2023年11月3日
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13:30 太田宿まで歩き終えて、午後は
「明智城址」にやってきました。明智城大手口横にある駐車場に車を停めました。
駐車場の向かいにあるのが
東栄寺です。
東栄寺
瀬田最古のお寺であり、かつては東栄寺洞(現白鷺団地周辺)にあり、明智一族の菩提寺でした。創建は、明智初代城主・土岐(明智)頼兼が出家し、「善柱」と称し建立したと伝えられ、太元神社の守護寺でもあったとされます。
往時は三重塔、山門などを配した一大伽藍を誇りましたが、昭和になると明智一族の菩提寺を天龍寺に譲りました。
駐車場前の道を東へ向かいます。130mほど右手にあるのが明智一族の菩提寺を譲られたという
天龍寺です。天龍寺駐車場の奥に「明智氏歴代之墓所」があります。
天龍寺
1625年(寛永2)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山。1992年(大正2)に堂宇を焼失し、本堂が再建されたのは1970年(昭和45)だそうです。
明智氏歴代之墓所
東栄寺から移された「明智氏歴代之墓所」があります。明智一族の菩提寺として、毎年光秀公の法要が営まれており、本堂には日本一という大きな光秀の位牌があるそうです。
天龍寺をあとにさらに東へ進むと太元神社があり、境内社として鈴岡大明神、天満宮も祀られています。
太元神社
古代の人々が東方の奥山上に大県(おおあがた)大明神を産土神として祀りました。
奥の院は岐阜ワールドの東、ここから東へ1.5kmほどの山中にあります。平安時代の中頃に京都石清水八幡宮の分霊を勧請し一緒に祀り、更に室町時代の後期に国常立尊を合祀し、社名を
「太元宮」と改め、祭神は国常立尊と応神天皇のニ座としました。
この地へ分社したのは、1659年(万治2)と思われます。明治維新後に現在の社名「太元神社」に改められました。
鈴岡大明神・天満宮
1795年(寛政7)の瀬田村鈴岡大明神連印帳によると、当時瀬田村では百姓の中でも階級による差別が行われ、生活をしていく上でも甚だしい制限が設けられていたそうです。差別を受けた人は村を立ち去り耕作放棄地が増え、村としての年貢が納められなくなり困窮しました。
役人と村方が相談し、移住する百姓を募り彼らの身分は百姓頭と同等とすることとし、30軒の百姓が移住しました。
移住者融和のため、氏神として神崎山麓(太元神社の北270mほどの小山)に鈴岡大明神を勧請し、後に太元神社の境内社となりました。
一旦、駐車場の方へ戻ります。明智城に登城する前にトイレに寄り、トイレ前に小さな若宮神社がありました。
若宮神社
創立は太元神社に応神天皇を合祀したのとほぼ同じ頃、平安時代後期と考えられています。
駐車場横の大手口から上っていきます。大手口右手から入っていくと
「光蓮寺」があります。
光蓮寺
1617年(元和3)尾張国葉栗郡黒田村(現愛知県一宮市)の真教が村民とともに瀬田村へ移住し、創建したと伝わります。山門脇の
鐘楼は、明治時代の廃仏毀釈により兼山の貴船神社の別当であった
清立寺(清龍寺)の鐘楼門を譲り受けて改築したものとされます。
寺名は、先祖の五藤源太左衛門光正の法名「光正院殿法蓮日寛大居士」に因んで名付けられています。
明智城跡大手口
1342年(康永元)美濃源氏、土岐下野守頼兼が名字を明智と改め、初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田に明智城を築城しました。1556年(弘治2)美濃の支配者、斎藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められ落城。最後の城主であった光秀は城からの脱出に成功し、諸国を流浪の後、織田信長に仕え重鎮となります。その後の光秀と本能寺の変はあまりにも有名です。
落城について
斎藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ落城、という話は
「明智軍記」という史料に書かれているそうですが、この史料は江戸時代に書かれた
軍記物なので、あまり信用できません。
大手口跡
冠木門が復元されていましたが、老朽化のために撤去され現在は石碑があるのみです。
10分ほど上ると開けた空間に出て右手奥が
「中の丸跡」、左手、アスファルト道路の先の崖上に
「コウライオヤニラミ化石発見の地碑」というものがありました。
中の丸跡
明智光秀の生まれた時代に明智一族が権益を保っていたかどうかは明らかではありません。しかし、瀬田地区の狭い範囲に寺院が集中していることや、字名に「東屋敷」「西屋敷」「大屋敷」などの名が残ることから有力な武士の存在を伺わせます。
コウライオヤニラミ(カニオヤニラミ)化石発見の地碑
1982年(昭和57)羽崎地内の平牧層から1800万年前は日本と朝鮮半島が陸続きであったことを裏付ける幻の淡水魚コウライ(カニ)オヤニラミの化石が日本においては始めて発見されました。
頂上のトイレ付近が
「二の丸跡」です。トイレの南側あたりに東西に7つの塚が並び、これが
「七ツ塚」です。
二の丸跡
光秀が生まれ、落城するまでの約30年間を過ごしたと伝わります。1556年(弘治2)光秀の叔父にあたる光安が城主である時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとされます。
七ツ塚
明智城落城の際に戦死した明智方の武将、7名を葬ったと言われています。
二の丸跡から西へ尾根を進むと
「本丸跡」があり、近年明智光秀の銅像が建立されました。その南側は
「馬場跡」になっています。
明智城本丸跡
標高175mの頂上に本丸が築かれていました。本丸を中心にいくつかの別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設等が配置されていました。
明智光秀銅像
この銅像はつい最近の2020年(令和2)に建立されました。大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されたのも2020年ですから、これに合わせて造られたのでしょう。
馬場跡
馬場跡には馬防柵が巡らされています。
本丸跡を抜けて「十兵衛坂」方面へ向かうと、展望台があります。
展望台
現在、「明智」という地名はありませんが、かつては可児市北東部から御嵩町西武にかけて「明智荘」という荘園が存在していました。展望台からは明智氏代々の所領であった明智荘が一望でき、森家の居城「美濃金山城」も望めます。
十兵衛坂
最近名付けられたと思いますが、明智光秀の通称「十兵衛」の名がつけられています。
十兵衛坂を下っていきます。小さに沢に架かる橋を渡り、
水の手跡なども通り下っていくと
「六親眷属幽魂塔」の案内板があります。ここで一旦右へ上り六親眷属幽魂塔へ向かいます。
六親眷属幽魂塔
1973年(昭和48)に発見され、「六親眷族(けんぞく)」とは明智一族・家臣を指すものと推測されます。逆臣とされた明智城将兵の供養のために瀬田村の人達によって密かに建立された供養塔と考えられています。
六親眷属幽魂塔の奥には乾曲輪跡と見晴台跡がありますが行き止まりです。
乾曲輪跡と見晴台跡
さきほどの案内板まで戻り、さらに下っていくと「搦手門跡」の案内があります。
搦手門跡
城の裏門にあたります。
斜面の石仏
右手斜面に埋もれるように古い石仏があります。
アスファルト舗装の道へ出て、明智城をあとにします。少し遠いですが、
「明智光秀の産湯の井戸跡」へ行ってみます。北方の瀬田川へ向かって400mほど歩きます。瀬田橋の60mほど東の畑の中に案内板があります。
明智光秀の産湯の井戸
居館跡と言われる場所にあったそうです。昭和40年代の土地改良以前はややこんもりとした茂みの一角に井戸跡とされる場所が残っていたといわれますが、現在は完全に耕地となっています。
案内板をよく読むと場所的には瀬田川の対岸の耕地で、案内板があるところからは随分外れた場所です。
明智光秀の出生
明智光秀の出生に関してはよくわかっておらず、可児の明智城の説明板に書いてあることはこの地での見解です。実は出生地の候補は5〜6ほどの説があるそうです。ただ、この地の可能性は高いと思われます。
また、生まれ年、父親の説も3つほどあり、また青年期についても史料がほとんどなく、光秀が歴史の舞台に登場するのは、朝倉義景のもとに身を寄せていた
足利義秋(義昭)を上洛させるための仲介役として
織田信長に出会った頃からになります。
15:00 大手口の駐車場へ戻り、明智城探訪は終了です。
明智光秀はほんとうに謎に包まれた人ですよね・・いつかはっきりする日がくるのでしょうか。