2024年5月3日

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9:20 関ケ原古戦場記念館に車を駐車し、本日は古戦場を歩いて散策します。今日はいいお天気ですね。

まずは関ケ原古戦場記念館西側の「床几場」へ向かいます。陣場野公園北側に「御霊神社」、「貴船神社」があります。

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御霊神社

関ヶ原合戦の慰霊のため、380年後の1980年(昭和55)に建立されたようです。

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貴船神社

昔から陣場野地区は水に恵まれなく、わずかな井戸も枯渇。第日本紡績(現ユニチカ)の工場誘致に伴い、人口も急増し、増々水不足となったため、1926年(大正15)大規模な汲み上げ施設が完成し、水神として貴船神社を勧請しました。
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徳川家康最後陣跡・床几場

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は論功行賞の判断材料とするため、床几に腰掛け首実験しました。実験した首や遺骸は首塚を造らせて葬らせました。正面中央の土壇と周囲の土塁や松は1841年(天保12)幕府の命を受け、この地の領主、竹中重明が築きました。

陣場野公園西側の道を通り、「田中吉政陣跡」へ向かいます。

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田中吉政陣跡

田中吉政は、約3千の兵を率いて陣場野付近に布陣し、黒田隊らと共に石田隊と激戦を繰り広げました。合戦後には、逃走した三成捕縛の命をうけ、古橋村(滋賀県長浜市)の洞窟に潜んでいた三成を捕縛する大功を上げました。吉政は三成を丁重に処し、その礼として秀吉から拝領し最後まで携帯していた脇差「切刃貞宗」を授けたと伝わります。

田中吉政陣跡の前の道を南へ下って230mほど歩くと左手に「東首塚」があります。また、松平忠吉・井伊直政陣跡でもあります。

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東首塚

戦いの翌日、徳川家康は破壊された神社の修復や戦場に残された戦死者の処理を命じました。関ヶ原一帯を領していた竹中重門はその命を受けて遺体を埋葬し、東西2箇所に首塚を造営しました。

唐門と供養堂は尾張藩第7代藩主、徳川宗春に関連する建造物といわれる旧山王権現社(名古屋市)の一部を1942年(昭和17)に移築したものです。

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首級墳碑

1817年(文化14)関ヶ原宿本陣の主を務める古山兵四郎は、関ヶ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧し、首級墳碑を建てました。
『徳川家康が東国で勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権が不利とみて兵を挙げた。1600年(慶長5)』と関ヶ原合戦の経緯が刻まれています。

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スダジイの古木

スダジイの古木が残っている場所が首塚です。塚は風化により形を留めていませんが、玉垣に囲まれそびえるスダジイの古木が残るのみです。

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松平忠吉・井伊直政陣跡

徳川家康の四男、松平忠吉とその甥で徳川四天王の一人として名高い井伊直政は、ここより約200m東、現在のJR関ヶ原駅付近に約6千の兵を率いて布陣しました。
東首塚を東側からでて、太い道を北へます。関ケ原古戦場記念館、関ケ原町歴史民俗資料館を過ぎ、次の交差点を右へ曲がります。JAの手前を左へ曲がると宝有公園があり、その一角に「細川忠興陣跡」の石碑が建立されています。

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細川忠興陣跡

細川忠興は、父・幽斎(藤孝)とともに一流の文化人として知られ、利休七哲の一人としても名を連ねています。豊臣恩顧の有力武士でしたが、石田三成と仲が悪かったため、始めから東軍として参加しました。
合戦前に三成は妻子らを人質に取ろうとしましたが、忠興の妻・玉(ガラシャ)は拒絶し命を絶ち、さらに父が守る田辺城(京都府舞鶴市)は西軍によって包囲されてしまい、三成への憎悪が深まったとされます。

JAまで戻り、左へ曲がり直進。相川を右へ曲がり、相川沿いを270m進み左へ曲がります。

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相川

国道21号の瑞竜交差点から坂道を上っていきます。住宅地の中に祠と古い五輪塔があります。

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祠と五輪塔

国道から250m程度で左に入る道があります。右手には駐車場がありますので、ここまで車で来ることもできます。ジグザグと山道を上っていくと「金刀比羅神社」があり、さらに上ると岡山烽火場跡があります。

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金刀比羅神社

関ヶ原合戦の際、讃岐領主・生駒一政は黒田長政や竹中重門と共にこの岡山の地に陣を構えました。このとき、一政は奉持してきた金比羅宮の御神像を松の枝にかけ、戦勝を祈念しました。合戦後、村人はこの御神像をもらい受け祀ったとされます。また慶応の時代、関ヶ原の庄屋古山一八が社殿等を改築したとも伝えられます。1919年(大正8)の遷宮により現在地へ移されました。

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黒田長政・竹中重門陣跡・岡山烽火場

黒田長政と竹中重門は約5千の兵を東軍の最右翼としてここに布陣しました。午前8時頃に開戦すると、攻撃の合図の狼煙を上げ笹尾山の石田三成を攻撃しました。
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黒田長政・竹中重門陣跡・岡山烽火場

黒田長政は島左近の奮戦により幾度も押し返され、戦法を打破すべく、隊の一部を三成が陣とする笹尾山北側へ迂回させ、石田隊を側面から攻撃しました。

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島左近陣地への奇襲道

石田隊を側面から奇襲攻撃するために使用したとされる「奇襲の道」を歩いてたどってみたいと思います。

山道を進んでいくと辻があり、左手へ行くと中田池方面ですが、小山を巻くように右のほうへ向かい「北野神社」へ寄り道します。急な石段を上ると北野神社があります。

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北野神社

1778年(安永7)の大火により記録を焼失したため、創建年は不詳ですが、「藤井文庫」によれば平安末期の1170年(嘉応2)藤原基清(与市)が公門に役所を設けた時、鬼門除けとして祀ったとされます。宮寺として瑞龍寺があり、その門前の集落を大門(現瑞竜)といい、往古はかなり賑わっていたとされます。1695年(元禄8)に瑞龍寺が再興されると社殿の修理などは瑞龍寺で行われています。

瑞龍寺は、北野神社の北方に現在もあります。

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先程の辻まで戻り、中田池方面へ進みます。中田池沿いの道は「東海自然歩道」になっており、このあたりは関ケ原の自然を楽しめる「エコフィールド関ヶ原」になっています。

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中田池

3つの池があり、最初が中田池、次に小栗毛池、最後に八幡池を通っていきます。
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八幡池の祠

創建の詳細は不明ですが、圀狭槌命(くにのさたちのみこと)、水速女命(みずはのめのみこと)、八大龍王の神様が祀られているそうです。
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八幡池

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藤の花

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シオカラトンボ

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八幡池

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八幡池を越えて竹林を抜けます。

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ぱっと開けた!

黒田長政が送った奇襲隊は、このあたりから島左近陣地を側面から攻撃したそうです。この策は功を奏し、左近は長政の家臣・菅六之助の攻撃で負傷したとされます。
国道の下を通り、まっすぐ進むと「関ケ原合戦決戦地」があり、多くの観光客で賑わっています。

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関ケ原合戦決戦地

東軍諸隊が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。
関ケ原合戦決戦地から北の笹尾山交流館へ向かい、その前の道を左へ向かってくと石田三成が陣を敷いた笹尾山の入口へ至ります。笹尾山の麓が「島左近陣跡」です。島左近陣跡からは階段を上り石田三成陣跡へ向かいます。

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島左近陣跡

島左近は『治部少(石田三成)に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城』と謳われたほどの智将で、三成は自らの俸禄の半分を与えたとの逸話が残ります。

笹尾山に布陣し、攻め寄せると黒田長政や細川忠興ら東軍をいくども押し返す活躍を見せましたが、長政の家臣・菅六之助(菅正利)の射撃で負傷し、討ち死にしたとも、戦場を脱したとも言われます。

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笹尾山 石田三成陣跡

石田三成隊、約6千は前日の前日の夜半に大垣城をでて、合戦当時の午前1時笹尾山へ布陣しました。小早川秀秋が正午頃寝返り、大谷吉継が壊滅すると西軍は次々に崩れ敗走し、午後2時頃には壊滅しました。天下分け目と言われる戦いはわずか半日で幕を閉じました。三成は背後の伊吹山方面へ逃れていきました。
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石田三成陣跡

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武将

武将のコスプレで歩き回ってサービスしている人もいますね。
笹尾山を下りて、畑の中を南へ向かいます。国道365号を横切り、そのまま直進していきます。案内板のとおりに進んでいくと右手に「創業者の家」と書かれた公園のような綺麗な敷地がありました。

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創業者の家

矢橋五郎氏の家が再現されているそうです。日本国有鉄道の軌道用機器を生産した関ケ原製作所を創業した方です。
創業者の家を過ぎると樹林が広がってきます。住宅はなくなり、次の十字路を右へ曲がると「小池神明神社」です。小池神明神社から60m進むと「島津義弘陣跡」があります。

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小池神明神社

創建は不詳ですが、秋葉神社(左)を勧請して祀ったとされます。その後雨乞いのため神明神社(右)を勧請しました。1600年(慶長5)関ヶ原合戦時には近くの丘陵に祀られていましたが、島津義弘が境内を本陣とし、戦勝祈願をしたと言われます。また、1853年(嘉永6)火災にあったため、現在地へ移転しました。

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島津義弘陣跡

島津義弘隊1万5千は未明までに関ヶ原へ入り、北西250mほどの薩摩池付近に陣を敷きました。西軍が敗走すると西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも東軍正面を突破し、伊勢街道を南方へ抜ける進路をとり、徳川家康本陣に向けて猛烈な勢いで突撃しました。

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「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑

鹿児島県日置市の青少年組織は、関ヶ原戦跡踏破隊として1960年(昭和35)から夏休みを利用して関ヶ原から大坂までの島津勢退路を踏破しているそうで、その参加者の名が刻まれているそうです。
島津義弘陣跡前を過ぎて畑の中の丁字路を左へ曲がります。畑の中を200mほど進むと右手が「関ヶ原合戦開戦地」で、奥に「小西行長陣跡」があります。

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関ヶ原合戦開戦地

昨夜からの雨が上がり、霧が晴れ始めました。午前8時頃、西軍の松平忠吉と井伊直政が抜け駆けし、宇喜多隊に発砲、天下の覇権をかけた国内最大級の戦いが関ヶ原で繰り広げられることになりました。

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小西行長陣跡

小西行長は宇土城(熊本)で肥後半国を治める加藤清正と政治的に対立を深め、西軍として参加しました。北天満山に布陣、開戦すると攻め込まれ切り崩されていきます。
小早川秀秋が寝返ると総崩れとなり、小西隊は敗走。行長は春日(揖斐川町)方面へ敗走しました。後に捕縛され、京都六条河原で処刑されました。

関ヶ原合戦開戦地からは進路を西へ向かい、突き当りを左へ。120mほど畑の間を抜け、右手のあぜ道へ入ります。長屋のような家の前を抜けて、突き当りを左へ。150mほど進むと「天満神社参道」の入口から天満神社への山道を上っていきます。天満神社境内付近が「宇喜多秀家陣跡」です。

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天満神社参道

創建は不詳。可児の顔戸城を築き美濃の守護代であった斎藤妙椿の一族、柴井七郎が北野天満宮から勧請し、この山も天満山と名付けたとされます。宇喜多秀家が天満神社一帯に陣を張り激しく戦い、この時社殿は焼失しました。

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天満神社

関ヶ原合戦で社殿は焼失しましたが、1663年(寛文3)岩手藩主竹中越中守の寄進をうけ、再建されました。この時藩主は純金製の観音像を合祀しましたが、明治初めに盗難にあっています。本殿扉には天満神社の神紋である梅の花の文様が描かれているそうです。
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宇喜多秀家陣跡

五大老であった秀家は、西軍の副大将を担いました。関ヶ原合戦においては、西軍最大の1万7千を率い、明石掃部(全登)が先陣を務め、可児才蔵を先陣とする福島隊と激戦を繰り広げました。小早川秀秋が寝返ると状況は一変、総崩れとなり伊吹山中へ逃れ、さらに島津隊をたより薩摩に落ち延びましたが、徳川へ引き渡されたのち八丈島へ流され、流人として84歳まで生きたとされます。

TOO001 「宇喜多秀家陣跡」石碑の左手から斜面を下りていくと林道へでます。林道を奥へ進んでいくと藤古川浄水場があります。

TOO001 藤古川浄水場の手前を左へ曲がります。

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藤古川ダムの上を歩いて藤古川の対岸へ渡ることができます。ダムの上はちょっと怖いですが、綺麗な景色です。
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藤古川

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ダムを越えて対岸の細道を登ると広い広域農道へでます。左手へ曲がり広域農道を300mほど進むと右手に「平塚為広の碑」があります。

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平塚為広の碑

垂井城主平塚為広は、盟友・大谷吉継の配下として北陸方面を転戦したのち、戸田勝成とともに約600の兵で藤川台に布陣しました。病の大谷吉継の代わりに前線指揮を行い、藤堂高虎・京極高知らを相手に善戦しましたが、小早川秀秋が寝返ると吉継と共に押し返しますが、脇坂安治らも寝返ったため支えきれずに討死しました。
辞世の句「名のために捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば」 石碑は1940年(昭和15)子孫が建立したものです。

「平塚為広の碑」から広域農道を80mほど戻り、左手から再び山道へ入っていきます。

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山道を500mほど、どんどん上っていきます。足元はあまり良くありませんが、静かな登山道で、誰にも会いません。頂上付近まで上ると「大谷吉継顕彰碑」「大谷吉継の墓」があります。

藤川台

藤古川(関の藤川)の右岸に位置しています。この川岸の上を「藤川台」と呼ばれていました。地形が平らでやや高いところからその名があります。ここへ大谷吉継・戸田重政・平塚為広らが布陣し、小早川隊との壮絶な死闘を展開しました。

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大谷吉継顕彰碑

1940年(昭和15)不破古跡保全会によって建立しました。 「大谷吉継は石田三成の挙兵をいさめたが、聞き入れられなかったため、意を決して西軍に与し奮戦したものの衆寡敵せず自刃した。これは主君である豊臣秀吉の恩に報い、共に秀吉に仕えた三成との義に殉じたもので、まさに武士道の模範である」と記されています。

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大谷吉継(吉隆)の墓

最期を悟った吉継は「病み崩れた酷い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯を受け藤川台で自刃しました。
吉継の首を隠した五助は直後に出くわした藤堂高虎の甥・高刑へ首の在所を秘密にしてほしいと頼み、自らの首を差し出しました。高刑は約束を守り首の所在は言わなかったとされ、藤堂家によって吉継の墓が建立されました。 1916年(大正5)には湯浅家によって吉継の墓に寄り添うように五助の墓が建てられました。

大谷吉継の墓から若宮八幡神社側(中山道側)へ下っていくと「大谷吉継陣跡」の石碑があります。

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大谷吉継陣跡

この場所は東山道(中山道)を見下ろせ、松尾山を正面に望むため、東軍の近江侵攻や小早川秀秋の抑えにもなります。吉継は当初から小早川秀秋の不穏な動きを警戒し備えていました。
病であった吉継は馬にも乗れず、輿に乗って後方から部隊を指揮したといいます。正午ごろに秀秋が寝返ると、予想していた吉継は松尾山へ押し返しましたが、直後、脇坂安治らも寝返ったため大谷隊は壊滅しました。

大谷吉継陣跡の石碑から左手へ100mほど進むと「松尾山眺望地」という場所があり、ここから松尾山の小早川秀秋の陣跡が見えます。

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松尾山小早川秀秋陣跡

正面の標高293mの山が小早川秀秋の布陣した松尾山です。緑の木々の中にかろうじて旗印が見えます。

50mほど戻ると左手から中山道へ下る道があります。ここをつづら折れに下りて行くと「若宮八幡神社」があります。

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若宮八幡神社

創建年は不詳ですが、弘文天皇(大友皇子)を祀っています。672年(弘文元)の壬申の乱の際、何かしらの関わりがあったため祭神となったと考えられていますが、詳細は不明です。

若宮八幡神社の参道の中にJRが通っています。参道の石段を下ると中山道へでます。大谷吉継陣跡駐車場でタクシー会社へ電話してみましたが、今日はGWで30分以上かかるということなので、このまま歩いて戻ることにしました。東へ180m、国道21号へでて関ヶ原駅方面へ進んでいきます。中山道は旧道が残っていますが、次回、歩きますのでそのまま国道を進みます。国道を1.2kmほど進むと左手に「西首塚」がありました。

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西首塚

往時の領主、竹中重門が家康の命により兵士たちを埋葬した地です。
西首塚から160mで左の路地へ入ると「西町愛宕神社」があり、JR線路手前で国道365号へでて、スタートした関ケ原古戦場記念館へ向かいます。

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西町愛宕神社

創建年は不詳です。7月31日の夜から翌早朝にかけて登拝する「千日参り」という行事が行われ、この日に参詣すると千日分の火伏の御利益があるとされます。
関ケ原古戦場記念館の中へ入り、展示物を見学したいと思います。

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関ケ原古戦場記念館

グラウンド・ビジョンもシアターもすべて予約で埋まり、展示物しか見ることはできませんでした。展示室しか見られないのに入場料は同じ・・???というのがちょっと残念ですね・・
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関ケ原古戦場記念館の展望台

360度の関ケ原の景色が楽しめます。先程歩いて回ってきた各陣地が見渡せますね。

15:40 ランチを取っていないのでお腹がペコペコです。関ケ原古戦場記念館の横に併設している「伊吹庵」でランチです。ようやくご飯にありつけます。

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伊吹庵

天下分け目のバトルライス\1,920円と武将パフェ(石田三成)\1,120円を注文しました。 飛騨牛を使ったハヤシライスと武将カレーの天下分け目の戦いを模したカレーです。西軍のハヤシライスには白味噌パウダーを、東軍の武将カレーには八丁味噌パウダーが添えてあります。ました。結構美味しいカレーで、野菜も添えてあり大満足。

武将パフェは「石田三成」をチョイス。石田三成の兜は「乱髪天衝脇立兜」と言うそうで、乱髪部分はわた菓子に黒ごまを擦ったもので表現されていました。バニラソフトクリームに抹茶ソースがかけられています。コーンフレークではなく、麦のフレークのようなカリカリも美味しかったです。

16:30 車をピックアップし、これからちょっと用事があるので淡路島まで向かいます。 関ケ原古戦場は車でちょこちょこ回っている観光のかたもたくさんいますが、歩いて回るほうがずっと楽しいですね。全行程で10kmほどでした。