海路七里の渡し、陸路は「佐屋街道」

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宮宿は、東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を数えました。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされました。

TOO001 桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていました。現在も、折りにふれて宮〜桑名間を遊覧船で渡る現代版「七里の渡し」が行われています。江戸時代中期以降は、四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用されたそうです。

航路は時代とともに変化もあり、干潮時や満潮時で変化しています。また、生活物資を運ぶ航路などもあり無数にあったといいます。マップとして載せているものは大まかな航路を入れました。現在隣地となっているところは江戸時代は海でした。近年に埋め立てられ、すっかり変わってしまいました。

陸路では、佐屋街道を進みますが、今回は佐屋街道を通らず、次の桑名から出発します。

佐屋街道

佐屋街道(さやかいどう)は、江戸時代に宮宿(熱田宿)と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。佐屋路(さやじ)、東海道佐屋廻りとも呼ばれていました。東海道の迂回路であると同時に、北側の津島を経由する津島街道に対する下街道です。

今回は、電車で通過してしまいましたが、いつか佐屋街道も歩き、このページに載せたいと思います。 TOO001

桑名側・蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

伊勢湾台風後、堤防が築かれ昔とは風景が一変したそうです。広重の浮世絵にも描かれている蟠龍櫓は、堤防を築き、水門管理事務所を建設する際、外観を蟠龍櫓としたそうです。