東海道の旅もようやく半分まで。後半戦スタート!

2003年4月28日

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木原一里塚跡

江戸から数えて61里目の一里塚ですが、復元です。往時はこの場所から東へ60mのところにありましたが、現存しません。塚の右側に石のベンチがありますが、この石は磐田用水に昭和30年代まで架けられていた石橋の欄干です。

許禰神社(木原権現社)

かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。全長17mの『木原権現由来記』という巻物が残されています。由来記には、ある日木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は早速に熊野の神を祭りました。これが木原権現社の由来だと記されています。

木原畷古戦場跡・徳川家康腰掛石

徳川家康が、関ヶ原の戦いの勝利祈願のため許禰神社に訪れた折、腰掛けた石と言われています。

木原畷の戦い

1572年(元亀3)、武田信玄 は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。 信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道 を西進してここ木原付近に布陣しました。これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成 は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが「木原畷の戦い」です。その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりをつとめた本多忠勝の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています。

遠州鈴ヶ森刑場跡

刑場跡です。「白波五人男」の日本左衛門は、京都で自首しこの見付でさらし首になったとされています。一説では江戸で獄門になったとの説もあります。金谷宿には首塚がありましたが、見付の見性寺にも墓があり、刑死した日本左衛門を住職が哀れんで埋葬したと伝わります。

供養塔

遠州鈴ヶ森刑場跡の急な石段を登ると、雑草に埋もれるように小さな供養塔が建立されています。

常夜灯

木戸跡

見付宿東入口でした。「見付」とは、京から江戸へ向かう旅人が初めて富士を見つける場所からついた名と言われますが、これは後付の言葉遊びで、本来は水(み)に接する土地という意味が由来です。実際、西から来た場合は、白須賀の潮見坂から富士が見えたとされています。

阿多古山一里塚跡

江戸から62里目の一里塚で、見付宿東入口の見付の町を見下ろす高台にあります。急な石段を登った上には火防の神、愛宕神社があり、一里塚の石碑もあります。

木戸風モニュメント

小さな宿場では川が木戸の役目をしていた宿場もありましたが、ここ見付では大きな木戸が設置されていたのでしょう。

問屋場跡

御朱印屋敷 冷酒清兵衛邸

徳川家康が、武田方の武士に追われ、命からがら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を守らなければと、見付宿に火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました。武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、無事、浜松城へ帰ることができました。清兵衛は家康から、手柄として一本の名刀をもらいました。それから家康は、見付を通るたびに清兵衛のところに立ち寄り、清兵衛から勧められた冷酒を、飲み干していきました。そのうちに家康は、清兵衛を「冷酒、冷酒」と呼ぶようになっていきました。これによって遠江の国中の者たちも、彼を「冷酒清兵衛」と呼ぶようになったようです。その後、家康の御朱印酒屋となり、当主は代々冷酒清兵衛を名乗りました。そのお屋敷は現在も立派な日本家屋です。

見付宿場通り

見付は、平安末期には国府が、南北朝時代からは守護所が置かれた遠江国の中心地として栄えました。鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が建武新政に反旗を翻した足利尊氏軍と戦った地でもあります。

本陣跡

1843年(天保14)には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒が軒を連ね、宿場の外れには茶屋が立ち並んでいました。

高札場跡

浮田幸吉

見付宿でもう一人の著名人、鳥人・浮田幸吉は岡山で生まれ奉公先で表具の技術を習得します。鳥に興味を持ち、表具師の技術を応用し、竹を骨組みに布と紙で翼を作り、1758年(天明5)岡山の旭川で滑空しましたが、すぐに落下してしまいました。この一件で奇人扱いされ、岡山を所払いされてしまいます。駿府へ移り木綿を扱う店を開き、歯科技師「備考斎」として技術力の高い擬歯を制作することでも評判でしたが、阿部川で再び飛行を試み、またしても所払いとなります。この時は紐でつないで家族に引っ張ってもらう方法、凧のようなあるいは、パラグライダーのような形を取ったようでかなりの距離が飛べたそうです。そして最後に落ち着いたのが見付です。見付けでは飯屋を営みます。1847年(弘化4)90才で亡くなります。見付の大見寺にお墓があります。境内には実部の1/2で幸吉が作成した翼が復元してあります。

旧見付学校

1875年(明治8)に建築された日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は4階建てでしたが、明治16年に増築されて今の5階建てとなりました。大正11年までは小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教育養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料が展示されています。

本坂越え入口

東海道が磐田駅方面に曲がる交差点を直進する道を本坂越え、姫街道、池田近道などと呼ばれていました。天竜川の池田渡しで東海道と合流することから「池田近道」と呼ばれていました。また、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(姫街道)に通じることからいつの頃からか姫街道と呼ばれるようになりました。

遠江国分寺跡

国分寺は、今から1,300年近く前に聖武天皇の命令によって、国が仏教の力で安定するように願って造られた寺院です。遠江国分寺は金堂を中心に、北側に講堂が、南側に中門が配置され、金堂と中門には回廊が巡っていました。伽藍の範囲は東西180m、南北250mにも及び、その周囲にも関連した施設が点在していたようです。

府八幡宮

天平年間(729〜748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。

中泉御殿

今川氏に変わり、徳川家康が治めるようになった1569年(永禄12)家康は見付(現在の城山中)に城之崎城を作ろうとしましたが、立地に問題がありました。駿河から武田氏に攻め込まれれば、天竜川によって「背水の城」となり退路が絶たれると織田信長に助言をうけ、浜松に築城しました。井戸から水が出なくて断念したとも言われています。見付には鷹狩用の御殿、中泉御殿を建築しました。現在の磐田駅南口付近です。東海道が不自然に南下し磐田駅のほうへ向かっていきますが、これは中泉御殿があったから、とされています。

磐田はジュビロ磐田のホームタウンです。駅にはジュビロ磐田の大きな横断幕が掛けられていました。

16:30 東海道本線 磐田駅到着。今日はここから帰宅します。