安倍川を渡り、広重の浮世絵に描かれたとろろ汁屋で食す

2003年4月26日

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9:30 静岡駅を出発します。

府中宿は駿州・遠州最大の宿場であり、徳川家康の城下町でした。家康が整備した城下町はそのまま現代にも生かされ、碁盤の目のような道路に商店がずらりと並び賑わっています。

札之辻跡

この札之辻跡は、駿府城追手門入口でもあります。

七間町

道路幅が7間(約13m)の全国の街道の中でも随一の幅を誇る町でした。当時七間町の通りには府中特産の漆器、塗下駄、蒔絵などを売る店が並び、旅人や参勤交代の武士たちも土産を買ったという。府中の特産品は1867年(慶応3)のパリ万博に出品しています。

二丁町遊郭跡

駿府築城を開始すると、全国から家康側近の大名や家臣をはじめ武士、大工方、人夫、農民、商人などが大勢集まり、同時に遊女や女歌舞伎も多く集まってきました。しかし、彼女等を巡っての争いが絶えず、ついには、大御所家康も見るに見かねて遊女と女歌舞伎の追放を命じます。

そこに、老齢のため隠居の願いを出していた徳川家康の鷹匠である鷹匠組頭、伊部勘右衛門が自身の辞職を理由に遊郭の設置を願い出ると、大御所家康はその願いを聞き入れます。勘右衛門は現在の安倍川近くに1万坪の土地を自費で購入し、故郷である伏見から業者や人を集め、自身も「伏見屋」という店を構え、幕府公認の遊郭が始まります。碑文は、石碑を建立した当時の県知事、小松原英太によるものだそうです。

東海道中膝栗毛においては、「東都の吉原町におほよそ似たり」とあり、吉原のように賑わっていたと見られます。

稲荷神社

二丁町の遊郭は昭和32年の売春防止法ができるまで続きました。今では名残は全くありませんが、この稲荷神社だけがひっそりと残っています。

安倍川川会所跡

川越人夫が人や荷物を渡しますが、この監督を行うのが「川会所」でした。安倍川には両岸に川会所があり、毎日川役人が勤務し、川越人夫の指示や賃銭の取扱をするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が警備監督に当たっていました。ちなみに川渡しの賃銭は、体がどこまで水に浸かるかで決まっていたようで、へそ上は55文、股下は18文、膝下16文などとなっていたようです。面白いですね。

安倍川架橋碑

川越人夫によって渡っていた安倍川は、明治4年になると、仮橋や渡船で渡ることがで きるようになりました。明治7年に地元の実業家である宮崎総五が私財を投じて木製の「安水橋」を架けたのが安倍川橋の始まりです。この橋は、静岡県内の4大河川(富士川、安倍川、 大井川、天竜川)に架かる最初の橋として完成しました。橋の建設には失業した川越人夫を助ける雇用対策の側面もあった ようです。これを顕彰して建てられた碑です。碑文の題字は徳川家達によるものです。

由比正雪墓

由比宿でも取り上げた由比正雪は、幕府転覆を企てた「慶安の役」の失敗により府中宿で自害しました。正雪たちの首は、安倍川の河原でさらし首にされていました。この場所にはかつて由比正雪を埋葬したといわれる正念寺があったとされます。しかし、静岡市の菩提樹院にも首塚があり、本当のところはよくわかりません。

弥勒町

古くは安倍川の河原でしたが、正保年間に開拓され慶長年間に弥勒院という山伏が還俗(俗人に戻る)し、安倍川の河原で餅を売るようになったため、町の名になったそうです。江戸時代には「弥勒茶屋」と呼ばれた茶屋が並び賑わっていました。

府中宿西見附

この冠木門は静岡市政110周年記念事業として開催された静岡「葵」博会場に建てられたものです。東海道宿駅制度400年を記念して府中宿西の見附に近いこの場所に移築されました。冠木門は寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。

安倍川餅 石部屋

創業1804年(文化元)の老舗です。昔ながらの手作りにこだわり、いつも出来たてを提供しているそうです。創業当時の建物は戦時中に焼けてしまいましたが、現在の建物は古民家を見つけ出し、移築したものです。

安倍川餅

ある男が安倍川上流で金が取れたこともあり、「きなこ」を「金粉餅」としゃれて徳川家康に献上したところ、その美味しさに感銘した家康が「あべかわもち」と名付けたと言われます。

安倍川義夫の碑

正直な川越人夫を顕彰するために建立された碑で、戦前の教科書にも掲載されていたお話です。 1738年(元文3)、紀州の漁夫が人夫に頼まず服を脱ぎ自力で川を渡ろうとしましたが、大金の入った財布を落としてしまいました。近くにいた人夫の喜兵衛が財布を拾い、旅人を追いかけ宇津ノ谷峠で旅人に追いつき、返すことができました。旅人は礼金を払おうとしましたが、喜兵衛は受け取りません。後に奉行所からの褒美金として渡し、ようやく受け取ったそうです。

安倍川橋

明治7年に木製の「安水橋」が架けられました。その後、木鉄混合製の二代目安水橋を経て、橋の長さ、桁の数で日本有数のボーストリングトラス橋として大正 12 年に完成したものが現在の安倍川橋です。平成に入り、歩道の設置や地震対策、渋滞対策として丸子側を一部架け替えて道路を広くするなど改修しながら現在も使用されています。全長は490mもあります。

安倍川

静岡県と山梨県の境にある大谷崩れが源流とされており、駿河湾に注ぐ全長53kmの一級河川です。元々は枝分かれし、町を3つに分断していましたが、家康により3つを1つに束ねて西へ移す流路変更を行ったことにより氾濫しにくくなりました。

弥次さん、喜多さんは安倍川が増水していると聞き、仕方なく高い駄賃を払い肩車でわたりましたが、渡し終わって人夫が帰る時は、浅瀬を戻ったのを見て騙されたことに気づきます。

安倍川橋を渡ります。歩いても、歩いてもなかなか対岸に着きません。非常に川幅が広いです。

所々に古い立派な家屋が残っています。

ポツンポツンと松が残っています。道幅が広がり周囲の景色は変わりましたが、少しでも面影を見つけると嬉しいものです。

丸子一里塚跡

塚はなくなり、石碑が歩道にポツンと設置されています。 かなで「一りづかあと」と彫られているのは珍しいと思います。
丸子宿へ入ってきました。道幅は広いですが、山が近づき徐々に静かになってきます。丸子は小さな宿場ですが、1189年(文治5)源頼朝の許可によって置かれた由緒ある宿場です。

丸子宿横田本陣跡

現在は石碑が建つのみですが、樹木が綺麗に手入れされたお庭です。

丸子宿では、屋号が掲げられています。

お七里役所

西日本地域の大名が、江戸屋敷との間に七里(28km)ごとに飛脚を置いていた場所で、由比にも御七里役所跡がありました。

芭蕉句碑

丁子屋の少し手前に芭蕉句碑があります。「梅若松 まりこの宿の とろゝ汁」

十返舎一九膝栗毛の碑

府中で生まれた十返舎一九は、江戸に奉公へ出るが19歳で大阪へ移ります。大阪では義太夫語りの家に寄宿し浄瑠璃作家となりますが、再び江戸へ戻り作品を書き続けます。一九は、文才に加え絵心があり挿絵も自ら行っていました。1802年(享和2)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして、一躍流行作家となりました。

辰石

徳川家康は駿府城築城にあたり、その石垣は丸子近在より集められたと伝えられています。この石もその一つで丸子舟川より運び出されましたが、そのまま放置されていたようで、1976年電話ケーブル埋設の際に発見され、掘り出されました。辰年にちなみ、またくさび割れ跡が龍が爪痕を残して天へ昇ったように捉えられ、丸子の縁起物として「辰石」と名付けられました。

丁子屋

昔からとろろ汁の店が並び、旅人は宇津ノ谷峠への峠越えを控え、とろろ汁を食べて体力をつけて出発しました。峠を下ってきた旅人もここで休憩し、茶屋は大いに賑わいました。丁子屋は江戸時代以前の1596年(慶長元)創業の老舗です。現在の丁子屋の古民家は、西へ1km大鑪地区で取り壊される古民家をを譲ってもらったそうです。広重の浮世絵にも描かれたこのお店が残っていることは奇跡のようです。

奥にはちょっとした展示コーナーがあり、それを見ていると「お食事の用意ができました〜」と店員さん。

とろろ汁

粘りの強い自然薯に白味噌を溶いたものを混ぜ込んでいます。優しい味でつるつるっと食べられます。ビールを注文すると、お通しに「むかご」がついてきました。むかごは山芋の芽のような部分ですが、味は里芋のような味でした。お店の方は、「この時期しかないのよ〜」と仰っていて、滅多に食べられないのでラッキーでした。

弥次さん、喜多さんが丸子へ来た際にはとろろ汁屋へ入りますが、夫婦喧嘩の最中でとろろ汁が食べられないばかりか、こぼれたとろろで転び、踏んだり蹴ったりでした。

高札場跡

復元展示されています。 昭和56年、津島神社で高札3枚が発見されました。縦58cm、横258cm、厚8.2cmの杉材で作られた巨大な高札でした。現物は戸斗の谷町内会が保管しています。

12:30 丸子宿をあとに宇津ノ谷峠へ向かい、岡部宿を目指します。