野洲川は「横田渡」で、天井川は「マンポ」で。「マンポ」とは?

2018年07月14日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

8:19 新幹線で京都へ向かいます。

10:17 京都着 ここから在来線で水口石橋駅へ

11:34 水口石橋駅着  京都から水口石橋までは結構時間がかかりました。

天王町の山蔵

水口神社の春祭り、「水口曳山祭」は、1735年(享保20年)、水口神社の祭礼に、当時の9村の氏子が更なる繁栄を祈願して曳山を築造・奉納したことに起源をもつそうです。その後は曳山の数が増え(およそ30基が確認)現在は、16基の曳山が残っています。賑やかな曳山巡行と江戸祭囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。

街道交流館

市の歴史・文化・観光情報の発信、ご当地グッズの販売・観光案内パンフレットも配布などをしています。休憩やトイレを借りることも可能だそうです。

とあるお宅の前にある「ピタゴラスイッチ」的な水を落とすシステムです。なかなか良くできていて、感心しました。

枡形

天神町の山蔵

水口石

古今著聞集に怪力の大井子の逸話として収められ、歌川国芳はこの逸話を気に入り、浮世絵にしました。歌川広重とは従兄弟とか兄弟ではないです。「歌川一門」の人物です。

大井子の逸話

高島の大井子は田を多く持っていた。ある年、水争いにより村人は、大井子の田に水を割り当てませんでした。怒った大井子は大きな石を運んできて水路の取水口に据え、水が流れないようにしてしまいます。村の人たちは石をどかそうとしましたが、全く動きません。困った村の人は大井子に謝り、今後は水を割り当てることを約束し、大井子はまた石をどけました。

逸話にしてはちょっとこじんまりした石ですね。

広重の「東海道五拾三次 水口」

干瓢を剥いています。細く剥いた干瓢を干しているところですね。後ろの塀にも干してあります。干瓢づくりは全て女性の仕事のようですね。

ここから一旦、東海道を外れて水口城へ向かいます。

水口城

1634年(寛永11年)、三代将軍家光が上洛に先立ち、水口に専用の宿館として「水口城」を築城しました。維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されますが、本丸の敷地は保存されました。現在は矢倉が復元され、資料館となっています。

水口城から東に1kmほどの小高い丘にあるのは「水口岡山城」です。水口岡山城は水口城ができる前の1585年(天正13)、秀吉の命で築かれた城です。関が原の合戦後は水口は幕府の直轄地となり、水口は宿駅に指定されます。水口城築城の際、水口岡山城の石垣の石を転用したそうです。

図の本丸部分は、現在グランドになっています。

藤栄神社

旧水口城内にありました。水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明を祭神としているそうです。神社内には立派な公衆トイレがあり、助かりました。

百間長屋跡

このあたりに下級武士たちが住む百間長屋(約180m)があったとされます。

東海道分間延絵図

確かに長い建物が描かれています。

敵が攻めてきたとき、城や藩邸を守るため東海道に面した北側には出入り口がなく、小さな高窓(与力窓)から紐を付けたざるに銭を入れ、物を買っていたそうです。

真徳寺表門

水口城郭内に所在した蛭川氏の屋敷の長屋門を移築したものです。

林口の一里塚跡

五十鈴神社の角にあります。塚はなくなっていますが、樹木が生い茂り雰囲気は残っていました。

水口宿の京口、西目附

美富久酒造

創業100年の老舗酒造会社です。蔵の見学もできるそうです。

手動式消防ポンプ車

昔は、手押しポンプ(龍吐水、腕用ポンプ)やバケツで消火をおこなっていました。その後馬車の消防車ができましたが、馬は火を怖がって火事場に近づけませんでした。自動車が作られるようになってからは消防車になりました。手押しポンプが使われていたのは明治の初期から終わり頃までだと思われます。

柏木神社

社伝によると673年(白鳳元)、あるいは白鳳以前の創祀とされています。日吉宮、日吉山王宮と称していましたが、建久年間、源頼朝上洛の折に鎌倉鶴岡八幡宮より勧請合祀し、 以後、若宮八幡宮と称されるようになったといいます。明治4年に柏木神社と改めました。

北脇縄手と松並木

東海道の整備に伴い、曲がりくねっていた「旧伊勢大路」を見通しのよい道路に整備しなおしました。江戸時代には両側に松並木があり、美しかったそうですが、現在は1本の松もありません

北脇縄手と松並木の碑

おじぞうさん、水路へ落っこちそうで心配です。

小さな休憩所。日陰の休憩所は少ないため、今日のような暑い日は有難い場所です。

柏木公民館

火の見櫓のモニュメントがあります。

道標

「是従山村天神道」と彫られています。北東に4kmほどの場所に山村神社があります。恐らく、この神社への道標だと思われます。

ここより、右に曲がると「延命地蔵尊」です。

しかし今日は暑いです。最高気温の予想は35℃だとか。熱中症に気をつけなければいけませんね。。日向の休憩所は役に立ちません。

泉川を渡ります。

暑い日は足に豆ができやすいです。火傷ですから、こまめに休憩し、靴を脱いで冷やす必要があります。

日吉神社「御旅所」

御旅所とは、神社の祭礼などのとき神(神輿)が巡幸の途中で休憩・宿泊・またはその目的地となる場所を示すということです。

泉一里塚

塚がとても綺麗ですが、復元です。

横田渡

野洲川はこのあたりでは「横田川」と呼ばれています。江戸時代、3月〜9月の川の水が多い時期は船渡しとし、10月〜2月までの水が少ない時期は土橋を架けて渡っていたそうです。

万人講中常夜灯

鈴鹿にもあった万人講中、鈴鹿のものは金比羅信仰の万人講中(一種のグループ)でしたが、こちらのものはどういったグループかは説明がありませんでした。敷地内に「金比羅宮」があるので、同じく金比羅信仰の万人講中なのかもしれませんね。

日陰の休憩所ありましたので、少し休憩します。トイレもありました。

金比羅宮

明治24年には板橋が架けられました。現在は橋台の石垣が一部残っています。

横田の渡しからの横田川(野洲川)

国道1号側道から回りこみ、野洲川を渡ります。左は綺麗な川の流れ、右側は真っ茶色のきたな〜い流れ。なぜこんなに茶色いのでしょうか。

妙感寺への道標

「微妙大師萬里小路藤房卿墓所、従是二十二丁」と彫られています。この三雲駅前から南西に2.3kmほどのところに妙感寺があります。萬里小路藤房(までのこうじふじふさ)、藤原藤房ともいいますが、後醍醐天皇の側近で、倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担いましたが、政権に失望し出家しました。後の消息は不明となってるようですが、伝承がいくつかあるようです。この近江妙感寺が有力な説らしいのです。

明治天皇聖跡

湖南三山の国宝二寺や遷都の折、明治天皇が訪れたそうです。

立志神社・萬里小路藤房卿古跡・田川ふどう道 道標

3つの石碑が並べられています。田川ふどう道の上には指のマークのようなものが彫られています。指で「あっち」という感じです。

モニュメント的な常夜灯

おもてなし処

このあたりの町では旧東海道を「きずな街道」と銘打って休憩所を整備してくださっています。3箇所くらいあったでしょうか。この場所でしばらく休憩させてもらいました。

大沙川の隧道(吉永のマンポ)

この地域には天井川が多いです。大沙川も天井川で、江戸時代には土手を登り、小橋か浅瀬を渡っていたといいます。明治になり東海道を整備することになり、天井川に隧道を掘って 人馬の通行の便を図りました。明治17年に建設され、現役最古の石造物トンネルで、地元では隧道を「マンポ」と呼んでいるそうです。

なぜ「マンポ」というのか、語源を調べてみると、どうやら坑道の「間府(まぶ)」、鉱山の坑道が語源のようです。

弘法杉

マンポの上部、大沙川沿いに伸びています。樹高26m、目通り6m、樹齢750年ほどとされています。伝説によれば元々2本あり、洪水の際に堤防が崩壊して1本が倒れたそうです。建物内には弘法大師像が収められています。

弘法杉

この杉の枝で箸を作り、食事をとると自然に右利きになったと言われています。弘法大師(空海)が植えた、あるいは弘法大師が食事後の杉箸を地面に刺したものから枝葉が出てきた・・などの伝承が残っています。

大沙川(マンポの上)

天井川のはずですが・・水が流れていません・・川として水が流れているところが見たかったのですが。

三雲城

左に1.7km行くと「三雲城」です。猿飛佐助のモデルとされる「三雲佐助賢春」が育った城だそうですが、少々遠いため、またの機会にします。

夏見の里

このあたりには何件かの茶店があり、立場としての役割を果たしていました。名物トコロテンや名酒桜川が計り売りされていたといいます。

いなりやという茶店があり、広重が描く(藤棚)の店として紹介されていますが、平成21年、藤と共に棚も撤去されてしまいました。

夏見一里塚跡

現在塚はなく、案内が建つのみです。

湖南市夏見会館

誰でも使用できるトイレがありました。今日はほとんどトイレに行く必要がありません。暑すぎて飲んだものは全て汗になります・・

由良谷川隧道

この川も天井川で、明治19年に建造されています。

新田道標

夏見新田という交差点がここを北に向かうとあります。新田地域への生活道路のようです。

子やす地蔵道 道標

読みにくいのですが、たぶんそう彫られています。しかし、近くに「子やす地蔵」が見あたりません・・・ここから南に2.5kmほどの長寿寺のことかも知れません。こちらのお寺はかなりの古刹で 聖武天皇の頃の創建です。子安地蔵尊を本尊とされているようです。

お休み処、トイレもありました。

針文五郎顕彰碑の案内板

肝心の写真にあるような石碑はどこにも見当たりません・・針文吾郎は、天保義民の一人で江戸で裁きをうけ、死罪となった後に、獄死しました。この一揆で犠牲になった人を「天保義民」と呼ばれます。横田の渡し南に「天保義民碑」があります。

天保の一揆

天保の大飢饉が起こり、食べ物に困窮する時代に幕府が行った政治改革「天保の改革」。様々な改革の中でも年貢の増収が最も重要だとして、幕府は再検地を行います。検地とは、面積から年貢の量を決めるため、田畑を計ることです。しかし、それは不当な検地でありました。検地役人は平然と賄賂を受け取り、賄賂を渡したところは素通りしたり、竿の寸法を変更して実際の面積より大きくなるようにしたり・・農民4万人が検地役人を取り囲み、最終的には「検地十万日延期」の証文を勝ち取りました。十万日の延期は、事実上の中止を意味します。

江戸時代を通じて「検地反対」を訴えた一揆は94件ありましたが、完全に勝利した一揆はこの一件だけだそうです。幕府の天保の改革を足止めし、幕府の威信を失墜させたこの 一揆は後々、幕府衰退の一因になったと言えます。

北島酒造

ホームページによると、1664年(寛文4年) 半三郎、針村で庄屋をつとめ、1805年(文化2年)創業。現在も昔ながらの製法で酒造りをしているそうです。

常夜灯と家棟川隧道跡

家棟川もかつては天井川であり、明治19年に隧道が建造されましたが、河川改修工事により1979年(昭和54年)に撤去されてしまいました。現在は、常夜灯の後ろに家棟川隧道の題額が残されているのみです。

うつくし松

赤松の変種です。根元から何本もの枝が分岐し、傘を開いたような樹形だそうです。株立ちと言われるような樹形、大小200本が群生し、日本にはここだけしかなく天然記念物に指定されています。

見たいな・・でもちょっと距離があるし・・と思いながら通過してしまいました。

歌川広重「隷書東海道」に描かれたうつくし松

平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れたとき、美しい娘が現れ、京都の松尾神社の遣いで頼平を護るため供をしてきたと言い残し消えました。ふと周囲を見ると松が美しい松に姿を変えたという伝説が残っています。

高木陣屋跡

1698年(元禄11年)高木伊勢守が道中奉行に任命されます。文化年間に二階建ての陣屋を建てますが、明治維新後に私有地となり取り壊されました。しかし、陣屋の門のみ移築され三雲のステーキハウス「スエヒロ近江店」の門として現在も使用されています。

八島寺地蔵堂

731年(天平3年)良弁僧正が夢のお告げによって彫られ、創建されたとされます。1182年屋島浦の戦いの後、平家の女官らが六道(輪廻転生する六種の世界)の具現化あるいは悟りの世界へ導くために建てたとも言われます。屋島浦の戦いは、平安時代末期に6年間に渡って日本各地で繰り広げられた源氏と平氏による源平合戦のひとつです。

良弁は非常に高名な僧で東大寺の建立や石山寺の造営にも関わり、神奈川県伊勢原の大山寺の開祖でもあり、大山信仰を流布した僧でもあります。

石碑と解説版はありますが、肝心のお堂が見当たらないです・・・

吉姫神社

創建は不詳です。元々は現在の御旅所の位置に鎮座していましが明応年間に兵火を受けて焼失したため、1534年(天文3)現在地に移されました。江戸時代には上田大明神社と呼ばれていました。木造の狛犬は南北朝時代に作られたと言われています。

西福寺

創建はよくわかりませんが、16世紀初頭に西福寺と称した真宗道場の存在が確認されているそうです。

石部宿 東見附跡

ここから石部宿へ入っていきます。

交差点のポケットパークに案内板がたくさんあります。

浄瑠璃『桂川連理柵』

京都の帯屋の主、長右衛門が伊勢参りの途中、石部宿の旅籠、出刃屋に宿泊します。ここで丁稚の長吉に言い寄られるお半をかくまう事になり、これが縁で二人は結ばれますが、長右衛門には妻がおり、不倫に苦しんだお半は自ら命を絶ちます。長右衛門もまた後を追い、心中してしまいます。

長右衛門は38歳、お半は14歳。親子ほどの年の差ですね。真似をして心中をする者が続出したため、1724年(享保8) 、幕府は心中物の上演の一切を禁止したほど人気だったといいます。

安民米倉庫

明治13年、服部善七による安民米(救済米)制度が創設されました。植え付け時に食べるものがない百姓に安民米を1俵貸付し、収穫時に年貢として5升を収め、これを教育費などに充てます。雨山文化運動公園内にある宿場の里に安民米倉庫復元されています。制度は1941年(昭和16)まで存続しました。 1902年(明治35)には、松籟山に善七の功績を称える碑が建てられているそうです。

石部宿 問屋場跡

常盤館跡

殿城道あたりにあった大規模な芝居小屋です。中央には回り舞台が設置されており、遠方からも観客が集まったそうです。大正8年に火災で焼失してしまいました。

石部本陣跡地

京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まる宿駅が石部でした。「京たち、石部泊まり」などといわれた石部本陣跡地に建つ街角サロン、「いしべ宿驛」。誰でも休憩所として利用できるそうです。

小島本陣跡

石部宿には幕府直轄と膳所藩直轄の2つの本陣が置かれました。全盛期には216件の商家、62件の旅籠が立ち並び、数多くの大名や明治天皇も宿泊しました。

田楽茶屋

広重の浮世絵にも描かれている「田楽茶屋」を再現した建物です。田楽茶屋は、「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒が代表的で、目川の里にありました。 石部と草津の中間あたりになるので、明日、通過する予定ですね。

いつの時代も旅と美味しい名物は切っても切れない間柄ですね。

到着したときは既に閉店していたのですが、田楽茶屋ですが、田楽がメニューにないようですね。メニューは、そば、うどんが中心のようです。

鉤の手道(かぎのてみち)

意味合いは「升形」と同じようです。道が直角に曲がっていて見通しをきかないようにし、敵に進入されにくくするためです。

石部一里塚跡

現在は何も残っていませんが、北側にはエノキ、南側にはムクノキが植えられていたそうです。明治2年に宿駅制度が廃止されたときに撤去されました。

西の見附跡

浮世絵 西の見附跡

草津線 石部駅

17:40 本日は、石部駅で終了します。
本日の歩行距離は万歩計では18.2km。常に宿場間の倍くらいは歩いてますね〜ふらふらしすぎでしょうか。ここから今日から2泊の予定で「ニューびわこホテル」へ宿泊します。草津線で「瀬田駅」へ向かいます。

今日はほんとうに暑い暑い一日でした。最高気温、38度くらいになったようです。何より熱中症にならず、無事に終えてよかったです。