2022年5月6日
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大黒屋
8:30 宿泊した大黒屋さんを出立します。薄曇りのお天気です。大黒屋向かいの駐車場あたりは郷蔵があった場所です。
大黒屋から50mほど右手に郵便局があります。その先小川を越えた左手には往時、
「笹屋」小古曽家がありました。小古曽家の養子である
小古曽文洲は
尾張藩御用絵師であったとされます。1866年(慶応2)に没しています。
すぐ先右手に
細久手宿本陣、その向かいの空地が
脇本陣跡になります。
細久手宿本陣と脇本陣
本陣は1651年(慶長15)より小栗十郎左衛門が開設し、代々
小栗家が務めていました。非常時は裏続きの愛宕神社へ避難するようになっていました。本陣墓地はここから北へ500mの陣山に現存するそうです。脇本陣も小栗八左衛門家が務め、屋号は「越後屋」、1876年(明治9)には細久手郵便局となっていました。庄屋は小栗家のほか小古曽家なども務めています。
脇本陣跡から100m、枡形のY字路で寄り道していきます。中山道は右手ですが、反対の左手へ入っていきます。250m直進、左手に細い未舗装の道があり、そこを左へ入って2、30mで國枝與左衛門をはじめとする
国枝家の墓地があります。
国枝家の墓地
国枝與(与)左衛門は細久手宿を開いた功労者です。ここでは與左衛門から孫兵衛までの4つのお墓が並んでひっそりと建っています。
枡形へ戻り、中山道を進みます。右手に廃寺となった
「南蔵院跡」、現在は一般的な家屋になっています。そのすぐ先右手の道へ入ると
「日吉・愛宕神社」の参道があります。参道の左手に
「國枝與左衛門翁顕彰碑」があります。
南蔵院跡
南蔵院は昔修験者が住んでいて日吉愛宕神社や庚申堂をお守りして加持祈祷を生業としていましたが、修験者としての南蔵院は明治34年に廃されています。細久手宿の三度の大火で二度も焼け残った南蔵院の建物は元禄の頃に建てられた細久手宿最古の建物でしたが、昭和56年に取り壊され現在のようになったようです。
家の奥には不動明王があるそうですが、確認はできません。
日吉・愛宕神社
細久手宿の産土神社で細久手宿を開いた
国枝與左衛門重円により1595年(文禄4)創建されました。
庚申堂の裏にあった細久手の金毘羅様は昭和34年の伊勢湾台風で倒壊したため、金毘羅に収めていた「天狗面」は日吉神社へ移されたといいます。
國枝與左衛門翁顕彰碑
國枝與(与)左衛門は1606年(慶長11)美濃国奉行大久保長安より細久手宿を開くよう命を受け、自力で七戸を建て、「七軒屋」と呼ぶ仮宿を設けましたが、放火により全焼しました。1610年(慶長15)公儀により米百俵を受けて再興し、正式に宿場になりました。開宿の功労者ということですね。
中山道へ戻り170m右手の斜面に石窟におさまる
馬頭観音があり、さらに100m先の右手に小さな
津島神社の社があります。
九万九千日観音(穴観音)と津島神社
8月9日(寺によっては10日、或いは旧暦7月10日)は観音様の大功徳日とされ、この日にお参りすれば九万九千日お参りしたのと同じという有り難い日があるそうです。 この穴観音は1801年(寛政13)造立。
細久手宿の
津島神社は町の両端にあり、疫病や災害を町へ入れないように祀られています。
右手は山林、左手は田畑の静かな道を300mほど進むと右手に
「くじ場跡」と書かれた標柱があり、さらにその先100m右手に
「馬頭観音」がありました。
くじ場跡と馬頭観音
昔は小さな小屋があり、ここで人足の役をくじ引きで決めていたといいます。人足・馬方・駕籠かきのたまり場となっていました。
馬頭観音は1824年(文政7)の銘があります。
このあたりは県道となっているようですが車もほとんど通らず、静かな旧道の佇まいがあります。馬頭観音から200m右手に
「馬水池と馬頭観音」があります。
馬水池と馬頭観音
陸軍軍人、
福島安正が後年中山道を通行した際にこの泉で愛馬に水を与え、
「馬水池」として今でも残っています。当時の石碑は平岩の八幡神社境内に建てられています。馬頭観音は1895年(明治28)の銘があります。
福島安正
1853年(嘉永6)松本藩士、福島安広の長子として生まれ江戸へ出て軍事学を学び軍人となります。ドイツ公使館付きとなり、任期満了後帰国前に単騎シベリア横断を決行した人物です。
彼がシベリアを横断したのは明治25年、シベリア鉄道が完成したのが明治35年、氷点下50度にもなる冬のシベリア横断は世界でも初めてのことで、当時世界を驚かせました。表向きは個人的な冒険でしたが、真の狙いはロシアの東洋進出の実態を探るための情報活動でした。1892年(明治25)ベルリンを出発、ウラル山脈を越えて外蒙古へ入り、アルタイ山脈の北へ沿ってイルクーツク、バイカル湖の南岸からチタ、チチハルを経て明治26年にウラジオストク到着。実に3500里(13,744km)、488日に渡ります。
馬水池とかえる
200mほど進むと平岩の集落となり、人家が増え
「平岩の辻」へ至ります。 辻には
「開元院道標」があり、開元院はここより北へ1kmほどのところにあります。
開元院道標
開元院は1439年(永享11) 鶴ヶ城の城主土岐頼元が備中洞松寺の月泉性印を開山として創建、本尊は1356年(文和5)の聖観音菩薩像です。境内には土岐頼元の墓、旗本山村八郎左衛門・堀田駿河守紀政の墓があるそうです。
平岩の辻を右へ曲がり
「平岩八幡神社」、「平岩」の地名のもとになった
「平岩」へ寄っていきます。
平岩八幡神社
1660年(万治3)知行主、
山村喜右衛門によって創建され、平岩の産土神です。
福島正則の碑
忠勲不朽(ちゅうくんふきゅう)と彫られ、下部に軍人の騎馬姿が浮彫りされています。陸軍軍人、福島安正が後年中山道を通行したことを記念して建立されたようです。
平岩
「平岩」の地名のもとになった大石です。
中山道へ戻ります。この先、御嶽宿の近くまで自動販売機もコンビニもありませんので、平岩の辻にある小沢商店前の自動販売機でペットボトルの飲み物を2本購入していきます。県道の中山道を150m、未舗装の旧道へ入っていきます。右手に
「西の坂碑」、左手に
「瑞浪市内旧仲仙道の影碑」がありす。
西の坂碑・瑞浪市内旧仲仙道の影碑
1971年(昭和46)建立の
「西の坂碑」は
「左中仙道 旅人の上り下りや西の坂」と刻まれています。
「瑞浪市内旧仲仙道の影」にはここから1300mの中山道、鴨之巣一里塚までの見どころが文章で紹介されています。
西の坂を上って80m、右手の斜面上に
「秋葉坂三尊石屈と秋葉祠」があります。三尊石屈から少し上って右に行くと小さな
「秋葉祠」がぽつんとあります。
秋葉坂三尊石屈と秋葉祠
石屈は1768年(明和5)に造られ、三面六臂の馬頭観音立像、中央は一面六臂の観音座像、左は風化が進んでいます。石灯籠には1840年(天保11)の銘があります。
さらに100mほど上っていくと左手に傾いた
「鴨之巣道の馬頭文字碑」と呼ばれる文字馬頭観音、さらに400mほど進むと左手に
「鴨之巣辻の道祖神」と呼ばれる傾いた文字道祖神がありました。
鴨之巣道の文字馬頭観音と鴨之巣辻の道祖神
鴨之巣辻と鎌倉街道道標
このあたりが
「平岩根峠」で、鎌倉街道道標には
「右旧鎌倉街道迄約一里余」とあります。旧鎌倉街道とはどこを指しているのでしょうか・・・中街道でしょうか?
「平岩根峠」からは平坦な道を350m、右手に
「切られヶ洞」と彫られた石柱がありました。
切られヶ洞
尾根道を通ってきましたが、このあたりは一番尾根が狭まっている場所です。道の両側が谷になっています。「切られヶ洞」の本来の意味は不明ですが、「洞」には「通りぬける」という意味もありますので、両側が切れ落ちた鞍部を通り抜ける・・という意味があるのではないかと思います。
切られヶ洞から
「中之上峠」を経て緩い下り坂となりカーブを曲がると
「鴨之巣一里塚」が見えて来ます。
鴨之巣一里塚
両塚とも完全な形で残っています。
鴨之巣一里塚から曲がりくねった道を100m、瑞浪市から可児郡御嵩町へ入っていきます。
鴨之巣一里塚からアップダウンの少ない山道を800m、
「藤木峠」を経て道は下り坂になりさらに200m、右手石屈の中に
馬頭観音が祀られています。
くじあげ坂の馬頭観音
くじあげ坂を下り、さらに藤あげ坂を下ると遠くに集落が見えてきます。右手にお城の石垣のような石積みが残っており、ここが「山内嘉助屋敷跡」です。
山内嘉助屋敷跡
屋敷はもうありませんが、石垣が残っています。ここでは諸大名が休憩所にあてていました。
さらに坂を下ると
津橋の集落へ入っていき、右手に
常夜灯がありました。
常夜灯
常夜灯には「天満宮」の銘があり、台座には「富村氏子中」とあります。
県道と合流し右手畑の奥に大きな
「皇神岩」が見えます。
皇神岩
昔は岩の上に小祠を祀り、雨乞いをしたといいます。
さらにすぐ先「津橋」があります。中山道分間延絵図では
「堂ノ下板橋」となっており、津橋という橋名は見当たりません。
堂ノ下板橋(津橋)と風呂之前土橋の馬頭観音
津橋のたもとに
「室戸神」と刻まれた1801年(享和元)に建立された常夜灯があるらしいのですが・・・ないですね。
孝女喜与
「新撰美濃誌」に、津橋川には孝女喜与が住んでおり、老父に仕えて孝養をつくすので、尾張藩主が銭を与えて褒めたところ、その銭を店にかけて大切にし、うやまっていたと記されています。
津橋の次の橋、中山道分間延絵図では
「風呂之前土橋」のたもとには
馬頭観音があり、ここを右へ曲がり
熊野神社へ向かいます。
熊野神社
熊野権現と観音堂が建てられています。堂には数体の石仏が納められています。
中山道へ戻り70m、道は細くなり急坂が始まるあたりが
「刎坂立場」です。さらに100m右手に
観音堂の入口があります。
刎坂立場
津橋が前後に大きな坂を控えているために賑わった立場でした。
観音堂入口
1779年(安永8)の名号碑、1812年(文化9)の奉納西国・秩父・坂東百番供養塔の廻国碑、1850年(嘉永3)の虚空蔵菩薩などがあります。
観音堂へ上ろうと思いましたが、電気柵が巡らされており入ってはいけない雰囲気でしたので諦めて先へ進みます。
観音堂前の高台の道を進むと住宅は完全になくなり、やがて山道になり急な上り坂が始まります。
諸の木坂を上っていくと右手の高い場所に石窟があり、
馬頭観音が祀られていました。
諸の木坂と馬頭観音
三面六臂の馬頭観音は「寛政九巳六月吉日 馬持連中」(1797年)と刻まれています。
ゴールデンウィークが始まって8日目、毎日歩き続けて疲れもピーク・・・諸の木坂から御殿場までがかなりキツかったです。足が上がっていかない・・標高差約100m、1kmほどを休み休み、30分もかけてなんとか上りきりました。
物見峠・御殿場
1861年(文久元)徳川家茂に嫁ぐため皇女和宮が通行しました。往時ここに休憩をするための御殿を建築したことから「御殿場」と呼ばれるようになりました。
和宮降嫁と人足
和宮降嫁時、尾張藩では人足が全く足りず、遠く伊勢や越後方面からも人足が集められましたが、それでも
人足は足りず、鵜沼宿から三留野までの約80kmをぶっ続けで運ばされた人もおり、大湫宿では引き継ぐための新たな人足6000名余りが集められましたが、半数が逃亡したといいます。三留野宿では耐えられなくなった人足が役人を殺して逃亡する事件もおきました。和宮降嫁は中山道の宿場にとって
災難以外の何物でもなかったようです。
馬の水飲み場跡と馬頭観音
物見峠には往還左右に5軒の茶屋があり、馬の水飲み場は北側3箇所に設けてありました。
往還から右手に少し上り
「御殿場休憩所」へ向かいます。
御殿場休憩所からの眺望
恵那山、笠置山、御嶽山などが眺望できると案内板にありますが、樹木に遮られ何も見えないですね〜
しばらくのんびり休憩しました。ホント疲れた〜
御殿場からは緩やかに下っていのでラクラクです。御殿場から400m下ると左手に
「唄清水」と「句碑」、さらに右手に
「巡拝記念碑」があります。
唄清水・句碑
中山道分間延絵図には
「清水」と記されています。
1854年(嘉永7)に
千村源征重臣(五歩)が建立した碑で、
「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」と歌が刻まれています。千村征重は
久々利九人衆の一人、千村助右衛門重次の分家にあたり、日吉(現瑞浪市)の南垣外に住んでいました。
現在は清水が湧き出している感じはほぼありません。水たまりかな・・
巡拝記念碑
「禁裡御所神社佛閣巡拝記念碑」と彫られた1913年(大正2)建立の石碑があります。京都御所?皇居?へ行ったときの記念碑でしょうか?
中山道往来館?
その先、竹林の中を抜けていくとぱっと明るくなり人家の中を進みます。右手に「中山道往来館」と書かれている古民家がありますが、閉まっているようです。
そのすぐ先左手に
「一呑清水」があります。
一呑清水(ひとのみのしみず)
皇女和宮の降嫁時、道中この清水を賞味し、たいそう気に入り後の上洛の際、永保寺(多治見市)にてわざわざここから清水を取り寄せ点茶をしたと伝えられています。
現在はとうとうと清水が流れている雰囲気はなく、ブンブンと蚊のような小さい虫が多いので溜り水になっている感じです。
少し広いアスファルトの道を160mほど進むと右手に
「十本木立場跡」と書かれた案内柱があり、そこを左へ入る道が旧道です。旧道を100mほど進み、1840年(天保11)に建立された
馬頭観音と清水の井戸跡を左手に見てそのすぐ先が
「謡坂一里塚」です。
謡坂一里塚
1908年(明治41)、2円50銭で払い下げられ、その後取り壊されました。1973年(昭和48)、地元の有志によりかつての一里塚近くに復元されたものです。
そのすぐ先のカフェが以前立場茶屋のあった場所です。
「十本木立場跡」はこのあたりです。
十本木立場跡
少し前まで茶屋の建物が残っていたようですが、現在は建て替えられてカフェになっているようです。立場茶屋では餅、わらじ、甘酒、栃の実などを売って旅人をもてなしていました。
歌川広重の「木曽海道六拾九次 御嶽宿」では「木賃宿」が描かれ、この十本木立場が描かれていると考えられています。
中山道分間延絵図 十本木立場と謡坂一里塚
立場と一里塚はほぼ同じ場所になっています。中山道分間延絵図には「千本木立場」と書いてあるようにも見えるのですが・・・
立場の向かいには「不許軍酒入山」の石碑があります。禅寺があったのでしょうか?中山道分間延絵図にはそれらしいものはありません。
十本木立場からは緩い坂を下り、
「謡坂石畳」へと続きます。
謡坂石畳
謡坂は中山道のなかでも登りの急な坂であり、疲れを忘れようと唄を謡って通ったところから名付けられたとされます。往時の石畳が若干残っていたとされますが、ほとんどか復元されたものです。
九七番太屋敷跡
十本木立場を少し行ったところに
「九七番太屋敷」があったとされますが、はっきりした場所はわかりません。九七は番太の名で、番太とは、江戸時代に夜警、浮浪者の取り締まりや拘引、牢獄・刑場などの雑用、処刑などに携わっていた人たちのことです。
謡坂の石畳を80mほど下ると右手に石窟におさまる
馬頭観音2体があります。
馬頭観音
「謡坂無縁塚」と書かれている資料もあり、行き倒れの旅人を葬った塚とも書かれています。
傷癇山(しょうかんやま)
このあたりの山を「傷癇山」といい、木を伐ると激しい
熱病にかかったため、人々は恐れたといいます。見かねた
開元院の住職が除災を祈ったところ、以後は山へ入っても祟られなくなったといいます。
さらに60mほど下り、マリア様に逢いに右に曲がります。50m先、獣道のような場所を左、教会を回るようにして教会西側からアスファルトの道に出て「マリア像」へ向かいます。
七御前とマリア像
七御前墓地は、尾張書物奉行が著した1756年(宝暦6)の「濃陽略」や「新撰美濃誌」にも、古くから五輪の塔が祀られているが、どのような古跡であるか判らないと記されています。
七御前墓地はマリア像の裏側にあります。マリア像はキリシタン遺跡が発見されたことから建てられたそうです。
発見されたキリシタン遺跡
1981年(昭和56)町道の拡張工事をした際に自然石に刻印された3点の十字架碑が発見されたことで、江戸時代にキリシタンが存在したことがわかりました。
切支丹遺物が発見されたのが「七御前」で五輪塔など仏教関係の石碑が集められていた場所でした。その後の調査で小原地区を中心に十字架が刻まれた水神碑、十字架陽刻碑、聖母マリア像、逆卍墓碑などが次々発見され、謡坂の幸福寺釈迦堂跡からは「南無阿弥絶仏」と彫られた笠塔婆が見つかり、その下から聖母マリアが見つかりました。
発見された遺物は現在、御嶽宿の
「中山道みたけ館」に展示されています。
中山道謡坂まで来た道を戻り、謡坂を下りきります。
謡坂西入口と道標
このあたりで「謡坂村」から「小原村」へ入ります。道標には
「右 京へ四十里十二丁、左 江戸へ九十四里八丁」と彫られています。
60m先に橋があり、とどめき橋のたもとに
「宮石」があります。
とどめき橋(小原橋)と宮石
1690年(元禄3)領主が板橋を架けました。その後土橋となりましたが欄干があり名高かったといいます。
宮石は
道祖神として祀っていましたが和宮降嫁の折、この石にもたれて休まれたことから「宮石」と呼ぶようになりました。元は山際にあり、桜やつげの老樹に覆われていましたが橋詰に移されました。
古い資料によれば、橋詰には1731年(享保16)の
不動明王像があったとされますが、今は見当たりません。
小原橋からは少し広いアスファルトの道を260mほど進むと右手に
「耳神社」があり、このあたりから
西洞村へと入ります。
耳神社
創建は不明ですが、1756年(宝暦6)の「濃陽志略」には既に東海各地に名が知れていたとあります。耳の病気平癒に良いといわれ、お参りはそばにある大きな錐(きり)を耳に当て耳に突き刺す仕草をしながら病気平癒を願い、耳が良くなったら年齢の数だけ錐を奉納するようです。多くの錐が奉納されていました。
耳神社の言い伝え
大工、松右衛門が風邪を引き高熱を出し、この場所に鎮座していた「咳気」の神様に妻が毎日お参りしていました。松右衛門の熱は下がったものの耳が聞こえなくなり、大工の仕事にも差し支えるため二人で毎日お参りをしました。そのうち妻は身ごもり赤ん坊の無事を合わせてひたすら毎日祈り続けました。ある春の日、いつものように松右衛門がお参りに行くと、ついうとうとしてしまい、神様が現れ・・・松右衛門が目を覚ますと鳥の鳴き声、川のせせらぎが聞こえてきました。急いで帰ると無事に生まれた赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。お礼に大事な大工道具である
錐を奉納し、後に祠も建て「耳神さま」と呼ばれるようになりました。
1864年(元治元)
水戸天狗党が中山道を通行した際、耳神社の幟(のぼり)を敵の布陣と思い、刀を抜いて通ったと伝えられています。
耳神社から50m、右手に
馬頭観音があり、さらに80m、太い道から右手の細い道へ入っていきます。左手に民家、右手は山という往還を130m、Y字路を右手へ上りすぐ左手に
「百八十八ヶ所納経塚」があります。
馬頭観音と百八十八ヶ所順拝納経塚
西洞(さいと)坂
少し上って行くと道は未舗装となり旧道の面影が残っています。下りに転じた坂を
「西洞坂」と呼ばれました。右手奥に石窟におさまる「寒念仏供養塔」があり、さらにその先の急勾配の坂道は
「牛の鼻欠け坂」とも呼ばれていました。
寒念仏供養塔
寒念仏供養塔の台座には「維時明和二乙酉年八月彼岸」の年記があります。村人が寒中この坂に集まり、白装束となって鐘を叩き念仏を唱えながら村中を練り歩くという修行で願い事を祈念するという習わしがありました。
牛の鼻欠け坂
十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」には「牛坊、牛坊 どこで鼻欠いた 西洞の坂でかかいた」と記されています。西洞坂は牛の鼻欠け坂とも呼ばれ、荷物を背に登ってくる牛の鼻が擦れて欠けてしまうほどの急な上り坂でした。
牛の鼻欠け坂を下るとようやく平地にでました。ここは濃尾平野の端部にあたり、ここからしばらくは濃尾平野を旅することになります。
井尻村へ入り農地の間を700m、右手に
「井尻の馬頭観音」がありました。
井尻の馬頭観音
2mほどの高さの看板の上にひっそりと佇んでいます。
その先みたけエコラインへ突き当り、右へ40m、右手の細い道が中山道です。細道へ入って200mほど先の山の上が
「山村甚兵衛家中屋敷」があった場所と思われます。
中山道分間延絵図に描かれた山村甚兵衛家中屋敷
山村甚兵衛家中屋敷
中山道を歩いたこの日は痕跡を見つけることができませんでした。後日、行く機会がありましたので再び現地へ行ってみました。当日は近所のおじさんがそのあたりに
「山神」が祀ってあると教えていただき、山を登って行きましたが全く見つからず・・・下りてくるとまたおじさんがいて、一緒に上ってくださりました。
登り口はみたけエコラインを越えて右手に家並が続きますがそれが途切れたあたり、旧道へ入って110mくらい右手です。
少し上ると右手に古い墓地と萬霊供養塔などの石仏があります。そのすぐ先を左へ入っていきます。ただしこの入口は既に道という形態はしておらず・・・おじさんの案内がなければ絶対にわからないだろう・・と思われるような場所でした。斜面に沿うように廻り込んで20mくらいでしょうか・・ほんとすぐそこなのですが、道からは死角になっており気づかない場所でした。
山神
おじさんの話ですと、このあたり「新宮屋敷」と呼ばれており、お正月はこの山神様の周囲に集まりお祭りが昭和30年頃までは行われていたそうです。
中山道分間延絵図の「神明」の場所とほぼ合致しているように思えます。神明と山神が同じかどうか・・同じ場合もあるし、同じでない場合もあるそうです。また、神明が放棄された後に山神を祀ったとも考えられます。ですが、「新宮屋敷」と呼ばれていたことからもこの山神の奥が
「山村甚兵衛家中屋敷」であったことは間違いないでしょう。
山村甚兵衛家中屋敷
戦国時代に木曽氏の旧臣であった山村氏は、関ヶ原の合戦で木曽衆として功を立て木曽谷を支配しました。次いで山村氏は尾張藩に属し、その家臣でありながら幕府代官として福島の関守を兼ねるという特殊な身分に置かれ、他の木曽衆も両属の関係となりました。
「家中屋敷」とは山村氏の家来である
溝口浅右衛門の屋敷を差します。「濃州徇行記」には山の腰にある住宅には石段の上に白壁の長屋門があり、構えが良いと記されており絵図には階段があり、門を設けた宏壮な構えが描かれています。
一緒に山に入ってくださったおじさんには本当に感謝です。
道なりに進み突き当りを左、県道との交差点を左、この県道との交差点に
「高札場」がありました。可児川沿いの国道21号線へ突き当たります。国道を右へ曲がり、国道を進みすぐ右手に
「和泉式部廟所」があり、そのすぐ先に
「中街道道標」、
「八幡神社」参道の石碑があります。
和泉式部廟所
案内板によると東山道をたどる途中、御嶽あたりで病に侵され鬼岩温泉で湯治をしていましたが1019年(寛仁3)この地で没したと言われています。碑には
「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ」という歌が刻まれています。
和泉式部の墓所は他に岩手県北上市、愛知県豊川市の報恩寺境内、兵庫県伊丹市、京都府亀岡市称名寺、山口県山陽小野田市、長野県温泉寺など全国にあります。民俗学者である
柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を
「式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と記しています。
和泉式部
「あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」百人一首の中の歌です。生没年などは不詳ですが、越前守大江雅致の娘とされ、和泉国守橘道貞と結婚し子供も授かります。子は
小式部内侍といい、彼女の歌も百人一首に収められています
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」こちらも百人一首に収められた有名な歌です。
しかし、冷泉天皇の第三皇子、為尊親王と関係を持ち
離婚、父親からも勘当されてしまいますが、すぐに為尊親王は亡くなり、その後弟の敦道親王と関係を結んでしまいます。程なく敦道親王も亡くなり一人になった和泉式部は宮仕えをし、宮中で知り合った藤原保昌と再婚し、丹後守となった夫とともに丹後へ下りましたが、娘の死をきっかけに出家し、
京都「誠心院」の初代住職となったといわれています。
中街道道標
中街道の分岐点には大きな道標が建っています。
「右中街道 中山道大井駅道」と彫られた道標は1882年(明治15)中街道の整備記念として建立されました。中街道は中切村を経由する支線でありましたが、主道路が中街道へ移ったことで山道であった中山道の利用は激減しました。
この道標は
江戸時代の中山道の終わりを告げるものです。
八幡神社参道(若宮八幡社)
文明年間の創建とされます。維新前は願興寺が別当でしたが、現在は御嵩町の鎮守で、祭礼には御輿が町内を練り歩きます。
久しぶりにビュンビュン車が通る道を歩くと・・なんだかげんなりしますが、気を取り直して進みます。
八幡神社の入口をすぎ、300mほど進むと左手のこんもりした森に
「稲荷神社」があります。
稲荷神社
創建は不詳ですが、「宝暦三年三月再興」の棟札があります。「新選美濃誌」によると境内に孫八狐という老狐が住み、この老狐は御嵩村内岩鼻に住む「姫雀狐」と夫婦といいます。昭和23年の正月に火災にあい、本殿拝殿を焼失し同年8月に再建されました。
稲荷神社を過ぎ真っすぐ国道を700mほど進んだ所、御嶽宿へ入る曲がり口から60mほど手前が
「栢森一里塚跡」です。
栢森一里塚跡
現在案内などは何もありませんが、このあたりにあったと思われます。南塚は田んぼとなり、北塚は屋敷となったとされます。
さらに国道を60mで左へ曲がり、御嶽宿へ向かっていきます。国道からそれるとホッとします。住宅と田畑が入り混じり、曲がりくねった街道を300mほど進み東の枡形を過ぎて130m左手に
「上町用心井戸」があり、御嶽宿の中心地へ入っていきます。住宅が街道にびっしり並んできました。
上町用心井戸
宿場時代から防火、飲用として利用されてきました。
御嶽宿
古くは
大寺山願興寺の門前町として栄え、1602年(慶長7)に中山道の宿場として整備され、交通の要衝として栄えました。1843年(天保14)の記録では本陣・脇本陣1軒づつ、旅籠28軒があったとされます。
ほとんど現代的な宿場となってしまった御嶽宿をしばらく進むと右手に
「旅籠海老屋」「商家竹屋」、
「本陣跡」と続き、このあたりだけが唯一往時の面影が感じられる場所になっています。
旅籠海老屋と商家竹屋
海老屋は創業1864年(元治元)の旅籠で、竹屋は1877年(明治10)頃の建築とされ、本陣の分家で江戸時代には質屋をはじめ様々な事業を手掛けていたといいます。
御嶽宿本陣跡
代々野呂家が務め、現在は半分が駐車場になっています。現在の建物は明治・大正期に建替えられています。非常の場合は北側から五町(500m)ほど離れた宝積寺へ避難するようになっていました。
本陣の隣が脇本陣でしたが、現在は
「中山道 みたけ館」となっています。さらにその先100m右手に
「願興寺」があります。
脇本陣跡(中山道 みたけ館)
図書館と郷土資料館になっており、入場は無料です。謡坂で発見されたキリシタン遺物がここへ展示してあるということで入ってみました。撮影不可でしたので写真はありませんが、キリシタン遺物は思っていたよりもとても小さなものでした。
願興寺
815年(弘仁6)最澄により創建された古刹で、998年(長徳4)に本堂などの伽藍造営が行われました。1108年(元仁元)には兵火により焼失し再建されましたが、1572年(元亀3)には再び武田軍の兵火により焼失し、1581年(天正9)本堂のみが再建、貞治年間、応永年間に他の建物も再建されていきました。
このあたりでは可児薬師と呼ばれ薬師如来像ほか23体及び本堂が国指定の重要文化財に、また鐘楼門が県指定文化財になっています。
願興寺と可児才蔵
願興寺に伝わる「大寿記」によると越前で
朝倉義景が滅ぼされたとき、身重の側室が逃げ出し放浪の末に願興寺にたどり着き、隠れ住むことになりました。やがて男子が生まれますが、「朝倉」と名乗ることは避け、可児大寺にちなみ可児太郎と名付け、側室は宝渕宗珠(ほうえんそうじゅ)と名乗りました。その後も二人は願興寺で暮らしましたが、太郎は7歳頃になると越前へでて
「可児才蔵」と名乗りました。
願興寺は工事中です
現在の本堂は1581年(天正9)のもので、近在の百姓玉置興次郎と市場左衛門太郎の2名が発願し近隣の人々から浄財を集めて建立したといいます。
現在、本堂は修繕中で2017年に始まった工事は2026年7月に完了する予定だそうです。基礎から全てを解体し、柱などの修理を行い合わせて耐震、補強をする予定です。見学ができなくて残念ですが、後世に残すため重要な工事ですね。
「笹の才蔵」可児才蔵(関ヶ原合戦図屏風より)
時期は不明ですが、才蔵は明智光秀に仕えており本能寺の変では光秀に従って本能寺を攻めたとされます。また本能寺で敵将の首を取り損ねた者に対し、手本を見せて取り方を教えたとも文献に記されています。才蔵は福島正則に召し抱えられるまでは主君に恵まれず、明智光秀、前田利家、羽柴秀次など次々と士官先を変えていました。
関ケ原の戦いでは笹の葉を背中に立てて戦い、敵の首を取ると耳や鼻の穴に笹の葉を入れ、自分の手柄である証としました。合戦図にもある通り、才蔵は馬に乗っていませんでしたので首をたくさん持って戦うことが難しかったためこのようにしたといいます。そしてこの戦いで17の首(一説には20)を取った才蔵の強さに感嘆した徳川家康が「笹の才蔵」の通り名を与えました。
願興寺鐘楼門
1670年(寛文10)西門として建てられたものを1726年(享保11)に現在地へ移されました。
「大寿記」には宝渕宗珠(才蔵の母)が梵鐘を鋳造したと記されています。その鐘は現存していませんが現在の鐘楼門の鐘はその鐘を改鋳したものであるとされます。
木曽名所図会に描かれた「願興寺」
願興寺をでるとすぐ先が枡形で突き当りに
名鉄広見線「御嵩駅」があります。名鉄広見線は御嵩駅から新可児駅を経て犬山駅までの路線で、新可児駅から御嵩までは単線です。新可児駅に車を駐車しているので新可児駅まで戻ります。
御嵩駅
14:40 御嵩駅到着!! ここでゴールデンウィークの中山道歩きは終了です。8日間、あっという間でした。雨の日が2日あり、大変な日もありましたが、楽しい、楽しい中山道歩き旅でした。でも疲れた〜