2024年4月27日
アオサギとカワセミ
「葭池」から「翠池」と読み方は同じですが、漢字が変わったようです。「翠」はカワセミの特に雌を指す漢字なのだそうです。そして本当にカワセミに出会えてびっくりです。雄ですが。カワセミは雄雌が区別しにくいです。くちばしの色が雄は上下とも黒。雌は上が黒で下が赤っぽいような茶色っぽいような色なのです。 池の水がかなり少なくなっており、溜まり水に亀がたくさん集まってきていました。雨が少ない今年、鳥や水辺の生き物が心配です。六部塚
中山道分間延絵図に「六部塚」と記されています。一番背の高いものが「六十六部日本廻国碑」です。「濃州各務郡鵜沼村 願主孝勇」と刻まれています。1712年(正徳2)建立。 六部塚から南へ70mほど進むと中山道へ戻ります。そのすぐ先右手に「弘法堂」、さらにその先に「衣装塚古墳」、隣に「空安寺」と続きます。弘法堂
大正時代初期に建立され、最近建て直されたようです。境内には多くの石仏があります。弘法堂のあたりの南側、家並が途切れたようなところから南側を見ると犬山城が見えますね。馬頭観音
中山道分間延絵図によると現在鵜沼宿に移設されている是より東「尾州領傍示石」はこのあたりにあったようです。この先が幕府領の各務村でした。「おがせ町」交差点の向かいには小さなお堂に入ったこの馬頭観音ありました。2024年4月27日
岐阜駅のコインパーキングへ車をとめ、JR岐阜駅より各務ヶ原駅へ向かいます。 8:20 各務ケ原駅を出発します。今日は朝からどんよりとしたお天気で、今にも雨が降り出しそうです。 各務ヶ原駅をでると目の前の国道21号が中山道です。中山道を西へ進みます。1kmほど進んだあたり、トヨタ、スバルなどがあるあたりが「三ツ池立場」があったあたりと思われます。三ツ池立場跡
「三ツ池」という地名は各務野のあった3つの池からつけられたとされますが、小さなものであったため軍需工場建設の際に埋め立てられ消滅しました。集落は二十軒あり、「二十軒集落」といいました。 次の大きな交差点「三ツ池町交差点」の右手側が三ツ池神明神社です。交差点の先には長楽寺があります。三ツ池神明神社
1776年(安永5)創建。以前の拝殿は本格的な舞台建築で、祭りには村芝居が行われていました。中山道分間延絵図に描かれている秋葉社は三ツ池神明神社に合祀されています。長楽寺と馬頭観音
詳しいことはわかりませんが、中山道分間延絵図には描かれていないため、どこからか移転してきたのか、新しいお寺であるのか・・わかりません。川崎重工業
1923年(大正12)川崎航空機工業は軍需工場として発展し、戦時には「飛燕(ひえん)」、「屠龍(とりゅう)」など優れた戦闘機を作っていました。展示されていたものは練習機のシューティングスター(若鷹)のようです。竹林寺
1700年(元禄13)、竹林上人が開いたとされます。現在の本尊は明治維新のときに廃仏毀釈から逃れ東濃から運ばれたもので、逃れる途中に木曽川の氾濫で流されるも前渡で流れ着いたところを発見され、五世潜龍が本尊として迎え入れたとされます。1878年(明治11)には三宅浄福寺の本堂を移築して本堂とし、1979年(昭和54)には再建されたと記念碑には記されていますが、中山道分間延絵図には描かれていないため、どこからか移転してきたのでしょうか・・六軒公民館の祠と道祖神
六軒茶屋立場跡
すぐ先右手が神明神社で、入口に馬頭観音堂があります。神明神社
正中の変と呼ばれる日野資朝が後醍醐天皇とともに鎌倉幕府の倒幕を企てた計画は失敗します。その後、いずれ挙兵しようとした土岐頼兼の妻子らは六軒村に集団居住し瀬戸物焼土器類を作りながら時を待っていました。このときに神明神社を奉祀しました。例祭には馬かけ(馬に乗って境内を駆け抜ける)を実施しており、今も馬かけが行われているとのことです。 六軒村の神明神社はかなり古くからこの地に鎮座していたようですが、なぜか中山道分間延絵図には描かれていないのです。記入漏れでしょうか。馬頭観音堂
立ち寄るのを忘れてしまったのですが、神明神社から800mほど先を街道から南へ入ると「住吉公園」があります。ここが播隆上人草庵跡になります。現在は案内板があるのみです。 往時は松林で、草庵を造り近在を教化していたとされます。草庵での播隆はそば粉を水でかいて一日一食を食し、専ら念仏三昧でした。六字名号は、播隆が当地を離れる際、信者へ形見として書き与えた書であるといいます。 神明神社からひたすら旧道を1.6kmほど進むと右手に広い公園があります。各務原中央公園です。公園の角を右へ曲がり、ちょっと寄り道していきます。公園の中に胸像がありました。いろは茶屋犠牲者供養塔とねずみ小僧次郎吉(浄心)の碑
「ねずみ小僧次郎吉」はあの有名な次郎吉ではなく、ねずみ小僧浄心といって、安永・天明の頃(1772〜1788)、「天明水滸伝」で知られる神道徳次郎の一の子分として知られた盗賊です。ねずみ小僧浄心
上州の禅寺、林善寺の小僧でありましたが破門され、江戸へ出て徳次郎の子分になったとされます。旅の僧姿で江戸から東海道を使い京へ。帰りは中山道を通り江戸へ戻るコースで盗みを働いていたとされますが、あまり酷いことはしなかったといいます。各務原の野中の一軒家「いろは茶屋」
各務原から三里ほどは寂しい原野でしたが、一軒だけ茶屋があり「源助茶屋」、「いろは屋」、「いろは茶屋」などと呼ばれていました。ところが源助夫婦は悪人で、床下に古い井戸があり、金がありそうな客から荷物を預かると仕掛けで客をその井戸に落とし殺すというようなことをしていました。浄心はこれを見破り、前野村の横山忠兵衛へ知らせ、庄屋から領主へ知らせ、悪党は捕らえられました。 浄心は旅僧の身なりをしていたのを幸いに、殺された人々の菩提を供養した石碑を建立したそうです。現在ある供養塔には正面に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養 江戸本所住」、側面に「取待 前野村横山中兵衛」と刻まれていますので、浄心が建立した供養塔だと思われます。ねずみ小僧次郎吉(浄心)の碑の変遷
「鼠小僧次郎吉の碑」は、もとは中山道沿いにあり、塚・古井戸・石碑がありました。いつの頃からか次郎吉の墓と誤って信じ込まれ、泥棒たちの崇敬の的となっていました。1921年(大正10)岐阜高等農林学校が建てられることになり、工事関係者は無造作に碑を取り払い放置し、古井戸も埋められました。 そこに建てられたのは科学室でした。その後原因不明の家事で焼失、すぐに新築されましたが直後に再び焼失。さすがに不気味になり捨ててあって浄心の碑を探し出し、現在地へ安置し、それ以降化学室は不審火を出すことはなくなったと伝えられます。神明神社
名鉄各務原線に沿って西へ向かうとさくら通りへでます。新境川沿いを歩いて中山道へ戻ります。那加橋から再び中山道を進んでいきます。那加橋と新境川堤
地元出身の歌舞伎役者、市川百十郎が境川放水路の完成を記念して寄贈したことから「百十郎桜」と呼ばれているそうです。新境川の両岸約4キロに渡って1000本以上の桜並木が続きます。咲き誇っていたら美しい景色だったでしょうね。市川百十郎
1882年(明治15)、各務原市蘇原大島町で生まれ、幼少期から歌舞伎に親しみました。15歳で上京、やがて市川百十郎と名乗り、百十郎一座を創設します。連鎖劇(トーキー映画と舞台劇を組み合わせ、舞台と映像が融合した途切れない劇)を展開します。その演出手法は「まくなし」と呼ばれ一世を風靡し、東海一の花形役者となりました。戦時中に一座を解散し、戦後は故郷へ戻り、地元の人々に演劇指導を行いながら 1969年(昭和44)に亡くなっています。栄町秋葉神社・西那加稲荷神社
新加納町交差点から250m、右手に蔵元林本店があります。中山道分間延絵図「新加納」
日吉神社参道
日吉神社
創建は不詳ですが、平安時代頃の建立と推定されています。1959年(昭和34)までは境内一帯には檜・杉の大木が林立していましたが、伊勢湾台風により倒木し、1961年(昭和36)に社殿を再建しました。境内社は稲荷神社・秋葉神社・金比羅神社があります。中山道分間延絵図では「山王」となっています。狛蛙(こまがえる)
日吉神社には全国的にも珍しい狛蛙があります。中山道沿いにある定書には蛙の捕獲禁止の条が書かれています。1972年(昭和47)頃まではひょうたん池があり、多くの蛙が生息し、例祭は「げえろ祭り」と通称されました。げえろ祭り
昔、日吉神社のひょうたん池に大きなカエルが住み着き、村人にいたずらをするようになりました。村の人は「カエルが腹を減らして悪さをするのだろう」と池にごちそうを投げ込みました。するとカエルのいたずらがなくなっただけではなく、薬を届けてくれたり、日照りのときには雨を降らせてくれました。以来、福蛙として親しまれ、現在池は埋められていますが、毎年4月に「げえろ祭り」が行われています。馬頭観音
日吉神社横の公園東側にある小さな祠には馬頭観音が祀られていました。 日吉神社から200mほどで間の宿新加納の中心部へ入っていきます。周囲には結構古い民家も残っています。三叉路のあたりが新加納一里塚跡です。その手前右側に茶屋本陣梅村屋があったようです。茶屋本陣梅村屋跡
立場の中心的存在で、煮売茶屋から始まり、後には坪内陣屋への来客の接待所としても使われていました。 公式の宿駅ではなかったため、宿泊は原則として認められない休憩所でしたが、実際は宿泊もしていました。また、坪内家陣屋の接待にも使われ、皇女和宮ほか高貴な方も利用しました。 梅村屋のほか尾張屋、美濃屋、小池屋など旅人宿がありました。新加納一里塚跡
一里塚は明治以降に取り壊され、現在は石碑があるのみです。高札場跡と木曽路道標
「右京道 左木曽路 南かさ松」と刻まれています。 中山道は丁字路を右へ曲がりますが、陣屋跡等へ向かうため、丁字路を左へ曲がりすぐ先を右へ入ると「御典医今尾家」、更に奥へ進むと「善休寺」、「新加納陣屋跡」、「少林寺」があります。御典医今尾家
今尾家は江戸時代に新加納を治めた旗本坪内氏の御典医を務めました。現在の建物は1900年(明治33)のものであり、母屋・塀・門・離れなどが登録有形文化財として登録されています。薬師堂と今尾要碩頌徳碑
今尾家の薬師堂です。石柱には「慶応四年九月四日東甫」の文字が刻まれています。善休寺
最初は天台宗の光暁坊というお寺がありました。寺伝によると鎌倉時代の1232年(貞永元)に親鸞が美濃に滞在中、光暁坊五代目が親鸞に会い浄土真宗に改宗し、後の慶長年間に本願寺十二世教如が新加納御坊を現在の本堂の裏手、少林寺の隣に建立したとされます。 尾張徳川家の狩りの際には宿泊所となっていたため、屋根には葵紋があります。少林寺
1499年(明応8)弓削田(ゆげた)荘を支配していた薄田祐貞(すすきだすけさだ)が建立し、東陽英朝が開山した名刹です。 1563年(永禄6)新加納は織田信長の美濃侵攻で斎藤龍興との合戦場となり、寺は兵火により焼失(新加納の戦い)しました。江戸時代へ入り領主となった旗本坪内氏が再興し、菩提寺として保護しました。新加納一夜城
信長より稲葉攻めの前線拠点として各務原台地の一角である新加納に砦を造るよう命じられた藤吉郎(秀吉)は川並衆の蜂須賀小六、前野将右衛門、坪内利定ら十数人を集めました。 総勢千人にもなりましたが、主力となったのは坪内衆でした。夏場から砦の資材となる木材を切り出し加工しておき、通達後は組み立てるのみという手法(プレハブ的工法)が取られたため、一夜にして砦が完成しました。この一夜城が築かれたのは現在の少林寺があるあたりとされています。東陽英朝禅師塔所
東陽英朝は加茂郡和知の人で、美濃国守護土岐政房に崇信され、細目の大仙寺の開山と共に少林寺を開き、少林寺で没しました。手力雄(てぢからお)神社
860年(貞観2)創建。古来、都に軍勢が上がる際、東海道より東山道(のちの中山道)を通り、木曽川を渡る場所としての防衛拠点として鎮座し、のちに近くに土岐頼遠が長森城を築いています。 元は長塚村にあり、中山道分間延絵図では「長塚村」に描かれています。本殿は1674年(延宝2)に再建されたものです。手力の火祭り
春の祭礼として「火祭り」があります。成立年代は明らかではありませんが、明和年間(1760年代)に一時中断し、1805年(文化2)に復活したと言われています。滝のように降り注ぐ火の粉の中、火薬を仕込んだ神輿を担ぐ上半身裸の男達。神輿の火薬に火がつくと神輿からも火の粉が吹き上がり迫力満点です。一度実際に見学してみたいものです。神明神社
神明神社の創建は不詳ですが、合祀されている六社は蔵前地内に点在していたものを耕地整理に伴い、1907年(明治40)に合祀しました。御鍬神社、吉野神社、若宮神社、神明神社、稲荷大明神、秋葉神社が合祀されています。 中山道へ戻り、500mほど進むと丁字路となり、左への道は先ほど寄り道した手力雄神社への参道となり、石鳥居があり、その足元に木曽路道標があります。木曽路道標と手力雄神社鳥居
「左 木曽路」と彫られています。 丁字路は枡形で、ここを右へ曲がります。このあたりが往時は「切通立場」でした。中山道分間延絵図「切通村」
浄慶寺・高札場跡
1486年(文明18)正専坊が開基したとされます。 浄慶寺から200mほど進み、右手の細い路地へ入っていくと「切通陣屋跡(長森城址)」があります。長森騒動
磐城平藩は美濃国の厚見郡・方県郡・本巣郡などの30村余りを飛び地支配していました。財政が苦しくなった磐城平藩は、美濃国の農民に重税をかし、これに対し、日野村の農民が反対したため、日野村だけが特別に免除されることになりました。しかし、このことを知った他の村の農民たちが前一色山(八幡山)へ集り、一揆が広がりそうになったので、加納藩や尾張藩岐阜町奉行所から兵が出ることになり、結局、磐城平藩は農民の要求を聞き入れて一揆を収めました。切通観音
切通観音の北西に大きな陣屋敷地があったようです。 中山道へ戻り、250mほど進むと右手に「伊豆神社」があります。その入口右手に「馬頭観音祠」、祠の横に「木曽道道標」があります。馬頭観音
恵比寿神社
神社明細帳には1575年(天正3)に勧請したと記されています。中山道分間延絵図には「夷宮」と記されています。 南に少しはいると「境川」が流れていますが、この川が美濃と尾張の国境になっていました。美濃国と尾張国の国境は、中世までは木曽川でしたが、1586年(天正14)に発生した「天正の大洪水」により、木曽川の流路が変わってしまったため、境川筋が国境になりました。 恵比寿神社から真宗寺・誓賢寺を通過して450mほど進み、国道156号線を渡るとすぐのあたりが「下河原立場」です。真宗寺・誓賢寺
詳細は不明なお寺ですが、中山道分間延絵図には「真宗寺」は描かれていますが、「誓賢寺」は見当たりません。下河原立場
古い建物が残っていて、雰囲気がよいです。すぐ先左手から「御成道」との分岐があり、交通の要衝として往時は賑やかだったに違いありません。明治水庵看板
小古曽家は明治創業の薬屋を営んでいました。「明治水」とは目薬のことです。 国道156号線から250mほど進むと両側に「細畑一里塚」があります。南塚の後ろには稲荷神社と秋葉神社が祀られています。細畑一里塚
一里塚は明治になって崩され、北塚のみわずかに残っていたものを戦後に復元したものです。石を組み石柵で囲ったのは1952年(昭和27)です。地蔵堂・追分道標
中山道分間延絵図では、「笠松道一里余」と記されているところの道標です。地蔵堂も描かれており、往時からこの追分にあった地蔵堂です。左手は加納宿を経ずに、名古屋・熱田へ出る道です。 追分の地蔵堂のところから右手へ入っていきますと、地蔵尊と薬師堂などがあります。地蔵尊・薬師堂
詳しいことはわかりませんが、中山道分間延絵図にも描かれています。 中山道へ戻り、80mほど左手に八幡神社があります。遠藤重平家(左手)・遠藤平左衛門家(右手)
どちらも桟留縞の商人として磐城平藩領美濃国分の中で知られた名家です。遠藤重平家は庄屋も務めていました。 JR高架下をくぐる手前右手に小さな秋葉神社があり、JR高架下をくぐり少し進むと右手に黒板塀が印象的な森家があります。茶所・鏡岩の碑・道標
相撲力士の二代目鏡岩浜之介は、父の跡を継いで力士になりましたが、土俵の外での行いが悪かったことを改心して妙寿寺を建立し、ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて罪滅ぼしをしました。また茶店を設けて旅人に茶を振る舞ったそうです。妙寿寺は廃寺となり、ぶたれ坊の像は岐阜駅南の妙泉寺に移されています。 道標には1841年(天保12)の銘があり、「鏡岩濱之助内建立」と刻まれています。1891年(明治24)の濃尾地震で折れてしまいましたが、修理されています。御鮨街道
「御鮨」は現在のような酢飯の上に魚を乗せたものではなく、塩または酸を加えて腐敗を防いだ魚を「鮨」と称していました。当時としてはかなりの贅沢品でした。 将軍献上の鮎鮨は金華山西麓の御鮨元川崎家で作られ、20〜50尾を一桶に詰め、17桶を一荷として、1回に2〜4荷を岐阜問屋へ経由し御鮨街道へ入り、名古屋へ向かい笠松問屋まで届けられました。善徳寺
1170年(嘉応2)高倉天皇の勅願所として川手に創建され、江戸初期の元和年間(1615〜1623)に柳町へ移ってきました。河野法性坊とも呼ばれました。建物は1928年(昭和3)全焼し、以後再建されました。 善徳寺前を右へ曲がり、大きな道路を突き抜けていきます。加納宿は城下町でしたので、枡形や鍵の手が多く作られていますね。大通りのすぐ先右側に「加納柳町秋葉神社」があります。さらにその先左手に専福寺があります。加納柳町秋葉神社
専福寺
1576年(天正4)織田信長の石山本願寺攻めの際、専福寺の住職であった忍悟は門徒を引き連れて参戦し、門徒37名と共に討ち死にしました。織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状と伝えられる3通が残されています。 1635年(寛永12)現在地の加納新町へ移転してきました。 さらに100mほど進むと右手に「新町秋葉神社」があり、その4軒ほど先が「加納宿 問屋跡」があります。加納宿
1634年(寛永11)に宿場が設置されました。本陣・脇本陣、3箇所の問屋、旅籠26軒があり、美濃十六宿のうち最大の宿場でした。また、岐阜と名古屋を結ぶ「尾張街道」(岐阜街道・御鮨街道)が町の東で中山道と交差する交通の要衝でした。秋葉神社と岐阜道道標
1750年頃の江戸中期に建てられ、最初は「左中山道、右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京道、右東京道」が追加されました。この四つ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かつては交通の要衝でした。 広江川の手前を右へ入っていくと地蔵堂と水薬師寺があります。地蔵堂と水薬師寺
水薬師寺は、7月下旬に行われる万灯流しで知られています。清水川に沈んでいたと言われる黄金仏を加納城主2代目の奥平忠政と母の亀姫が水上に堂を建立し、安置したことから始まっています。乳薬師として女性の参詣が多かったとされます。 広江橋で広江川を渡ると袂に高札場跡があり、その先、加納大手町交差点に往時は「加納城大手門」がありました。加納城石垣
加納城の築城の際には岐阜城や川手城跡、正法寺跡から礎石・石垣等を移したとされます。また、岐阜城天守閣は加納城二の丸東北隅櫓として移築されたと言われています。現在は本丸と二の丸石垣の一部と土塁が残るのみです。長刀堀
加納城築城にあたり、城の防備と水運の便を図るため、城の西側に約500mの堀が造られました。この堀は長良川に入り桑名まで通じており、舟が往来し城内へ米や物資が運ばれていました。廃城後も民間に利用されていましたが、舟運は1887年(明治20)頃に衰退しました。1912年(明治45)に埋め立てられ、周囲には人家が立ち並び、堀にはコンクリート蓋が架けられ、面影は失われてしまいました。旧加納役場跡
旧加納町役場庁舎は国登録有形文化財となっていたようですが、耐震強度不足ということで、結局は取り壊され、現在はまちづくり交流センターとなっています。右側の写真がストリートビューから拝借したものです。 さらに120mほど進むと左手に料理屋があります。加納宿本陣跡・和宮歌碑
1861年(文久元)将軍徳川家茂へ嫁ぐため、仁孝天皇の皇女和宮は中山道で江戸へ向かいました。加納宿では本陣、松波藤右衛門家へ宿泊されました。 建物は新しく現代的になってしまいましたが、玄関先に和宮歌碑があります。『遠ざかる都としれば旅衣 一夜の宿も立うかりけり』
加納天満宮
1445年(文安2)斎藤利永が加納の東南に沓井城(旧加納城)を築いた際にその守護神として天満宮を勧請したとされます。 初代加納城主となった奥平信昌が新しい城を鎮護するため、1601年(慶長6)現在地へ移したとされます。現在の本殿は1817年(文化14)藩主、永井尚佐が建て替えました。美濃傘
美濃傘と呼ばれる「和傘」の生産は、加納宿を中心に生産されました。始まりは寛永年間(1624〜1644)とされますが、宝暦年間(1760年頃)当時の藩主、永井氏が財政の助けとするため奨励し盛んに生産されるようになりました。下級武士にとっては現金収入となり有り難いものだったようです。製品は江戸や京、大坂方面へ出荷され、文政期(1818〜1829)の頃には年間生産量が50万本とされ、日本一でした。明治維新後も伝統産業として受け継がれています。美濃和紙、美濃傘と並んで特産品とされるのが「岐阜提灯」です。お盆には多くの提灯が吊るされていましたが、かつては高級品で、大名や豪商達が使用し、一般庶民には手が届かないものでした。久運寺・お茶壷騒動碑
1469年(応仁3)の応仁の乱の頃の創建とされます。1661年(寛文元)発刊の仮名草紙「因果物語」に不思議な鶏の寺として記されています。 1665年(寛文5)加納城主、松平光重より「お茶壺道中の本陣」を命じられましたが、拒否したため玉葉住職が追放されています。なぜ拒否したのでしょうか・・? 境内の墓地には、加納藩士の墓が多くあります。 16:30 本日はここまでです。なんとか雨には降らずに持ちこたえてくれました。150mほどで岐阜駅前のコインパーキングまで戻ります。 次の日は街道歩きとは全く関係ないですが、可児や御嵩まで来た頃についでに行こうと思っていた「明治村」へ行きました。そのため、車で1時間ほどかかりますが、入鹿池ほとりの『入鹿の里 MUSICA』へ宿泊します。