石畳で足首をくじかぬよう「天下の険」を目指そう!

2002年7月13日

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8:00 小田原駅を出発

小田原駅周辺は、マンホール蓋・グレーチング蓋・ガードレールなども城下町らしいデザインが施されていて楽しいです。本日は、東海道一の難所、「箱根八里」を歩きます。

二宮尊徳像と松本駅長殉難碑

小田原は江戸時代の農政家、二宮尊徳が生まれ育った場所です。1941年(昭和16)の暴風雨の際、駅長松本宇一は支障場所を視察中に誤って足を滑らせて亡くなりました。親交のあった文芸春秋社を創設した文豪、菊池寛が碑文を記しています。

日向屋敷

1614年(慶長19)、小田原城主、大久保忠隣(ただちか)が改易となった時、その夫人「日向御前」が隠居した屋敷跡があったと言われています。また、江戸時代末期には14軒ほどの藩士の住まいがありました。小田原駅付近は、町名が変わるたびに石碑で紹介されています。

地球博物館

地球の誕生から現在までの宇宙とのかかわりや地球内部についての構造などを紹介する博物館です。この時は時間がないため入館しませんでしたが、後日入館してみましたが、マンモスや恐竜などの大型展示物も面白かったですが、実際にいろいろなものに触ったり触れたりできるところがとっても楽しく見学できました。

観音坂の石畳 

天下の剣と名高い箱根峠への登り坂を東坂、三島への下り坂を西坂といいます。江戸方面から来ると観音坂は石畳が残る最初の坂道ですが、とても短いです。箱根の坂は関東ロームの層のため滑りやすく、当初はハコネダケが敷かれていましたが、毎年敷き変えなければならず、1680年(延宝8)から石畳の道に改修されました。

葛原坂 

「新編相模国風土記稿」には、「海道中、須雲川村境あり。登り一町ばかり」と書かれているだけだそうです。地名も「葛原」で、今でも葛の葉が茂っているそうです。

女転坂

1624〜1644年の寛永年間に女性の旅人が落馬して死んでしまったという。関東大震災で崩壊してしまい、現在通行不能です。

割石坂

曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かうとき、刀の切れ味を試そうと巨石を真っ二つに割ったところと伝わっています。

接待茶屋跡

1824年(文政7)、江戸呉服町の加瀬屋与兵衛らによって東坂と西坂に設けられました。人馬に無料で粥や焚火、飼葉などを提供していましたが、資金難から1854年(安政元)に一度閉じますが、1879年(明治12)に再興されるものの、1970年(昭和45)には再び閉じました。1992年(平成5)に国道拡幅のため、建物も取り壊されました。加瀬屋与兵衛は、箱根に接待茶屋を設けた4年後に中山道碓氷峠、和田峠にも人馬施行所を設けています。中山道のほうも無料だったそうで、とってもボランティア精神に富んだ人だったようですね。

大沢坂

石畳の保存状態がとてもよく、苔が美しいです。

間の宿 畑宿

箱根寄木細工が生まれ育った町です。箱根寄木細工は、江戸時代後期の1790年(寛政2) 畑宿に住む石川仁兵衛により創作されたそうです。今でもとっても小さな町であっという間に通り過ぎてしまいます。41世帯しか居住していないようです。

芦荷屋(みょうがや)本陣跡

大正元年、村が全焼し芦荷屋の屋敷も全焼してしまいましたが、庭園は昔のまま残っています。ハリスも休憩をとりました。明治元年には東京遷都のため、ここを通過した明治天皇も小休止されています。

畑宿一里塚

江戸から23番目の一里塚です。両側が美しく残されています。塚の脇には芹沢光治良の歌碑もあります。『箱根路や往時をもとめ登りしに未来の展けてたのしかりけり』

畑宿の大カシ

神奈川県の名木百選にも選定されていた「畑宿の大カシ」は、根腐れのため1990年(平成2)に倒木してしまいました。

現在の七曲がり、ヘアピンカーブの道を登っていきます。歩道もありますが、幅がものすごく狭いです。複雑に車道を通ったり、旧道へ入ったり・・江戸時代は一体どんな地形だったのかさっぱり見えてきませんね。文献では谷底へ滑り落ちるような急斜面を直上するような形で登っていったそうです。籠は普通には登っていけなかったのではないのでしょうか・・? 横向きに進んだのでしょうか・・?

西海子坂、橿木坂、猿滑坂と続きますが、このあたりが最大の難所でした。ずっと階段で垂直に上がっていく感じで本当にきつかったです。写真を撮ることも忘れて、もくもくと上っていきました。橿木坂は、あまりの険しさに旅人はどんぐりほどの涙を流すといわれていました。猿滑坂は、サルもすべるという坂です。今は階段で登ります。

追込坂

甘酒茶屋手前の緩い坂です。「ぶっこみざか」と読みます。

親鸞上人と笈ノ平

東国の教化を終えての帰路、4人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人が弟子の性信房と連位房に向かい「師打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから御房がこれから立ち戻って強化してもらいたい」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所として伝えられています。

甘酒茶屋

数件あった甘酒茶屋のうち、唯一残っている茶屋です。車で来る人もいますので、お客さんがいっぱいです。立ち寄ってゆっくり一服したいですが・・今日は三島まで行かなくては・・駅もないですし途中リタイア出来ないコースなのです。ここは我慢して引き続き歩き続けます。

於玉坂、白木坂と続きます。

お玉が池の伝説

江戸時代、伊豆の農民の娘「お玉」は江戸へ奉公にでていましたが、帰りたくなり、通行手形を持たずに箱根の関所を通ろうとして見つかり、池に身を投げたことから「お玉が池」と呼ばれるようになったといわれていますが、実際には関所役人に見つかり、処刑されてしまったようです。

石畳の構造

 排水路を設け谷川には土手を築き、その上に並木を作っていました。ガードレールのように谷に落ちるのを防ぐためでしょう。なかなか近代的なものです。白木坂は排水路の保存状態もよいです。

天ケ石坂

かつて天蓋のような巨石があったとされます。

箱根馬子唄の碑

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 このあたりは、権現坂です。昔はここから箱根神社へ行くことができました。

「箱根馬子唄」

箱根街道で人や荷物を乗せた馬を引く馬子たちが歌っていたものです。 『箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで 三島照る照る 小田原曇る 間の関所は雨が降る 松になりたや 箱根の松に 諸国大名の日除松に 雲か山かと 眺めた峰も 今じゃわしらの 眠り床 箱根番所と 新居がなけりゃ 連れて行きましょ 上方へ 尾上高砂 千歳の松は 千代も変わらぬ 深緑』 鈴鹿の馬子唄に少し似たフレーズがありますね。鈴鹿馬子唄は『坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る・・・』似てますよね。

二子山

500年前の噴火でできた溶岩ドームです。左側の電波塔がたくさんある山が「上二子山」1099m、右側が「下二子山」1065m、名前のとおり2つの峰が並んでいます。左側の標高が高い山が「駒ケ岳」1356m。ロープウェーでも登れます。だいぶ前に登山しました。

箱根関所

関所が置かれたのは、1619年(元和5)幕府は全国53ヶ所に関所を設けましたが、中でも中山道、木曽福島、碓井、東海道の新居と箱根を重要な関所と位置づけました。 道を間違えて「関所跡」にはよれなかったのですが、今ある復元した関所は、2007年(平成19)に完成したもので当時はまだ発掘が終わったところで、昭和40年に開設した御番所だけがあったみたいですね。 箱根の関所では、入鉄砲の取り締まりは行いませんでしたが、人質として江戸に置いた大名の妻子の帰国、「出女」は特に厳しく取り締まりました。女性は農家のものでも手形がないと通れませんでした。当時は芦ノ湖に船を出す事も禁止され、関所の柵は2.1mと厳重な監視をしていました。

向坂、挟石坂は、箱根峠への最後の上り坂です。

14:30 箱根峠へ到着

相模と伊豆の国境になります。律令時代の古東海道は、箱根峠できなく相模国と駿河国との境界となる足柄峠を経由していました。足柄峠には足柄関があったのですが、富士山の延暦噴火(800〜802年)のため、通行できなくなり新たに箱根峠が開かれました。
箱根峠は標高846m。案外標高は低いですが、標高0m程度の小田原から一気に800m以上の登山ですからきついはずです。

14:30 箱根峠より西坂を下り、三島宿を目指します。