2024年4月28日
宿泊した
『入鹿の里 MUSICA』から明治村までは車で5分ほどです。ゆっくりホテルをでて明治村についたのは10時すぎでした。駐車場は北側にもありますが、正門のある南側の駐車場へ停めました。一日1000円でした。
チケットは入場券と市電とSLに乗車できるチケットを購入しました。なるべく一筆で回れるよう、あらかじめ考えてきましたが、一日で全部回りきれるでしょうか?
今日は青空が広がり、五月晴れの快晴です。
明治村正門(第八高等学校正門)
1909年(明治42)名古屋市瑞穂区に開校した第八高等学校正門として造られた明治期の代表的な洋式門です。1949年(昭和24)の学制改革により、新制名古屋大学教養部の正門となり、取り壊されることとなったため1970年(昭和45)より明治村の正門となりました。
明治村正門から中へ入り右手側へ回っていきます。まず右手に
「大井牛肉店」があり、その奥に
「三重県尋常師範学校」があります。
大井牛肉店
岸田伊之助が開業した牛肉販売店と牛鍋の店を兼ねた商店です。1867年(慶応3)に神戸の開港に伴い、入港する外国人相手の商売をおこし、外国船に牛肉を提供したのが始まりと言われています。1887年(明治20)頃の建築で、1910年(昭和43)明治村へ移築されました。
三重県尋常師範学校・蔵持小学校
津市に小学校教師の養成を目的として建てられ、1928年(昭和3)名張市に移築され、蔵持小学校として使われました。各所に洋風建築の特徴が見られます。建物内には教室も復元されています。
三重県尋常師範学校の左隣りには
「近衛局本部付属舎」、この建物の中には人力車や天秤棒など様々なものが展示されていました。
赤坂離宮正門哨舎前を通り、東側の坂道を登り、丘の上にそびえる
「聖ヨハネ教会堂」へ。
赤坂離宮正門哨舎
哨舎(しょうしゃ)とは門番が立っている建物で、赤坂離宮(旧迎賓館)正門警備のため設けられた4基のうちの一つです。赤坂離宮は当時皇太子であった大正天皇のための東宮御所として、1909年(明治42)に竣工した明治を代表する洋風宮殿でした。1983年(昭和58)に明治村へ移築されました。
聖ヨハネ教会堂
京都市下京区に1907年(明治40)建築されたプロテスタントの教会で、設計者は1880年(明治13)に来日したアメリカ人宣教師で、建築家のガーディナーでした。
聖ヨハネ教会堂内部
聖ヨハネ教会堂から坂を少し下り、右手へ曲がって行くと左手に
「学習院長官舎」、その先に
「西郷從道邸」があります。
学習院長官舎
学習院長の公邸で、接客や実務を行う洋館と住まいとしての和館をつないだものでした。創建当時、初代院長であった陸軍大将乃木希典は、この建物に入居せず学生と寝食を共にするため総寮部(寄宿舎の事務棟の一室)を居室としました。そのため、院長舎は当初皇族学生の寮として使用されました。
1909年(明治42)建築、1964年(昭和39)明治村へ移築されました。
西郷從道邸
西郷隆盛の弟、西郷従道(つぐみち)が1877年(明治10)に東京目黒の西郷山に接客用に建築した洋館です。従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、1889年(明治22)には明治天皇の行幸にも使われました。1964年(昭和39)明治村へ移築されました。
西郷從道邸内
西郷從道邸内
西郷從道邸内
西郷從道邸の裏の方に
「森鴎外・夏目漱石住宅」があります。
森鴎外・森鴎外・夏目漱石住宅
東京都文京区駒込に医学博士中島襄吉の新居として1887年(明治20)頃に建てられました。鴎外は1890年(明治23)から1年半ほどこの家を借り、「文づかひ」などの小説を書きました。
夏目漱石執筆部屋
約13年後の1903年(明治36)からは夏目漱石が借り、約3年間居住し「吾輩は猫である」を執筆しました。1964年(昭和39)明治村へ移築されました。
夏目漱石住宅の奥に小さな小路があります。ここを下っていくと
「三重県庁舎」へでます。向かいには
「鉄道局新橋工場」があり、御料車が展示されています。
三重県庁舎
1790年(明治12)大工、清水義八をはじめとする三重県土木掛によって建築され、1880年(明治13)には
明治天皇も行幸され、1964年(昭和39)まで使用されました。清水義八はその後、三重県尋常小学校・蔵持小学校も手掛けました。
三重県庁舎内
知事室とホール
知事室は1887年(明治20)に改築され、中には明治の時計、宮廷家具などの展示がなされています。
二重橋飾電燈
皇居二重橋にあった電燈で、1888年(明治21)鉄橋に架け替えられ、さらに1964年(昭和39)昭和宮殿の建設にあたり、鉄橋と飾電燈と共に更新されたため、1965年(昭和40)明治村に移築されました。
鉄道局新橋工場
東京新橋駅構内に鉄道の木工場として建てられました。鋳鉄柱に「東京鉄道局鋳造」の銘があり、国産鉄道建築の初期例といえます。1919年(大正8)大井工場に移築され、第2旋盤職場として1966年(昭和41)まで使用されました。
昭憲皇太后御料車(5号御料車)
1902年(明治35)に製造されました。御料車とは天皇・皇后・皇太后。皇太子のための特別な車両のことで、5号御料車は最初の皇后用御料車として制作された車両です。
1910年(明治43)に製造された明治天皇御料車(6号御料車)の2つの車両が展示されています。
鉄道局新橋工場をあとに、メインストリートを少し奥へ向かい、左へ入っていきます。両側にズラッと建物が並んでいますが、右手の一番端に
「札幌電話交換局」、その隣が
「安田銀行会津支店」、
「京都中井酒造」、
「東松家住宅」と並んでいます。
札幌電話交換局
1890年(明治23)に東京−横浜間で始まった電話交換業務が北海道で始まったのは1900年(明治33)でした。高価な交換機を火災から守るために石材を用いて建てられました。
札幌電話交換局内
電話交換局は郵政電信局に併合され、規模の拡大に伴い、1910年(明治43)に増築され、その後は札幌中央郵便局として使用されました。1965年(昭和40)明治村に移築しました。
安田銀行会津支店
安田銀行は1879年(明治12)に設立されました。東北地方へ展開した銀行で、会津支店は6番目の支店として1907年(明治40)に建築されました。1965年(昭和40)明治村に移築されました。
現在は「ハイカラ衣装館」として袴などの衣装を着て記念撮影などができるようになっています。
京都中井酒造
京都御所近くにあった造り酒屋で、開業当時からの建物は1864年(元治元)禁門の変により焼失。現在の建物は1870年(明治3)に再建されたもので、1993年(平成5)に明治村へ移築されました。
東松家住宅
名古屋の中心部堀川沿いにあった商家。東松家は1887年(明治20)年代後半までは油屋を生業とし、昭和の初めまでは堀川貯蓄銀行を営んでいました。創業以来、再三の増改築をしており1901年(明治34)に3階を増築したようです。1965年(昭和40)明治村へ移築されました。
東松家住宅内部
東松家住宅内部
東松家住宅の向かいにあるのが、
「千早赤阪小学校講堂」です。そのとなりが
「第四高等学校物理化学教室」です。
千早赤阪小学校講堂
大阪府南河内郡千早赤阪村に1897年(明治30)頃に建築された千早赤阪小学校講堂です。1階を雨天体操場、2階を講堂として使用していました。1929年(昭和4)赤阪尋常小学校へ移され、1908年(昭和51)に明治村へ移築されました。
第四高等学校物理化学教室
金沢市仙石町にあった第四高等学校の物理化学教室で、1890年(明治23)建築されました。屋根にある煙突は煙や有害ガスの発生する実験を行うためのドラフトチャンバーという小室の換気装置です。元々はH型であった建物の中央部分のみを1965年(昭和40)に明治村へ移築しています。
「第四高等学校物理化学教室」の向かいには巨大な迷路があり、その奥に
「清水医院」、突き当りの一番奥に
「東山梨郡役所」がありました。
清水医院
中山道木曽の須原宿に生まれた清水半治郎が東京で医学を学んだ後、故郷へ戻り開業した医院で、1897年(明治30)年代に建てられました。日本古来の土蔵造りにアーチ形の入口や窓など洋風のデザインを組み合わせており、須原宿でも目立つ建物であったと思われます。
清水医院内部
この医院には島崎藤村の姉、園子が入院しており、彼女をモデルとした小説「ある女性の生涯」の中では須原の蜂谷医院として描かれています。
清水医院内部
東山梨郡役所
1885年(明治18)建築された山梨市小原にあった東山梨郡の新庁舎でした。当時の山梨県令(現在の知事)藤村紫朗が奨励した洋風建築の一つで、左右対称の形や正面を廻るベランダは当時の官庁建築の典型的な特徴であり、「擬洋風」と呼ばれていました。1965年(昭和40)明治村へ移築されました。
メインストリートまで戻ります。メインストリートへでる角に
「京都七条巡査派出所と電話ボックス」があります。
京都七条巡査派出所と電話ボックス
京都市下京区猪熊通七条にあり、1912年(明治45)に建築されました。1965年(昭和44)明治村へ移築されました。
市電
市電の線路を横切ります。
右手に広い広場があります。お弁当を食べている人や休憩している人など皆思い思いに過ごしています。広場の反対側に
「第四高等学校武術道場 無声堂」があり、その向かいに
「日本赤十字社中央病院病棟」があります。
第四高等学校武術道場 無声堂
金沢市仙石町に創立30周年を記念して、1917年(大正6)に建てられたもので、後に金沢大学へ引き継がれました。1970年(昭和45)明治村へ移築されました。
日本赤十字社中央病院病棟
1877年(明治10)西南戦争が始まったときに敵味方区別なく負傷者を救護するために設立された博愛社を前身とし、日本が1886年(明治19)に万国赤十字条約に加盟した際、皇室から賜った渋谷区広尾の御料地に建てられた大規模な病院でしたが、明治村へ移築されているのはその1/10程度です。1974年(昭和49)に明治村へ移築されています。
病棟内部
病棟内部
日本赤十字社中央病院病棟から階段をのぼると
「歩兵第六聯隊兵舎」、その先丁字路を左へ曲がると
「鉄道寮新橋工場」があり、ここは
機械館となっており日本の産業が機械化された明治時代から昭和時代の様々な工業用機械が展示されています。
歩兵第六聯隊兵舎
1873年(明治6)に名古屋鎮台へ昇格した時に新しく編成された部隊です。名古屋城跡に兵営が設置され、営庭を取り囲むように兵舎が配置されていました。明治村へ移築されたのは1965年(昭和40)で、第十中隊の約7割程度へ縮められています。
鉄道寮新橋工場(機械館)
日本で初めて鉄道が走った新橋−横浜間の起点、新橋停車場に機関車修復所として建てられました。1915年(大正4)には大井町へ移転し、用品倉庫として1967年(昭和42)まで使用されました。1968年(昭和43)明治村へ移築されました。
ゐのくち式渦巻きポンプ・リング精紡機
東京帝国大学工科大学機械工学科(現東京大学)教授の井口在屋(いのくちありや)が発明した渦巻きポンプの理論に基づいて製作されたポンプです。井口の教え子・畠山一清が実用化を推し進め、畠山が所属する國友機械製作所(現荏原製作所)が製作しました。この理論は現在でも灌漑・排水・水道・工業など多くの用途で使用されています。
リング精紡機
粗紡機で造られた軽くねじった糸(粗糸)を引き伸ばし、さらに強く捻じり合わせて強い糸を作り、巻き取る機械です。紡績の最終段階にあたり、ここで製品としての綿糸が完成します。
展示してある機械は、三重紡績(現在の東洋紡)で使われていた現存する最古のリング精紡機です。
菊花御紋章付平削盤
港区三田にあった工部省赤羽工作分局で製造された機械のうち現在まで残る唯一のものです。この機械は岩手県の発注で造られ、盛岡市の船舶修理所で使われ、1901年(明治34)からは岩手県実業学校(岩手県立盛岡工業高校)の実習用として使われたものです。
機械館をあとにさらに奥へ進むと右手に
「宇治山田郵便局舎」があります。
宇治山田郵便局舎
現在の伊勢市岩渕町に1909年(明治42)に建築されました。設計者は逓信省の技師、白石円治といわれます。L字型角が入口で、公衆室と呼ばれる円形のホールとなっています。ホールの周囲はカウンターとなっており、左翼部で郵便事務が行われ、右翼部に電話交換室やレンガ造りの切手倉庫などが設けられていました。ドーム状の天井にある高窓からは光が入り、明るいホールとなっています。
宇治山田郵便局舎内部
宇治山田郵便局舎の先の左手には
「本郷喜之床」、「小泉八雲避暑の家」、「呉服座」、「半田東湯」と4軒並んでいます。
本郷喜之床
屋号を
「喜之床」といい、文京区本郷にあり明治後期から大正初期にかけての商家形式床屋は、ハイカラには「バーバー」とも言われました。また、
石川啄木はこの建物の2階2間を間借りして、家族と生活していました。処女歌集「一握の砂」はここで暮らしているときに出版されました。1980年(昭和55)明治村へ移築しました。
小泉八雲避暑の家
アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、アイルランドで教育を受けた後、アメリカで新聞記者を経て1890年(明治23)来日し、英語教師として松江中学初め各地へ赴任しました。
1896年(明治29)日本に帰化し、東京帝国大学に招かれ教鞭を取るようになり、毎年夏を焼津で過ごすようになりました。
八雲は「乙吉の達磨」「焼津にて」「漂流」など焼津を題材とした小説を残しています。1971年(昭和46)明治村へ移築しました。
呉服座(くれはざ)
江戸時代の名残をとどめた明治の
芝居小屋であり、明治初年に大阪府池田市に建てられ、長く民衆娯楽の場として人々に親しまれました。1969年(昭和44)の芝居興行を最後に幕を閉じました。1971年(昭和46)に明治村へ移築されました。
半田東湯
知多半島の港町に明治末期頃に造られた風呂屋です。1980年(昭和55)明治村へ移設されました。
湯上がりの常連客は2階に上がり雑談をして過ごしたりしていたようです。
半田東湯の中
男湯と女湯は別れていますが、浴槽は目隠しのみで下はつながっていました!
半田東湯から階段を上った一段上に大きく立派な
「聖ザビエル天主堂」があります。
聖ザビエル天主堂
16世紀に来日し、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルを記念して1890年(明治23)に建設されたカトリックの教会堂です。京都市中京区河原町三条に建てられました。1973年(昭和48)明治村へ移築されました。
聖ザビエル天主堂のステンドグラス
聖ザビエル天主堂からは西側の細い階段を上り、丘の上に
「菊の世酒蔵」があります。
菊の世酒蔵
愛知県碧南市で穀物蔵として使用されていたもので、1895年(明治28)に刈谷市へ移築され、仕込蔵として使用されていました。1983年(昭和58)明治村へ移築されました。
酒蔵の中
丘の上から聖ザビエル天主堂を眺める
奥には入鹿池が見えますね。
再び階段を下り、聖ザビエル天主堂の前を通り、坂を下り
「金沢監獄正門」へ向かいます。
金沢監獄正門
1907年(明治40)石川県金沢市に金沢監獄が作られました。レンガ造りの高い壁を巡らせ、西側にこの門が作られました。外側には凸凹が多いですが、内側は足掛かりとなる装飾品は一切ありません。
金沢監獄正門から
天童眼鏡橋を通ります。池もあり、燈台も移設されています。池の奥には
「隅田川新大橋」があります。隅田川新大橋は渡らずに、直進して緩い坂道をのぼっていくと
「大明寺聖パウロ教会堂」があります。
天童眼鏡橋・小那沙美島燈台
天童眼鏡橋は、山形県天童市内、旧国道が倉津川を渡るところに1887年(明治20)架けられまた「多嘉橋」です。この際に木造から石橋に架け替えられました。1976年(昭和51)明治村へ移築されました。
小那沙美島燈台
小那沙美島燈台は、軍港として発展した広島湾沖(江田島)に1904年(明治37)に造られた燈台です。日露戦争の開戦を前に3ヶ月という短い工期で建てられたため、5つの部分からなる組み立て式となっています。1976年(昭和51)明治村へ移築されました。
隅田川新大橋
隅田川へ架けられた吾妻橋・厩橋・両国橋・永代橋とともに明治五大鉄橋と呼ばれました。1912年(明治45)に架橋されました。1975年(昭和50)明治村へ移築されましたが、全長180mのうち1/8となっています。
大明寺聖パウロ教会堂
長崎県伊王島町に1879年(明治12)に建設された教会堂です。フランス人宣教師ブレル神父の指導の元、大浦天主堂建設に携わっていた地元大工の大渡伊勢吉によって建設されました。1994年(平成6)に明治村へ移築されました。
大明寺聖パウロ教会堂内部
大明寺聖パウロ教会からさらに1本道を進むと右手に
「川崎銀行本店」があり、その先に
「内閣文庫」があります。
川崎銀行本店
日本橋に1927年(昭和2)建築された川崎銀行本店の正面左側の外壁部分のみを1990年(平成2)に移築したものです。川崎銀行は江戸時代、水戸藩の勘定方を務めた川崎八右衛門が1880年(明治13)設立した銀行で、明治中期頃には有力銀行の一つに数えられました。1989年(平成元)に新しく建て替えられた社屋(現スターツ日本橋ビル)にはかつての中央玄関部分が利用されています。
内閣文庫
明治政府が中央図書館として千代田区に1911年(明治44)に建てられました。1971年(昭和46)に国立公文書館が建設されるまで、古文書研究家に広く利用されました。文庫庁舎の母屋部分を1990年(平成2)に明治村へ移築されました。
手前に写る
電燈は、皇居正門前の石橋の高欄親柱上に設置されていたもので、1888年(明治21)に造られたものです。1990年(平成2)に明治村へ移築されました。
内閣文庫からは坂を下り右手に
「名鉄岩倉変電所」があります。その隣には
「帝国ホテル」があります。が、先にさきほど見ていなかった
「金沢監獄中央看守所」、「宮津裁判所法廷」、「高田小熊写真館」を見学しておきます。
名鉄岩倉変電所
名古屋電気鉄道犬山線の変電所として1912年(明治45)岩倉駅構内に建てられました。1975年(昭和50)明治村へ移築されました。
ここで少々小腹が空いたので、キッチンカーで焼きそばを購入。変電所前の芝生広場で休憩。
金沢監獄中央看守所
1907年(明治40)八角形の看守所を中心に5つの官房棟が放射状に並ぶ洋式の監獄が建てられました。中央の監視室は網走監獄で使用されていたもので、1972年(昭和47)官房の一部が明治村へ移築されました。
監獄内部
監獄内部
宮津裁判所法廷
京都府宮津市本町にあった地方裁判所の刑事法廷でした。1886年(明治19)に建築され、白州から近代的な司法制度へ転換した時代でした。
高田小熊写真館
新潟県高田の街中に1966年(明治41)に建てられた写真館です。一階には応接室・暗室のほか住まいがあり、二階にはスタジオが設けられています。当時は人工照明がなかったため、北側をガラス屋根にし、自然光を取り入れています。
高田小熊写真館内部
小熊写真館は現在も越後高田で営業されています。
帝国ホテル
アメリカの建築家、
フランク・ロイド・ライトが設計し、1923年(大正12)に建築された国際的な一流ホテルです。1977年(昭和52)明治村へ正面玄関・メインロビー・前庭の池部分などが移築されました。
帝国ホテル中央玄関
建物内外は幾何学模様に彫刻された大谷石や櫛目を入れたレンガで装飾されています。完成披露式の当日に関東大震災が発生しましたが、被害は少なかったとされます。1976年(昭和51)明治村へ移築されました。
帝国ホテルロビー
帝国ホテルの西側の道を明治村北口ゲートへ向けて歩いていきます。300mほどでSLの東京駅へ到着です。
SL東京駅
次のSL発車時間まで少し待ちましたが、お土産屋さんなどがあるのでブラブラして、いよいよSLに乗り、SL名古屋駅へ向かいます。
ほんの650m程度のSLの旅です。SL名古屋駅が終点です。SL名古屋駅からすぐの京都市電の名古屋駅へむかい乗り換えます。
京都市電
つり革が竹でできているのがすごいです。吊っているものも本物の革でまさに
「つり革」です。
京都市電は750mほどのこちらも短い旅ですが、緑の中をゆっくり走っていきます。終点の品川燈台駅で下車します。すぐに
「品川燈台」と
「菅島灯台付属官舎」があります。
品川燈台
観音崎・野島崎に次、1870年(明治3)に点燈された洋式燈台です。観音崎・野島崎の燈台は関東大震災により倒壊したため、品川燈台は現存するわが国
最古の洋式燈台です。1964年(昭和39)明治村へ移築されました。
菅島灯台付属官舎
菅島灯台付属官舎は、燈台の灯りを管理する係員の住居で、三重県鳥羽市に1873年(明治6)に造られた官舎です。創建からしばらくはイギリス人技師が住んでいたとされます。
品川燈台から坂を下り、広場を突っ切ると一番北から
「戸山手西洋人住居」、「長崎居留地二十五番館」、「芝川又右衛門邸」と並んでいます。
神戸山手西洋人住居と長崎居留地二十五番館
「神戸山手西洋人住居」は1887年(明治20)に建てられ、創建当初は外国人の住居でしたが、1896年(明治29)から増田周助氏の所有となりました。その後、再びフランス人貿易商が住みました。1969年(昭和44)に明治村に移築されました。
「長崎居留地二十五番館」は1889年(明治22)に建てられ、創建時には三菱長崎造船所マネージャーのスコットランド人コルダーが住んでいました。1966年(昭和41)明治村へ移築されました。
芝川又右衛門邸
1911年(明治44) 又右衛門が週末を過ごす別荘として建てられました。又右衛門は多彩な活動をした文人実業家で、唐物商をたたんだ後、国産初のランプ口金製造を行い、後に「大阪殖林合資会社」を設立し、紀州での植林を行いました。漢詩を愛し、茶道・俳句・書・絵画などにも深い造詣がありました。2007年(平成19)明治村へ移築しました。
芝川又右衛門邸から右手へ曲がると北里研究所本館がありますが、先に左へ曲がり坂を上り、大きな邸宅である
「坐漁荘」があります。その向かいが
「蝸牛庵」です。
西園寺公望別邸 坐漁荘
駿河湾の静岡県清水市興津の海岸に1920年(大正9)に建てられた別荘です。「坐漁荘」の名にはのんびり坐って魚を釣って過ごすという意味が込められています。公望はフランスで10年過ごしたのち、明治・大正・昭和と平民主義を貫いた政治家です。政治の第一線から退いたのち、この別荘を建てましたが、政治家の訪問が絶えなかったと言われます。
坐漁荘内部
幸田露伴住宅 蝸牛庵
隅田川東岸の向島寺島町にあった酒類商甲州屋(雨宮家)の別棟でした。明治初年頃建てられ、幸田露伴が多くの作品を著した住宅です。露伴はヤドカリのように幾度となく引っ越し、自宅を
「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼びました。次女で作家の幸田文はこの家で生まれました。
写真を好んだ露伴は、明治時代に早くも写真術を会得し、この家には赤いガラスをはめた採光窓のある現像室があります。
蝸牛庵内部
丘を下り先程の丁字路へ戻り、そのまま直進すると
「北里研究所本館・医学館」です。
北里研究所本館・医学館
北里柴三郎博士が伝染病の研究所として港区白金に1915年(大正4)に創立したものです。もとはL字型でしたが、明治村へはその一部が1980年(昭和55)移設されました。
車寄上部に取り付けられている紋章は、北里博士の発見した破傷風菌に月桂樹があしらわれています。
研究室
16:20 なんとかほぼ全ての建物を見ることができたと思います。様々な建物があり、これを維持していくのは大変なことと思いますが、なんとか後世へ残してほしいですね。楽しい、楽しい一日でした。
車で岐阜駅方面へ1時間ほど戻り、本日は
『ホテルルートイン岐阜県庁南』へ宿泊します。