより日本へ訪れる渡り鳥です。全国各地で見られ晩秋を感じる鳥です。4月頃になると子育てをするために中国やロシアへ帰って行きます。小さく可愛い鳥です。

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最北端の銅鐸モニュメント

長野県では銅鐸が出土していなかったため、銅鐸文化圏の圏外と思われていましたが、昭和35年に大門神社より三遠式銅鐸が出土したことから認識が一変しました。
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細川幽斎肱懸松(ひじかけまつ)

「洗馬の肱松、日出塩の青木、お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の名木があったそうです。細川幽斎が「肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」と詠んだと伝えられます。また、徳川二代将軍秀忠上洛の折、肱をかけて休んだとの説もあるそうです。

細川幽斎

戦国から江戸初期の武将であり、当代随一の文化人とされます。小田原北条攻めに出陣し、帰りは木曽路を通り「老の木曽越え」を著しています。

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肱懸松跡

肱懸松が実際にあったのは、この相生坂の途中でした。初代の肱懸松は昭和初期に枯れ、現在の肱懸松は2代目とされます。

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洗馬追分常夜灯

1857年(安政4)建立の常夜灯が建つこの場所は、中山道と北国脇往還(善光寺道、北国西街道)の分去れであり、東の枡形でした。
洗馬宿へ入ってきました。

洗馬の名のいわれ

木曽義仲挙兵の際、木曽から出てきた義仲と今井から出迎えた今井兼平の主従が邂逅したところと伝えられ、兼平が疲れた義仲の馬の足を洗うと馬はたちまち元気を回復したとの言い伝えから「洗馬」と名がついたと言われますが、平安時代には既に「洗馬牧」「洗馬庄」などの名が見られますので、逸話のようです。

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道標とわかされ

道標は、北国脇往還との分去れにありましたが、1932年(昭和7)の「洗馬の大火」以後、右手の新道が開通した際にこちらへ移設されました。

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あふたの清水

今井兼平が義仲と出逢い、馬を洗った伝承から洗馬の邂逅(あふた)の清水と言われています。

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ほし柿

この時期の中山道筋には軒先に柿を干しているお宅を度々見かけます。季節感がありいいですね。

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万葉歌碑

「信濃なる須賀の荒野にほととぎす 鳴く声聞かば時過ぎにけり」作者不詳の東歌ですが、「須賀」の場所を「宗賀」と比定し昭和55年に宗賀小学校に建立されました。
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洗馬学校跡

洗馬学校は、明治6年民家に開設され、開智学校を建てた立石清重を棟梁に明治11年ここに新築移転されました。近隣には例を見ない廻り階段やバルコニーの付いた洋風3層の校舎は、その偉容から「バビロン城」と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬の像が飾られていたそうです。

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洗馬宿本陣跡

洗馬宿は、1614年(慶長19)中山道が牛首峠越えから塩尻峠越えに変更となった時に中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設されましたが、昭和7年の「洗馬大火」により宿場時代の殆どが焼けてしまいました。
1804年(文化元)、本陣百瀬家において昼休みをとっていた藤堂家の家臣、藤尾弥右衛門が同役の若林半三郎を恨みから斬り殺し、弥右衛門も切腹してしまいました。この年の9月、楽宮(有栖川宮織仁親王王女、12代家慶夫人)の下向が決まっていましたが、洗馬宿本陣は不浄であり輿入れが出来ないとして本陣取り壊し、敷地の土までも入れ替えてようやく輿入れが出来たと伝わります。

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荷物貫目改所跡

荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されていました。中山道では洗馬・板橋・追分の3宿に置かれていました。規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど伝馬役に過重な負担がかからないようにしていました。建物は明治の一時期、洗馬学校にも利用されました。
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洗馬宿脇本陣・問屋跡

志村家が努めていました。本陣・脇本陣の庭園は名園だったとされますが、明治42年、鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり失われてしまいました。芥川龍之介の親友、洋画家の小穴隆一は、この脇本陣志村家で育ち、芥川龍之介の「庭」では廉一として登場しているそうです。右手に明治天皇駐輦碑もありました。

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万福寺・赤門

住職が木曽の代官山村氏の娘と結婚したため朱塗りにすることが許されたそうですが、そもそも明治以前にお坊さんが結婚しても良かったのでしょうか・・・?
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芭蕉句碑・高札場跡

高札場があったこの場所は後に「御判形(おはんぎょう)」と呼ばれました。伝馬駄賃御定や幕府のお触れなどが掲げられていました。明治以降は裁判所の出張所(後に宗賀村役場)の敷地の一部となり、その建物はどんぐりハウスとして移築利用されています。「どんぐりハウス」はどこにあるのでしょうか・・・

芭蕉句碑は昭和53年に建立され、「信濃の洗馬 入梅はれのわたくし雨や雲ちきれ」が彫られています。「わたくし雨」とは、限られた範囲に降るにわか雨のことで、山間の変わりやすい天気を詠んでいます。

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東筑摩郡宗賀村道路元標

洗馬宿の旅籠屋は、29軒、このうち大が18軒、中が5軒、小が6軒でしたが、1863年(文久3)には72軒と大幅に増加しています。

せんば煮(洗馬煮)

洗馬には「せんば煮(洗馬煮)」という名物料理があったとされます。昭和初期の辞書『大言海』に、「(せんばハ、木曽山中ノ洗馬駅ニ起こると言フ)鰹、鮭ノ類ノ塩漬魚ヲ、湯ニテ?デコボシ、鰹節煮出汁ニテ煮タルモノ」との記述があるとされます。 越後方面から送られてきた塩漬けの魚を大根やごぼう、人参などの根菜類を出汁で煮込んだ料理だったようです。大阪には「船場煮(船場汁)」という郷土料理があり、大阪の問屋街、船場で作られたことからこの名があるともされています。

「この吸い物は何だ。たたみイワシの洗馬煮か」という会話が十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中にもでてきます。

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新福寺跡と言成地蔵尊

何事も言い成りに願い事を叶えてくれるというお地蔵様は、新福寺の本尊でしたが、明治初期の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は地蔵堂に祀られています。新福寺には本陣で刃傷沙汰を起こして切腹した藤尾弥右衛門の墓があります。切られた若林半三郎万福寺に葬られているようです。
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馬頭観音堂・軍馬の碑

少し判りづらい場所にあります。中央線を越える50mほど手前のカーブを曲がらずに右側の細道となっている坂道を下り直進します。この細道をほんの20mほど進み右手の細道へ入っていきます。

12:15 洗馬宿をあとに次の本山宿へ向けて進んでいきます。