2023年11月4日
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今朝は美濃太田駅前より9:24発の「あい愛バス」にのり、昨日のゴールであった太田小学校前で下車しました。中山道を進む前に太田小学校の西側の道を通り北へ向かい、太田小学校裏の逍遥公園へ向かいます。
深田神社
中山道分間延絵図に描かれている山王・白山・加茂大明神・天王・八幡がここへ合祀されています。 さらに木曽川を左手に見ながら300mほど進むと「兼松嘯風歌碑」があります。兼松嘯風
1654年(承應3)加茂郡深田生まれで、通称は甚蔵、実家は富豪でした。芭蕉門であった澤露川に師事し、初句は「ころころと臼引あるくよさむ哉」が1696年(元禄9)の「浮世の北」に収められています。1704年(宝永元) 嘯風は東美濃の諸家の俳諧を選び、「國の華」12巻のうち、第4巻「藪の花」を編集しました。その中に芭蕉の大針観音奉納前書きの句があります。翌年、句集「袋角」を作成していましたが出版までには及ばず、翌1706年(宝暦3)53歳で没しています。その後息子である水尺が魯九の助力を得て嘯風の追悼集を発刊しています。深田に墓所があるそうなので、この付近ですがどこにあるのかは詳しくわかりませんでした。加茂川
山ノ上から流れ出し、木曽川に流れ込む加茂川は8kmほどの小さな川ですが、大雨が降れば大水害を起こすとされ、中山道には長さ5間(9m)の板橋が架けられ「深田橋」と呼ばれていました。この深田橋の袂に往時は尾州領傍示石があり、これが太田宿本陣福田家へ移されているとされます。長蔵寺
1537年(天文6)先照瑞初が開きました。1565年(永禄8)織田信長の家臣・河尻与兵衛尉(河尻秀隆・鎮吉)が猿啄(さるばみ)城主となり、菩提寺にしようと先照の高弟伝芳慈賢を請じて開山としました。 1728年(享保13)に火災で全焼しましたが、1842年(天保13)に再建しました。大まや湊跡
漢字では「大厩湊」と書くようです。馬頭観音、供養塔などが並んでいます。1887年(明治20)の供養塔には「加茂郡酒倉村 小栗 一の女」と刻まれています。「一の女」とは長女のことでしょうか? 1784年(天明4)の馬頭観音には「馬持」が刻まれ、1865年(慶應元)銘の馬頭観音もありました。 県道207号(旧国道21号)国道20号へ合流するあたりに「大まや道」の道標があったとされますが、現在は見当たりません。大まや湊跡の石仏にも道標はなかったと思います。 往時このあたりは酒倉村でした。酒倉村から取組村への中山道は一帯が松林で家はなく、南は木曽川を望む寂しい道だったそうですが、現在は旧国道が走り、街道の左右は工場が多いです。 800mほど進むと右手に大きな工場があります。木曽川
行幸巌碑から300m程進むと一旦堤防から下りて、旧国道を越えて「宝積寺」へ寄っていきます。宝積寺
1450年頃(宝徳年間)、尾張国犬山の瑞泉寺雲谷が美濃国鵜沼宝積寺(地名)に支院として創建したのが始まりとされています。その後、谷口村に汾陽寺が建立されると、土岐守護家に頼まれた雲谷は宝積寺を移し、汾陽寺の塔頭としました。後に汾陽寺が衰退したため1712年(正徳2)取組村に寺を建立し宝積寺の本尊を移しました。現在の堂は1975年(昭和50)に改められたものです。再び、堤防上のロマンチック街道を進んでいくと前方右側の山の上に・・
なにかがある!猿啄(さるばみ)城跡
築城年代ははっきりしませんが、無極和尚が1407年(応永14)猿啄城主を訪れたとの文書が残っています。 戦国時代、西村・田原・多治見と城主の交代が激しかったのですが、多治見修理亮が城主時代の1565年(永禄8)に織田信長の中濃攻略により落城しました。多治見修理亮は甲斐に逃れ武田氏に仕えたとされます。 猿啄城主は信長の家臣、河尻秀隆(鎮吉)となり、地名を勝山と改め、信長の統一が進むと廃城になりました。 山頂には天守閣風の展望台があり人目を引きます。この天守閣風展望台は坂祝町誕生100年記念に建てられました。 さらにロマンチック街道を進んで行くと右手に「水神碑」、旧国道21号の北側に「助ノ山」が見えます。中山道分間延絵図「勝山立場」
5軒の茶屋のうち、忠五郎は勝山名物の「三角強飯(こわめし)」を売り評判が良かったようです。赤飯を三角の型に入れて抜いたものです。そのほか集落には街道の両側に9軒ずつの家が並び綿屋、鍛冶屋も1軒ずつありました。 勝山立場の木曽川方面に「勝山湊」がありました。現在は堤防から階段を下ると入江が残っています。勝山湊
1686年(貞享3)取組村に渡しが設けられました。年貢米の積み出し、伊勢参りの人は勝山湊から船で桑名まで下りました。1903年(明治36)に廃止されるまで200年余り続いた渡しでした。JR高山本線
旧道のすぐ脇にはJR高山本線が走っています。徐々に道は狭くなり、断崖絶壁の道になります。現在は金網が張ってありますし、法面はコンクリートに覆われていますが、これらが無かった往時を考えるとかなり怖いです。木曽路名所図絵「巌窟観音」
本文の中には『木曽川の西傍に有。大巌の巾に石像の観世音を安置し傍より清泉流れ出る。此側の風色いちじるしくして、岩右崔嵬たり。他境にすぐれて奇絶の所也』と記されています。巌屋坂碑と寄進玉垣
板碑は1816年(文化13)に建立されたもので、尾張藩士泰鼎によりこの場所の景勝が刻まれ、その後ろに美濃柁田の源公寿の漢詩が刻まれています。源公寿は富加町加治田の平井甚兵衛のことで、早くに三郎四郎に家督を譲り健蔵と称して風雅に生きたとされます。 四角柱の石は「金百疋・金二百疋」と寄進額が彫られ、太田宿の林家、吉野家、鵜沼宿野口家、京都、越後柏崎、信濃などの商人の名が多いです。笠松陣屋や太田代官所の役人、「高須大奥女中」の寄進もあり、広く浄財を集めていました。元は崖の柵代わりに並べられていましたが、フェンスが建設されたため、現在は1箇所に集められています。巌屋坂碑と吉田松陰
巌屋坂碑が建立されてから37年後の1853年(嘉永6)、ここを通りかかった24歳の吉田松陰はこの碑文に目を止め、戯れた漢詩を詠んでいます。松蔭は尾張藩士の太田水番所の福寄又兵衛と鵜沼歌坂(うとう坂)から同伴し福寄の官舎へ宿泊し、「松を詠む詩」を福寄へ送り、隣家の阿部丈右衛門にも書画巻の跋(おくがき)を作るなどかなり親しくなり、その後江戸へ向かっています。役行者の石仏
堂の右手奥には役行者の石仏があり、1834年(天保5)山田安右衛門が願主となって再建されています。 岩屋観音堂から下り、旧国道21号(県道207)の脇に整備されている遊歩道を進みます。やがて遊歩道は旧国道21号と合流し、歩道を進みます。中山道分間延絵図では自然にうとう峠へ向かう道筋ですが、国道工事やJRの工事で途中が失われています。現在は旧国道21号の廃ドライブインの先を左へ曲がり、沢へ下りていきます。 水路隊道を抜けていきます。1975年(昭和50)頃に歩いたという資料では、岩谷観音堂からうとう峠・長坂へでる道は大変困難な状況だったと記されていました。現在のような迂回路が設けられていなかったのでしょう。 1651年(慶安4)までは可児から犬山市の善師野を抜ける道筋があり、この年にうとう峠を越える道筋に付け替えられたと書かれている資料もありましたが、詳しいルートはわかりません。 正面に案内板が見えてきます。ここを左へ曲がりますが、恐らくこのあたりから旧中山道だと思います。長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、総称して「うとう坂」と呼ばれていたようです。梅田吉三郎之碑と観音像
合戸池修復後、上流の開発を発起し中山道北側の谷に水田を開いた鵜沼東町の梅田吉三郎を顕彰し、1936年(昭和11)に建立されたものです 石造観音は1814年(文化11)建立であり、「禅誉定心居士 文化十一戌 円誉貞心信女 文化十一戌」と刻まれています。女性の戒名と男性の戒名・・日付も同じで二人が同時に亡くなったのでしょうか。まさか合戸池に身を投げた心中!? 合戸池を過ぎると道は左にカーブし、下り坂になります。右手崖線は桜が多いようで春は綺麗でしょう。赤坂神社
中山道分間延絵図では「天王」となっています。天王祠には居森社・弥五郎社を合祀しています。一ノ宮社も社地を共有しています。 東からうとう峠を下ってきた中山道は見附となっていた「赤坂地蔵堂」で鋭角に右に曲がり、鵜沼宿へ入っていきます。赤坂地蔵堂
小さなお地蔵様は道標を兼ねていました。 「左ハ江戸せんこうしみち(善光寺道) 右ハさいしょみち(在所道)」と刻まれています。1763年(宝暦13)女人十二講中の建立。 すぐ先には先ほどの赤坂神社の鳥居と高札場跡があります。常夜灯と高札場
常夜灯の交差点あたりには金山洞から流れ出す「金山川」があったと思われますが、地下化されてしまったのか見当たりません。金山川には「四間橋」と呼ばれる板橋が架けられており、江戸時代末期には石橋の時もありました。 高札は読みやすいよう、楷書に変更されていますが、ほぼ当時のままに復元された高札場です。尾州領傍示石
中山道は尾州藩領である鵜沼村から幕府領であった各務村を経て再び鵜沼村へ入っていました。境を示す領界石は鵜沼中学校へ移設されていましたが、坂祝バイパス完成に伴い、鵜沼宿内へ再移設されています。「是より東尾州領」、「是より西尾州領」の2つの傍示石です。 西の尾州領傍示石後部の「珈琲陣屋」が問屋場跡になります。東町と西町に1か所の問屋がありました。東町では野口家が務めていました。野口家は幕末には脇本陣も務めています。野口家は大谷吉継の子孫とされます。 それにしても車が多い。「これより中山道鵜沼宿 通抜ご遠慮ください」の看板があり、宿内に入らないよう注意書きが書かれていますが、裏道になっているのかじゃんじゃん車が走ってきます・・・写真1枚撮るのに10分ほどかかりました。 大安寺大橋を渡り、鵜沼宿の中心地へ入ってきました。大安寺はここから北へ1kmほどの場所にあります。寄りたい場所ですが、少し遠いのでまたの機会にしたいと思います。鵜沼宿
宿場となったのは1651年(慶安4)からで、それ以前は木曽川沿いの古市場、南町を通り鵜沼渡で木曽川を渡り対岸を通っていました。 1843年(天保14)の記録では、家数68軒、人口246人、本陣・脇本陣が1軒ずつ、旅籠25軒が記されています。 大柳の後ろの建物が「宇留摩庵」で、1930年(昭和5)に建てられ、1971年(昭和46)まで菓子店として使用されていましたが、改修されて現在は食事処となっています。 「旧旅籠絹屋」前に鉄門があります。向かいが「町屋館」です。題目碑と芭蕉句碑
「汲溜の水泡立つや蝉の声」
「ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒」
芭蕉がここで詠んだという2首が刻まれています。 松尾芭蕉は「野ざらし紀行」、「更科紀行」の旅では鵜沼宿脇本陣へ3度宿泊したとのことです。 右端の碑には「更科紀行首途の地」と刻まれています。いずれも1965年(昭和40)、芭蕉顕彰会の建立です。二ノ宮神社
円墳の上に神社が建立されています。本殿前の灯籠は1765年(明和2)の銘があり、宿場が開かれる時に現在地へ移設されたものだとされます。二ノ宮神社からは鵜沼宿の古い町並みが一望できます。二ノ宮神社古墳
二ノ宮神社ができる以前から古墳があり、直径29m、西暦500〜600年頃に造られたと推定され、横穴式石室は玄室のみが残された状態になっています。元の大きさを推定すると市内最大の石室であったとも考えられています。 二ノ宮神社から宿場の通りへ戻ると左手には古い建物が続いています。商家三軒
左手から丸一屋(坂井家)、茗荷屋(梅田家)、若竹屋(安田家)と商家が3軒並んでいます。 坂井家住宅は1894年(明治27)の建築で、南東に土蔵があり2棟が合体して一棟の姿になっています。 茗荷屋の梅田家は、濃尾地震で鵜沼宿に唯一残る江戸時代の旅籠で、主屋は茗荷屋に次いで古く1868年(明治元)の建築とされます。主屋の南側には1892年(明治25)に建てられた離れがあります。 西側は旅籠若竹屋で、主屋は1930年(昭和5)の建築です。 家と家の間に秋葉灯籠がありますが、これは街道中央にあったものが移設されたと思います。また宿場用水も街道中央にありましたが、南側に寄せられています。 商家三軒から160m、八木山通りという道の手前に「大坂屋(丹羽家)」がありました。神明社と西見附跡の石仏
15:20 鵜沼宿は古い屋敷や商家も残り、また見学ができる建物も多く、見どころの多い宿場でした。 鵜沼宿をあとに加納宿へ向かって進んでいきます。