2019年4月29日
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10:00 多くの文豪に利用されたつるや旅館を出発します。昨日は碓氷峠越えで体力を消耗しましたので、今日の予定は7kmほどの短い予定です。
軽井沢は人でいっぱいです。
軽井沢宿・沓掛宿・追分宿の3つの宿を「浅間下三宿」と呼ばれていました。軽井沢宿が最も繁栄したのは、元禄期で、1703年(元禄16)の調べによれば家数208軒でした。
神宮寺
元々は、旧碓氷峠の熊野神社付近にありましたが、1662年(寛文2)に現在の地に移されました。
枝垂桜と宝塔
枝垂れ桜は、樹齢400年といわれています。宝塔は、寛政7年に建立され、高さ5mの大きなものです。
土屋写真館
江戸時代は「旅籠 白木屋」で、小林一茶も宿泊しています。小林治平が東京写真学校で技術を学び、1906(明治39)写真館として創業しました。明治期の貴重な写真が残っています。
店内に「志ろきや」の看板が現在も掲げられています。
軽井沢は、「かるいざわ」と呼んでいますが、明治21年までは
「かるいさわ」が正式な呼び名でした。
佐藤脇本陣跡
現在は軽井沢観光会館となり、旧郵便局舎を模したデザインで建てられています。
佐藤本陣跡・明治天皇行在所
佐藤織衛が務め、建坪259坪、門構え、玄関を有していました。1878年(明治11)の明治天皇北陸東海巡幸の際、碓氷峠を越えた後に本陣で昼食を取られました。明治33年、軽井沢ホテルとなり平成12年にチャーチストリート軽井沢ができ、現在は行在所の碑が建つのみです。
チャーチストリート軽井沢
旧軽銀座と聖パウロカトリック教会を繋ぐ大型ショッピングモールです。多彩なショップと飲食店が並んでいます。聖パウロカトリック教会は、昭和10年に山岳教会風に建てられました。堀辰雄の「風立ちぬ」に登場します。
たびたび災害に見舞われた軽井沢宿
1699年(元禄12)の大雨、1721年(享保6)より数年間大雨で悩まされ、1783年(天明3)には浅間山の大噴火により51軒が焼失しています。1791年(寛政3)火災によって51軒が焼失し、2年後には再び大火により、宿内すべての家屋が焼失しました。
軽井沢銀座
ゴールデンウィークの軽井沢は人でいっぱいです。
「軽井沢一里塚跡」は本陣から南西220mほどの下宿にあったそうですが、案内などはなくどこらへんにあたるのかよくわかりません。
三面馬頭観音
1853年(嘉永6)、信州高遠の石工により制作されました。以前は二手橋近くにありましたが、軽井沢別荘開発の祖、野沢源次郎により保護され、野沢組の「軽井沢山の家」前に設置されていたものを近年、この地に移されました。立像となっている馬頭観音は大変珍しいものです。
軽井沢銀座を過ぎると観光客がほとんどいなくなり、静かになります。
旧軽井沢ロータリー
ロータリー交差点は、日本では2013年より導入されました。しかしここ軽井沢のロータリーは、もっとずっと昔、軽井沢開発の祖、野沢源次郎がパリのような西洋的な街並みを形成するために計画したものです。
雲場池
御膳水からの清冽な水を源とする池です。往時の周辺は原野でしたので、街道からも見えたのかもしれませんが、大正時代に野沢源次郎により開発され、モミ林となり見えないですね。北へ200mほどですが、寄り道はしませんでした。
馬頭観音、庚申塔などの石仏群
軽井沢町道路元標
元々は「東長倉村道路元標」は、旧道路施行令が交付された1919年(大正8)に設置されましたが、大正12年に軽井沢町となったため、作り変えられたものです。現在は元の場所から13m移動しています。台に鎮座している道路元標を見たのは初めてのような気がします。
武家門
離山公園、雨宮邸の入口ともなっています。
旧雨宮邸母屋
雨宮敬二郎は山梨の名家に生まれ、生糸・養蚕業で成功します。明治16年、ぶどう畑にしようと軽井沢の原野を購入しましたが、あまりの寒さにぶどうは全滅、やむなくカラマツを植樹したところ成功しました。一代にして財閥を築いた人物であり、軽井沢の開発者として知られます。この離れ山に事務所として100坪の邸宅を建設しました。
旧雨宮邸新座敷
雨宮敬次郎は明治の末期に120坪の新座敷建設し、政財界の賓客を迎えました。時の総理大臣、伊藤博文、この他政府・財界の大物が軽井沢に避暑に来る折この屋敷に宿泊しているそうです。公開しているということでしたが、本日は閉まっていました。
離山公園案内図
離山は浅間山の側火山で標高1256m、1時間ほどで登れ、頂上からは浅間山・富士山などの景色が楽しめます。
旧近衛文麿別荘
大正時代に建築された建物は、昭和初期に3度総理大臣を務めた近衛文麿の別荘です。昭和7年政治学者市村今朝蔵夫妻の所有となりますが、平成9年、町に寄贈され平成11年からは記念館として公開しています。
雨宮池
雨宮池をすぎると旧道へ入ります。
左浅間
徐々に天候が悪くなってきました。浅間山にも雲がかかってしまいました。湯川の手前からは、湯川の流路が変更したため旧道はなくなり、新しい道を行くしかありません。
この廃道になってしまったところから中山道から唯一浅間山が左に見える場所がありました。また、高さ2mほどの南妙法蓮華経と彫られた弘化4年の「髭題目碑」があったようですが、見つかりませんでした。
帰宅後、流路が変わったことと廃道部を合わせて考えストリートビューで探した結果、ありました!恐らくこの石碑が「髭題目碑」だと思います。
宮之前一里塚跡
この一里塚は中山道からだいぶ離れています。古中山道の一里塚で、中山道分間延絵図にも街道から離れて描かれています。塚はありませんが、昭和49年建立の自然石の碑が建立されています。
中山道分間延絵図
中山道は、湯川の東を通り、一里塚が街道と離れて描かれています。現在は、この湯川の東に道はなく、西側の新しい道を通ります。
ヒガラ
シジュウカラの仲間で「ヒガラ」という鳥のようです。野鳥のわりに警戒心があまりないのか、近づいても逃げません。カラマツのまつぼっくりを一生懸命食べていて気づかないようでした。
長倉神社
1783年(天明3)の浅間山噴火の際に古文書等を焼失してしまったため創建年は不明ですが、平安時代の文献『延喜式』に名が残るため、それ以前の創建だと思われます。本堂は後年改修されたものですが、今も本殿内には1758年(宝暦8)の彫刻が残されているそうです。
五角神柱(社日塔)
五角柱の各面に5つの異なる神が彫られています。六角柱や四角のものもあります。「社」というのは中国の古い民間信仰で土地・土の神のことで、古来よりこの日は、土地の神である産土神様に参拝し、春は五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋はその年の収穫物を供え、恵みに感謝する日とされています。
沓掛時次郎碑
「千両万両枉(ま)げない意地も人情搦(から)めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で男沓掛時次郎」と彫られています。昭和28年に建立され、書は作者である長谷川伸です。
沓掛時次郎
長谷川伸原作の戯曲で、1928年(昭和3)に発表されました。『一本刀土俵入』『瞼の母』などと並ぶ、
「股旅(またたび)物」の傑作とされています。股旅物とは、各地を流れ歩く博徒などを主人公にして義理人情の世界を描いたものです。歌舞伎では人気の演目となり、8度にわたり映画化され、テレビドラマ化もされました。2010年には漫画化もされているそうです。長谷川伸の作品は後世に大きく影響を与えるものでした。
湯川
浅間山付近に源を発し、白糸の滝や千ヶ滝、碓氷峠などからの河川と合流しています。明治43年の洪水で流路が変わりました。以前は現在よりも東へ50mほどの所を流れており、長倉土橋が架かっていました。
沓掛宿へ入ってきました。
脇本陣桝屋
平成21年まで旅館を営んでいたそうですが、現在は廃業しています。「?や」という看板だけでも残っているのはありがたいですが、この建物も取り壊されてしまうのでしょうか・・
中軽井沢駅
沓掛は、中山道で唯一名前が無くなってしまった宿場です。古くは峠を控え旅人が沓(靴・草鞋)を履き替えた場所で、古い沓を掛けて旅の安全を祈る意味がありますが、現在は中軽井沢と改名されてしまいました。
かぎもとや
軽井沢町役場に現存されている当時の飲食店登録証よると、明治3年、現在地に開業しました。ですが、実際はそれより古く、文政の古文書には、街道を行く人、浅間登山の人々を相手に宿屋を営むと同時にわらじ、杖、蕎麦、餅、うどんを売っていました。当時は、蕎麦よりもむしろうどんが主であったようです。鍵本の名は、本陣の鍵を預かっていたことから由来するそうです。
脇本陣蔦屋跡
現在は八十二銀行になっており、駐車場に石碑が建つのみです。
沓掛宿は、天保の調べでは本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒があったということです。3軒目の脇本陣は不明でした。
慈善家 次左衛門
沓掛宿の百姓で旅籠も営んでいた次左衛門は1815年(文化12)より夫婦で往来の貧しい人に食事を与えていましたが、後には飯の代わりに銭24文と草履1足を与えるようになります。こうした慈善活動により宿場内から人望を集め、争いの仲裁を行い、また足元の悪い道路の改修も行いました。こうした行いから文政11年幕府から褒美を賜っています。菩提寺である宝性寺には鐘楼と山門の再建の際に金十両を寄進しています。宝性寺には、「朱楽菅江」の沓掛滞在中に作ったとされる歌の碑があります。朱楽菅江は、戯作者、狂歌師として大田南畝(なんぽ)、唐衣橘洲(からころもきしゅう)と共に天明狂歌ブームを築き狂歌三大家と言われました。『ここもまた 月の雪国ゝとはてなき空をわたる雁かね』
本陣井戸
けやきの大木の下に古井戸らしきものがあります。本陣建坪は243坪だったようですので、以前はこのあたりも本陣の土地だったのでしょう。
土屋本陣
表通りの表札には「本陣 土屋」と表札にあります。裏に回ると土蔵に『本』の印がなされています。土屋本陣は、問屋も兼ねており、建坪は243坪、皇女和宮も宿泊しています。中山道分間延絵図によると、宿場用水は街道の中央を流れ、本陣前の宿場用水の脇に高札場があったようです。
草津道道標
石の下部がかけています。「右くさつ大」までしか読めませんが、「右くさつ大ささ」と彫られていました。草津道はこれより北の上州大笹、草津、信州仁礼へと至ります。大笹街道からは北信濃の菜種油が江戸へ運ばれ「油街道」とも呼ばれました。草津からは草津の湯を樽に詰め江戸まで運搬するために利用された道です。草津の湯畑には、「八代将軍御汲上げの湯枠」がありました。 ⇒『草津旅行』
道祖神・双体道祖神
長倉の牧
平安初期、沓掛宿を中心に東西南北の一帯は、
「長倉の牧(駒飼のどて)」という広大な牧場があったそうです。官牧であった佐久三牧(望月・塩野・長倉)の一つでした。現在は樹木に覆われ、牧場があったとは思えない光景です。案内板が残るのみです。
このあたりから溶岩の石積みが多く見られます。溶岩のことを信州では「焼石」と言うようです。焼石をお風呂に入れると手軽に岩盤浴ができるようです。
浅間山噴火
記録に残る浅間山最古の噴火は、日本書紀で685年(天武天皇14)、次いで1180年(天仁元)には上野国司が記しています。史上最大の噴火と言われるのが1783年(天明3)の大爆発で、大規模な溶岩流も発生し冷えたものが観光地になっている
「鬼押出し」です。灰は東北地方まで及びます。浅間下三宿の中で最も被害が大きかったのは軽井沢宿で、宿内の人々は早めに避難していたので、死者は一人だったようですが、焼石による火災、砂礫で潰れた家、田畑、山林いたるところが砂礫・降灰で埋没してしまいました。中山道は通行ができなくなり、旅人は
甲州街道へ廻りました。
道祖神・二十三夜塔
二十三夜塔後方の石仏と道祖神は、焼石でできています。平安後期の天仁元年の噴火(大焼)による火砕流が襲いました。
保温折衷苗代碑
保温折衷苗代を発明した荻原豊次を顕彰するための碑が建てられています。保温折衷苗代は、種子が隠れるくらいに覆土した後,焼もみがらをかけ、さらにその上を油紙やポリエチレンフィルムで被覆し、太陽熱を十分に取入れて保温育苗する方法です。
保温折衷苗代の発明
荻原豊次は軽井沢町古宿に生まれ農業をいそしむ中で、昭和17年に保温折衷苗代という革命的な技術を考案し、稲作に一大革命を起こしました。江戸時代には、飢饉で多くの餓死者があり、戦後まで長く、信州や東北地方等の寒冷地では不作に悩まされてきました。
寒冷地は苗の発育が悪く、成長にも悪影響を及ぼし収穫量が減ります。荻原豊次は失敗に失敗を重ね、ついに新技術、保温折衷苗代を考案しました。保温折衷苗代は信州のみならず、東北地方まで広く伝わり、岩手県奥州市にも氏の功績を称える顕彰碑が建立されています。その功績は、
「一粒のモミ」としてNHKで放送されました。
秋葉神社
火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現を祀る神社は集落に1つはありますね。
巡礼供養塔
崩れかけた空き家の庭にあった石碑です。「百八十八番供養塔 天保13年」と彫られています。百八十八とは、西国三十三か所、秩父三十四か所、坂東三十三か所、四国八十八か所を合せたことを言うようです。非常に多くの霊場を回り、建立したものですね。
(左) 馬頭観音 3基、(中央) 馬頭観音、(右) 百八十八番巡礼供養塔(明和5)、庚申供養塔、庚申塔
14:30 本日の宿泊地『ゆうすげ温泉旅館』へ到着しました。天候は徐々に悪くなり途中から雨が降ってきて肌寒かったです。早く温泉で温まりたいですね。