2024年5月2日

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車は関ヶ原駅前交差点近くのコインパーキングへ駐車しました。ちょっと停めにくいですが、1日300円と破格の安さでした。歩いて関ケ原駅へ向かい、JRで垂井駅へ向かいます。

10:00 垂井駅からスタートします。駅前には竹中半兵衛の立派な銅像がありました。

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竹中半兵衛像

半兵衛は通称で、本名は「重治」です。1544年(天文13)に大御堂(現大野町)で生まれました。斎藤氏の滅亡後、天才軍師として秀吉軍の中枢として活躍し、黒田官兵衛とともに「両兵衛」として知られます。

垂井駅から北へ250mほど歩くと中山道へぶつかります。左へ曲がり中山道を関ケ原宿へ向けて進んでいきます。100mほど進み、左手の細い路地へ入り、さらに1つ目の路地を左へ入ると「紙屋塚」があります。

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紙屋塚

このあたりに湧く清水を利用して、美濃国府による官設の紙工房があったと推定されています。奈良の正倉院に残された当時の紙から、美濃国産の紙は最上級であることが知られています。

美濃紙

特産である「美濃紙」は、豊かな水とこれによって育ったこうぞなどの原料に恵まれて発達しました。7世紀にはすでに紙漉きが行われ、朝廷で使う極めて上質の宣命使(せんみょうし)も作られていたとされます。江戸時代には国内需要の大半を担い、流通においては近江商人が活躍したといいます。

中山道へ戻り、進んでいくと今日はおまつりのようで山車がでていました。

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山車 鳳凰山

1798年(寛政10)喜助という大工が棟梁として造り、1821年(文政4)大垣の楠屋十太夫塗師により塗箔されたものです。鳳凰は湖東常喜村の富田新左衛門尉源義綱の作です。

東の枡形で右へ曲がると「東町 愛宕神社」があります。

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東町 愛宕神社

垂井宿では1673年(延宝元)から幕末までに百軒以上被災した大火が5回もあったため、鎮火の神として寛政年間(1789〜1801)に愛宕社を勧請しました。
東の枡形の角にあるのが「旅籠亀丸屋」です。

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旅籠亀丸屋

1777年(安永6)、金丸屋金兵衛が旅籠屋として創業しました。浪速講・文明講の指定旅籠としてサービスに定評があり、200年ほど続いたとされます。

浪花講

天保年間(1830〜1844)大坂の松屋甚四郎という商人の手代の源助という男が商用で各地を旅するうち、待遇の悪い宿屋、とくに飯盛女による弊害に悩まされ、行商の仲間が安心して宿泊できるようにと主人と相談しました。全国から加盟店を募り、宿に看板を掲げ迷惑な待遇をした場合は講元である松屋に連絡させ、定宿を変更しました。浪花講の定宿は大いに繁盛し、後に三都講、文明講、一新講など続々と誕生しました。

東の枡形から50mほどの左手が「問屋跡」で、その先60mほどの左手の歯医者さんが本陣跡です。

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問屋跡

問屋場「越後屋」次左衛門と書かれた看板が下がっています。

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本陣跡

栗田本陣は、明治になると学習義校(小学校)になり、その後は役場としても使われました。 現在は石碑が建つのみです。
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垂井宿町並み

日向国延岡の牧野貞通の領地から1750年(寛延3)再び幕領となり、1804年(享和4)から幕末まで大垣藩の所領となりました。1801年(寛政13)当時は多羅尾四郎が代官として治めた幕府直轄地で、328軒、人口1239人、宿内には酒屋・茶屋・菓子屋・塩屋・塩肴屋などの商人や木挽・大工・野鍛冶・傘張などの職人もいました。また、六斎市も開かれていました。1843年(天保14)の記録では旅籠27軒がありました。

80mほど進むと左手に「南宮大社石鳥居」、右手へ入っていく道は「岩手みち」と呼ばれ、「中町愛宕神社」、その奥に「日目庵」があります。途中、左手にあったとされる「浅沼銀行」建物は取り壊されて更地になっていました。

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南宮大社石鳥居

この南宮大社石鳥居から始まるのが「御幸道」と呼ばれています。1642年(寛永19)徳川家光の寄進により南宮大社が再建されました。明神型鳥居は、石屋権兵衛が建てました。額は延暦寺天台座主青蓮院尊純法親王の筆です。
中町愛宕神社脇には山車蔵があり、立派な山車が蔵から出され、祭りの準備が行われていました。

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垂井清水・南宮一鳥居

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山車 紫雲閣(しうんかく)

製作年は不明ですが、1775年(安永4)にはすでに歌舞伎が演じられたという古文書が残っています。1870年(明治3)長浜近在の藤岡和泉によって大改造、彫刻は江州枝折村の山口小三郎、幸三郎、守重の作。扁額の文字は幕末の関白左大臣近衛忠煕(ただひろ)の筆で、金屏風・舞台障子は円山応拳の弟子、山口素絢(そげん)作。屋根には草薙剣がそびえています。

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中町愛宕神社

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道標

愛宕神社前に小さな道標があります。

『右 ふ中も山  左 いわで』

中山道へ戻り、西へ向かいすぐ左手のふれあいプラザとなっているあたりが脇本陣だったと思われます。そのすぐ隣が「旧子の日」です。

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垂井宿脇本陣跡

ふれあいプラザではトイレを借りることもできます。

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旧子の日(森家)

土蔵造りの家で、明治時代には貴族議員の古井家が居住し、その後は昭和まで料理屋でした。軒先には防火用の濡れむしろ掛けの釘が残っているそうですが、目視ではわかりませんでした。 「ねのひ」と読むのでしょうが、なぜこの名前がついているのかわかりませんでした。
子の日の斜め向かいが「旧旅籠長浜屋」、その先右手が「本龍寺」、左手が「小林家住宅」です。本龍前には明治天皇小休碑と復元高札場があります。

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旧旅籠長浜屋と小林家住宅

旅籠長浜屋は、1831年(天保2)13代将軍徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊したときには、神輿担ぎ23名が宿泊したという記録があります。明治になり、旅人が減少すると酒屋となり、1998年(平成10)頃までは営業していましたが、現在は修復され休憩所として使われています。

小林家は、油屋を営んでいた宇吉家から小林家が1881年(明治14)に譲り受け、昭和初期まで「亀屋」の屋号で旅籠屋を営んでいました。建築年ははっきりしませんが、幕末頃に建てられたと考えられています。

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明治天皇小休碑・復元高札場

1878年(明治11)10月22日、北陸東海巡幸の際に本龍寺で休憩されました。

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本龍寺

創建は不詳ですが、1469年(文明元) 蓮如上人が巡錫で訪れた際、当時の住職が浄土真宗の寺院として再興したとされます。山門と書院の玄関は垂井宿の脇本陣にあったものを明治初期に移築したものです。

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時雨庵と作り木塚

松尾芭蕉は本龍寺の住職玄潭(げんたん、号は規外)と交友があり、1691年(元禄4) 本龍寺に冬ごもりし 『作り木の庭をいさめるしぐれ哉』の句を残しています。 1809年(文化6)芭蕉の他、美濃派ゆかりの俳人傘狂らの句碑を建てて「作り木塚」としました。

1855年(安政2)時雨庵ができ、美濃派十五世、国井化月坊ゆかりの芭蕉翁木像は1858年(安政5)に収められ、大切に保管されています。

中山道では「垂井曳やま祭り」が盛大に行われており、往時の中山道のように活気に満ちあふれており、こちらも楽しくなってきます。

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攀鱗閣(はんりんかく)

1808年(文化5)関ヶ原山中の藤井太兵衛という大工の作。その後、1827年(文政10)大垣の楠屋十太夫頼光と次男久政が塗り、彫刻は養老の佐竹民弥義斎。八咫鏡が載せられています。

垂井曳やま祭り

1353年(文和2)北朝の後光厳天皇は南朝軍に京都を奪われ、足利義詮(よしあきら)らと共に垂井へ避難され、一時垂井の長者、長屋氏の屋敷を仮御所にしていました。その頃、原・蜂屋らの南朝軍がここを襲うという聞き、急いで美濃国守護土岐頼康の居城である揖斐小島の頓宮へ移られました。後光厳天皇は、尊氏の大軍が垂井に到着したため黒木御所へ戻られました。足利義詮は京都へ向かいました。同時期、祇園社の社僧、顕詮と顕深は分霊を黒木御所に祀り、戦勝祈願をしました。京都へ到着した足利義詮は京都を平定し、後光厳天皇は京へ帰られました。これを祝して垂井の人々は花車3台を作り、ここからお祭りが始まったとされます。

本龍寺を過ぎると右手の路地へ入っていき、八重垣神社へ向かいます。

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八重垣神社(牛頭天王)

後光厳天皇が京へ戻る際、黒木御所へ祀った祇園社を産土神とされ、牛頭天王社と命名し、1532年(天文元)城主、長屋景重が現在地に社殿を造営し遷宮しました。1868年(明治元)社名を八重垣神社と改称しました。

再び中山道へ戻り、中山道で曲がらずにそのまま直進していくと左手に「西清水」があり、最初の十字路で右へ曲がると「長屋氏屋敷跡」があります。

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西清水

垂井は山に囲まれた扇状地のため、伏流水が多くあちこちに湧水が見られます。

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長屋氏屋敷跡(黒木御所)

後光厳天皇が京から逃れてきたときに仮御所となった場所です。義詮の父、足利尊氏はここで病気になり、後光厳天皇の京都帰還が遅れましたが、病気が治ると京都へ出発されました。石碑は1788年(天明8)の建立。
中山道へ戻り、すぐ先左に「油屋以蔵家」があり、90mほどで垂井宿 西見附となりますが、この付近にも山車がでており、ちょうど子供歌舞伎が始まるところでした。

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油屋以蔵

土蔵造りの旧家・古井家は芥川賞作家、吉井由吉の遠縁です。

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垂井曳やままつり

八重垣神社の例大祭で、660年以上も続く垂井町伝統行事です。岐阜県重要有形民俗文化財、垂井町重要無形文化財にも指定されています。

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垂井宿 西見附跡・愛宕神社

西見附跡には愛宕神社があります。今日はこの西見附前の中山道で子供歌舞伎が行われていました。
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歌川広重「垂井宿」

垂井宿西見附付近から西側を描いたものと思われています。

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伽藍先代萩「御殿の場」

安永年間(1772〜1780)に始まったとされる子供歌舞伎が小学生の芸児によって演じられているとのことですが、とても小学生には見えません。芸児たちは、学校を約2週間休んで稽古に打ち込み、3日間で10数回も演じるそうです。恐らく全て男児だと思いますが、皆綺麗にお化粧され女性に見えますし堂々と演技され、難しい台詞回しもこなしていました。とても上手で長時間、最後まで見入ってしまいました。

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伽藍先代萩「御殿の場」

仙台藩の御家騒動「伊達騒動」を題材にした作品です。「御殿の場」では、お家乗っ取りをたくらむ逆臣が若君・鶴千代に差し出した毒入りまんじゅうを、乳母政岡の実子・千松が身代わりに食べ、口封じに殺されてしまう有名な場面です。
垂井宿 西見附をでて関ヶ原宿へ向けて進んでいきます。150mほど歩くと左手に「松島稲荷神社」があります。

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松島稲荷神社

1839年(天保10)創建。松島は江戸期に中山道の松並木沿いの小さな村でした。昔は限られた土地や小村を島と呼んでいました。その美しい「松のある島」松島に伏見稲荷をお迎えし祀ったものです。
JRの踏切を越え、国道を横切り直進していきます。国道を越えて250mほどで「日守の茶所」へ至ります。隣が垂井一里塚です。

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石仏祠

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日守の茶所

江戸時代に垂井町岩手の美濃獅子門、化月坊が中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地である常盤御前墓所に秋風庵を建てました。明治になると現在地へ移し、街道を通る人々の休憩所として、昭和の始めまで利用されました。建物の左側は弘法堂であり、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所ともなっていました。

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垂井一里塚・浅野幸長陣跡

垂井一里塚は、南側の一里塚のみ完全な形で残されています。往時は榎が植えられていたとされます。

浅野幸長陣跡

浅野幸長は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中の領主でした。関ケ原の戦いでは豊臣秀吉領でありながら、石田三成と確執があったため東軍に属し、先鋒を務め岐阜城を攻略しました。この付近に陣を構え、南宮山を陣とする毛利秀元ら西軍に備えていました。

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200mほど進み、国道21号を越え、関ヶ原バイパスの上を抜けると古い町並みが残る野上へ入っていきます。右手、伊富岐神社へ向かう参道入口に伊富岐神社の石柱があります。

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伊富岐神社参道

伊吹神社はかつてこの地を支配し、東山道・中山道を開拓した豪族伊吹氏の氏神で、美濃国一の宮であった古社でした。1kmほどあるので寄らずに先へ進んでいきます。
TOO001 伊富岐神社参道から300mほど進み、野上行宮跡へ向かうため左手の細道を入り、坂道を上っていきます。国道を越えてさらに緩い坂を上ると右手には「真念寺」がありますが通り過ぎ、新幹線の線路の上を通っていくと墓地があります。墓地の中を抜けていくと「天武天皇野上行宮跡」があります。

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天武天皇野上行宮跡

672年(弘文元)の壬申の乱において大海人皇子(おおあまのおうじ)は野上の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地に行宮を興し本営としました。壬申の乱の後、行基が行宮の廃材で南方六坊を建てたとされます。この地、通称「寺社屋敷」が行宮跡地と伝えられています。
TOO001 上ってきた道を下ります。垂井町の北に広がる山々で、景色がいいです。

通り過ぎた真念寺へ寄ります。真念寺には「班女の観音堂」があります。

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真念寺

寛正年中(1460〜1466年)、池田家の者が出家し南方六坊の中の真念坊に居住しました。文禄年中(1592〜1596年)、大坂石山合戦のとき織田信長に諸堂焼き払いにあうも、真念坊に因縁の深い第四世兵勝が相続します。1682年(天和2)に山号・寺号を賜り「鶏籠山真念寺」と称しました。

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班女の観音堂

平安中期の野上長者の娘の物語が伝えられています。いくつかの物語がありますが、現地にある案内板にある「謡曲・班女」を紹介しておきます。

謡曲「班女」と花子

平安の中頃、美濃国野上の宿の娘である花子が、旅の途中に立ち寄った吉田少将と契を結びますが、少将が立ち去ったあとも忘れられず、形見の扇を持ち訪ね歩いた末、扇が縁となり再開するというお話です。「班女」とは漢の武帝の籠婚でしたが、その愛を失ったのを「秋の扇」に例えたことに由来します。花子はのちに病死した我が子の供養のため、野上の観音山に観音像を祀ったといわれていますが、花子を弔う墓も塚も野上にはありません。因みに花子は謡曲「隅田川」の梅若丸の母でもあります。

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木曽路名所図会「関ヶ原野上里」

中山道へ戻ると正面に「野上の七つ井戸」があり、その西側の小路へ入っていきJRにぶつかったら右へ進むと多くの古い五輪塔が固まっている塚があります。

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野上の七つ井戸

江戸時代の頃から防火用・生活用・として利用されてきました。水道が整備されてからは放置されていましたが、修理・再現されました。
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しゃもじ塚・平忠常の墓

平安時代中期、房総三カ国で平忠常の乱が起こりました。この乱で朝廷は討伐軍を派遣しましたが、平忠常は徹底的に抵抗したため戦は3年にわたって続きました。ところが、討伐軍に源頼信を起用するとすぐに忠常は降伏し、乱は終息します。頼信の出陣で忠常があっけなく降伏したのには、忠常が頼信の家来であったためといわれています。その後、都へと移送されるのですが、その道中で病気になってしまいました。病気になった忠常に野上の村人が食物を「しゃもじ」に乗せて差し出すと、食物としゃもじを一気に口に入れ、そのまま息を引き取ってしまいました。哀れに思った村人が塚を築いて葬ったとされます。

中山道へ戻り、130mほど歩くと左手に立派な旧家があります。野上の古い町並みをさらに300mほど進むと野上立場があったあたりになります。

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野上の長者屋敷

班女が住んだという野上の長者屋敷、岩田家には班女の化粧水池があると言われています。
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野上立場跡

野上は、江戸時代には垂井宿と関ヶ原の間の宿でありましたが、中世においては東山道の宿駅として栄えていました。

民家が密集する立場あたりを過ぎると松並木が始まり、右手に「山内一豊陣跡」の案内板があります。

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山内一豊陣跡

織田信長の家臣で豊臣秀吉にも仕えた山内一豊は、会津征伐の途上で開かれた小山評定の折、徳川家康の西上に対し、自らの居城である掛川城の供出を発言し家康に高く評価されたと言われています。 関ヶ原の戦いでは約2千の兵を率いてこの付近の野上に布陣し、南宮山の毛利秀元ら西軍諸隊を抑える重要な役割を果たしました。午前11時頃、家康が陣場野に本陣を移すと一豊も主戦場へ陣を移し戦いました。合戦後は土佐に転封されました。

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野上の松並木

樹齢300年余りの松の老木が、街道の両脇に並んでいます。町指定天然記念物として、保護に務めています。
山内一豊陣跡から170mほどで公園があり、六部地蔵が祀られています。

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六部地蔵

全国の寺社などを巡礼し、旅をしながら修行をしている人で、厨子を背負って読経しつつ行脚中の行者が1761年(宝暦11)この地で亡くなり、里人が祠を建て祀ったと言われています。 「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」と詠まれていたように、痛みのひどい病気を治すと言われています。

六部地蔵から400mほど、三菱自動車販売店横から、桃配山へ寄り道するために一旦国道へでます。国道を100mほど戻り桃配山へのぼっていきます。ちなみにこの三菱自動車販売店では旅人にトイレを開放してくださっています。中山道側に入口があります。ありがたいですね。

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桃配山・徳川家康最初陣跡

関ヶ原合戦時、徳川家康は早朝にこの桃配山に布陣しました。 なかなか進展しない戦いにしびれを切らせた徳川家康は、11時頃に三成が陣を置く笹尾山の正面である陣場野へ本陣を進めました。

桃配山は672年(天武天皇元)の壬申の乱の際、大海人皇子が本陣を構えた地でもあります。密かに吉野を脱出した皇子が勢いのある美濃の兵士を集め、近江勢との結成の前、兵士に山桃を配ったと伝えられる縁起の良い地とされています。この乱では大海人皇子が勝利しました。

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桃配山を下りて中山道へ戻ります。一つ軒交差点から旧道へ入り、100mほど進むと不思議な家があります。

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一つ軒の休憩所

「関ヶ原町公認 無料休憩所」という看板に笑ってしまいました。休憩所とありますがちょっと入りづらいですよね。椅子が一つおいてあるので、きっとここへ座って行き交う旅人と会話したりするのを楽しんでいる方だと思います。今日はいらっしゃらないみたいで、ちょっと残念です。
さらに250mほど進むと右手に馬頭観音の祠があります。

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馬頭観音

馬頭観音を過ぎると国道21号線へ合流します。国道を300mほど進むと右手に「若宮八幡神社」があります。

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若宮八幡神社

創建は不明ですが、1600年(慶長5)関ヶ原合戦において社殿が焼失、修理のため家康が御扶持(給与)3千人分を正月から6月まで与えた記録が残ります。現在の社殿は1979年(昭和54)に改築されたものです。境内社の愛宕神社は国道21号の拡幅工事により1935年(昭和10)移築されました。

次は「与市宮」へ寄ります。若宮八幡神社から170m、ガソリンスタンドの手前から右手へ入ると与市宮の裏になります。入口は西側なので、奥からぐるっと入口側へ回り込みます。

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与市宮(よいちのみや)

源平時代に関ヶ原村の郷士・開拓者として仰がれた関ヶ原與市の霊を祀っています。樋口家では與市を当家の始祖として、また関ヶ原の開祖として崇敬しています。家康は関ヶ原合戦の翌日、出発する際に「禁制」を寄せ、現在も家宝として保存されているそうです。
「禁制」とは戦後、略奪や破壊などの禁止事項が書かれた文書です。戦後には略奪などをする戦国武将などもいたことからの配慮だったのでしょう。

同じ道を通り、中山道へ戻り国道を230m進むと左手に「関ヶ原たまり」と大きく書かれた古い建物があります。

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関ヶ原醸造

1897年(明治30)醤油醸造の商店として創業しました。たまり醤油を醸造していますが、720mlで3000円もする高級なお醤油です。
関が原一里塚は影も形もありませんが、恐らく関ヶ原醸造付近にあったのではないかと思います。

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七つ井戸跡

昭和の初期まで七つ井戸の一つがありました。(東町若宮前・郵便局東・藤井病院前・歩道橋前・宗徳寺前・愛宕神社参道前)
七つ井戸の向かいに「旅籠ますや」があります。創業400年。建物は新しくなっていますが、現在も旅館を営んでいます。

左へ入っていく道が「伊勢街道」であり、往時ここには道標がありましたが、無くなっています。伊勢街道の牧田からは「多賀みち」といわれ、南方の上石津一之瀬へ向かう道で、関ヶ原合戦での島津軍敗走路でもあります。

ここから伊勢街道へ入り、本多忠勝陣跡へ向かいます。100mほどで「稲荷神社」があり、そのすぐ先に「公門愛宕神社」があります。

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稲荷神社

由緒等は不明です。

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公門愛宕神社

1843年(天保)80戸の守護神として祀られました。1898年(明治31)鉄道敷設により現在の駅前通りに移り、1930年(昭和5)国道改修に伴い、現在地へ移されました。
さらに200mほど進み、左手細い路地へ入ると公門第二会館があり、その左手が「本多忠勝陣跡」になります。

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本多忠勝陣跡

本多忠勝

本多忠勝は武勇の誉れ高く、徳川四天王の一人です。関ヶ原の戦いでは東軍として500の兵を率いてこのあたりに布陣、伊勢街道を抑え南宮山方面の西軍諸隊を牽制するとともに、桃配山に布陣した徳川家康本隊との間で戦況を睨んでいました。南宮山の西軍諸隊が動かないと見切ると徳川本隊の前進と合わせ、自らも戦闘に参加しました。午後には松平忠吉・井伊直政らと共に敵中突破を図る島津義弘を追撃しています。忠勝は天下三名槍「蜻蛉切(とくぼきり)」を手に、肩には葬った敵を弔うための大数珠を下げ、生涯57度の戦いで傷ひとつ負わなかったとされます。

本多忠勝陣跡から中山道方面へ130mほど戻り、左手へ入っていくと小さな緑地があります。下へ下りて行くと清水が湧く水場があります。

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清水地蔵堂

地蔵堂の下からこんこんと清水が湧いています。綺麗に整備されており、野菜を洗ったりするスペースが設けられていますが、今でも使われているのでしょうか?

中山道へ戻り、左へ折れるとすぐに車を止めた駐車場でした。

14:40 本日はここまでです。天気もよく、旧道が多く残っており、楽しい道中でした。ラッキーなことにお祭りも見られて良かったです。

宿泊するグリーンパーク山東内の「鴨池荘」へ向かいます。