日本武命伝説の残る急峻な杖衝坂を登り、古刹石薬師寺へ

2017年05月21日

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10:00 ホテルを出発 昨日のゴール、日永の一里塚跡まで戻って本日のスタート!

伊勢蔵

創業は大正3年。味噌・醤油を100年もの間作り続け、現在5代目だそうです。木製の大きな樽も健在です。

東海道日永郷土資料館

土蔵付きの商家の建物を利用して平成25年に開館しました。館内には、「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地域に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料を、古代から昭和30年代まで展示されています。

日永の追分

東海道と伊勢街道の分岐点になります。また、追分は四日市宿と石薬師宿の間宿としての役目もあり、茶屋や旅籠もあり、本宿よりも割安で宿泊できることから旅人に人気がありました。

追分の湧水

飲用できて、水汲みに来る人も多いです。源泉はここから500m程西の丘陵地、泊山からの湧水を導水しているようです。

大連寺

美濃国土岐氏が小古曽町の南方(五百山)に城郭を構えた時に、祈願所として創建されました。当初は米田山珠寳法鎮寺と称しましたが、後に寺の末弟によって、これより西北の大連と呼ばれていた場所に堂を建てましたが、兵火で焼失し、ここへ移転し大蓮寺として再興しました。

小古曽神社

古い町並みが続き、雰囲気がよいです。このあたりは「小古曽」といい、あすなろう鉄道終点です。ここから少し行くと枡形です。旧道は敵の侵入を防ぐための枡形があちこちに見られます。しかし街道に設けられるこうした枡形は簡易的なもので城郭などに設けられるものはもっと複雑です。

短歌のような句が刻んであるが何か不明。少し調べましたが、わからずじまい・・でした。

一旦、大通りへでて旧道へ。石碑が設置されているので安心です。

15年前の「東海道前半戦」の時はまだまだ東海道を歩く人が少なく、道案内も道標も整備されていなくて何度も行きすぎたり、戻ったり・・道がわからなくて大変でした・・ 整備をしてくださる自治体や自宅前に案内をだしてくださる住民のみなさんに感謝!感謝!

片手に東海道の文庫本(簡易的な地図が載っていた)、片手にデジカメを持って歩いたものです。現在はiPhone一つで何でもできます。地図もカメラも情報も。本当に15年ですっかり変わりました。

このあたりから「采女」(うねめ)に入っていきます。

采女の一里塚跡

内部川沿いにあり、ポケットパークになっています。

11:00 ここでちょっと休憩

『采女』とは、朝廷の食事や身の回りのお世話をした女性です。このあたりは昔から「采女郷」と呼ばれていて、采女になる娘が多かった、ということでしょうか。 古事記にも「伊勢国の三重の采女」と記載があり、逸話もあります。采女は容姿端麗の才女しかなれなかったようです。

瓦の家が多くなってきました。

金刀比羅宮

ここから徐々に上り坂になっていきます。杖衝坂(つえつきざか)の入口です。

かなり急な坂

距離100m、比高差20m程度ですが、距離が短いので、しんどいけどすぐに終点です。

うつべ町かど博物館

内部地区の歴史と文化をテーマに、四日市市が所蔵する文化財と地域の皆さんから提供された資料を展示している手づくり博物館で、2007年(平成19)に開館しました。

杖衝坂

古事記によると日本武尊が東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ弱った体で大和(現在の奈良あたり)へ帰還を目指して険を杖かわりにしてこの坂を登り『吾足如三重勾而甚疲』(私の足が三重に折れ曲がってしまったようにひどく疲れた)と言ったとされ、この言葉が杖衝坂の由来となったとされているそうです。

コンクリートの蓋がされていますが、井戸も2つあります。坂の上側の井戸が「弘法の井戸」、下のほうが「大日の井戸」です。弘法の井戸の方は、弘法大師が杖で指し示した所を掘ると清水が湧き出たという おなじみの逸話からきています。大日の井戸は、坂の中腹にあった大日堂の仏に供える水を汲み上げた井戸とされています。

芭蕉句碑

芭蕉が1687年、江戸から伊賀へ帰る途中、馬に乗ってこの坂に差し掛かったところ、急坂のため鞍と共に落馬してしまいました。その時に詠んだ句だといいます。

『歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな』

歩いて登れば杖をついていったのに、馬になんてのっちゃったから落馬しちゃった・・らくしようとしたら酷い目にあったよ・・というような意味でしょうか。 季語がない駄作だそうです。落馬のショックで咄嗟に良い句が出来なかったのでしょうね・・

地塚社

日本武尊が東国征伐の帰路、伊吹山の神との戦いにより傷ついた足の出血を洗い流したといわれる場所です。奥の祠には日本武尊の血が付いた石を集め、封じたと言われる祠があります。

江戸時代までは向かいに饅頭屋があったそうです。きつい坂を登り、一服した茶屋だったのでしょう。現在は古い住宅があるだけですね・・・
ここからしばらくしてトラックの往来が多い国道1号を進み、左手の旧道へ。旧道へ入ると車も人も通らないので快適です。そして再び国道1号へ出ます。

来来憲の看板

ここでランチをしようと考えていたけど・・やっぱりお腹がいっぱいでした。前に四日市に来たときに「まつもとの来来憲」でご飯食べて、とんてきの美味しさが忘れられず・・でも今日は食べられそうに無いので通過してしまいます。

右手から旧道へ入ると「石薬師宿」の始まりです。

延命地蔵 北町の地蔵堂

13:00 ここでちょっと休憩

石薬師宿の案内板

石薬師宿は静かで、昔の雰囲気が少し残っています。

信綱かるた道

佐々木信綱が記した短歌五十首が掲示されています。

江戸時代の軒並図

陶器で創られていてよくよく見るとなかなか面白いです。

小澤本陣跡

中は資料館になっているようですが、予約しないと見られないようでした。

佐々木信綱生家

一家が松坂へ移住するまでの幼少期を過ごしました。裏庭は「産湯の井戸」が今でも残っているそうです。

佐々木信綱資料館

佐々木信綱(1872〜1963)は、歌人であり、古典文学の研究や復刻などに力を注いだ人物です。私たちが身近に知っているものは、唱歌「夏は来ぬ」でしょう。昭和生まれの人は小学校の時歌ったことがあるはず・・

♪卯の花の〜〜なつ〜はきぬ〜♪

瑠璃光橋

この橋は、江戸時代には無かったのではないでしょうか・・下の道路を造ったときに山を削って、橋を架けたような気がしますね。

瑠璃光橋下の道路

高富山瑠璃光院 石薬師寺

726年、聖武天皇時代に森の中に霊光を放つ巨石を祀る草堂を置いたことがはじまりとされています。その後、弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったとされる薬師如来をご本尊としているそうです。

広重の石薬師

現地の案内板の物ですが、着色がかなりいい加減ですよね〜もう少しちゃんとしたものをお願いしたいです。

石薬師一里塚跡

かつては街道の両側にエノキが植えられていたそうです。伊勢湾台風で倒されて、終戦後は北側の根元だけが残っていたそうですが、その後に消滅したため、1977年(昭和52)にエノキの若木を植え、石碑が建てられたということです。

江戸時代には、旅人は一里塚で休憩をとったりしていました。石薬師一里塚はそんな光景が思い浮かぶような場所でした。

石薬師宿西の桝形

14:00 ここで左に折れ、庄野宿へ向かいます。