2024年4月29日

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9:20 岐阜駅前のコインパーキングへ駐車し、本日はここから出発します。駅前を南下し中山道へ向かいます。うっかり中山道を越えて大通りまで出てしまいました。ついでなので、西方寺をちょっと覗いてみます。

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西方寺

1601年(慶長6)関ヶ原の戦いの功績により加納藩主となった奥平信昌の乳兄弟である釈誉達無上人により建立されました。1891年(明治24)濃尾地震、さらには岐阜空襲による戦災を受けた後に復興をし、現在の本堂は1955年(昭和30)に再建されたものです。徳本六字名号碑には1818年(文政元)の銘があります。

また、川端康成の小説『篝火』に登場する「澄願寺」のモデルとなったお寺です。

駅前の道を北へ1本戻り、中山道を西へ向かいます。小さな秋葉神社が2か所点在します。

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栄町秋葉神社・加納本町秋葉神社

どちらも中山道分間延絵図には描かれていません。

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駅前の大通りから500mほどで加納宿の西端の「西番所跡」があります。秋葉神社と愛宕神社も祀られています。

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西番所跡碑

中山道分間延絵図を見ると往時は小さな川があり、番所建物は右手にあり、馬防柵が巡らされていたようです。秋葉神社と愛宕神社は描かれてはいませんでした。
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秋葉神社と愛宕神社碑

番所を過ぎ、1本目の路地を左へ曲がり、さらに1つ目の路地を右へ曲がるとすぐに「黒木神明神社」があります。

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黒木神明神社・白龍稲荷大神

黒木神明は400年ほど昔には現在地へ鎮座していたといいます。往時は土地が広く、大木がよく茂っていたとされます。
昭和初期、耕地整理のため神社敷地の小山を崩す工事を行うと、多数のが出てきて土と一緒にスコップで打ち切られ多数の蛇が死んでしまいました。その後、工事を行っていた人が急逝し、もう一人も原因不明の体調不良となったため「白龍稲荷大明神」を勧請しましたが、ついに二人目も亡くなってしまいました。御神体は戦時中には疎開し、現在の社殿は戦後に再建されたものです。

中山道へ戻り、県道を越えて100mほどで「西厳寺」、その先に「阿賀多神社」があります。

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西厳寺

1232年(貞永元)創建。美濃土岐市に発する浅野源氏の玄孫家の菩提寺であり、その縁で赤穂藩の藩祖である浅野長政の菩提寺ともなりました。1432年(永享4)現在地へ移ってきたようです。浅野長政のお墓もあるようです。
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阿賀多神社

1468年(応仁2)の勧請と伝えられ、社伝よれば、一条兼良がこの地の角藤大夫の屋敷に滞在したおり、河川が氾し、御神体が漂着したのを大夫が拾い上げ屋敷に安置しました。霊夢においてこの御神体が仁徳天皇であるとのお告げがあったため祠を建立し、角藤大夫家の守り神として奉祀しました。その後、1576年(天正4)郷土の氏神として祀りました。

郵便局を過ぎたら左へ曲がり、南の「菊地神社」へ寄り道していきます。200mほど歩き右へ曲がると菊地神社へ到着します。

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菊地神社

創建は不詳ですが、鎌倉時代にはすでに存在していたと伝えられています。中山道分間延絵図では「天神」と記されています。また「字東灘往来之木」も記されています。1908年(明治41)に菊地神社に改称されました。

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往来(ゆきき)の松碑

石碑は1902年(明治35)建立のものの上に1935年(昭和13)の石碑が塔のように積み重ねられています。

往来の松

ここにあった松の大木を加納藩主松平(戸田)光永「往来の松」と名付けました。子である光熙が加納から山城の淀城へ移封された際、淀の地で家臣が松を偲び

『あけくれに ながめし松を故郷の人の往来の便りにぞきく』

この和歌を霊元法皇が称賛したため、往来の松は名木となり、多くの公家等が詩歌を詠みました。松は宝暦の頃には枯れたため、村人は後継ぎの松を植えましたが、これも1950年(昭和25)頃には枯れ、現在の松は3代目です。

中山道へ戻り、200mほど進むと左手に一里塚の石碑があります。

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三里(鳥屋)一里塚跡碑

塚は両側とも松が植えられていました。北塚は1912年(大正元)の暴風で松が倒れ、塚も開墾されました。南塚は松が落雷により枯れ、塚は残りましたが昭和はじめ頃には無くなってしまいました。
さらに進むと東海道線を越えるあたりには中山道の両側に社宮司がありましたが、現在は見当たりません。南側は「おしゃごじ」といい雄の大蛇、北は「めしゃごじ」と呼ばれ雌の大蛇が昔住んでいたとされます。

このあたりは旧中山道が失われています。清本町の交差点は6差路にもなっており、北西に向かう広い道が旧中山道です。200mほど進み左へ入っていくと「鳥屋八幡神社」があります。

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鳥屋八幡神社

加賀の殿様の家臣であった氏子が加納藩に転勤の折、八幡社を勧請したと伝えています。元来は小塩氏の氏神として祀られ、後に村全体の氏神様として祀られています。境内社として天満神社、秋葉神社が祀られています。

右へ、左へ蛇行する旧道を500mほど進んだ大きなカーブのあたりが「多羅野立場跡」です。さらにすぐ先、県道を越えた所に「多羅野八幡神社」があります。

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多羅野立場跡

茶屋「松屋」の裏には天神があり、大きな榎がそびえていたとされます。 「ダラリ餅」と呼ばれたあんもちを売っており名物となっていました。昭和初期にはわずかな築山と庭の藤がありましたが、1916年(大正5)に茶屋はなくなりました。
『行こか河渡へ かえろか加納へ ここが思案のだらり餅』

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多羅野八幡神社

境内の大松にが巣をかけたと伝えられていますが、1920年(大正9)の台風で倒れてしまいました。「盗人神」とも呼ばれていました。昔、笹が一面に茂り盗人が住んでいたことに由来するとされます。

多羅野八幡神社から500mほど進むと道路右手に「論田川」が流れます。論田川に沿ってさらに270mほどで丁字路にぶつかり、ここが鏡島追分で、中山道と岐阜道の追分になります。右手の一角に論田川改修碑と岐阜街道道標があります。

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論田川

小さな河川ですが、中山道分間延絵図にも描かれ、江戸時代からあったようですね。昔は生活排水が大量に流れ込み、水質汚濁が進んでいたそうですが、近年、行政及び地域住民による水質改善の取り組みが進んでいるそうで、水性植物もありますし、駆除対象の外来種ですがカメもいました。

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論田川改修碑と岐阜道道標

論田川がいつ改修された碑なのかわかりませんが、揮毫が「岐阜県知事数藤鉄臣」とあり、彼が知事であったのは1941年(昭和16)〜1943年までなので、その頃と思われます。

中山道と岐阜道の追分である「鏡島追分」に道標が残されています。

「左岐阜道 せき 上有知 郡上」1903年(明治36)建立。

中山道は左へ曲がり100m、右手の乙津寺碑がある角を右へ入り、暫く寄り道して行きます。

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最初の路地を左へ入り、細道を道なりに進み、アパートの裏を左へ曲がり40mほど南下すると「鏡島城址碑」があります。

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鏡島城址碑

室町幕府の末期、斎藤帯刀左衛門が築城し、石川駿河守が長く居住しましたが、岐阜稲葉城落城の折に鏡島城も廃されました。
先程のアパートまで戻り左へ曲がると倉稲魂稲荷神社があり、さらに鏡島長瀬公園東側の道を北上、右手乙津寺門前の墓地内に石河駿河守光清鏡島湊差配人のお墓があります。

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倉稲魂稲荷神社

鏡島城の守護神として祀られたものです。市場・古市場・三軒屋の氏神様として名残を留めています。

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鏡島城城主 石河駿河守光清の墓

1540年(天文9)に長良川の洪水で荒廃した乙津寺を1545年(天文14)に復興させたのが鏡島城城主の石河駿河守光清でした。石河家先祖代々之墓の五輪塔は、岐阜県最古級の墓であるとされています。
鏡島湊差配人墓は、石河駿河守光清墓の左手にあります。

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鏡島湊差配人墓

1592年(天正20)岐阜城主、織田秀信は鏡島の馬渕与左衛門に新しい町を作るよう命じ、鏡島湊ができました。主に川下からの荷揚げ湊となり、岐阜城下町へと運ばれました。鏡島を通る東西の街道が中山道となると更に発展し、町並みが東へ伸びていきました。
乙津寺の門前左手に「縮緬の記念碑」があり、門をくぐり右手、古市場公民館前に「塩谷鵜平句碑」があります。

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縮緬の記念碑

西濃から尾張西部にかける一帯は江戸時代から織物が盛んで、岐阜は「縮緬」の産地でした。特に昭和の半ばまでは鏡島・市橋地区を中心に生産され、丹後・長浜とともに三大縮緬産地といわれていました。 「朝日縮緬」は、鏡島村江崎の稲葉氏(鷹治郎)の考案で、織り方などに工夫をして新商品として出されたものです。以降、岐阜のほとんどの縮緬はこの方法で織られ、織物産業が一段と盛んになりました。
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鏡島弘法乙津寺(おつしんじ)

738年(天平10)行基菩薩が孤島であった「乙津島」に着船し、十一面千手観音像を彫り草庵に安置されたと伝えられています。813年(弘仁4)創建開山である弘法大師(空海)が乙津島に着船しました。弘法大師は秘法を尽くし、ひたすら願うこと37日間、法鏡を龍神に手向けられますと、たちまち蒼海が桑田となりました。この縁によって、この地は鏡島といわれ、この寺は鎮守乙神(乙津島にいた神の名)に由来して乙津寺と名付けられたとされています。

嵯峨天皇の勅命により、弘法大師は七堂伽藍、塔頭五ヶ寺、鎮守などをわずか三年で造営され、大師像を安置しました。また御堂の前に「梅の杖」を立て、「仏法この地に栄えれば、この杖に枝葉が栄えるだろ」といい、不思議なことにこの梅の杖に、たちまち枝が出て葉がなったとされます。乙津寺は「梅寺」とも呼ばれるようになりました。後に廃絶していた梅寺を領主、石河駿河守光清が中興し、臨済宗に改めました。

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塩谷鵜平句碑

『曼珠沙華 よいよ長良川のいろ』 塩谷鵜平は、1877年(明治10)厚見郡江崎村(現岐阜市)に生まれ、東京での学業を終えたのちは、俳人として美濃に居住しました。江崎は「俳人の聖地」とまで言われ、中央で活躍する俳人を江崎の地に迎えました。正岡子規、河東碧梧桐と交流があり、生涯の師となりました。

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梅の杖

空海が庭に挿した杖から芽をふき、八重の花をつける梅樹になったことから「梅寺」と呼ばれました。

宗祇が乙津寺へ来て『かがしまは 異木も匂へ梅の寺』と詠んだと伝えられます。
本堂の裏手に「一条兼良夫人墓」があります。

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一条兼良夫人墓

応仁の乱により1473年(文明5)の正月に一条兼良の正室である東御方は斎藤妙椿を頼り乙津寺に庵居しました。末子の梅津是心院了高尼も同行しています。同年、前関白太政大臣で、当代随一の文化人と言われた夫の一条兼良も美濃国守護代・斎藤妙椿の招待により革手(現岐阜市川手)を訪れ、長良川で鵜飼を見学、鮎を賞味、革手の正法寺で御馳走を振る舞われるなど大歓待を受け、奈良へ帰りました。 東御方は鏡島へ留まりましたが、冬になると病を生じ、この地で死去しました。
乙津寺をあとに墓地の裏側から長良川方面へ向かい、堤防を上ってくだり河原へ。「小紅の渡し」の渡し場へと向かいます。

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小紅の渡し

お紅丸という渡し船が現在でも残っています。現在は県営渡船として8時〜17時まで乗船することができます。観光船ではないので、対岸では必ず下船しなくてはいけないです。

渡しがいつ頃からあるのか定かではありませんが、最初に史実に登場するのは1692年(元禄5)です。以後、川下の中山道筋の「河渡の渡し」が表街道、小紅の渡しが裏街道として栄えていました。

小紅の渡しを越える道は「加納道」と呼ばれました。加納藩主戸田氏の時代には本家(加納城)と分家(本巣郡文珠陣屋・北方陣屋)とを結ぶ街道の渡船場となっていました。 また、鏡島弘法の縁日には梅寺への参詣も多く賑わいました。上流の「亀の渡し」は1938年(昭和13)までありました。

「小紅の由来」

・お紅という女船頭がいたとする説

・対岸からお嫁入りするさいに花嫁が川の水面に顔を映して、紅を直したとする説

・紅を採る草が生えていた説

  など様々あります。

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木曽名所図会「長良川鵜飼船」

鵜飼は1955年(昭和30)に国の重要民族資料に指定されます。鵜飼は古事記・日本書紀・万葉集にも記述がある古い漁法です。長良川では1915年(元和元)に家康が観賞して讃え、以後尾張藩がこれを支配し、将軍家や諸家への鮎鮨献上や尾張藩御用のために制度面・機構面を整備しました。

小紅の渡しを利用して対岸へ渡ります。堤防を越えて堤外へでるとすぐにあるのが「八幡神社」です。

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八幡神社

詳細は不明です。中山道分間延絵図には、八幡神社もお紅の渡しも描かれていません。

暫く八幡神社で休み、再び小紅の渡しに乗船し、乙津寺側へ戻ります。帰りは私達だけでしたので、船頭さんとお話すると現在は乗船する人が0人の場合もあるらしく、多い日でも30人くらいだそうです。昔は乙津寺の縁日はものすごい人だったとか。いつまでこの渡し船もあるかわからないですね・・できればずっと残してほしいですが・・ 天気がいいと渡し船から岐阜城が見えるのですが、今日は全く見えません・・・

下船すると中山道を目指して戻ります。700mほどあります。中山道へでるとすぐあったのが素敵な外観の建築物でした。

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レトロな建物

「寿和屋」とあります。現在は洋品店とのことです。1935年(昭和10)に鏡島郵便局として建築された建物をそのまま利用しているそうです。岐阜空襲では多くの住宅が焼失しましたが、鏡島郵便局は難を逃れました。
寿和屋から170m進むと右手に神明神社、その隣に善政院があります。

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神明神社

創建年代は不詳ですが、1794年(寛政6)に拝殿が造営されました。1959年(昭和34)の伊勢湾台風では屋根の破損、樹木の倒木などありましたが修繕されています。

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善政院

創建年は不詳ですが江戸時代には存在し、往時は竹林に囲まれていたと伝わります。本堂の他に大師堂を備え、美濃新四国の札所寺院となっています。また、村の地蔵堂を管理し初地蔵と地蔵盆の際には供養が行われて柿と蜜柑(みかん)を撒く柿撒きという行事が行われていたそうです。

さらに300mほど進むと右手に北野神社、すぐ先に地蔵堂があります。

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北野神社

1770年(明和7)には、社殿・玉垣などが存在したことがわかっていますが、勧請年は不明です。中山道分間延絵図では「天神」となっています。

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地蔵堂

地蔵堂も詳細は不明ですが、山道分間延絵図では「地蔵堂」と記され、その後ろに「江西院」が記されています。
地蔵堂から堤防へ出て河渡橋へ向けて堤防を上っていきますが、その上り口あたりの左手に「鏡島湊」の案内板があります。

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鏡島湊

1592年(天正20)岐阜城主であった織田信長は鏡島の馬渕与左衛門に新道を造る事を命じ、ここ以外での舟荷の陸揚げを禁じました。明治維新後も使われていましたが、陸上交通が発展し明治時代後半に役目を終えました。

往時はここから「河渡の渡し」で長良川を越えていました。現在は河渡橋を渡ります。

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木曽名所図会「河渡川」

1843年(天保14)河渡川(長良川)は常水で川幅50間、洪水の際は150間にもなりました。ここから船で渡りました。

河渡橋は400m近くもある大きな橋です。右側を歩いていくと、橋の袂に右手側から下る階段を進むと橋の下を通ることができ、堤防上のサイクリング道へでます。堤防の上を南西へ200mほど進むと小さな祠が祀られています。

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水神?

祠のすぐ先の階段を下って行きます。その下の県道を渡るときには車にかなり注意が必要です。横断歩道はありませんが、その先にまた階段があり、下ると堤外へでることができ正面に馬頭観音堂があります。
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馬頭観音堂

荷駄役の人たちが百文ずつ寄進し、道中の安全と家内安全、五穀豊穣を祈願し、1842年(天保13)愛染明王を建立しました。1891年(明治24)濃尾地震で倒壊。1896年(明治29)には大洪水で本堂が流出し、堤外渡船場に再建されました。1947年(昭和22)新堤築造のため、堤内に安置したものの1980年(昭和55)には長良川拡幅に伴い現在地へ移され、ようやく安住の地を得たようです。

馬頭観音堂から堤防沿いを南下して200m、右へ入ると河渡宿へ入ります。曲がってすぐ右手が問屋跡、そのすぐ先が本陣跡、本陣の向かいあたりが2軒目の問屋場跡です。いずれもどのお宅かははっきりとはわかりませんが、中山道分間延絵図と比較するとこのような並びになります。

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中山道分間延絵図「河渡宿」

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河渡宿本陣跡

水谷治兵衛家が務めていました。脇本陣はありませんでした。1843年(天保14)には家数64軒、272人が居住していました。旅籠は24軒で、その他、河渡宿には酒屋・茶屋・豆腐屋・煙草屋などが立ち並んでいました。小さな宿場でしたが、川留などで賑わっていました。

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河渡宿問屋跡

問屋は2軒あり、久右衛門、八兵衛が務めていました。庄屋は小谷徳兵衛が務めていました。

河渡宿の土盛り

河渡宿は東に長良川、西南に木曽川、北に根尾川があり、土地も低く大雨が降ると泥沼となり、度々洪水に見舞われました。1814年(文化11)代官松下内匠は宿内の土地を5尺余り(1.5mほど)土盛りすることにし、幕府の助成で砂・砂利・土の三段の土盛りし、その上に家屋を改築し、1818年(文化15)に工事を完成させました。

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河渡一里塚跡(松下神社)

河渡一里塚は、1843年(天保14)の記録では南北とも榎が茂っており、高札場もここにありましたが、現在は石碑のみです。 松下神社は、宿内土盛りを行った代官松下内匠の功績に感謝して創建したものです。

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代官顕彰碑

代官松下内匠の功績に感謝して記念碑が建立されましたが、太平洋戦争による岐阜空襲で焼かれ、今は一部が残されています。
河渡一里塚跡から2本目の左へ入り100mほど行くと「杵築神社」があります。

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杵築神社

創建や由緒は不明ですが、中山道分間延絵図には「牛頭天王」として描かれています。本殿前の石灯籠には「牛頭天王御宝前」とあり、1705年(宝永2)の建立。

中山道へ戻り、250mほど進むと「天王橋」を渡ります。

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天王橋

往時は天王川を渡る土橋で、このあたりは湿地で天王橋から西の中山道沿いには小さな池や堀が多く、戦前までは(水面に浮く浮葉植物)が茂っており、たらいに乗って菱の実をとる姿がよく見られたといいます。
最近は見かけない菱の実ですが、昔は茹でておやつとして食されていました。栗のようなほくほくとした食感で、ほんのり甘みがあります。

13:45 河渡宿をあとに美江寺宿へ向かって進んでいきます。