御殿山は削られ、海はどこへ−最初に出会う大河、六郷川

2002年5月3日

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※この記事は当時を思い出し、2018年に書いています

10:30 品川宿をあとに川崎宿へ進んでいきます。

幕府御用宿 釜屋跡

釜屋は立場茶屋の一つでしたが、大変繁盛して後には本陣のような構えに改築したそうです。幕末には連日のように幕府関係者が利用し、土方歳三も伏見の戦いの後にしばらく滞在していました。

品川寺

9世紀初頭、弘法大師空海により開山。品川では最も古い寺です。徳川家綱や太田道灌に庇護され、東海道を行きかう旅人を見守ってきました。

浜川橋(涙橋)

橋が架けられたのは1600年頃とされ、現在の橋は1934年(昭和9年)に架け替えられたものです。「涙橋」とも呼ばれました。1651年(慶安4年)に品川にお仕置場(鈴が森刑場)が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられ、江戸府内から刑場へ護送されました。親族らは密かにこの橋へ見送りに来て涙を流して別れたといいます。

鈴が森刑場

1651年(慶安4年)開設。1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年間で延べ10万人〜20万人もの罪人が処刑されたとされます。八百屋お七もここで処刑されたそうです。

八百屋お七

お七の家は1683年(天和2)の大火「天和の大火」で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難します。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓・庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払いましたが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。火はすぐに消し止められ、ぼやですみましたが、お七は放火の罪で捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。井原西鶴の『好色五人女』、落語や『天和笑委集』にも記載がありますが、事実関係は全くの謎で、実在していたかもよくわかっていません。

磔石(はりつけいし)

中央の穴に角材を立て、罪人を縛りつけ刺殺したそうです。丸橋忠弥をはじめとする罪人がこの台の上で処刑されました。

丸橋忠弥

生まれは定かではありませんが、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開きますが、由比正雪と知り合い、幕府転覆計画「慶安の変(1651年(慶安4))」に参加します。 結局は、作戦実行直前に密告により発覚し、正雪は自刃します。この乱に由比正雪の片腕となって加わっていた人物が丸橋忠弥です。丸橋忠弥は、計画が発覚したとき、江戸城乗っ取りを企てて江戸に潜伏していたため、真っ先に捕らえられています。その後の調べで、忠弥は「私は、長宗我部盛親の息子だ。関ヶ原の合戦で土佐一国を奪われ、大坂の陣で命を奪われた父の恨みを晴らそうと思っただけだ。」と言ったそうです。真相はわかりませんが、幕府転覆計画に加わったということで、ここ鈴ヶ森刑場で処刑されました。 墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、首塚は品川区妙蓮寺にあります。由比正雪の遺構は東海道を上がる途中、由比宿でも出会うことになります。

火炙石

中央の穴に鉄柱を立て罪人を縛りつけ、足元に薪を積み上げ火をつけたそうです。八百屋お七は、この台で火炙りとなりました。いまでも花をたむける人がいるのだ・・なんだかちょっとだけホッとします。

幹線道路に面していますが、ここだけ不思議と静かです。

梅屋敷と和中散売薬所跡

「和中散」は食あたり、暑気あたり等に効く道中常備薬として作られ旅人に珍重されました。3店舗が開業されたうちの1店舗が山本忠左衛門に譲られ、この地へ移転しました。

文政年間の初め息子久三郎の代に梅の名木を集めて休み茶屋を開き、これが梅の名所、梅屋敷として有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在は「梅屋敷公園」となっています。

「和中散」といえば石部から草津に向かう途中の六地蔵村に「ぜざいや」がありました。同じものだったのか・・パクリなのか・・ 調べたところ、元々はから伝わってきたようです。豊臣秀吉に伝えられ大阪の商人が作り始めたようです。不思議なことに「ぜざいや」があるのは「梅ノ木立場」、梅ツナガリですね。

六郷神社

1057年(天喜5)源頼義、義家の父子が大杉に源氏の白旗を掲げて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利を治めたので凱旋後にその分霊を勧請したのが創建とされます。

新六郷橋

多摩川の中央で神奈川県へ入ります。地元に戻ってきました。

明治天皇六郷渡御碑 1868年(明治元)、天皇は東下の道中、川崎田中本陣で昼食を召され、その後二十三艘でつくられた舟橋を渡御されました。
600年頃、家康は六郷大橋を架けますが、洪水で流されて以降、200年間もの間渡し舟の時代が続きました。

万年横丁・大師道

かつて「万年横丁」と呼ばれたあたりです。明治22年の新道完成までここを通って大師へ参拝していました。現在の道標は新しいもので、かつては1663年(寛文3)に建立された石道標がありましたが、現在は川崎大師境内に移築保存されています。歴史的価値も大きく名品であるそうです。

万年屋

万年屋で出されていた「奈良茶飯」は川崎宿最大の名物であした。大豆、小豆などと混ぜた茶飯に味噌汁を添えた定食です。当時、六郷の渡しを渡ると大師へ向かう旅人は川崎宿へは入らずに、折れていってしまうため、渡し場へ近い万年屋は東海道の旅人と大師へ向かう旅人で大変繁盛し、後には旅籠もかねたそうです。幕末にはアメリカ領事ハリスも宿泊しています。

田中本陣と休愚

1628年(寛永5年)に設けられました。この地出身の休愚は川崎宿の財政再建に尽力した人物。財政再建の一つとして橋が流された折、新しい橋を再建せず渡し舟とし、その渡し賃を宿場の収入とし、財政を立て直しました。またそれらの経験を「民間省要」に著し、八代将軍吉宗によって幕史に抜擢され享保の改革にも参画しました。

芭蕉句碑

1694年(元禄7年)郷里の伊賀に帰る折に見送りにきた弟子達と別れた場所とされます。

『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』

13:15 川崎宿に到着しました。神奈川宿へ向けて進んでいきます。