2024年4月27日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

なんだか空がどんよりとしてきました。

15:20 鵜沼宿をあとに加納宿へ向かって進んでいきます。 鵜沼宿西見附跡横の階段を上ると「翠池」があります。

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翠池(よしいけ)

鵜沼村では1656年(明暦2)に12か所、幕末に至っては10か所の雨を溜める池があり、灌漑に利用してきました。中山道分間延絵図では「(よし)」の字が使用されています。
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アオサギとカワセミ

「葭池」から「翠池」と読み方は同じですが、漢字が変わったようです。「翠」はカワセミの特に雌を指す漢字なのだそうです。そして本当にカワセミに出会えてびっくりです。雄ですが。カワセミは雄雌が区別しにくいです。くちばしの色が雄は上下とも黒。雌は上が黒で下が赤っぽいような茶色っぽいような色なのです。

池の水がかなり少なくなっており、溜まり水に亀がたくさん集まってきていました。雨が少ない今年、鳥や水辺の生き物が心配です。

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庚申塔と祠

翠池の西側が公園となっており、トイレなどありますが、その中に石仏群があります。生花が活けてあり、現在でも大切にされていることがわかります。
翠池からは西へ向かい50mほど、地図には「鵜沼西町4号墳」となっていますが、ここが「六部塚」です。

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六部塚

中山道分間延絵図に「六部塚」と記されています。一番背の高いものが「六十六部日本廻国碑」です。「濃州各務郡鵜沼村 願主孝勇」と刻まれています。1712年(正徳2)建立。

六部塚から南へ70mほど進むと中山道へ戻ります。そのすぐ先右手に「弘法堂」、さらにその先に「衣装塚古墳」、隣に「空安寺」と続きます。

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弘法堂

大正時代初期に建立され、最近建て直されたようです。境内には多くの石仏があります。弘法堂のあたりの南側、家並が途切れたようなところから南側を見ると犬山城が見えますね。

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衣装塚古墳

直径49m、高さ8mの岐阜県最大の円墳です。塚上には10基ほどの墓碑があり、南には前方後円墳の「坊の塚」があります。坊の塚には円状に埴輪を立て堀が巡らされていたことがわかっています。
羽場集落の村人が墓を暴こうとしてツルハシを蓋石にあてたとたん、火花が散り飛び火で羽場が全焼したという話もありますが、真偽はわかりません。

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空安寺

長岡千左衛門の子、千次郎(道念)が1481年(文明13)13歳で出家し、本願寺八世の門跡蓮如上人の直弟子となり師と共に巡礼の途中、蘇原の寺島において、1484年(文明16)に坊舎を建立したのが始まりとされます。その後、京都山科において蓮如上人直筆の阿弥陀如来絵像を授かり、1485年(文明17)寺号を空安寺としました。その後、鵜沼小伊木の地を経て1534年(天文3)現在地へ移りました。
空安寺から670m進むと右手に「階楽座」、その奥に「津島神社」があります。

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階楽座

客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻舞台、奈落、せり、太夫座などを備えています。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられていました。 1891年(明治24)の濃尾地震により倒壊しましたが、1899年(明治32)に再建されています。

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津島神社

中山道分間延絵図には「天王」となっています。昔は愛宕山に祀られていましたが、後に現在地へ移し神明社と合わせて祀りました。
450mほどで国道21号へ合流します。さらに国道を270mほど進むと「おがせ町」交差点があります。

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馬頭観音

中山道分間延絵図によると現在鵜沼宿に移設されている是より東「尾州領傍示石」はこのあたりにあったようです。この先が幕府領の各務村でした。「おがせ町」交差点の向かいには小さなお堂に入ったこの馬頭観音ありました。

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少し進むと国道はバイパスとなり高架になりますが、旧道は左の側道に入ります。
側道へ入り150mほど進むと左手に大きな「播隆上人名号碑」があります。

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播隆上人名号碑・各務一里塚跡

播隆上人は山の前や大伊木に滞在したとされ、大伊木で記した名号碑を上人の死後、信者が碑に移し建立したとされます。1841年(天保2)の建立で、碑石は古墳の蓋石を利用しています。1891年(明治24)の濃尾大地震で破損しましたが、その後、修理再建しました。
各務一里塚もこの付近にあったとされ、1945年(昭和20)の各務空襲の際、塚に避難した村人3名が爆死し、また生じた穴を一里塚の盛土で埋めたため無くなったといわれています。

側道が無くなり階段を上って国道へでたり、また階段を下り側道へ入ったり・・650mほどで各務ヶ原駅へ到着しました。

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JR各務ヶ原駅

鵜沼宿に移設されている是より西「尾州領傍示石」は各務ヶ原駅付近にあったとされます。
16:30 本日はここから戻ります。JR各務ヶ原駅から乗車し、美濃太田駅で下車し駅前のコインパーキングへ停めている車をピックアップして終了です。

2024年4月27日

岐阜駅のコインパーキングへ車をとめ、JR岐阜駅より各務ヶ原駅へ向かいます。

8:20 各務ケ原駅を出発します。今日は朝からどんよりとしたお天気で、今にも雨が降り出しそうです。 各務ヶ原駅をでると目の前の国道21号が中山道です。中山道を西へ進みます。1kmほど進んだあたり、トヨタ、スバルなどがあるあたりが「三ツ池立場」があったあたりと思われます。

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三ツ池立場跡

「三ツ池」という地名は各務野のあった3つの池からつけられたとされますが、小さなものであったため軍需工場建設の際に埋め立てられ消滅しました。集落は二十軒あり、「二十軒集落」といいました。

次の大きな交差点「三ツ池町交差点」の右手側が三ツ池神明神社です。交差点の先には長楽寺があります。

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三ツ池神明神社

1776年(安永5)創建。以前の拝殿は本格的な舞台建築で、祭りには村芝居が行われていました。中山道分間延絵図に描かれている秋葉社は三ツ池神明神社に合祀されています。

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三ツ池神明神社拝殿礎石

1902年(明治35)に再建された当時の神明神社拝殿の礎石が残されています。1959年(昭和34)の伊勢湾台風により樹木が転倒し、拝殿が倒壊したため現在の社殿が再再建されました。
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長楽寺と馬頭観音

詳しいことはわかりませんが、中山道分間延絵図には描かれていないため、どこからか移転してきたのか、新しいお寺であるのか・・わかりません。

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地蔵祠

坐像と立像のお地蔵様が祀られていました。
「三柿野駅前」交差点からは、国道の北側側道を進みました。右手は「川崎重工業」の大きな工場になっています。途中、名鉄各務原線を越えるため一旦歩道橋を上り再び下ります。国道の南側には航空自衛隊岐阜基地があります。

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川崎重工業

1923年(大正12)川崎航空機工業は軍需工場として発展し、戦時には「飛燕(ひえん)」、「屠龍(とりゅう)」など優れた戦闘機を作っていました。展示されていたものは練習機のシューティングスター(若鷹)のようです。

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川崎重工業内にある川崎神社

大きな慰霊碑も見えます。なぜ工場内に神社があるのかわかりませんが、割と新しい社殿ですね。
国道の側道をさらに進むと国道と合流しますが、250mほどで国道と分かれて旧道へ入っていきます。旧道へ入るとすぐ右手に「六軒一里塚跡」の標柱があります。左手には「竹林寺」があります。

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六軒一里塚跡

塚はすでに無く標柱のみがあります。
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竹林寺

1700年(元禄13)、竹林上人が開いたとされます。現在の本尊は明治維新のときに廃仏毀釈から逃れ東濃から運ばれたもので、逃れる途中に木曽川の氾濫で流されるも前渡で流れ着いたところを発見され、五世潜龍が本尊として迎え入れたとされます。1878年(明治11)には三宅浄福寺の本堂を移築して本堂とし、1979年(昭和54)には再建されたと記念碑には記されていますが、中山道分間延絵図には描かれていないため、どこからか移転してきたのでしょうか・・

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竹林寺から100mほど右手の六軒公民館横に祠があり、その先民家前に道祖神が祀られていました。そのすぐ先あたりが「六軒茶屋立場跡」付近でしょう。
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六軒公民館の祠と道祖神

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六軒茶屋立場跡

すぐ先右手が神明神社で、入口に馬頭観音堂があります。

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神明神社

正中の変と呼ばれる日野資朝後醍醐天皇とともに鎌倉幕府の倒幕を企てた計画は失敗します。その後、いずれ挙兵しようとした土岐頼兼の妻子らは六軒村に集団居住し瀬戸物焼土器類を作りながら時を待っていました。このときに神明神社を奉祀しました。例祭には馬かけ(馬に乗って境内を駆け抜ける)を実施しており、今も馬かけが行われているとのことです。

六軒村の神明神社はかなり古くからこの地に鎮座していたようですが、なぜか中山道分間延絵図には描かれていないのです。記入漏れでしょうか。

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馬頭観音堂

立ち寄るのを忘れてしまったのですが、神明神社から800mほど先を街道から南へ入ると「住吉公園」があります。ここが播隆上人草庵跡になります。現在は案内板があるのみです。 往時は松林で、草庵を造り近在を教化していたとされます。草庵での播隆はそば粉を水でかいて一日一食を食し、専ら念仏三昧でした。六字名号は、播隆が当地を離れる際、信者へ形見として書き与えた書であるといいます。

神明神社からひたすら旧道を1.6kmほど進むと右手に広い公園があります。各務原中央公園です。公園の角を右へ曲がり、ちょっと寄り道していきます。公園の中に胸像がありました。

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遠藤儀作像

遠藤儀作(雅号:郊北)は、1860年(万延元)那加村の名門の家に生まれ、小学校の教員を務めたのち、1903年(明治36)各務原で初の岐阜県会議員に選出されました。1917年(大正6)からは那加村長として4期15年もの長きに渡り村政に携わり、各務原発展の礎を築いた人だそうです。県下の最高学府である岐阜高等農林学校(現在の岐阜大学)を誘致するためにも尽力されたそうです。
各務原中央名鉄各務原線を越え、左手の駐車場を突き抜けると那加幼稚園の東側へでます。この場所に「鼠小僧次郎吉(浄心)の碑」「神明神社」があります。

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いろは茶屋犠牲者供養塔とねずみ小僧次郎吉(浄心)の碑

「ねずみ小僧次郎吉」はあの有名な次郎吉ではなく、ねずみ小僧浄心といって、安永・天明の頃(1772〜1788)、「天明水滸伝」で知られる神道徳次郎の一の子分として知られた盗賊です。

ねずみ小僧浄心

上州の禅寺、林善寺の小僧でありましたが破門され、江戸へ出て徳次郎の子分になったとされます。旅の僧姿で江戸から東海道を使い京へ。帰りは中山道を通り江戸へ戻るコースで盗みを働いていたとされますが、あまり酷いことはしなかったといいます。

各務原の野中の一軒家「いろは茶屋」

各務原から三里ほどは寂しい原野でしたが、一軒だけ茶屋があり「源助茶屋」、「いろは屋」、「いろは茶屋」などと呼ばれていました。ところが源助夫婦は悪人で、床下に古い井戸があり、金がありそうな客から荷物を預かると仕掛けで客をその井戸に落とし殺すというようなことをしていました。浄心はこれを見破り、前野村の横山忠兵衛へ知らせ、庄屋から領主へ知らせ、悪党は捕らえられました。 浄心は旅僧の身なりをしていたのを幸いに、殺された人々の菩提を供養した石碑を建立したそうです。現在ある供養塔には正面に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養 江戸本所住」、側面に「取待 前野村横山中兵衛」と刻まれていますので、浄心が建立した供養塔だと思われます。

ねずみ小僧次郎吉(浄心)の碑の変遷

「鼠小僧次郎吉の碑」は、もとは中山道沿いにあり、塚・古井戸・石碑がありました。いつの頃からか次郎吉の墓と誤って信じ込まれ、泥棒たちの崇敬の的となっていました。1921年(大正10)岐阜高等農林学校が建てられることになり、工事関係者は無造作に碑を取り払い放置し、古井戸も埋められました。

そこに建てられたのは科学室でした。その後原因不明の家事で焼失、すぐに新築されましたが直後に再び焼失。さすがに不気味になり捨ててあって浄心の碑を探し出し、現在地へ安置し、それ以降化学室は不審火を出すことはなくなったと伝えられます。

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播隆上人名号碑

1832年(天保3)建立。中山道南、野原の小塚にありましたが、開墾のため現在地へ移されました。 笠ヶ岳再興、槍ヶ岳開山で知られる僧・播隆の六字名号碑です。各務原市内には3基の播隆名号碑が確認されています。
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神明神社

名鉄各務原線に沿って西へ向かうとさくら通りへでます。新境川沿いを歩いて中山道へ戻ります。那加橋から再び中山道を進んでいきます。

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那加橋と新境川堤

地元出身の歌舞伎役者、市川百十郎が境川放水路の完成を記念して寄贈したことから「百十郎桜」と呼ばれているそうです。新境川の両岸約4キロに渡って1000本以上の桜並木が続きます。咲き誇っていたら美しい景色だったでしょうね。

市川百十郎

1882年(明治15)、各務原市蘇原大島町で生まれ、幼少期から歌舞伎に親しみました。15歳で上京、やがて市川百十郎と名乗り、百十郎一座を創設します。連鎖劇(トーキー映画と舞台劇を組み合わせ、舞台と映像が融合した途切れない劇)を展開します。その演出手法は「まくなし」と呼ばれ一世を風靡し、東海一の花形役者となりました。戦時中に一座を解散し、戦後は故郷へ戻り、地元の人々に演劇指導を行いながら 1969年(昭和44)に亡くなっています。

新境川を渡ると栄町、西那加町と続き、栄町には小さな秋葉神社が祀られ、西那加町には稲荷神社が祀られています。那加橋から1kmほどの新加納町交差点では直進し旧道を進みます。

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栄町秋葉神社・西那加稲荷神社

新加納町交差点から250m、右手に蔵元林本店があります。

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蔵元林本店

1920年(大正9)、林榮一によって創業された酒蔵で、さきほどの連鎖劇の百十郎という名の日本酒を造っているそうです。

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間の宿新加納

日吉神社のあたりから「間の宿新加納」へ入っていきます。このあたりからは古い住宅も見られるようになってきました。
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中山道分間延絵図「新加納」

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日吉神社参道

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日吉神社

創建は不詳ですが、平安時代頃の建立と推定されています。1959年(昭和34)までは境内一帯には檜・杉の大木が林立していましたが、伊勢湾台風により倒木し、1961年(昭和36)に社殿を再建しました。境内社は稲荷神社・秋葉神社・金比羅神社があります。中山道分間延絵図では「山王」となっています。

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狛蛙(こまがえる)

日吉神社には全国的にも珍しい狛蛙があります。中山道沿いにある定書には蛙の捕獲禁止の条が書かれています。1972年(昭和47)頃まではひょうたん池があり、多くの蛙が生息し、例祭は「げえろ祭り」と通称されました。

げえろ祭り

昔、日吉神社のひょうたん池に大きなカエルが住み着き、村人にいたずらをするようになりました。村の人は「カエルが腹を減らして悪さをするのだろう」と池にごちそうを投げ込みました。するとカエルのいたずらがなくなっただけではなく、薬を届けてくれたり、日照りのときには雨を降らせてくれました。以来、福蛙として親しまれ、現在池は埋められていますが、毎年4月に「げえろ祭り」が行われています。

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馬頭観音

日吉神社横の公園東側にある小さな祠には馬頭観音が祀られていました。

日吉神社から200mほどで間の宿新加納の中心部へ入っていきます。周囲には結構古い民家も残っています。三叉路のあたりが新加納一里塚跡です。その手前右側に茶屋本陣梅村屋があったようです。

茶屋本陣梅村屋跡

立場の中心的存在で、煮売茶屋から始まり、後には坪内陣屋への来客の接待所としても使われていました。 公式の宿駅ではなかったため、宿泊は原則として認められない休憩所でしたが、実際は宿泊もしていました。また、坪内家陣屋の接待にも使われ、皇女和宮ほか高貴な方も利用しました。 梅村屋のほか尾張屋、美濃屋、小池屋など旅人宿がありました。

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新加納一里塚跡

一里塚は明治以降に取り壊され、現在は石碑があるのみです。

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新加納立場跡(塚本屋跡)

鵜沼宿と加納宿の間は4里10町(約17km)と距離が長かったため立場が設けられ、間の宿として栄えていました。
突き当りの丁字路に高札場跡と木曽路道標があります。

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高札場跡と木曽路道標

「右京道 左木曽路 南かさ松」と刻まれています。

中山道は丁字路を右へ曲がりますが、陣屋跡等へ向かうため、丁字路を左へ曲がりすぐ先を右へ入ると「御典医今尾家」、更に奥へ進むと「善休寺」「新加納陣屋跡」「少林寺」があります。

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御典医今尾家

今尾家は江戸時代に新加納を治めた旗本坪内氏の御典医を務めました。現在の建物は1900年(明治33)のものであり、母屋・塀・門・離れなどが登録有形文化財として登録されています。

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薬師堂と今尾要碩頌徳碑

今尾家の薬師堂です。石柱には「慶応四年九月四日東甫」の文字が刻まれています。

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善休寺

最初は天台宗の光暁坊というお寺がありました。寺伝によると鎌倉時代の1232年(貞永元)に親鸞が美濃に滞在中、光暁坊五代目が親鸞に会い浄土真宗に改宗し、後の慶長年間に本願寺十二世教如が新加納御坊を現在の本堂の裏手、少林寺の隣に建立したとされます。 尾張徳川家の狩りの際には宿泊所となっていたため、屋根には葵紋があります。

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新加納陣屋跡

新加納を治めていた坪内氏の初代は松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、織田家に仕え、蜂須賀小六ら川並衆をまとめていました。4代利定は関ケ原の戦いで徳川家の鉄炮隊を率いて活躍、これにより旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋へ移りました。
陣屋は幅5.2m以上の巨大な濠と高さ3mの土塁に囲まれた強固な防衛施設として建設されました。 旗本坪内氏は利定以降、11代定益まで続き、1868年(明治元)領地を奉還しました。

跡地の一部は公園として整備され、2020年(令和2)にオープンしたばかりで、とても綺麗です。

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稲荷堂

少林寺の門前にある稲荷堂です。1804年(文化元)少林寺八世住職、鼎州和尚が京都伏見稲荷から勧請し建立しました。
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少林寺

1499年(明応8)弓削田(ゆげた)荘を支配していた薄田祐貞(すすきだすけさだ)が建立し、東陽英朝が開山した名刹です。 1563年(永禄6)新加納は織田信長の美濃侵攻で斎藤龍興との合戦場となり、寺は兵火により焼失(新加納の戦い)しました。江戸時代へ入り領主となった旗本坪内氏が再興し、菩提寺として保護しました。

新加納一夜城

信長より稲葉攻めの前線拠点として各務原台地の一角である新加納に砦を造るよう命じられた藤吉郎(秀吉)は川並衆の蜂須賀小六、前野将右衛門、坪内利定ら十数人を集めました。 総勢千人にもなりましたが、主力となったのは坪内衆でした。夏場から砦の資材となる木材を切り出し加工しておき、通達後は組み立てるのみという手法(プレハブ的工法)が取られたため、一夜にして砦が完成しました。この一夜城が築かれたのは現在の少林寺があるあたりとされています。

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なんじゃもんじゃの木

立派なヒトツバタゴの木があります。各務原にはヒトツバタゴが植えられている場所が多いですね。ヒトツバタゴは関東などではあまり見かけません。なぜか日本では分布が限られ、対馬、長野、岐阜県の東濃地方の木曽川周辺など散在している珍しい形態です。
少林寺本堂左手を奥へ入っていくと、少林寺を開山した「東陽英朝禅師塔所」があります。また、本堂の西側墓地の正面奥に「旗本坪内氏墓所」があります。

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東陽英朝禅師塔所

東陽英朝は加茂郡和知の人で、美濃国守護土岐政房に崇信され、細目の大仙寺の開山と共に少林寺を開き、少林寺で没しました。

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旗本坪内氏墓所

少林寺は領主、旗本坪内家の菩提寺となり、代々の墓があります。
善休寺前を通り中山道へ戻り、再び西へ歩きます。緩い坂道を下ると小さな水路があり、その袂に近年建立したと思われる新加納立場碑があります。さらにしばらく進むと東海北陸自動車道の下を通過し、その先はかなりクネクネした旧道を進んでいきます。名鉄各務原線「手力駅」へ向かう交差点で左へ曲がると手力雄神社があります。

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手力雄(てぢからお)神社

860年(貞観2)創建。古来、都に軍勢が上がる際、東海道より東山道(のちの中山道)を通り、木曽川を渡る場所としての防衛拠点として鎮座し、のちに近くに土岐頼遠長森城を築いています。 元は長塚村にあり、中山道分間延絵図では「長塚村」に描かれています。本殿は1674年(延宝2)に再建されたものです。

手力の火祭り

春の祭礼として「火祭り」があります。成立年代は明らかではありませんが、明和年間(1760年代)に一時中断し、1805年(文化2)に復活したと言われています。滝のように降り注ぐ火の粉の中、火薬を仕込んだ神輿を担ぐ上半身裸の男達。神輿の火薬に火がつくと神輿からも火の粉が吹き上がり迫力満点です。一度実際に見学してみたいものです。

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お産の杉

昔、神功皇后が三韓征伐の途中に休んだ際、杉の枝を逆さに刺したのが根付いて大きくなり、枝ぶりが下へ下へと伸びていることから、妊婦がその木の葉や小枝を持っていれば安産できると広まり、大切にされてきましたが、1959年(昭和34)の伊勢湾台風で倒木してしまい、現在は2代目です。
境内には土岐頼遠の墓といわれる宝篋印塔もあります。

手力雄神社裏、北側にあるのが神明神社へ寄ってみます。

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神明神社

神明神社の創建は不詳ですが、合祀されている六社は蔵前地内に点在していたものを耕地整理に伴い、1907年(明治40)に合祀しました。御鍬神社、吉野神社、若宮神社、神明神社、稲荷大明神、秋葉神社が合祀されています。

中山道へ戻り、500mほど進むと丁字路となり、左への道は先ほど寄り道した手力雄神社への参道となり、石鳥居があり、その足元に木曽路道標があります。

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木曽路道標と手力雄神社鳥居

「左 木曽路」と彫られています。

丁字路は枡形で、ここを右へ曲がります。このあたりが往時は「切通立場」でした。

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切通立場跡

手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場として、茶屋、菓子屋、履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わっていました。中山道分間延絵図では「上市場立場」と記されています。
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中山道分間延絵図「切通村」

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浄慶寺・高札場跡

1486年(文明18)正専坊が開基したとされます。

浄慶寺から200mほど進み、右手の細い路地へ入っていくと「切通陣屋跡(長森城址)」があります。

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切通陣屋跡(長森城址)

1185年(文治元)渋谷金王丸(土佐坊昌俊・同一としない説もあり)が長森庄の地頭に任ぜられ、この地に長森城を築きました。1337年(延元2)美濃国守護2代、土岐頼遠が土岐郡大富より長森に居を移し、長森城を改修し美濃国を治めました。
1755年(宝暦5)安藤信成は父、信尹(のぶただ)の跡を継ぎ、加納藩主となりましたが、陸奥磐城平へ移封となり、1803年(享和3)には美濃国内に加増され、飛び地となったため切通村に陣屋を設けました。飛び地支配だったため、問題が多く1825年(文政8)には長森騒動が起こっています。 明治に入ると陣屋は廃止され、笠松県に統一されました。

長森騒動

磐城平藩は美濃国の厚見郡・方県郡・本巣郡などの30村余りを飛び地支配していました。財政が苦しくなった磐城平藩は、美濃国の農民に重税をかし、これに対し、日野村の農民が反対したため、日野村だけが特別に免除されることになりました。しかし、このことを知った他の村の農民たちが前一色山(八幡山)へ集り、一揆が広がりそうになったので、加納藩や尾張藩岐阜町奉行所から兵が出ることになり、結局、磐城平藩は農民の要求を聞き入れて一揆を収めました。

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切通観音

切通観音の北西に大きな陣屋敷地があったようです。

中山道へ戻り、250mほど進むと右手に「伊豆神社」があります。その入口右手に「馬頭観音祠」、祠の横に「木曽道道標」があります。

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馬頭観音

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木曽道道標

「左 京ミチ」は読めるのですが、右は・・「木曽道」でしょうか?

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伊豆神社

創建年は不詳です。手力雄神社御祭神をいさめるため、往時の長森細畑字石長あたりに鎮座されていたものを水害のため現在地へ移されたと伝わります。
伊豆神社から400mほど進むと右手に「恵比寿神社」があります。

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恵比寿神社

神社明細帳には1575年(天正3)に勧請したと記されています。中山道分間延絵図には「夷宮」と記されています。

南に少しはいると「境川」が流れていますが、この川が美濃と尾張の国境になっていました。美濃国と尾張国の国境は、中世までは木曽川でしたが、1586年(天正14)に発生した「天正の大洪水」により、木曽川の流路が変わってしまったため、境川筋が国境になりました。

恵比寿神社から真宗寺・誓賢寺を通過して450mほど進み、国道156号線を渡るとすぐのあたりが「下河原立場」です。

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真宗寺・誓賢寺

詳細は不明なお寺ですが、中山道分間延絵図には「真宗寺」は描かれていますが、「誓賢寺」は見当たりません。

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下河原立場

古い建物が残っていて、雰囲気がよいです。すぐ先左手から「御成道」との分岐があり、交通の要衝として往時は賑やかだったに違いありません。

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御成道

下河原立場横から上印食村(かみじきむら)を通り、木曽川を越え名古屋まで通じていました。尾張藩主が領内の岐阜へ往来する「御成道」です。
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明治水庵看板

小古曽家は明治創業の薬屋を営んでいました。「明治水」とは目薬のことです。

国道156号線から250mほど進むと両側に「細畑一里塚」があります。南塚の後ろには稲荷神社秋葉神社が祀られています。

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細畑一里塚

一里塚は明治になって崩され、北塚のみわずかに残っていたものを戦後に復元したものです。石を組み石柵で囲ったのは1952年(昭和27)です。

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稲荷神社・秋葉神社

細畑一里塚から150mほど進むとY字路になっており、往時から追分となっていました。

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地蔵堂・追分道標

中山道分間延絵図では、「笠松道一里余」と記されているところの道標です。地蔵堂も描かれており、往時からこの追分にあった地蔵堂です。左手は加納宿を経ずに、名古屋・熱田へ出る道です。

追分の地蔵堂のところから右手へ入っていきますと、地蔵尊と薬師堂などがあります。

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地蔵尊・薬師堂

詳しいことはわかりませんが、中山道分間延絵図にも描かれています。

中山道へ戻り、80mほど左手に八幡神社があります。

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八幡神社

創建などは不詳ですが、中山道分間延絵図には記載があります。梶木神社が合祀されています。
八幡神社から150mほど進むと左右に荘厳な旧家が残っています。

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遠藤重平家(左手)・遠藤平左衛門家(右手)

どちらも桟留縞の商人として磐城平藩領美濃国分の中で知られた名家です。遠藤重平家は庄屋も務めていました。

JR高架下をくぐる手前右手に小さな秋葉神社があり、JR高架下をくぐり少し進むと右手に黒板塀が印象的な森家があります。

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上川手の秋葉神社

秋葉神社隣は趣のある旧家ですが、空き家のようです。創建なども不詳ですが、中山道分間延絵図にも記載がないですね。

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森家

景観重要建造物に指定されています。荒仕上げの羽目板による高塀が素晴らしい旧家です。門は大正天皇が皇太子の時にくぐられたといわれています。
名鉄名古屋本線茶所駅を過ぎたすぐ先左手は、「御鮨街道」と呼ばれ、御鮨街道へ入ると「茶所・鏡岩の碑」があります。

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茶所・鏡岩の碑・道標

相撲力士の二代目鏡岩浜之介は、父の跡を継いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して妙寿寺を建立し、ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また茶店を設けて旅人に茶を振る舞ったそうです。妙寿寺は廃寺となり、ぶたれ坊の像は岐阜駅南の妙泉寺に移されています。

道標には1841年(天保12)の銘があり、「鏡岩濱之助内建立」と刻まれています。1891年(明治24)の濃尾地震で折れてしまいましたが、修理されています。

御鮨街道

「御鮨」は現在のような酢飯の上に魚を乗せたものではなく、塩または酸を加えて腐敗を防いだ魚を「鮨」と称していました。当時としてはかなりの贅沢品でした。 将軍献上の鮎鮨は金華山西麓の御鮨元川崎家で作られ、20〜50尾を一桶に詰め、17桶を一荷として、1回に2〜4荷を岐阜問屋へ経由し御鮨街道へ入り、名古屋へ向かい笠松問屋まで届けられました。

中山道へ戻ります。往時は次の交差点が枡形になっており、突き当りが加納八幡神社でした。現在は交差点を少し過ぎると右手に加納八幡神社があります。

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加納八幡神社

創建年代は不詳です。1600年(慶長5)関ケ原合戦後、家康は岐阜城(稲葉山城)を廃し、加納城を築城ました。その際に鬼門除けとして現在地へ移しました。 境内社として、秋葉神社、厚見稲荷神社、塞神社、琴平神社が祀られています。
八幡橋で新荒田川を渡ります。2本目の路地の駐車場の角に道標があり、ここは枡形となっており、左へ曲がります。70m右手に「安良町秋葉神社」があります。

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西京道標

1885年(明治18)建立。「右 岐阜 谷汲 左 西京道」と刻まれています。

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安良町秋葉神社

詳しいことはわかりません。中山道分間延絵図にも描かれていません。
県道1号を越え、小さな柳原橋を越えると左へ曲がります。曲がった先の左手(善徳寺門前)に東番所がありました。現在は右手に石碑が立っています。

その先、突き当りに善徳寺があります。

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善徳寺

1170年(嘉応2)高倉天皇の勅願所として川手に創建され、江戸初期の元和年間(1615〜1623)に柳町へ移ってきました。河野法性坊とも呼ばれました。建物は1928年(昭和3)全焼し、以後再建されました。

善徳寺前を右へ曲がり、大きな道路を突き抜けていきます。加納宿は城下町でしたので、枡形や鍵の手が多く作られていますね。大通りのすぐ先右側に「加納柳町秋葉神社」があります。さらにその先左手に専福寺があります。

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加納柳町秋葉神社

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専福寺

1576年(天正4)織田信長の石山本願寺攻めの際、専福寺の住職であった忍悟は門徒を引き連れて参戦し、門徒37名と共に討ち死にしました。織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状と伝えられる3通が残されています。 1635年(寛永12)現在地の加納新町へ移転してきました。

さらに100mほど進むと右手に「新町秋葉神社」があり、その4軒ほど先が「加納宿 問屋跡」があります。

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新町秋葉神社

加納宿

1634年(寛永11)に宿場が設置されました。本陣・脇本陣、3箇所の問屋、旅籠26軒があり、美濃十六宿のうち最大の宿場でした。また、岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道・御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でした。

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加納宿 問屋跡

熊田家はこのあたりの有力者で、信長が岐阜にいた頃から加納宿の問屋役を務めていました。江戸時代に入ると「岐阜問屋」と呼ばれ、名産品である「鮎鮨」を尾張藩が将軍家へ献上するための継立てもしており、「御用提灯」が許されていました。
古くからある岐阜問屋ですが、なぜか中山道分間延絵図には描かれていません。

その先の交差点は右手に秋葉神社があり、その横の道は岐阜道(御鮨街道)になります。中山道はこを左へ曲がります。ここに岐阜道道標があります。

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秋葉神社と岐阜道道標

1750年頃の江戸中期に建てられ、最初は「左中山道、右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京道、右東京道」が追加されました。この四つ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でした。

広江川の手前を右へ入っていくと地蔵堂と水薬師寺があります。

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地蔵堂と水薬師寺

水薬師寺は、7月下旬に行われる万灯流しで知られています。清水川に沈んでいたと言われる黄金仏を加納城主2代目の奥平忠政と母の亀姫が水上に堂を建立し、安置したことから始まっています。乳薬師として女性の参詣が多かったとされます。

広江橋で広江川を渡ると袂に高札場跡があり、その先、加納大手町交差点に往時は「加納城大手門」がありました。

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高札場跡

加納城大手門前ま清水川沿いに高札場がありました。「宿御高札場」と呼ばれていました。加納藩の中でも最も大きな高札場でした。

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加納城大手門跡

1600年(慶長5)の関ケ原合戦後、大阪城の豊臣氏への備えのため徳川家康が中世加納城の跡地へ築城を命じました。岐阜城の天守閣を移したとの資料もあります。近世加納城の初代城主は、家康の娘亀姫の婿である奥平信昌でした。江戸時代を通して奥平氏3代、大久保氏1代、戸田氏3代、安藤氏3代、永井氏6代の譜代大名が城主を務め、1873年(明治6)建物が解体されました。
中山道は大手門前で右へ曲がっていましたが、このまま直進して500mほどありますが、「加納城跡」へ向かいます。

ついでに書いておくと、加納公園テニスコートのトイレは、鍵が締まったおり使えませんでした。

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加納城石垣

加納城の築城の際には岐阜城や川手城跡、正法寺跡から礎石・石垣等を移したとされます。また、岐阜城天守閣は加納城二の丸東北隅櫓として移築されたと言われています。現在は本丸と二の丸石垣の一部と土塁が残るのみです。

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加納城跡

加納城本丸跡を見学し、加納城跡西側へ曲がり更に西側2つ目の路地へ入ると「加納藩家中屋敷跡」があります。さらに北へ向かい1本東側の路地へ入ると「加納城南大手門跡」の標柱があります。

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加納藩家中屋敷跡

加納城外濠の「長刀堀」の西側数町には江戸時代、加納藩家臣の屋敷がありました。堀は埋められましたが、現在残る石垣は江戸時代からのものです。

長刀堀

加納城築城にあたり、城の防備と水運の便を図るため、城の西側に約500mの堀が造られました。この堀は長良川に入り桑名まで通じており、舟が往来し城内へ米や物資が運ばれていました。廃城後も民間に利用されていましたが、舟運は1887年(明治20)頃に衰退しました。1912年(明治45)に埋め立てられ、周囲には人家が立ち並び、堀にはコンクリート蓋が架けられ、面影は失われてしまいました。

ここから西に300mほどの場所に「盛徳寺」があります。奥平家の菩提寺で、境内の廟所には信昌、亀姫の墓がありますが、現在入ることができませんので立ち寄らずに、北へ向かい進みます。

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加納城南大手門跡

再び中山道の加納城大手門跡まで戻り、加納宿内を歩いていきます。すぐ先左手に真新しい建物、まちづくり交流センターがあります。ここが「旧加納役場跡」があります。

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旧加納役場跡

旧加納町役場庁舎は国登録有形文化財となっていたようですが、耐震強度不足ということで、結局は取り壊され、現在はまちづくり交流センターとなっています。右側の写真がストリートビューから拝借したものです。

さらに120mほど進むと左手に料理屋があります。

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二文字屋

上野長七郎が1620年(元和6)創業しました。月夜に河原で餅をつくウサギを彫った欄間は、日光東照宮のねむり猫で知られる左甚五郎が二文字屋へ泊まったときに彫ったとされ、火事のときに欄間の河原から水が吹き出し、一瞬のうちに火を消したと伝えられています。
加納宿中心部へ入っていきます。右手には「加納宿当分本陣跡」、その先国道を越えるとすぐ右手に「加納宿本陣跡」、3軒ほど先に「西問屋跡」、さらに3軒先に「加納宿脇本陣跡」があります。

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加納宿当分本陣跡

幕末の頃、通行量が増えたため当分の間本陣として定められていた臨時の本陣で、有力者の家を一時的に本陣としたそうです。
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加納宿本陣跡・和宮歌碑

1861年(文久元)将軍徳川家茂へ嫁ぐため、仁孝天皇の皇女和宮は中山道で江戸へ向かいました。加納宿では本陣、松波藤右衛門家へ宿泊されました。

建物は新しく現代的になってしまいましたが、玄関先に和宮歌碑があります。

『遠ざかる都としれば旅衣 一夜の宿も立うかりけり』

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加納宿西問屋跡

1658年(万治元)に松波清左衛門が開業した宿問屋でした。

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加納宿脇本陣跡

脇本陣は、森家が務めました。新しい建築物ですが、雰囲気を残したデザインになっていました。
脇本陣跡の西側を右へ入っていくと、加納天満宮が鎮座しています。

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加納天満宮

1445年(文安2)斎藤利永が加納の東南に沓井城(旧加納城)を築いた際にその守護神として天満宮を勧請したとされます。 初代加納城主となった奥平信昌が新しい城を鎮護するため、1601年(慶長6)現在地へ移したとされます。現在の本殿は1817年(文化14)藩主、永井尚佐が建て替えました。

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岐阜県ボーイスカウト運動発祥の地

岐阜県では、1917年(大正6) 仙波太郎氏(陸軍中将)を団長として加納少年団を加納に創立したのが始まりとされています。随分と昔からあったのですね。往時の記事を読むと国を守るための訓練的な意味合いが大きかったように思いますね。

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傘祖彰徳碑

傘祖彰徳碑(さんそしょうとくひ)は、加納藩主として明石から移封してきた松平丹波守光重が、地元明石から加納へ最初に傘職人を連れてきたことを称えるものだそうです。

美濃傘

美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、加納宿を中心に生産されました。始まりは寛永年間(1624〜1644)とされますが、宝暦年間(1760年頃)当時の藩主、永井氏が財政の助けとするため奨励し盛んに生産されるようになりました。下級武士にとっては現金収入となり有り難いものだったようです。製品は江戸や京、大坂方面へ出荷され、文政期(1818〜1829)の頃には年間生産量が50万本とされ、日本一でした。明治維新後も伝統産業として受け継がれています。美濃和紙美濃傘と並んで特産品とされるのが「岐阜提灯」です。お盆には多くの提灯が吊るされていましたが、かつては高級品で、大名や豪商達が使用し、一般庶民には手が届かないものでした。

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村澤源市翁像

元加納町長の村澤源市は、加納天満宮の戦災復興に功績をもって、有志により1954年(昭和29)に建立されました。
加納天満宮に隣接している天満小公園を通り抜け、西側には久運寺があります。

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久運寺・お茶壷騒動碑

1469年(応仁3)の応仁の乱の頃の創建とされます。1661年(寛文元)発刊の仮名草紙「因果物語」に不思議な鶏の寺として記されています。 1665年(寛文5)加納城主、松平光重より「お茶壺道中の本陣」を命じられましたが、拒否したため玉葉住職が追放されています。なぜ拒否したのでしょうか・・? 境内の墓地には、加納藩士の墓が多くあります。

16:30 本日はここまでです。なんとか雨には降らずに持ちこたえてくれました。150mほどで岐阜駅前のコインパーキングまで戻ります。

次の日は街道歩きとは全く関係ないですが、可児や御嵩まで来た頃についでに行こうと思っていた「明治村」へ行きました。そのため、車で1時間ほどかかりますが、入鹿池ほとりの『入鹿の里 MUSICA』へ宿泊します。