宇津ノ谷峠から見えるは往時の集落、余力があれば「蔦の細道」も

2003年4月26日

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12:30 丸子宿をあとに岡部宿へと向かいます。

途中、「蔦の細道」入口を気づかずに通り過ぎてしまいました。宇津ノ谷の東海道は戦国時代末期に秀吉が小田原攻めのために開かれたとされ、それ以前は平安時代からの古道「蔦の細道」が主街道でした。

宇津ノ谷の集落

宇津ノ谷は、丸子と岡部の間に位置する間宿でした。今でもひっそりした山間の小さな集落です。ここから標高200mの宇津山、宇津ノ谷峠を目指して登っていきます。

慶龍寺

1578年(天正6)、歓昌院第四世宗旭和尚が開山しました。宇津ノ谷峠を越える旅人が、鬼に会わぬようお参りしたという延命地蔵堂は1909年(明治42)に峠より移設されたものです。室町時代から伝わる魔除けの「十団子」は8月23・24日の縁日に売られます。

十団子(とおだんご)

丁子屋で売られています。

十団子の伝説

昔、宇津ノ谷の梅林院という寺の住職に腫れ物ができてしまい、小僧に膿を吸わせて治しましたが小僧が人肉の味を覚えてしまい、旅人を食べる鬼になってしまいました。通りがかりの旅の僧が鬼を小さな玉に変え、それを杖で砕き、10粒の小さな玉にして飲み込み、退治しました。この伝説になぞらえて、10粒の団子をくくって売られています。

丸子川

丸子川の起点はここから300mほど上流です。丁子屋のあたりから丸子川に沿うように歩いてきました。川幅は狭くなってきましたが、水の勢いは増してきました。

許六の句碑

 『十団子も 小粒になりぬ 秋の風』 許六

許六は森川氏の彦根藩士です。この句は元禄5年に許六が芭蕉に入門の折、師から「自分の詩心を探り当てられた」と激賞された許六の代表作です。十団子は宇津ノ谷の名物、ただでさえ小さいのに折からの秋風に干からびて一層小粒になった、という句です。

集落の中央を東海道が通りますが、横道は更に細い路地になっています。

御羽織屋

豊臣秀吉は、小田原攻めに向かう途中に馬のわらじがすり減ったため、ここの主人に4足を所望したところ、3足しか渡してくれません。足りないと主人へ言うと、「4足は縁起が悪いため1足は私が預かり戦勝を祈ります」と答えました。秀吉は深く感銘し、来ていた陣羽織を褒美に与えたということです。

宇津ノ谷峠の道は、ほとんど眺望もなく木々が生い茂り、昼間でも薄暗い鬱蒼とした街道です。誰にも出会いません。「十団子」を持って歩きたい気持ちがわかります。

宇津ノ谷の集落

山と山の間の小さな集落は、昔からほとんど変わっていません。建物は新しくなっていますが、面影はそのままです。

昭和初期の宇津ノ谷集落

雁山の墓

俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、甲府と駿河に庵を結び自らの俳諧の地盤を固めました。1727年(享保12)頃、旅にでますが音信不通となってしまったため、駿河の文人達は旅先で亡くなったと思い込み、この墓碑を建てたと伝わります。しかし雁山はその後に「有渡日記」「駿河百韻」などを著し1767年(明和4)82歳、甲府で亡くなっています。元々は山側に通っていた東海道に建てられていましたが、山崩れで流れ現在地へ移されました。

細い山道が続きます。江戸時代はこの上方に3.6m幅の道があったそうですから、今よりも倍くらいの道があったようです。宇津ノ谷峠は約1kmと短いですが、古き良き時代を残しています。

変更された東海道

このあたりは明治43年8月の集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。階段は整備に伴い、便宜的に設けられたもので江戸時代には今より山側上方を幅2間(約3.6m)の道が通っていました。

地蔵堂跡

僅かな空地に折れた供養塔があります。ここにはかつて延命地蔵堂がありました。江戸時代末期の歌舞伎脚本家河竹黙阿弥の作品で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台とした「蔦紅葉宇都谷峠」という芝居があります。芝居の山場の舞台がこの延命地蔵堂です。延命地蔵は現在、宇津ノ谷の慶龍寺に祀られています。

「蔦紅葉宇都谷峠」

盲目の文弥は姉が身売りをして用立てた百両を持って京に上るため出立します。途中、しつこくつきまとう提婆の仁三に目を付けられますが、丸子宿までたどり着きます。一方、伊丹屋十兵衛は借りた百両の返済工面のため、京の旧友を頼りますが、目的は果たせずに失意の中で江戸へ戻る途中に丸子へ投宿します。この3人が同じ宿に泊まったことから事件はおきます。提婆の仁三は文弥の大金を狙いますが、伊丹屋十兵衛に取り押さえられます。文弥と十兵衛が宇都谷峠まで来たところで、十兵衛は初めて大金のことを知り、借金を申し入れしますが断られてしまいます。十兵衛は文弥を殺して金を奪ってしまいますが、その一部始終を仁三に目撃されていました。十兵衛は百両を元手に江戸で居酒屋を開きますが、座頭(盲人の座の頭)の亡霊が十兵衛とその妻を悩ませるようになり、さらに落とした煙草入れをネタにして提婆の仁三によるゆすりが始まります。十兵衛は口封じに女房を手に掛けたあと、仁三を鈴ヶ森へ誘い出して殺害しますが、最終的には因果の恐ろしさに切腹して果てます。

石積みの美しい細い坂を登っていきますが、この道は後に管理道のため削られてできた道です。

昔の東海道は、この茶色の線のような形態だったようです。削られてしまったみたいですね。

明治のトンネル

明治7年に着手し、静岡口約20mは青石造り、岡部口の大部分は木角合掌造りの「く」の字に曲がったトンネルが明治9年に完成しました。当時は測量技術が未熟だったようで、岡部側・丸子側から掘ったトンネルは中央で出会う事ができずに、「く」の字となってしまったそうです。

日本最初の有料トンネルで明治9年からは東海道本道として使用されましたが、明治29年に照明用のカンテラの失火によって枠組みが消失し、一時使用不能になりました。

現在の赤レンガトンネルは、明治36年に静岡口を直線に修正し、赤レンガとしました。昭和5年、西側に近代的な旧国道トンネルが開通したことにより、あまり使用されなくなりました。

宇津ノ谷峠には、現在4本ものトンネルが通っています。

明治のトンネルを過ぎてから、からようやく人に出会いました。植物の写真を撮っている方と蔦を取っている年配の方でした。恐らく蔦で籠などを作るのでしょうね。

髭題目碑

正面に「南妙法蓮華経」側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、裏面には天保6年再興と建立者の名が刻まれています。このような髭題目碑は、日蓮宗の信仰が盛んな静岡東部ではよく見かけますがこのあたりでは珍しいそうです。

蔦の細道 西口

見逃した東口ですが、ここからまた東海道と合流し、一緒になります。蔦の細道は幅1.0m、約1.5kmの道のりです。できれば東海道と蔦の細道、両方歩きたいところです。

蔦の細道

平安時代の在原業平は東下りの途中、蔦や楓に覆われ、鬱蒼としたこの道を歩きました。「伊勢物語」によると、かつて見知った修行者に出会い「駿河なる 宇津の山辺の うつつにも夢にも 人に逢はぬなりけり」(現実にも夢にもあなたに逢えないほど遠いところへ来てしまった)と詠み、この僧に託し、都の女性のもとに届けてもらいます。それ以来、歌枕の地として知られ、ここを通る歌人は詠んだ歌を札に書き、木の枝に残したそうです。ロマンチックな話とは裏腹に、「吾妻鏡」によると源実朝の妻は盗賊に襲われたと書かれ、ここは危険な道でもあったようです。

国道1号線のトンネル西側が見えました。このトンネル東側は、先程宇津ノ谷集落よりも手前、道の駅を過ぎたあたりに見かけました。車で通れば1、2分程度でしょうか・・歩いて1時間くらいはかかったと思いますが、こんなギャップも歩き旅の魅力です。

岡部宿

東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから平安時代後期頃より宿としての形を整え始めました。1602年(慶長7)に宿として指定されます。1843年(天保14)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠27件があったそうです。

岡部橋

広重による岡部の浮世絵がレリーフとして設置されています。

大旅籠 柏屋

建物は1836年(天保7)に建てられたもので、旅籠と質屋を兼業していました。敷地面積は2380坪、田畑の所有も多くかなり裕福だったとされます。代々問屋や年寄りなど宿役人を務める名家でした。現在は、資料館として様々な資料や江戸時代の様子が展示されています。

内野本陣跡

間口15間、奥行き29間、建坪174坪の建物は、明治期のものです。庭園の将軍稲荷、井戸は往時のものです。もう一軒の本陣は「仁藤本陣」です。柏屋対面あたりにあったようですが、案内がなくわかりませんでした。

問屋場跡

岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の二か所に問屋場がありました。

初亀醸造

1636年(寛永12)創業の老舗の酒蔵です。創業は静岡市でしたが、明治初年現在の岡部町に移りました。

1194年(建久5)源頼朝が鎌倉と京を結ぶ街道(鎌倉街道)を整備した際に岡部宿を設置しました。

姿見の橋

絶世の美女と言われ、歌人としても有名な小野小町は、晩年に東国へ下る途中にこの岡部宿に宿泊しました。小町はこの橋の上に立ち止まり夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていましたが、ふと橋の下の水面に目をやるとそこには長旅で疲れ切った自分の姿がありました。そして昔の面影を失い老いの身を嘆き悲しんだそうです。

15:30 岡部宿をあとに今日の最終地点、藤枝まであとひと息です。