2024年4月29日
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13:45 河渡宿をあとに美江寺宿へ向かって進んでいきます。
生津畷
天王橋を渡ると真っ直ぐな
「生津畷」を進んでいきます。左手にはスポーツ公園、周囲は工場や倉庫などが多いですが往時は淋しい一本道の
「畷」でした。右へカーブしていくあたりから生津村、すぐに馬場村へ入っていきます。右カーブを曲がって1つ目の路地を左へ入っていくと生津村の
「神明神社」があります。
神明神社
創建は不明ですが、保存されていた棟札によると度々葺き替えが行われ、寛政年中(1789〜1801)に社殿を再建しています。御神宝には1648年(正保5)の棟札があります。
さらに600mほど進むと馬場村へ入り、左カーブ交差点に馬場地蔵堂があります。
馬場地蔵道標
「神仏敬信・忠君愛国」その下に小さく中山道のみちしるべとして「右高屋北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル」と彫られています。1933年(昭和8)建立。
馬場地蔵堂
馬場立場跡
立場があったと思われるあたりです。
250mほど住宅地の中を抜けていき、小さな定橋を渡ると左手に
「本田地蔵堂」、すぐその先右手に
「秋葉神社」、さらに100mほど右手に再び
「秋葉神社」があります。
糸貫川と定橋
本田地蔵堂
地蔵背面に「石工名古屋門前町大阪屋茂兵衛」、台座には「文化六巳巳歳(1809)八月二十四日建立、濃州本巣郡上本田村」と刻まれています。尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われていましたが、現在も子供相撲が行われています・・・と案内板にありますが、土俵は見当たらず。
2つの秋葉神社
2つ目の秋葉神社を越えて50mで小さな
高橋があり、その袂に
「本田代官所跡」、さらに100mほどで小さな水路があり、
「高札場跡」になります。
高橋と中川
本田代官所跡と見取り図
1670年(寛文10)野田三郎左衛門が初代代官に任じられ、この地に陣屋を設けられたと推定されています。その後、川崎平右衛門定孝を迎え、
五六閘門(牛牧閘門)の治水事業に取り組みました。本田代官所は1770年(明和7)大垣藩に預けられるまで続き、「代官跡」「御座敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っています。
高札場跡
上本田村の高札場です。
蛇行した旧道を500mほど進むと
「五六橋」へ至ります。
五六川と五六橋
五六川に架かる橋です。糸貫川は歩行渡りでしたが、1767年(明和4)に板橋が架けられました。しかし、出水のたびに流され、1795年(寛政7)には半分が流され、その後復旧されました。
五六橋を渡ると美江寺宿内地へ入っていきます。五六橋から先は人家が少なくなり、畑が多くなります。畑の中を700mほど進むと樽見鉄道を越えます。そのすぐ先から美江寺宿の中心部へ入っていきます。
谷汲街道
樽見鉄道を越えてすぐ先の交差点に「谷汲道道標」があったらしいてのですが、見当たりません。どこへ行ってしまったのでしょうか・・・
さらに100mほど進んだ右手の細い路地へ入り、「瑞光寺」へ向かいます。瑞光寺には句碑や山本友左坊の墓があります。
瑞光寺
もと天台宗に属しましたが、美江寺が和田佐渡守によって再興された折に冠婚葬祭の一堂は浄土宗に改められました。
徳本名号碑
門前に徳本名号碑があります。1818年(文政元)の銘があります。
山本友左坊句碑
『影も匂ふかとおもはれつ 梅に月』
1843年(天保14)建立。
芭蕉句碑
『旅人と我名呼ばれん 初時雨』
1843年(天保14)俳諧美濃派の道統を継ぐ山本友左坊(ゆうさぼう)が同志を募り建立し、和田佐渡守が再興しました。
各務於菟句碑
『時雨るゝや あるかなきかの石のこえ』
各務於菟は美濃派37世の道統を継いでいます。
1900年(明治33)に岐阜県山県郡北野村に生まれ、本名は虎雄。東京帝国大学文学部国文科を卒業し、文部省、岐阜大学教授を経て岐阜市立女子短期大学学長を務めました。俳誌「初音」を創刊し、著書に「俳文学雑記」「俳文学研究」「風雅の誠」などがあります。1984年(昭和59)、84歳で没しました。
山本友左坊墓
山本友左坊は、美江寺宿本陣山本家に生まれ、美濃派(以哉派)9世道統。1846年(弘化3)に没しました。木曽の棧に芭蕉の句碑を建立したのも友左坊です。
著書に地方の俳人たちが俳諧興行をした様子を著した『おゐのたび』などがあります。
柿の木畑
瑞穂市は「富有柿」の発祥の地です。あちこちに柿の木の畑が見られます。居倉村にあった在来種、居倉御所(御所柿)の中から優れた柿に着目した居倉の福嶌才治がこの接穂により増殖させ、新品種として1892年(明治25)に「富有」と命名しました。
居倉村は、現在の瑞穂市居倉で美江寺宿中心から西北に1.5kmほどの場所にあり、
「富有柿発祥の地」として原木が保存されています。
瑞光寺から中山道へ戻ります。すぐ右手に
「美江寺一里塚跡」の石碑があり、さらに70mほど進むと右手に
「自然居士の墓」の石碑があります。
美江寺一里塚跡
1994年(大正3)に美江神社に払い下げられ、以前の姿を留めていましたが、1924年(大正13)隣接地に払い下げられたため、開墾され宅地となってしまいました。
「自然居士の墓」の石碑のところから細い路地へ入っていきます。50mほど進み左へ入り、さらに右へ入ると突き当りに「自然居士の墓」があります。
自然居士の墓
瑞穂市の説明に寄ると、自然居士(こじ)は、和泉国日根郡自然田村出身で、法相の学を修め、のち禅宗へ入り臨済宗南禅寺大明国師に師事したとされています。僧侶ではなく、法を説くため居士として回遊し、美江寺に逗留して千体仏像願を初願しました。
1715年(正徳5)加納藩主の領内巡見の折、古跡として
自然居士の墓を庄屋があげていますが、現在墓地には多数の五輪塔があり、どの五輪塔であるのかはわかりません。
中山道へ戻り、少し進むと左手に旧家が残っています。
「布屋」です。
布屋
酒販売店ですが、昔は酒造業だったとされます。1891年(明治24)の濃尾地震によって、三江寺宿で唯一残った旧家です。
美江寺宿町並み
美江寺は1589年(天正17)豊臣秀吉の命により問屋場が設けられ、荷の中継ぎ業務にあたっていましたが、江戸時代の1637年(寛永14)に正式に開設されました。開設時には本陣、旅籠、茶屋もなく、道筋の農村に過ぎませんでしたが、通行者の増加により1669年(寛文9)加納藩により本陣が開設されました。
布屋から100mほどで美江神社、美江寺観世音があり、ここが往時は
枡形になっていました。
中山道分間延絵図「美江寺宿」
美江寺宿高札場跡
美江神社前の枡形に高札場はありました。現在、美江神社境内に高札場が復元されています。
美江神社
創建は不詳です。中山道分間延絵図では
「熊野三社権現」とあり、1881年(明治14)に美江神社に改称しました。
秋葉神社
美江神社境内に合祀されている秋葉神社です。
美江寺宿跡碑
かつて美江寺は「十六条村」と呼ばれていました。付近には○○条と呼ばれる地区が多く、中世の条里制からの名残だと思われます。
美江寺観音堂
かつては「美江寺」という大きなお寺がありました。719年(養老3)十一面観世音菩薩を伊賀国より美濃国本巣郡十六条に移し、美江寺が創建されました。最盛期には24坊を数えたとされます。しかし兵火にかかり、本尊は信長によって岐阜へ持ち去られてしまいました。(斎藤道三の稲葉山城の築城時とも)恐らくこのときから美江寺は荒廃してしまったのでしょう。
wikiによるとは、「1567年(永禄10)織田信長の命で「美江寺観音堂」が建立されたものである」と書かれています。恐らく荒廃した美江寺に変わる観音堂を寄進したのかと思います。
さらに瑞穂市の解説によると1902年(明治35)和田泰吉が願主となり、宿場の人々がお金を出し合い小さなお堂を建立し、和田家の秘仏の観音像が祀られた、とあります。(別の資料では浄財で30cmの小さな仏像を造ったともあります)
美江寺観音堂の経緯については資料により色々で、少しずつ説明が違い、よくわからない状況になっています。
美江寺宿の美江寺にあった十一面観世音菩薩は現在、岐阜城近くの美江寺に祀られています。
美江寺観音堂の鰐口
奉納された鰐口には「中仙道美江寺宿観音堂 江戸御蔵前 施主志中 天保十二年辛丑五月吉日江戸大門通鋳工伊勢屋彦助」と彫ってあります。1841年(天保12)に制作され、上部に懸垂用の耳があり、青銅製で直径50cm、重さが15kgあります。
15:20 本日はここで終わりにします。樽見鉄道、美江寺駅が近くにありますが、大垣へ出ないと乗り換えできないため、路線バスで戻ることにします。美江神社前のバス停「美江寺」から16:01のバスに乗り、20分程度でJR穂積駅到着です。穂積駅からJRに乗り、岐阜駅まで戻りました。
本日は
『養老温泉ゆせんの里 ホテルなでしこ』へ宿泊します。