2022年5月5日
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昨日は
『ルートイン恵那』に宿泊しました。今日から一泊二日で御嶽宿までの予定です。午前中は移動です。
大井宿から御嶽宿まで交通機関がありません。宿泊できるのは
細久手宿の大黒屋1軒のみ、1泊2日で大井宿から細久手、2日目を細久手宿から御嶽宿とすればいいのですが。。。。大井宿から
十三峠、
琵琶峠と山道が続き距離は20kmですが、寄り道なども含めると距離はもっと長くなり、時間的にもゆっくり楽しんで!とはいかないので、大井宿から大湫宿を1日で歩き、
タクシーで釜戸駅へでて恵那で宿泊しました。
この付近は交通の便がよくなく、中央線は恵那駅から南下してしまい、御嶽や伏見方面には通っていません。代わりに
名鉄広見線がありますが、恵那駅とはつながっていないため、まず車をJRと名鉄広見線がある
可児駅のコインパーキングに停めました。恵那から可児駅まで車で約1時間、可児駅から釜戸駅までは多治見で乗り換えて約45分。結構な移動時間がかかりました。可児駅前にはコインパーキングがたくさんあり、また1日350円と破格の安さでびっくりでした。
釜戸駅からはタクシーで大湫宿の高札場まで戻りました。1700円ほどで行けました。
12:20 大湫宿から細久手宿へ向けて出発します。今日もいいお天気、青空が広がっています。
高札場から県道を300m、
「紅葉洞の石橋」の跡として小さな橋の欄干部が残り、その先左手に
「小坂の馬頭様」があります。
紅葉洞の石橋と小坂の馬頭様
石橋には1854年(嘉永7)の銘があります。紅葉洞の石橋は1806年(文化3)の中山道分間延絵図には「紅葉洞土橋」と記されています。
馬頭観音は1869年(明治2)、文字塔は1895年(明治28)の銘があります。
さらに60mほど進むと右手に大きな岩があり、県道に取り込まれなかった旧道が150mほど残っています。この旧道入口に
「大洞の岩」があり、すぐ先右手に
「大洞の馬頭観音」があります。
広重「大久手」と大洞の岩
歌川広重の「木曽街道六十九次 大久手」に描かれている大きな岩です。
大洞の馬頭観音
1825年(文政 8)の銘があります。
馬頭観音を過ぎると再び県道へでて、右手に
「二つ岩」、左手に大湫病院を見ながら300m県道を進むと
琵琶峠への入口があります。
二つ岩
母衣岩と
烏帽子岩をあわせて「二つ岩」といい、「弁慶岩」、「夫婦岩」などとも言われていました。武蔵坊弁慶が
鬼岩からもぎ取った岩を旅の途中、ここに忘れていったという伝説があります。鬼岩はここから南西に8kmほどの場所にあります。
ここからは県道と別れて往時の面影が残る旧道へ入っていきます。琵琶峠方面へ入るとすぐ左手に「琵琶峠東上り口の碑」があり、琵琶峠石畳が続きます。
琵琶峠東上り口の碑・観音道標
壬戌紀行の一文が彫られた「琵琶峠東上り口」の碑、観音道標は1814年(文化11)建立。
琵琶峠石畳
1970年(昭和45)に発掘され補修された石畳は、全長700mあります。往時の雰囲気が残る石畳は楽しく歩けます。
上りの石畳はけっこう急勾配ですが、距離は短いのでブラブラ上ってもあっという間に琵琶峠頂上にたどり着きます。峠の街道沿いに
馬頭観音と和宮歌碑があり、その向かい辺りからさらに上にあがる細い野道をたどると
「峠の文学碑」と呼ばれる3つの石碑がありその奥に
「琵琶峠の展望台」があります。
琵琶峠の馬頭観音と和宮歌碑
馬頭観音には「宝暦十三年未年十一月十八日」の銘があります。
『住みなれし都路出でて けふいく日 いそぐもつらき東路の旅 』
徳川家茂へ降嫁の際に詠んだ京都との惜別の歌が刻まれています。和宮は15歳、知らぬ土地へ向かうことがどんなに心細かったことでしょう。和宮歌碑は1979年(昭和54)に建立されました。
琵琶峠の文学碑
左: 「中山道琵琶嶺」
秋里離島の「木曽路名所図会」と太田南畝の「壬戌紀行」の琵琶峠の一文が刻まれています。
中央: 「中山道琵琶峠」
1830〜1860年、岡田文園の「新撰美濃志」の琵琶峠の一節が刻まれています。
右: 「中山道琵琶坂」
1746年、烏丸光栄による「打出浜記」に記された琵琶峠の一節が刻まれています。
琵琶峠の展望台
琵琶峠は海抜538m、美濃国の丘陵地帯を通る中山道最高の峠で、難所の急勾配のため石畳が敷かれていました。展望台からの景色はよく、しばらくぼーっと景色を楽しみながら休憩です。
丑寅(北東)に御嶽山が見えるといいますが、見えませんでした。残念!
木曽路名所図会に描かれた「琵琶峠」
「細久手より一里余にあり。道至って嶮しく岩石多く、上り下り十町許也。坂の上より丑寅の方に木曽の御嶽見ゆる。白山は大山なるがゆへに、麓まで雪あり。日本三番の高山也。西に伊吹山みゆる。」
下の方に描かれているのが母衣岩と烏帽子岩です。
琵琶峠から先は下り坂になります。石畳もまだ続きます。90mほど下ると
「八瀬沢一里塚」が見えてきます。
八瀬沢一里塚(琵琶坂一里塚)
木立はありませんが、両塚とも完全な形で残っています。中山道分間延絵図では「琵琶坂一里塚」と記されています。分間延絵図では一里塚に名称が書かれていないことが普通ですが、ここにはなぜか記されています。
松並木はもうありませんが、1800年(寛政12)尾張藩が命じて道の両側に植えられました。明治時代に伐採され、根は太平洋戦争の際に燃料として掘り取られ、現在は数本残っているだけです。1841年(天保12)の記録では琵琶峠から樫の木坂までの約一里に1260本の松があったとされます。
石畳の中山道はまだまだ続き、どんどん下っていきます。八瀬沢一里塚から100mほどでトイレがあり、車道を突き抜けそれでもまだまだ石畳が続きます。八瀬沢付近の石畳は約600mあり、1970年(昭和45)に発見されたものです。
車道を突き抜け少し下った左手、樹木の間からこちらをじーっと見ている視線が・・動物?・・まさか
熊が!!
「クマ注意」の看板があたこちにあったし・・よくよく見ると
「カモシカ」でした!良かった〜
カモシカ
車道を越えて230m、民家があり
「八瀬沢立場跡」に到着です。
琵琶峠西入口・八瀬沢立場跡
八瀬沢立場の名物は朴葉寿司、ヘボめし、茶飯、焼米、五平餅、からすみ、栃餅、栗きんとんが名高ったといいます。
ヘボめしの「へぼ」とは蜂の子で、7月〜8月にかけて地蜂を小さい巣ごと採ってきて生育させ、秋の彼岸ころに佃煮にしてご飯に添えます。
「からすみ」は米粉を弱火で練り上げ、せいろで蒸し、富士山型に整え竹皮に敷いてつや出し程度に蒸し上げたものです。中津川ではひな祭りに一般的なボラの「からすみ」が手に入らなかったため、これを使いました。
八瀬沢立場から北野村へ入ります。
琵琶峠西入口を過ぎるとアスファルトの県道となりますが、周囲は静かで車通りも少なく歩きやすいです。琵琶峠西入口から330m右手の樹林地を少し入ったところに
「六十六部廻国塔」がひっそりとあります。
北野坂の六十六部廻国塔
「安永七年(1777)丁酉十一月」の年紀があります。
樹林地内のほぼ平坦な県道を600mほど進むと右手に
「一つ家茶屋跡」の案内柱、さらに230mほど右手に大きな地蔵があり、
「天神辻の地蔵」と呼ばれています。
一つ家茶屋跡
太田南畝の「壬戌紀行」には「人家わずかに二、三戸あり、人の住めるはただ一戸なり、一つ家の立場といふ・・・松並木の中を行く」と記されています。また中山道分間延絵図にも「一つ家立場」と記されています。現在は一戸もありませんし、松並木もありません。
天神辻の地蔵
側面に「享保十三(1728)年亥三月十五日」、「一心了念信士」とあり、命日と戒名が刻まれています。「天神」とは北へ700mほどの「北野神社」のことと思われます。往時は「北野村天神」となっています。
300m右手に
「馬頭観音」があり、緩く下っているのが
「焼坂」、樹木の茂るアスファルトの道をさらに600mほどで
「天神坂」と書かれた標柱があります。
焼坂の馬頭観音と天神坂
馬頭観音は1807年(文化4)建立です。天神坂を150mほど緩く下っていくと右手に
「弁天池」が見えてきます。
弁天池
古くから旅人に愛されていた池で、1802年(享和2)の大田南畝、「壬戌紀行」には『小さき池あり 杜若(かきつばた)生いしげれり池の中に弁財天の宮あり』と記されています。
中の島には1836年(天保7)千村柾重、重主により再建された石祠があり弁財天が祀られています。
常に水をたたえカキツバタやジュンサイの自生地となっています。
弁天池のトンボ
写真はあまり綺麗に撮れていませんが、とってもきれいなスカイブルーのイトトンボ・・なんという名前なのか調べたところ、「ルリイトトンボ」だと思います。寒冷地に生息するトンボで南限が岐阜県とありました。
車でも来られる場所なので、数人の観光客も来ていました。弁天池から750mほどの場所に
「ハナノキ自生地」の看板があり、その先180m左手、街道より少し低くなっている場所に
「陽松女陰神」があります。
ハナノキ自生地
このあたりの高い樹木がハナノキなのでしょうか・・・ハナノキはカエデ科の植物で日本では木曽川の上流、東濃を中心とする山間の湿地に自生するのみで珍しいものだそうです。
アスファルトの街道ですが、ここまでは車通りも少なく静かな道でしたが、このあたりからかなり大きな
エンジン音がし耳障りです。またところどころ大きなソーラー発電所となっており、景観が悪いところもあります。樹木を伐採してソーラー発電所・・・これが本当にエコなのでしょうか・・山間部のソーラーパネルを見かけるといつも思います。
左手の道の下の方に
「陽松女陰神」があります。このあたりは湿地のため、道を高く作り変えられたため、碑が下の方にあります。
女男松碑(陽松女陰神)
ここに異様な形をした女松と呼ばれた松並木がありました。
昔、細久手宿の遊女が梅毒に悩み、夢の声にこの松へ信仰すれば必ず病気が治るとのお告げがあり、効果があったことから世俗信仰が高まり、多くの人に信仰されていました。周囲には茶屋もあったといいます。碑には「陽松女陰神」とあり、1864年(文久4)に建立されました。「かくすべきとこを人めにあらわして世に面白き松はこの松」と詠まれました。女松は昭和のはじめ頃に枯れてしまいました。
さらにけたたましいエンジン音の中、300m進むと一里塚が見えてきます。
奥之田一里塚
両塚とも自然の地形を一部利用して造られています。ほぼ完全な形で残されています。瑞浪市内の連続した4箇所の一里塚は全て完全な形で残され、非常に稀なことだと思います。
奥之田一里塚の先、右手に分かれ道があり
サーキット入口の看板があり、先ほどの爆音がここから聞こえたのだとわかりました。さらにしばらく歩いているとけたたましいエンジン音をさせながら、走り屋仕様の車が数台、私達を追い越していきました。
かつて細久手宿の枡形だったあたりの右手に
「切山口の馬頭観音」があります。
切山口の馬頭観音
「元治元年甲子」台座に「小田井宰兵衛」と刻まれています。
街道はこの馬頭観音を過ぎた辺りの左手から曲がり、現在の工場の中を通り「細久手庚申堂」の手前100mくらいのところにつながっていました。
旧道は廃道になっているので、アスファルトの道をそのまま進み、道なりに150mほど行くと右手に
日吉第二小学校跡碑、小さな
津島神社の祠、さらに人家がちらほら増えてきた道を250m、右手に
高札場跡とその奥に
細久手庚申堂があります。
日吉第二小学校跡碑・津島神社・高札場跡
日吉第二小学校は碑の向かいの工場敷地だと思われます。また津島神社の祠は工場敷地となった中山道沿いにあったものを移設したものと思われます。
日吉第二小学校
明治6年より細久手に学校ができ、教師として小栗源蔵を招き個人宅で教えていましたが、以後移転・合併を繰り返し、細久手茶屋ケ根に校舎が新築されたのは明治42年のことでした。「日吉尋常高等小学校」と称し、大正2年に独立し「日吉第二尋常小学校」と改めます。昭和20年、新学区制で「日吉第二小学校」となり、昭和28年、生徒減少に伴い第一、第二を合併し白倉の新校舎へ移されました。
細久手宿の
津島神社は町の両端にあり、疫病や災害を町へ入れないように祀られています。
津島神社を過ぎて左手工場脇の道へ入り、100mほど進むと工場の駐車場になります。駐車場の奥に3基の古い墓碑があります。ここが
「磔刑場跡」と言われます。
磔刑場跡
寛永年間、番匠(大工)の妻が密通したとして、番匠はその妻と間男を手斧で惨殺したとされ、その罪でここで磔処刑となりました。
細久手庚申堂
細久手庚申堂
1798年(寛政10)大火のため町の殆どが焼失した際に庚申堂も焼失しました。以来様々な不祥事が起こるので易を立ててもらったところ、上宿に鬼門除けの神様を祀れば収まるとのことで、新たに1802年(享和2)に再建されました。元は南蔵院が管理し役行者像が祀られています。
役行者像と弘法像
半分埋まった歌碑には
「旅人のしばし扶けのおきどころ月はまん丸細久手泊まり」と書かれています。
細久手宿
大井宿と御嶽宿の間に大湫宿を設けましたが、それでも大湫、御嶽宿間は四里半(18km)の山坂で宿場が苦しんだため、その間に細久手宿を設けることになりました。
1606年(慶長11)美濃奉行大久保長安の命を受け国枝輿左衛門が自力で七戸を建て、「七軒屋」と呼ぶ仮宿を設けましたが、放火により全焼しました。
1610年(慶長15)公儀により米百俵を受けて再興しました。その後1798年(寛政10)、1813年(文化10)と3回にわたり宿場が全焼しています。
1843年(天保14)の記録では、本陣・脇本陣・問屋が各1軒、旅籠24軒、65戸とあります。
庚申堂から100m右手に
「望雲盧住居跡」、そのすぐ先右手に
「大黒屋」があります。
望雲盧住居跡
望雲盧は本名を佐藤権造梅披といい、儒学者の佐藤一斎の甥にあたります。佐藤一斎は江戸後期の儒学者で、西郷隆盛が終生の愛読書とした「言志四録」は彼が執筆したものです。望雲盧は信州塩尻と細久手に塾を開き漢文を教えていました。四方に梅を植えていたといいます。1830年(天保元)に閉塾。
大黒屋(尾州家定本陣・問屋跡)
脇本陣が狭いのと他領主との合宿を嫌った尾張藩が特に定め、問屋の酒井吉右衛門に務めさせました。現在の建物は天保年間の建築とされます。
15:30 本日宿泊する
大黒屋さんに到着しました。
大湫宿から5kmもない細久手宿ですが旧道が残っており、楽しい道のりでした。
カモシカに出会えたのが嬉しかったですね。