2022年5月3日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

12:00 大井宿まであと半分くらいでしょうか・・なかなか進みません。

中平弘法堂から230mほど先の左手、神明神社の案内板があるところから「神明神社」へ上っていきます。

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神明神社への道

標高差20m、距離150mほどを一気に上っていきます。

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神明神社

創建は不明ですが、1621年(元和7)の持宝院の棟札が保存されているのでそれ以前から存在したと考えられています。現在の森へ祀られるようになったのは明治初期からで、それ以前は東300mの神明沢で現地には「神明社旧跡地」の碑が竹やぶの中に建立されているそうですが・・詳しくはわかりません。 神明社の他に津島神社、妙見社の小さな祠が祀られています。
樹林内の階段を一気に下り、中山道へ戻り再び西へ向けて進んでいきます。130m右手の丘の上に「三津屋の石仏」があり、さらに180m右手に「将監塚」があります。

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三津屋の石仏

「妙光童女」と刻まれる地蔵は1711年(宝永8)の銘があります。

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将監塚

岡田将監善同(よしあつ)は1613年(慶長18)より1631年(寛永8)まで美濃代官を務めました。善同は織田信長に仕え、加藤清正に従い加藤姓を名乗ったこともありましたが、関ケ原では徳川方につき、初代美濃代官であった大久保長安の配下として可児郡姫村を賜り、長安の死去により2代目美濃代官となりました。
将監塚から200m、右手に「三津谷一里塚跡碑」があります。

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三津谷一里塚跡碑

怩ヘ昭和35年か36年まであったそうですが、今はありません。
三津谷一里塚跡から太い道を横切り道は徐々に上り坂となります。久しぶりの坂道。少し上ると右手に石の覆屋に収まる馬頭観音がありました。

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馬頭観音

さらに上り大きなカーブを曲がるとほぼ平坦な道になります。

左手に「馬の水呑池」、十字路右手に「坂本立場跡碑」があります。
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馬の水呑池と坂本立場跡碑

坂本立場は繁沢家が営んでおり明治になっても運送業を行っていました。1942年(明治17)より明治25年まで繁沢家に組合が置かれ、明治30年に坂本村が誕生した際、繁沢仙之助が両村組合長でしたが、今は繁沢家も無くなってしまいました。

「壬戌紀行」によると大田南畝は坂本立場で休憩しています。また、1765年(明和2)の「御坂越記」では茶屋2軒とあり、1789年(寛政元)の「中山道筋道之記」には坂本立場は5軒と記されています。

坂本坂を下り県道の下をくぐる手前左手に「無縁仏群」があるはずですが・・どこを探してもありません。案内板にも記載があるのですが、全く見つかりません。草で見えなかったのでしょうか・・ストリートビューですと2021年10月にはあるのですが・・・どこかへ移設されてしまったのでしょうか・・・

県道をくぐったすぐ左手に道標のようなものがありました。

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道標?

全ての文字が読めないのですが、最後に「道」と書いてあるのはわかります。
その先突き当りを左へ、坂本橋を渡ります。

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なんと!坂本川が真っ白になっています。牛乳かなんか捨てたのかしら・・・
坂本橋をわたるとすぐ右手に広場があり、奥に「坂本観音堂」があり、広場の2軒先が「柏屋」です。

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坂本観音堂

中山道分間延絵図の坂本板橋手前の往還左手に「馬頭観音」が描かれています。この馬頭観音は1745年(延享2)の造立で、この馬頭観音が坂本観音堂に祀られています。1896年(明治29)には稲荷入口にありましたが、1993年(平成5)に県道の工事のため現在地へ移設されました。

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坂本立場の柏屋(熊崎家)

明治後期から大正初期に建てた立派な旧家です。往時は「柏屋」という屋号で肥料屋をしていたといいます。

和時計や勇介

1858年(安政5)発刊された「五街道中細見記」には坂本に「御休所時計や勇介」と記されていました。場所ははっきりしませんが、恐らく柏屋先用水を渡る手前の右手あたりと思われます。この坂本で3世代に渡り和時計が作られ、1891年(明治24)に最後の和時計が作られたといいます。

柏屋から100mちょっと、用水に架かる小さな橋を渡ると左手に「茄子川村の高札場跡」の標柱があります。さらに200m右手に「尾州白木改番所跡」の標柱があります。

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茄子川村の高札場跡

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尾州白木改番所跡

1731年(享保16)頃に設置されたと考えられ、木曽五木の出入りを取り締まる番所でした。1871年(明治4)廃藩置県により廃止されました。
尾州白木改番所跡を過ぎ小さな川を渡って100m、左手に「長蓮寺薬師堂」の案内板があり、右手の路地へ入り80m突き当りに「長蓮寺薬師堂」があります。

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長蓮寺薬師堂

昔この辺りには「長蓮寺」という大きなお寺がありました。1582年(天正10)織田信長に仕え、岩村城主となった森蘭丸が建立したと言われています。建立より5.6年後、兵火にあい焼失したとされます。この薬師堂は長蓮寺の境内にあったとされ、その後江戸時代初期に再建され、十王仏と共に祀られていましたが明治初年に取り壊され、仏像は源長寺へ預けられました。1893年(明治26)東町の人々がお堂を建立し源長寺より仏像を戻し、祀ってきました。1991年(平成3)に改築が行われ地域の方々が守り続けています。

中山道へ戻りそのさきすぐ左手には成瀬誠志の工房「誠志窯」がありました。現在窯はないのでしょうが、ご子孫が学習塾をしているようですね。今でも立派な住宅が建っていました。

成瀬誠志

1845年(弘化2)茄子川に生まれた成瀬誠志は貧家に育ち、12歳で茄子川焼きの工場へ小僧に入り、1871年(明治4)年に上京し薩摩焼の上絵付の技法を習得し、「東京薩摩」と呼ばれる金彩を伴う絢爛豪華な薩摩焼の焼物を製作し大成しました。 1886年(明治19)帰郷し、日光東照宮の陽明門を陶器で作成し始めました。あまりにも度々日光で写生、陽明門の観察をしたため、金箔を盗むつもりではないかと警察に勾留されたともいいます。ついに1/25の陶製陽明門が完成し、1893年(明治26)のシカゴ大博覧会に出品しますが、なんと輸送中の荷崩れにより破損し、一部分のみの陳列でしたが、それでも工芸一等賞をとりました。

この陶器の陽明門ですが、ネットに何枚か破片の写真がでています。ほんとうにとても精巧に造られており、破片でもびっくりします。壊れずに残っていたら・・・と残念でなりません。

成瀬誠志の窯跡を過ぎてすぐの左手路地を入っていき、70mほど左手に案内板が2つあります。

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省慎義校跡・宝盛座跡

省慎義校跡(茄子川学校跡) 1873年(明治6)中津川村に興風義校(南小学校)が設立されると支校として「省慎義校」が民家の一室を借りて開校され、1875年(明治8)には源長寺を仮校舎とし、1882年(明治15)にこの地に校舎を新築して移転しました。名称も「茄子川学校」と改まります。1908年(明治41)に茄子川村と千旦林村が合併し坂本村となったため学校も合併し、坂本尋常高等小学校となり閉校されました。

宝盛座跡

1811年(文化8)茄子川村に宝盛座の前身と思われる舞台ができ、芝居が娯楽となり盛んに行われるようになりました。1919年(大正8)源長寺の参道西にあった舞台を取り壊し、この地に宝盛座が建設されました。昭和になると坂栄座と名を変えて映画館となったこともありましたが、老朽化のため1965年(昭和40)解体されました。

中山道へ戻りさらに100m、左手に重厚な旧家が見えてきます。屋敷前には「明治天皇茄子川御小休所附御前水」の碑が建てられています。

茶屋本陣横と道路を挟んだ向かいに大きな「秋葉常夜灯」が建っています。

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茄子川茶屋本陣

篠原家当主は代々長八郎と名乗り、茄子川村の村方役、庄屋、戸長などを代々勤めた家で、和宮、明治天皇の御小休所にもなりました。小休の部屋等は、今もそのまま保存されています。
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秋葉常夜灯

常夜灯が置かれているこの道は岩村城下を抜けて「遠州秋葉道」への分岐点です。常夜灯には「是よりあきはみち」と刻まれています。1776年(安永5)と1803年(享和3)の建立。

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旧茄子川村

茄子川村は山村甚兵衛、千村平右衛門、馬場三郎右衛門ら八名によって分割支配されていた村で、それぞれの知行地が入り混じっていて複雑でありました。
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御嶽山

秋葉道追分より300mほど行くと民家が少なくなり、畑や水田が広がってきます。鯉ヶ平へ入ってきました。すると右手後方に御嶽山が見えるではありませんか!

鯉ヶ平の水田を越えると道は徐々に上り坂となり民家の間を抜けて行くと右手の民家が途切れ、竹やぶになりその先右側に墓地へ上る砂利道があります。そこを少し上り、さらに右の竹やぶの中に「鯉ヶ平妙見」が祀られています。

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鯉ヶ平妙見

「妙見尊」と彫られているようです。いつ頃から祀られているのか詳細は不明ですが、多くの石仏が並び、昔は厚く信仰されていたと思われます。

鯉ヶ平の戦場ヶ洞

茶屋本陣であり茄子川村の庄屋、長八郎泰秋天明の飢饉に苦しむ人々を救おうと自分の土地である「戦場ヶ洞」(場所不明)を開墾させ、四町歩余りの水田を作りました。その際に多くの人骨や鎧の破片などがでてきたので、愛宕神社(鯉ヶ平妙見から南へ500mの山中)へ祀りました。 戦場ヶ洞は岩村城主、遠山氏の武将、藤井常守が苗木城主と戦い、討死したと言われます。常守は鷹撃谷城(たかちがやじょう)を守っていましたが苗木城主が押し寄せた時に戦場ヶ洞に迎え撃ち、矢17本を受けて立ったまま討死し「今弁慶」といわれたといいます。

鯉ヶ平妙見から再び坂を上り、上りきった往還右手が「石拾茶屋」です。

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石拾茶屋と地蔵道標

1789年(寛政元)、石拾茶屋には2軒の茶屋があったとされます。軒下に窯跡があったといわれて、敷地西角に1719年(享保4)の妙見菩薩地蔵がありますが、もとはここから右手へ入った黄檗宗東禅寺の入口にあったとされ、東禅寺は後に恵那市大井町に移転しました。この地蔵は「五百羅漢」への道標ともなっています。五百羅漢は北へ1.3kmほどあるので寄らずに進みます。

五百羅漢

1798年(寛政10)、上総国の森岩寺の前住職、越山和尚が旅の途中、茄子川の勝平蔵宅に泊まり、翌日山の景勝地寺井で観音の形をした枯木を発見し、亡師宗竜の石仏五百羅漢造立の遺言を思い出し、建立に踏み切ったといいます。石工は大井宿の久四郎らで本尊には庄屋、篠原八郎泰秋が金二十両を寄進しました。

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イノシシ〜!

石拾茶屋から緩い坂道を下るとイノシシの親子がいました(笑)
さらに緩い坂を下ると左手に「茄子川焼窯跡」の看板があり、その先150mくらいで「市境の中山道碑」があります。

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茄子川焼窯跡

1578年(天正6)頃に始まり、天保年間(1830〜1843)に妻木の加藤喜兵衛等を迎え、また奥州の相馬焼の技術を取り入れ茄子川焼の名は高まりました。 村の重要産業として峠の茶屋や窯元で売り、善光寺詣での土産品なども造っていましたが、明治30年代に閉業しています。

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市境の中山道碑

ここで中津川市とはお別れ、恵那市へ入っていきます。恵那市に入りすぐ先往還右手に馬頭観音があります。

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馬頭観音

三面六臂の馬頭観音で、1925年(大正14)長国寺悦音和尚が開眼供養、山本鉄次郎建立。
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広久手坂

緩い上り坂の往還右手に「広久手坂碑」があります。

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岡瀬坂

下りに転じると「岡瀬坂」と呼ばれています。下りも緩やかな坂です。下りきると往還左手、サワラの大木の下に岡瀬沢の社宮司と呼ばれる小さな石祠があります。

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岡瀬沢の社宮司

氏神と金神の2つの石祠が祀られています。社宮司は土地の神、木の神とも言われていますが、恵那では土地を計測した尺状や水縄を土地の神に納めたといいます。氏神は古くからあり由緒は不明ですが、金神の石祠は1932年(昭和7)に祀られました。

岡瀬沢の狐

このあたりには狐が住んでいたようで、狐に化かされた男が墓地の墓石に羽織を掛けたり、脱がせたり妻に注意されるまで繰り返して拝んでいたといいます。 岡瀬沢付近では狐を見かけなかったのですが、なんと次の日、大湫宿手前の山中でキツネを見たのです!!北海道以外で野生のキツネを見たのは初めてでびっくりしました。

社宮司からすぐ先左手に「岡瀬沢碑と永代燈」が見えてきます。

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岡瀬沢碑と永代燈

岡瀬沢は江戸時代初期には岡瀬沢新田、大井村枝村と言われていましたが、次第に中山道沿いに家が集まり茶屋や馬宿もできました。 永代燈は「岡瀬澤大組」によって建立されたもので、中山道と秋葉道(うし道)との分岐点にあり、「ひだりあきばみち」と刻まれています。また、物資輸送の道であったことから「うし道」とも呼ばれていました。
右手奥に「富士浅間神社」があります。「塩御前社」ともいい、1682年(貞享2)駿河国より勧請し氏神に迎え、安産・育児に霊験があると言われていました。

濁川を筋違橋で渡り、そのすぐ先を左へ曲がり少し行くと左手に「岡沢観音堂」があります。

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岡瀬沢筋違橋と濁川(にごりがわ)

昔は岡瀬川と呼ばれていましたが、赤土が多く雨が降ると濁り水となるためいつしか「濁川」となりました。筋違橋は往時、欄干付きの板橋でしたが、川に対して斜めに架けてあったので「筋違橋」の名が付きました。

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岡沢観音堂

詳細は不明ですが、中山道分間延絵図には描かれていないため、その後にこの地へ建てられたと思われます。
観音堂から住宅が密集する岡瀬沢の集落を250m程度進むと往還左手に庚申塔があります。

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岡瀬沢の庚申塔

岡瀬沢では庚申講が盛んで、現在でも行われている所があるといいます。
庚申塔を過ぎると道は緩やかな上りとなり、勾配は徐々に増し甚平坂へ至ります。甚平坂周辺は公園として整備されておりトイレや休憩所もあります。 馬塚は甚平坂最初の左カーブのところに、犬塚は次の右カーブの内側にあります。

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馬塚と犬塚

1200年(正治2)、信濃の桔梗ヶ原に八重羽のきじという化け鳥がおり、里人や旅人の命を奪い、困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じました。甚平はにのり、を連れ多くの家臣を連れてきじを追いました。ようやくこの坂に追い詰めましたが、馬はここで倒れ犬と鷹は日吉(現瑞浪市)で力尽き、里人はこの坂に馬と犬の亡骸を葬ったとされますが、道路改良により形は無くなっています。

桃太郎のようなお話ですね〜

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甚平坂の展望台

1880年(明治13)、明治天皇行幸の際、人々は総出でこの坂の頂上を2mほど掘り下げて坂の傾斜を少しなだらかにしました。また、広重の大井宿は雪の甚平坂が描かれています。

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橋本鶏二句碑

「初蛙 広重の絵の峠かな」

橋本鶏二は1907年(明治40)三重県上野市に生まれ、1924年(大正13)高浜虚子に師事、1957年(昭和32)に「年輪」を創刊、主催しました。この句は1975年(昭和50)甚平坂付近をおとずれた際の作品といいます。
しばし展望台で休憩し、甚平坂公園をでると上り坂はまだ続きます。少し上り右手石積擁壁の上に「甚平坂石仏群」、往還左手に「根津神社」があります。

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甚平坂石仏群

1856年(安政3)の馬頭観音、石怐A蛇塚、経王書写塔、南無妙法蓮華経の題目塔があります。経王書写塔の下には経の文字を一字一字書いた千個余りの小石が納められています。

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根津神社、根津甚兵衛宝篋印塔

「白鷹記」には甚平が白鷹を追ってきて大井宿で死んだとあり、「集古十種」には長国寺所蔵の甚平遺品と称する鎧や鞍、啣(くつわ)が描かれています。 宝篋印塔は後に子の小次郎が建てたとされ、高さ2mもあるかという大型の立派なもので、鎌倉期から南北朝のものと推定されています。

江戸時代は甚平坂を上りきると「甚平茶屋」がありました。根津神社の向かいあたりですので、石仏群の付近だと思われます。ここを過ぎると道は下りに転じます。

ゆるい下り坂はすぐに平坦な道になり250m、往還左手に「関戸一里塚跡」があり、ここから住宅が密集した市街地となり、さらに200m右手に「明治天皇行在所道標・大井鬼子母尊神」があります。

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関戸一里塚跡

塚の上には松と榎が植えられていましたが、大正の頃には取り壊されています。

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明治天皇行在所道標・大井鬼子母尊神

この道標は名古屋市の豪商であり篤志家でもあった伊藤萬蔵が寄進したもので「明治天皇行在所 是ヨリ三丁」と彫られており、大井宿の行在所のことと思いますが、三丁(330m)よりもっと距離があるのだけれど・・・移設されたものでしょうか。
行在所道標があるところは緩い左カーブでしたが、今は道路改良されて直角に曲がるようになっています。左へ曲がり、60m左手に石塔群があります。

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長石塔

大乗妙典塔、題目塔、馬頭観音、五輪塔が並んでいます。右手の一番大きなものが「長石塔」です。長国寺四世丹山和尚が大乗妙典を読み終わったことを記念しまた、村内安全を祈念し、1680年(延宝8)に建立されました。
1864(元治元)、水戸浪士の通行の折、大井宿長石塔で乱法之者一人を手打にし埋めたと太田町吉村家文書に記してあるそうです。

長石塔から50m、中央自動車道を渡る手前を左へ曲がり「旅人の墓」へ寄り道していきます。120mほど進むと左手に墓地があり、その一番奥に「旅人の墓」があります。

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旅人の墓

北は秋田、南は鹿児島まで大井宿で亡くなった人々が埋葬されており、60基以上の墓石があります。
中山道へ戻り中央自動車道の上を渡るとすぐ右手に「菅原神社」、菅原神社横の寺坂を下るとすぐ右手に「馬頭観音」、さらにすぐに「上宿石仏群」「山本用水の案内板」があります。

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菅原神社

詳細は不明ですが、中山道分間延絵図ではここには観音堂と書かれています。秋葉神社も合祀されています。

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馬頭観音

1826年(文政9)建立の馬頭観音は、中央自動車道工事のためここへ移されたものです。8名の女性により建立されたもので、裏面に名前が刻んであります。

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上宿石仏群

宿内に悪人や疫病が入らないように地蔵、痰切地蔵、名号塔、徳本念仏塔、五輪塔、庚申塔などが建てられました。

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痰切地蔵

上宿石仏群の中に「痰切地蔵」と呼ばれる石仏があります。がいき(風邪)を引いたら痰切地蔵様を拝めといわれ、昔から多くの参拝者がありました。

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山本用水

江戸時代の1772年(安永元)に500mほどの用水を東野の山本(阿木川ダム下)から阿木川の水を田畑の灌漑用水として引きました。
明知鉄道の小さなガードをくぐると長国寺へ入る道があり、道の角に高さ2.1mもある大きな南無阿弥陀仏の名号碑があります。

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南無阿弥陀仏碑

この碑は1803年(享和3)、武蔵国(現埼玉県)の新井長左衛門が建てたものです。伊勢参りの帰路、中山道へ出て大井宿のいろは旅館に泊った際、母のいろが病にかかり、一ヶ月余りの闘病の後、亡くなりました。母の供養の為にとこの碑を建立(石工は江戸の人)しました。
名号碑の路地を左へ曲がり、長国寺まで150m突き当りが長国寺です。

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長国寺

寺伝によると702年(大宝2)行基創建、1187年(文治3)根津甚平が再興しましたが、永正年中に兵火にかかり、天正に至って修復、慶長年間に移転、改めて禅寺としたといいます。 恵那市長島町正家字寺平の高台に廃寺跡があり、塔の土壇石、鐘楼跡等から見て大刹であったと推定され、この古寺が移る前の長国寺と考えられています。長国寺は中山道より少し離れていますが、大井宿に支障があった場合には休泊を引き受けていました。
寺の入口には「西行法師葬送之寺」と掲げられています。竹林庵に3年滞在した西行はそこで最後を迎え、長国寺で葬送され、西行塚に葬られたということが「長国寺縁起」にかかれているそうです。定説では西行の最後は大阪です。しかし恵那にもそして全国にも西行終焉の地が多く残っているのはなぜなのでしょうか・・・

中山道へ戻り140m、「高札場」を経ていよいよ大井宿へ入っていきます。

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五妙坂の庚申塔と大井宿の高札場

五妙坂は「中山道筋道之記」では「連げし坂」、「恵那市史史料編」表紙裏の地図では「五助坂」となっており、古老によると「御判形坂」と呼んでいたそうです。 高札制度は明治3年に廃止され取り壊されましたが、3/4に縮小されて復元されています。 石垣上の馬頭観音年は代不詳です。

五妙坂の急勾配を下り小さな橋を渡ると最初の枡形となり「横薬師」があり、枡形を曲がって60m左手に「大井宿本陣」があります。

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延壽院 横薬師

行基作と言われる薬師如来像が本尊だそうです。

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大井宿本陣

大井宿本陣は林家が務め、上段の間がある主屋は1947年(昭和22)に火事で焼失してしまいましたが、火災をまぬがれた本陣門は元禄時代の様式を備えており、本陣の佇まいを残しています。
大井宿は1834年(天保14)の記録では、110戸、旅籠41軒、人口466名、庄屋は2名でした。

本陣を過ぎると第二の枡形になりますが、中山道とは反対へ曲がり本陣の裏手へ向かい、左手奥へ入っていくと「内城稲荷」がありさらに奥に「和宮泉」があります。

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内城稲荷と和宮泉(かずのみやせん)

大井小がある丘の上には中世から戦国時代に豪族の居館か砦があり、江戸時代後期から明治初期には芝居小屋がありました。また保育園の場所には修験道場と神子母神社があり、その後役場や小学校になったこともありました。

社殿右奥のひょうたん型の50kgほどあろうかという石は、千旦林城主、吉村源斎が伊勢参りに行った際に煙草の根付に手頃だと五十鈴川で拾ってきたものと言われます。千旦林の木曽川のほとりには「源斎岩」という岩も残っています。

吉村源斎は生まれたときに体重15kg、産声をあげると同時にスタスタ歩き出し木曽川の断崖から飛び込み、1km泳いで平然としていたという伝説が残り、相当な力の持ち主として根付石の伝説も残っているのでしょう。

和宮泉

大井宿は古くから良質の水が湧く井戸が多くありました。この井戸は本陣林家の井戸で、1861年(文久元)和宮降嫁の折にこの水を供したといいます、昼食の小休で立ち寄られ、水見役の山城守は井戸水を検水し「良水これに勝る水なし」と褒め幾杯も汲み上げ、宿泊の中津川宿まで運んだそうです。

中山道へ戻り第二の枡形を直進、すぐ右手に「上問屋跡」、往還左手に「ひし屋」があります。

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ひし屋

大井宿の有力な商家であった「ひし屋」古山家は、江戸時代中期以降、大井村の庄屋を務めた家柄で、明治以降は郵便取扱役、恵那郡役所掛屋(銀行)に任命され、養蚕研究や俳諧文化の推進にも力を尽くしました。現在は「ひし屋資料館」となっています。
所々に古い町並みの残る大井宿をさらに80m左手に「大井宿脇本陣跡」「大井宿下問屋跡」、脇本陣の往還向かいが明治天皇行在所にもなった「旅籠いけだ屋」です。

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大井宿脇本陣・下問屋跡

高木家が務めていましたが、当主は他市へ転居し建物も無くなっています。大井宿の問屋は上問屋と下問屋の二軒あり、半月交代で行っていました。
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明治天皇行在所・旅籠いけだ屋(伊藤家)

大きな旅籠で建築用材の販売等もしていました。伊藤家は庄屋や宿役人、村会議員、学校建設にも尽力しまし、1880年(明治13)の明治天皇巡幸の際、行在所となることが決まり、急遽三間続きの部屋を御座所とし、新たに風呂、便所が作られ、現在も残っているそうです。

旅籠いけだ屋の左手横に長屋門が移築されています。

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長屋門

大井宿本陣の表門の北にあった門といわれ、明治時代になり本陣制度が廃止となった折に庄屋であった古屋家の裏門として移築し使用されました。一説には門の規模や金具などから岩村城の門を廃城された時に移築されたとも言われています。
旅籠いけだ屋のすぐ先左手のガレージに屋号が掲げられています。

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橋本屋跡

「尾州久々利・千村氏定宿 橋本屋跡」と書かれています。 尾張藩の家臣で美濃国可児郡久々利村に屋敷を与えられ、美濃国内の尾張藩領の数ヶ村を知行地とした山村清兵衛家、山村八郎左衛門家、山村次郎衛門家、千村助右衛門家、千村七郎左衛門家、千村九右衛門家、原十郎兵衛家、原新五兵衛家、三尾惣右衛門家の9家が「久々利九人衆」と呼ばれていました。
その先50mで第三の枡形です。枡形には「旅籠角屋」があり、枡形を曲がると左手には大きな旧家があります。

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旅籠角屋(現旅館いち川)

この写真は明治初年に撮影された角屋です。軒には講札がたくさん掛けられ、その右側は特殊な方の出入り門となっていた――と案内板にありますが、「特殊な方」とはどのような人なのか、とても気になります。
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庄屋古屋家

広大な敷地、荘厳なお屋敷でした。なが〜い塀が続きました。江戸時代は商家で、主屋は江戸時代の建築とされます。古屋慶隆の銅像が中津川駅近くにありましたが、こちらの出身でしょうか・・・

その先突き当りが「市神神社」で、第四の枡形になります。

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市神神社

1672年(寛文12)創建、室町時代中期、当時市場田の地域は良質の煙草を産し、八大龍王の名に因み「龍王煙草」と称し産出量も多く毎年正月七日に煙草市を催し繁盛したといい、これが七日市の起源と考えられています。明治初期までは煙草の花をかたどった「福団子」が売られていました。 社殿は度々変わり、現在地へ落ち着いたは1892年(明治25)のことです。

枡形を曲がって70m右手、マンション横に「白木改番所跡」の案内板があります。

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白木改番所跡

木曽五木の監視、伐採申請の検分、山林の見回りを行っていました。材木は錦織(現八百津町)でいかだを組み、木曽川を流し名古屋・桑名方面へ下していたので、木曽川沿いに奥戸・久須見・小僧が屋敷・横樽等の川並番所があり、その取締もしていました。
その先再び枡形となり、第五の枡形です。これを曲がり70m最後の枡形を右へ曲がると大井橋(阿木川板橋)の前にでます。枡形は全部で6つありました。

大井宿の枡形が多い理由はどこにも書かれていませんでしたが、東海道岡崎宿の二十七曲がりですと、経済効果を狙ったものと言われています。直線では旅人がさーっと通り過ぎてしまいますが、何度も曲がり往還を長くすれば滞在時間も長く、商家も多く配置できるので旅人がお金をたくさん使ってくれることを狙ったと考えられています。

大井橋右手にある「大井の榎」は橋の上から眺めます。

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大井の榎

葉が多く、幹の下のほうがしっかり写らなかったのですが、根元付近には小さな社があります。堤防改修の際に伐採しようとした人は病気になり切ることができず、今も残しているそうです。「大井の榎」には怖いお話があります。

大井の榎

昔、巳之助という大泥棒がおりました。俗にいう「ねずみ小僧」です。なかなか捕まらなかったのですが、ある晩とうとう捕らえられてしまいました。石責めの刑となった巳之助は、阿木川の榎に縛りつけられ、役人達は大小の石を思い切り投げつけ、縛られたまま、血だらけになって息絶えました。その後、大雨が降り続き阿木川は大水になりました。常に氾濫し、巳之助の祟りではないだろうかと人々は言い、榎の下に社を作り、巳之助の霊を弔いました。すると阿木川はほとんど氾濫しなくなりました。

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大井橋(阿木川板橋)と阿木川

1809年(文化6)の「大井宿書上帳」によると阿木川に架かっていた阿木川板橋は欄干付きの板橋でした。天保年間以前は阿木川の中央に石の小島を造りそこに両側から橋を架けて川を渡っていたので、中島橋ともいいました。度々洪水で流され、1923年(大正12)に永久橋に架け替えられましたが、これも1983年(昭和58)に豪雨で壊されています。

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木曽路名所図会に描かれた「大井駅」

上の方には西行塚や七本松など「十三峠」の様子が描かれています。

16:00 大井橋を渡り130m、恵那駅前の道でようやく終了です。恵那駅方向へ右折しコインパーキングに駐車した車へ戻ります。『土岐よりみち温泉』でお風呂へ入り、本日は『道の駅 そばの郷 らっせぃみさと』に車中泊します。 なぜなら、明日は大井宿〜大湫宿、「十三峠」越えとなりますので、朝早くから出発しないといけないので、車中泊としました。車はしっかりベットに改造してあるのでよく眠れます。