若山牧水が愛した千本松原から富士山を見よう!

2002年8月11日

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11:00 沼津をでて、原宿へ向かいます。

沼津藩領界石

沼津藩の西限を示すもので、下半分は壊れてなくなっています。1777年(安永6)沼津藩主となった水野忠友により1778年(安永7)に建立されたものです。

松蔭寺

1279年(弘安2)の開山といわれています。白隠禅師は32歳で松蔭寺に戻りますが、廃寺寸前だった寺の5代目住職となります。その後は各地から白隠禅師のもとへたくさんの人々が集まってきました。

すり鉢の松

白隠が岡山城主池田公より贈られた備前焼のすり鉢を台風によって裂けた松が腐らないように雨避けとしてすり鉢をかぶせたという「すり鉢の松」です。樹齢は400年にもなるそうです。昭和60年まで落ちることなくかぶさっていたようでが、今は京焼のすり鉢が乗せられ、備前焼のすり鉢はしまってあるそうです。なかなか見つからなかったのですが、恐らく丸印のところがすり鉢ですね。

白隠禅師墓

白隠禅師は1685年(貞亨2)、駿河国原宿に生まれました。15歳のとき樟蔭寺へ出家し19歳のとき諸国行脚の旅にで、美濃・四国・京都などで修行し、500年に一度の名僧、臨済禅中興の祖です。1717年(享保2)に松蔭寺の住持となると白隠の名は全国に知れ渡り『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』といわれていました。

白隠禅師誕生地(おもだかや)

白隠禅師は禅の修業中に「禅病」という病気になります。頭はのぼせ上がり、両腕両脚が冷えて心は疲れきり、夜は眠ることもできず幻覚を生じることもありました。仙人から秘法を教えられ、克服することができたそうです。白隠禅師の健康法は寝禅で基本的には頭寒足熱を進めることだそうです。

白隠禅師産湯井

白隠禅師は布教の過程で禅の教えを表した絵を数多く描いています。時にはユーモラスな絵や動物などの作品は1万点にも及ぶともいわれ、高く評価されています。

原宿本陣跡(渡邉家)

阿野全成(源頼朝の弟、義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至ります。渡邉家は、本陣のほか問屋、年寄、名主も努めました。建坪は235坪、山林、畑を含めると敷地は6600坪の広大な規模でした。本陣玄関と茶室は松蔭寺に移築されています。かつては、旅籠25軒、高田脇本陣が並んでいましたが、旅籠九軒と高田脇本陣が1838年(天保9)の火災で焼失し、以後再建されませんでした。

13:30 原宿をあとに、吉原宿へ向かいます。