浮世絵に描かれた高麗山の姿は今も昔も変わらず

2002年6月2日

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7:15 平塚駅を出発します。

お菊塚

「番町皿屋敷」のお菊は平塚宿役人、真壁源右衛門の娘で器量がよく小町と呼ばれていましたが、24歳の時に江戸で殺されたと言われています。死骸は長持ちに詰められ、馬入の渡場で父に引き渡され、父は「あるほどの花投げ入れよ すみれ草」と言って絶句したそうです。刑死人の例に習い、墓を造らずにセンダンの木を植えて墓標にしたそうです。現在は「紅谷公園」となっています。

番町皿屋敷のお菊

行儀作法見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が菊を斬り殺したといいます。一説によると旗本青山主膳の家来が菊を見初めたが、菊が言うことを聞かないので、家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊が紛失したと告げたため、1740年(元文5)、菊は手討ちにされてしまいました。しかし、後日皿が発見されたといいます。
平塚市民センターの壁面に「広重 平塚」が大きく描かれています。

平塚宿の江戸見附

ここから平塚宿内になります。平塚宿は約1.5kmあり、200軒ほどの家屋が軒を連ねていました。

山本脇本陣

享和年間は、西組問屋場よりも西にあったようですが、天保年間にはこの場所の山本安兵衛が脇本陣を務めました。

平塚宿高札場跡

長さ約5m、横1.8m、高さ3mの大きな高札がありました。平塚宿には平塚や大磯までの公定運賃を定めた高札なども掲げられていました。

平塚宿東組問屋場跡

平塚宿では問屋場は2か所あり、西仲町あったものを「西組問屋場」、二十四軒町にあったものを「東組問屋場」といいました。

加藤本陣

平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛が務め、14代将軍徳川家茂は文久3年と元治2年の2回休憩しており、明治天皇は東京行幸と遷都の際に小休止されました。

湘南ひらつか七夕まつり

平塚は、昭和26年より開催されている「湘南ひらつか七夕まつり」で有名です。日本三大七夕まつりの一つで、平塚商店街を中心に道路は歩行者天国となり、屋台が連なり盛大に行われます。毎年150万人以上の人々で賑わいます。

西組問屋場跡

平塚宿の問屋場は、元々この場所の問屋場1軒でしたが、交通量が激増したため隣接の八幡新宿の加宿を願い出て、1651年(慶安4)に認められ、新たに「東組問屋場」が置かれました。両問屋場は10日ごとに交代で業務を行ったそうです。

要法寺

鎌倉幕府の執権北条泰時の次男、地頭北条泰知の屋敷でした。最初は念仏信者でしたが、日蓮が龍の口で処刑(龍の口の法難)されんとした時、江の島の方より光り物があらわれ、処刑人の刀が折れて飛び散り、処刑人が失神するという不思議な現象を見聞した泰知は、以来、深く法華経を信じ帰依するようになりました。また、1282年(弘安5)に日蓮が館を訪れた際の説法に感動し直弟子となり、館を献上して寺とすることを誓いました。

平塚の塚緑地

「平塚の塚」はこの緑地内にあり、緑地は休憩スペースとして綺麗に整備されています。

平塚の塚碑

天保11年に幕府によって編纂された「新編相模国風土記稿」の中に里人の言い伝えが記載されています。昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘、平真砂子が東国へ向かう旅をした折、857年(天安元)この地で逝去しました。棺はここへ埋葬され、墓として塚が築かれました。その塚の上が平らになったため、里人は「ひらつか」と呼んできた、という一説があり、これが平塚の地名の起こりとなったそうです。

高麗山(こまやま)

「広重 平塚宿」に描かれた特徴的な形の高麗山。標高約160m、相模湾より相模一国を見渡すことができます。昔、高句麗の王族、高麗若光が住んでいたという伝説があります。

平塚宿京方見附跡

京方見附の場所は定かではありませんが、言い伝えや資料によってこのあたりにあったとされています。「広重 平塚宿」もこのあたりからの眺めと考えられています。

大磯町へ入ります。

平塚一里塚跡

江戸時代からの一里塚は失われてしまいましたが、平成に入り復元されました。脇の川が「花水川」です。昔はこのあたりは桜がたくさんあり、散った花びらが浮かんで流れていくため、この名がついたと言われます。

善福寺

虎御前と曽我十郎の子、祐若が創建したと伝えられるお寺です。親鸞聖人が度々相模国・国府津を訪れ、近隣の人々に念仏を勧められていたといわれています。その聖人が国府津に留杖の折り、教化を受けた祐若(平塚入道)によって開基されました。

平塚入道

俗姓を曽我十郎祐成の子祐若 (すけわか ) と言いました。父の曽我十郎が仇討ちを遂げたとき、すでに母である虎御前は懐妊中でした。そして事件のあとに生れた男の子が、祐若でした。成長して源実朝より平塚の荘を賜り、河津三郎信之と名のりましたが、父祖いずれも天寿を全うせず悲運の最期を遂げし因縁を考え、出家し平塚入道と名のりました。この時期、親鸞聖人もたびたび国府津を訪れており、1229年、平塚入道は聖人のもとを訪ね、直ちに弟子となり「了源」という法名を賜り、母・虎御前の生地の近くであるこの地に草庵を結びました。

高来神社(たかくじんじゃ)

創建は明らかではありませんが、神武天皇の頃の創建とする記録があるそうです。神社奥には高麗山への登山道口があり、山頂まで登ると湘南平まで尾根伝いに行くことができます。この山中に虎御前が恋人の曽我十郎が亡くなった後に庵をあみ、隠居したと言われています。

高麗若光

「高麗」も「高来」も668年に唐・新羅連合軍により国を追われた高句麗に由来します。国を追われた高句麗の王族と従者の一部が日本各地に居住したとされます。大磯には王族の若光に率いられた有力な集団が上陸し、高麗山の麓に住み、付近の開墾に尽力したとされます。

化粧坂の松並木

初代歌川広重の浮世絵「大磯 虎ヶ雨」に描かれたのは、このあたりと言われています。「虎ヶ雨」とは、陰暦の5月28日に降る雨のことで、恋人曽我十郎の死を悲しんで虎女が流す涙と言われ、夏の季語にもなっているそうです。

化粧井戸

鎌倉時代の大磯の中心地は化粧坂の付近でした。当時の大磯の代表的な女性「虎御前」もこの近くに住み、朝夕、この井戸水を汲み化粧をしたためこの名がついたと言われます。

化粧井戸

『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女(虎御前)は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。 当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。

曽我物語

所領争いのことで工藤祐経伊東祐親に恨みを抱き刺客を送ります。刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり死んでしまいます。祐泰の子曾我兄弟の兄、萬丸は、元服して曾我十郎祐成と名乗り、弟の箱王丸は、縁者にあたる北条時政を頼り元服し、曾我五郎時致となりました。北条時政は曾我兄弟の最大の後援者となります。1193年(建久4)源頼朝は富士の巻狩を開催しその最後の夜、曾我兄弟は寝所で工藤祐経を討ち、仇討ちを成し遂げました。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちに取り囲まれますが、兄弟はここで10人斬りを見せますが、ついに兄十郎が仁田忠常に討たれてしまいます。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを取り押さえられました。頼朝は助命を考えますが、祐経の子に請われて斬首を申し渡し、処刑されました。曾我兄弟の仇討ちは、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つとされます。

大磯八景碑 化粧坂の夜雨

『雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松のしづくの 音ばかりして』   敬之

『街道の 夜の静けさや 秋の雨』   時處人

かつては昼なお暗いほどの松並木が延々と続き、周囲の自然と溶け込んで、実に風情のある場所だったようです。

小嶋本陣

1803年(享和3)、大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣がありました。小嶋本陣は建坪246坪でした。本陣は1836年(天保7)の大磯の大火で焼失し、再建されましたが、建坪は縮小しました。 後の1865年(慶応元)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、並々ならぬ努力が偲ばれます。

地福寺

真言宗京都東寺末の古刹で、かつて家康が利用した「御茶屋」があったところといわれます。また境内には島崎藤村の墓があることで知られます。

島崎藤村の墓

昭和18年、大磯の地で執筆を始めた長編小説「東方の門」は未完のまま永眠した藤村は、梅の古木に囲まれた地福寺境内に静子夫人と共に静かに眠っています。

尾上本陣跡・大磯小学校発祥の地

尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれており、幕末まで続きました。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの 現在の大内館(旅館)の場所にありました。
9:30 大磯宿をあとに小田原へ向かいます。