2018年10月28日
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9:00 ホテルをでて、昨日の前砂一里塚のところまで戻ります。
元荒川
今日は朝からいいお天気です。川もキラキラしていますね。
忍領界石
1780年(安永9)領主、安部正敏の時に中井村との境、南側へ建てられました。「従是西忍領」と刻まれていまする。江原家の庭にありますが、入れるように門を開けておいてくださっています。植木でちょっと見づらいですが、黒い石柱です。江原家には前砂村にあった高札場の高札12枚が保管されており、切支丹札、鉄砲札、人売買札、浪人札等、当時の世情を知る上で貴重なものです。
平成道標 間の宿 吹上
このあたりから九下の長土手までが間の宿として茶屋や休憩所がありました。
妙徳地蔵尊
案内に寄ると、昭和21年、吹上の女性が突然目の病を煩い、治療を受けるも効果がなく、失明の宣告も受けます。仏に願をかけるより他に術はなく、熱心に祈ったところ全快したそうです。これを機にここへ地蔵を祀ったそうです。かなり新しいものですね。
吹上駅交差点
奥に向かうと吹上駅です。駅前は道路も新しく、建物も新しいのですが、人は多くなく、高いビルなども無くてのんびりしています。
サクラの時期であれば、ここから少々中山道を離れて元荒川の桜並木を見に行くのもいいですよね。
軍馬頭尊
1904年(明治37)3月9日 内田藤作さんの建立。1904年は日露戦争開戦の年です。軍馬として徴用された馬を慰めるために建立したものでしょうか。
明治天皇駐輩碑
吹上には茶屋本陣(林家)が設けられ、諸大名、宮方に利用されました。明治天皇行幸記念として、徳富蘇峰の書による「明治天皇御駐輩址」が残されています。
いぼ地蔵尊への道標
尼僧妙連が宝暦4年に建立。小さなお堂の中のお地蔵さんは、「子育ていぼ地蔵尊」として人々が訪れます。
千人同心街道(左)中山道(右)
千人同心とは、八王子周辺に土着した下級武士集団のことです。普段は農業を営み、交代で日光東照宮の火の番(火事に備えて警備)にあたっていました。江戸時代に日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る40里(160km)の街道です。
東曜寺
この辺りは立場茶屋・料理茶屋などが軒を連ねていました。ある時、加賀百万石の藩主前田家の参勤交代の行列がこのあたりで休憩していると八王子千人同心一行が通れず、一触即発という非常事態となります。当時の住職が機転をきかせ、前田家の一行を境内へ招き入れ、お茶でもてなし、千人同心を通し、何事もなかったといいます。
吹上神社
創立年は不明ですが、「風土記稿」においては「山王社」として登場しています。神仏分離により名を「日枝社」と改めましたが、社格制定に際して村社となり、氷川社と稲荷社を合祀して村名をとって「吹上神社」としました。
吹上間の宿
中山道はここでJR、高崎線によりさえぎられてしまいます。
風で砂が吹き上がることから「吹上」となったそうです。よく「上州名物かかあ天下と空っ風」なんて言われますね。まだここは武州ですが、もうすぐ上州に入ります。このあたりも昔から空っ風が吹いていたのでしょうか。
歩道橋を渡り、再び旧中山道へ
榎戸堰公園の句碑
「鵜遣いの 年に不足は なかにけり」文玉 1860年(万延元)。文玉は、俳人で眼科医の横田邦厖です。当時は、荒川や元荒川では古式の鵜飼漁が盛んだったそうです。
園内には修景的な滝、四阿、トイレなどあり、静かで休憩に最適です。
10:30 榎戸堰公園で休憩します。
榎戸堰
榎戸堰は元荒川最初の堰にあたり、下流の畑、旧八ケ村にとっては重要な堰でした。江戸期は木製のため、常に修繕が必要なため、大変でした。明治30年にレンガ造りへ改築し、昭和初期に部分的にコンクリート化、昭和41年には全てコンクリート製になってしまいました。
代田仙三郎顕彰碑
名主で、村長まで務めた仙三郎は、明治36年、恒久的な堰を築くために自ら組合の責任者となり、県補助費を得て工事に着手しました。ところが湧水などのため工事は難航を極め、工期は予定を大きく超え、財政難となりましたが、仙三郎は私財を投入してなんとか完成に至りました。
元荒川
水は透き通っていてとっても綺麗でした。
榎戸樋管
先ほどの元荒川の榎戸堰から取水される農業用水を今でも運ぶ樋管です。見かけは小さいが、32,000個のレンガで造られた明治の水路(1901年建造)。左手の御影石には「準用河川 元荒川起点」と彫られていますが、現在の起点とは一致しません。吐口はこの下のため、写真は奥からこちらへ向かって撮ればよかったです・・
権八地蔵堂(荊原)
2つ目の「権八地蔵」と出会いました。この地蔵は、権八が処刑されてから19年後の1698年(元禄11)に建てられているそうで、史実とは整合性がないそうです。・・ということは・・あと一つ「権八地蔵」がありますので、まずはそれを見てみましょう。
権八地蔵のいわれ
鳥取藩士の平井権八は同僚を殺害したため江戸へ逃れようとしました。途中、金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪います。辺りを見回すと地蔵に気づき、「誰にも言わないでください」と手を合わせます。すると地蔵が
「吾はいわぬが、汝言うな」と口をきいたといいます。権八はその後捕らえられ延宝8年(7年とも)鈴ヶ森刑場で処刑されました。
荒川の堤防から荒川方面を望む
決壊の跡碑
1947年(昭和22)9月、カスリーン台風によりこの地点の堤防が決壊しました。決壊箇所は至る所で見られ、濁流は東京まで達したといいます。
久下一里塚が遠くに・・草がボーボーで近づくのは難しいですが、道がないため仕方なく、薮こぎしてなんとか堤防を下りました。
馬頭観音
1841年(天保12)建立、熊谷・鴻巣への道標を兼ねています。流されずに残っていたのでしょうか・・
久下一里塚跡
塚はもうありませんが、稲荷があります。洪水で流れたでしょうし、堤防もかさ上げされていますから、新たに作ったものだと思われます。
久下一里塚への道
一里塚を通り越して、マンションとの境界部分にコンクリートの舗装がありました。狭い舗装路ですが、ここから行けば藪こぎしなくて大丈夫でしたね。
久下郷土カルタ
「屋敷林のみが残りて昔を語る」、「昔栄えた新川の河岸」、「灯籠も昔がたりの白蛇そま」
1629年(寛永6)、関東郡代伊奈忠治が陣頭指揮を行い、4年の歳月をかけて「荒川の背替え」を行いました。これは荒川の久下から近くを流れる和田吉野川へ向けて新しい流れを開削しました。これが新川です。流路を分割して流れを調整し、江戸を洪水から守り、関東平野を荒れた沼地から豊かな穀倉地帯へと導く工事でした。
新川村は、背替えにより新川河岸ができ、多くの人が住み着き、江戸から久下までの舟運で栄えました。秩父からの材木なども舟運で運び、江戸の家は秩父の材木が多く使われたそうです。明治16年以降は、鉄道の開通により舟運が下火になりと養蚕が中心となりました。洪水による肥沃な土地は桑の栽培に適していて良質な絹糸が生産できたそうです。
しかし、度重なる洪水に徐々に堤内に移り住み、昭和47年頃には全ての人が村をでて、新川村は300年の歴史を閉じ、廃村になりました。河川敷のように見えますが、現在も昔の屋敷跡、お墓、屋敷林などがひっそりと残っています。
輪型の碑(久下堤碑)
熊谷堤から久下へ下りる坂道は、荒川の河岸へむかう
大八車の轍(わだち)の跡が多く、輪型の坂と呼ばれていました。この碑の手前の土手を下りる坂のことでしょうか。
新川村の案内図
久下神社
久下郷領主の久下直光は鎮守として地内に2つの三島社を創建しました。
久下村道路元標
蔵のある大きな民家
久下郷土カルタ
「流灯会 今は昔の不動さま」写真奥の路地にカルタは掲げられていますが、かつては「成田山」の不動さまがあったと思われます。現在は石柱がちょこっと上からのぞいていますが、フェンスで囲われていて、よく見えません。
2015年のストリートビューではこのような感じで写っています。こちらのお宅では、家を新築する際にこの石柱を残したようですね。1945年頃までの地図では、この奥300m程度の元荒川近くに寺院が見られます。「成田不動」だったと思われます。奥の竹林らしき場所に何か残っているかも・・元荒川で「灯籠流し」をしていたのでしょう。
「此の街道 旧中山道」石碑
当所が「久下鍛冶」、屋号・大鍛冶屋の跡地のようです。
熊谷堤碑と道標
1854年(元治元)に久下と石原の間で荒川が決壊したため、本陣14代当主、竹井澹如(たんじょ)が私財を投入し、1875年(明治8)に着手、1879年(明治12)に堤は完成し洪水を防ぎました。万平公園にも「熊谷堤碑」があり、公園内には一部堤も残っているそうです。郷土カルタによると、篆額(てんがく)は、伊藤博文のようです。
篆額・・・石碑上部の篆書体(一般的には秦の時代に標準とされた文字)で書かれた題字のこと
久下の権八地蔵
3つ目、最後の権八地蔵です。荊原の権八地蔵同様に権八の処刑の19年後の1698年(元禄11)に建立されているそうです。ということは・・本物は勝願寺の権八地蔵ということになりますかね。
しかし、英泉「熊谷」に描かれているお地蔵さまは、ここのお地蔵さまで間違いないようです。
「伝え聞く 歴史に残る 久下の鍛冶」久下郷土カルタ
領主、
久下直光が鎌倉より鍛冶の匠を連れ帰り、弓などの武具を作らせたそうです。久下氏が兵庫へ移った後もこの地へとどまり、忍城使用品や農機具の製作を手掛けていたそうです。
久下郷土カルタ
「水辺を守る九頭龍さま」 久下の渡しはこのあたりにありました。龍神さまは水を司つています。治水などの願いをこめたものでしょう
久下の渡し、冠水橋跡
江戸時代は舟運の起点、久下新川河岸として栄えました。明治になり鉄道が通ると舟運は廃れましたが渡しが対岸との交通の手段となっていました。
昭和30年、県道の一部として冠水橋が架けられ、地元の生活道路として利用されましたが、平成15年新久下橋の完成とともに役目を終え、取り壊されました。
みかりや跡
忍城の殿様が鷹狩りに来るとこの茶屋で休憩したため「御狩屋」と呼ばれました。英泉「熊谷」に描かれている茶屋はこのみかりやです。「しがらきごぼうに久下ゆべし」と言われ、「柚餅子」が名物でした。
ゆべし
みかりやで出されていたゆべしは、菓子とは違い、保存食的な郷土食でした。中身をくり抜いた柚に味噌、ゴマなどを入れて蒸し、2〜4カ月をかけて自然乾燥。ご飯や酒のお供だそうで、戸森家が代々茶屋を営む傍ら上岡の馬頭観音で売り出す絵馬の制作販売や製薬なども担っていたそうです。
残念ながら
「しがらきごぼう」はどんなものかが全く分かりません・・・
元荒川
住宅地の奥に元荒川が流れています。鴨がたくさんいて水もきれいです。
荒川土手わきのマス釣り場
埼玉県魚業組合の釣り堀で、ニジマス釣りができるようです。銅像には「栗原正一」とありますが・・昔の市長さん?それ以外わかりません。
東竹院前の石仏群
左から庚申塔、馬頭観音、石仏
東竹院(とうちくいん)
久下氏の菩提寺で1191年(建久2)、久下次郎重光により開祖されました。
達磨石
寛文年間に忍城主が禅宗の祖達磨大師に似た巨石を秩父から城中へ運ばせようとしました。荒川をいかだに乗せて運ぶ途中に川に落ちてしまい、行方不明となっていました。
それから250年後の大正14年、東竹院のすぐ前で偶然発見され、ここに設置されています。
久下直光、重光の墓
幼いころに父を亡くした熊谷直実は、久下郷を領する久下直光により育てられました。しかし後に熊谷郷を領する熊谷直実と久下郷との領地争いとなり、激しい対立を生みました。
収拾がつかなく、間に入ったのは源頼朝でした。頼朝は二人を呼び寄せ弁明の機会を与えましたが、熊谷直実は上手く話すことができませんでした。直実は負けを感じ、出家するのです。
現在、熊谷直実は勇猛果敢な銅像が駅前にあり、華々しく思えます。一方、勝利したはずの久下直光は、ひっそりとここで眠っています。歴史を知ると色々な思いが湧きますね。
元荒川
ムサシトミヨの案内看板、水草の説明板があります。ムサシトミヨの生息が世界で唯一確認されている元荒川です。県の天然記念物になっていて流域には絶滅危惧種のキタミソウも生育しているそうです。
コキアが綺麗に色づいていました。
左富士
「過ぎし世の 熊久橋や 左富士」久下郷土カルタ。江戸へ向かう旅人にとって富士山が左に見えるのは珍しく、近所の杜氏宅では清酒「左富士」を江戸時代から平成11年まで製造していたそうです。
石仏群
庚申塔、お地蔵様、二十二夜塔、馬頭観音などが一同に集められています。
大電神社
創建年代は不明。「風土記稿」には、「久下村の境を流れる村の西字八丁新田に鎮座する雷電社の御手洗より清泉湧出して流るは則ちこの川の源なり」とあります。かつては扇状地の湧水がこの地で湧き出ており、元荒川の源であった大雷神社、現在は湧水が枯渇しています。恐らく神社ももっと広々していたと思います。
現在の元荒川源流域
この場所のすぐ上流がムサシトミヨ保護センターです。1955年(昭和30)頃までは大雷神社が水源でした。現在は保護センター井戸から地下水をポンプでくみ上げ、1日に7000tもの地下水が汲み上げられ、元荒川に流しています。
ムサシトミヨ
体長3.5〜6cm、背びれや腹びれに棘をもち、敵から身を守っています。第二次大戦前までは荒川水系、多摩川水系に広範囲に生息していたそうです。ところが1957年、異常渇水で関東平野の湧水が枯渇状態になってしまいます。ここ元荒川だけは水産試験場が出来ていて、そこから大量の排水が元荒川にあり、ムサシトミヨが生き残れたそうです。
道路辻に小さなお地蔵様
大雷神社北の辻ですが、割と新しく、いわれなどは一切わかりません。交通事故などがあったのかも知れません。
八丁の一里塚跡
万平自治会館横。久下の一里塚からここまでに八丁の堤(久下の長土手)があったため名付けられました。祠には道祖神もあり、遷宮記念碑がひときわ大きいです。・・「遷宮」とは、神様をどこかへ移したということなのでしょうか。
星川
奥が星川です。星渓園から流れ出る清水を源としていて、戦後復興の一環として真っ直ぐな流れにする工事が行われ、彫刻なども設置され、市民のオアシスとなっています。
熊谷駅の熊谷直実像
残念ながら駅前工事中であまりいい写真が撮れません・・
「あついぞ!熊谷」
旧道は大きな道路、国道17号線となります。
熊谷宿に入ってきました。このあたりは中山道の面影は全くないですね。
熊谷は日本最高気温を更新したことでも知られていますね。その後記録は既に塗り替えられています。
高城神社
創建は平安時代初期。長きにわたり熊谷郷の総鎮守として栄えました。戦国時代に兵火を受けた後、江戸時代に忍城主、阿部氏により再建されました。
札の辻(高札場)
熊谷宿には、忍城の方針で飯盛女がおかれませんでした。旅人は熊谷宿には泊まらずにスルーして行ってしまうため、旅籠は少なかったそうです。この頃の男の人って・・!?
竹井本陣跡
全国屈指の規模で、中山道から南の星川までの敷地面積1600坪の広大な屋敷だったそうです。明治の大火と昭和の空襲で焼失しました。熊谷の空襲は、玉音放送のわずか12時間前でした。最後の空襲でした。もう少し早ければ・・向かいの足利銀行が石川本陣跡です。バス停の屋根は瓦です。立派なバス停ですね。
中山道は正面の八木橋百貨店で遮られてしまいます。
熊谷市道路元標
熊谷寺(ゆうこくじ)
熊谷直実は、一の谷の戦いで息子と同じ年頃の平敦盛の首をとったことや久下氏との領地争いなどから出家しました。そして直実が生まれた「熊谷館」があったこの地に念仏を唱えるために草案を建て晩年をすごしました。350年ほどたって、この地を訪れた京都の高僧、幡随意上がこの地に熊谷寺として再建しました。
現在熊谷寺は門を閉じており、自由に入ることは許されません。なぜ門を閉じてしまったか・・戦後のようです。ネット上では噂話でちらほら・・どちらが悪いのか・・真相はわかりません。
八木橋百貨店
遮られる中山道は、なんと百貨店の中に続いていました。粋な社長さんですね。
お菓子屋さんなどが並んでいます。百貨店の中の中山道を歩いていると、まるで立場茶屋を歩いているような不思議な感覚になります。
西側の出口
百貨店がオープンしている時間帯しか通れないので気をつけないといけませんね。
14:20 今日の中山道中はここまでです。
ここから秩父鉄道上熊谷駅まで歩きます。
星渓園
本陣竹井家の別荘として玉の池を中心とした回遊式庭園です。無料で入れます。入口には熊谷のボランティアの高齢者が待ち構えていて一組づつ、案内役にくっついてきます。最初はいろいろ説明が聞けて有難いと思ったのですが・・
十王供養塔
十王は、道教や仏教において亡者の審判を行う半官10尊の総称です。生前に十王に対して供養を行うと死後に罪を軽くすることができると言われています。普賢菩薩が生前に犯した人間の罪を計りで計っている様子が彫られています。
珪化木の門
珪化木は、樹木が化石化したもので門の上部に使われています。
山口青頓(せいとん) 句碑
「夕紅葉 鯉は浮くまま 人去りぬ」
山口青頓が1950年(S25)、星渓園を訪れた際に詠んだものです。山口青頓は、東大卒業後鉱山省勤務などを経て、東大教授となり、「東大俳句の会」を興し、高浜虚子の指導を受けて俳句雑誌「ホトトギス」の代表的俳人として活躍します。
だいぶ傷んでいますが、これも「十王供養塔」だと思われます。
芭蕉句碑
「春もやや 気色ととのふ 月と梅」
春の霞で月が朧気に見え、梅も咲いてきてようやく厳しい冬も終わり、春の気配が整ってきた・・・
積翠閣(せきすいかく)
当所は、昭和5年澹如の長男、耕一郎により建てられたものですが、復元です。
2階和室から月見台
積翠閣 2階
星渓園には他に星渓寮と松風庵と3つの建物がありますが、すべて復元です。星渓園は茶室でお茶をいただく事もできます。
玉の池
1623年(元和9)荒川の土手(北条提)が決壊し、この池ができました。湧水が湧くようになり星川の源流ともなっていました。現在は湧水も枯渇し、ポンプで人工的に流しているそうですが、この日は水が流れていませんでした。案内のおじさんによると、「経費削減」のため、最近はほとんど水を出さないそうです。
ボランティアのおじいさんは、全くの物知らずで、質問を投げても、「知らんけど〜」が口癖。知らないなら案内すべきじゃないでしょ、と思います。「あっ、ここに書いてあった」と案内板を指すし、だったら自分で読んだほうがいいけど、などと終始イライラしてしまいました。もっと詳しい人はたくさんいるのでしょうが、運が悪かったのでしょうか。
しかもずっーっとくっついていかなければならず、全くゆっくり見学できません。
不動尊
後ろに見えるのがかなり立派な石上寺です。洪水で何度も流される堤を仏により守ってもらおうと北条堤の傍らに建てられたのが石上寺です。江戸時代には桜の名所として賑わい、熊谷桜発祥の地です。熊谷桜は、彼岸桜の次に早咲きの桜の品種です。
愛宕八坂神社
愛宕神社は、山城の国、愛宕大神、八坂神社は京都の八坂神社をそれぞれ勧請しました。熊谷うちわ祭りは、八坂神社の疫病退散祈願の祭礼だそうです。
宇佐稲荷神社
創建などの詳細は不明です。社の鬼瓦がきつねになっていてかわいいです。
上熊谷駅は小さく、なつかしい感じの駅舎でした。
秩父鉄道 上熊谷駅
本日はここから帰宅致します。