行き倒れもでた最初の難所の権太坂、普通の坂道に

2002年5月12日

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7:20 保土ヶ谷駅を出発します。

保土ヶ谷税務署のあたりが高札場、問屋場であったようですが、表示は何もありません。

金沢横町道標

金沢横町と呼ばれたこの場所は、金沢・浦賀往還の出入口にあたり、道標が4基並んでいます。右から 円海山之道(1783年(天明3)、保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門建立)、左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」

かなさわかまくら道(1682年(天和2))左面に「ぐめうし道」と刻まれています。「ぐうめし」とは弘明寺(弘明寺観音)のことでしょう。

杉田道(1814年(文化11))左面には「程ヶ谷の 枝道曲がれ 梅の花 其爪」と句が刻まれており、道標に句が刻まれるものは珍しいそうです。 作者が其爪で、江戸の浄瑠璃の一種、河東節の家元です。

富田山芋大明神社の道(1845年(弘化2))柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏、建立。芋神社は、富岡の長昌寺のことで、天然痘の神様として知られ、「芋神様(楊柳観音)」が祭られています。また、直木賞で知られる「直木三十五」もここで眠っています。並んで「跳んでる警視」などの小説家、胡桃沢耕史のお墓などもあります。

正面に「軽部本陣」が見えます。

軽部(刈部)本陣

建物は変わりましたが、現在もお住まいです。

ここからしばらく行くと旧道へ入りますが、また旧道入口を間違えて、約1km無駄に歩いてしまいました。案内が少ないのですが、2018年現在は、「旧道」の看板が出ています。

樹源寺

創建は不明ですが、鎌倉時代末期までは医王寺というお寺でした。兵火にあい、薬師如来を安置した薬師堂のみを残りましたが、廃寺同然となっていました。寛永年間(1624〜1644年)になり、苅部本陣の奥が妙秀尼となり、日蓮宗の寺として開山したようです。

大けやきは樹齢700年を誇っていましたが、枯れてしまい、昭和45年に伐採したそうです。

元町橋

この付近は、いちはつの花で知られていました。民家の茅葺屋根の上にいちはつの花が咲いている様子が珍しく、旅人の評判となり、外国にまで知られるようになり、昭和30年代までは保土ヶ谷の名物となっていたそうです。いちはつの花は火を防ぐという俗信があったようです。

江戸時代に東海道が整備される以前の宿場はこの元町橋付近と古町、今の天王町から峰岡町あたりにあったと推測されているようです。

権太坂改修碑

昭和30年代に大規模な改修が行われて、現在のような姿になったということです。

権太坂

江戸からの旅人にとって最初の難関で、箱根に次ぐと言われていたそうです。現在は道路改修されてさほど勾配があるわけではないですが、だらだらと長い坂ですね。

箱根駅伝で言われている難所の「権太坂」は国道1号線のほうで、更に緩やかです。

投込塚の碑

昭和36年頃の宅地開発により、たくさんの遺骨が発見され、供養等が建てられました。当時の難所、権太坂で行き倒れになった人や馬などが投げ込まれて埋められていたようです。発見された遺骨は、近所の東福寺に納められています。遺骸の数はカスマ(ムロを2つ折りにして作った袋)に15袋にもなったといいます。

若林家

この付近、境木は立場であり、若林家はぼた餅茶屋の一軒でした。立派な旧家です。旅人は権太坂を上りきり、立場茶屋のぼた餅を食べながら一息ついたのでしょう。

境木地蔵尊

鎌倉の由比ガ浜に流れ着いたお地蔵様、漁師が浜に祀るも大雨で流され、数年後に腰越で発見されます。漁師はお地蔵様を江戸へ運ぼうとしますが、境木にて牛車が動かなくなり、村民に託しました。村民は地蔵堂を作り安置したところ、村は繁盛したということです。お堂の建立は1659年(万治2)。

境木は、武蔵国と相模国の国境でもあります。ここから「境木」という地名にもなりました。境木地蔵尊を過ぎて、いよいよ相模国へ入っていきます。ここからはしばらく坂道を下っていきます。

焼餅坂

旅人に焼餅を出す茶店があり、二代目広重の立祥により、焼餅坂の浮世絵にも描かれています。

品濃一里塚(東塚)

神奈川県内では唯一、両側残っている・・となっていますが、塚というよりも山?

品濃一里塚(西塚)

こちらのほうが塚らしいです。西塚は品濃村内にあり、エノキが植えられて、東塚は平戸村内になります。東海道が村の境だったということでしょうね。

福寿観音

東戸塚駅を誘致した福原氏が1982年に建立した歴史の浅い地蔵堂です。東戸塚駅は、地元住民が1世紀以上もの間、請願運動を行い、1980年に開業したまだ新しい駅です。この数十年で東戸塚周辺は劇的に変貌しました。

品濃坂

環状2号線ができて、階段になりました。

品濃坂の階段を下ると東海道は分断されて、歩道橋を渡ります。環状2号線ができて、東海道は分断されました。東海道が分断されてしまったのは残念ですが、この環状2号線、横浜市民にとってはとっても便利な道となっています。

柏尾の大山道道標

道標は4つあります。1つ目は、1970年(寛文10)、柏尾村の建立、橋供養を兼ねています。2つ目は、1670年(正徳3)、柏木藤左衛門ほかの建立、不動明王が彫られています。3つ目は、1727年(享保12)、江戸神田三河町の商人、越後屋小一兵衛の建立です。4つ目は、1872年(明治5)、下総葛飾郡加村の船大工鈴木松五郎が建立したものです。庚申塔は、1680年(延宝8)、柏尾町の15名により建立されました。灯籠は、1865年(元治2)、松戸宿の商人により建立されています。
様々な地域の人々によって建立されています。これらの道標塔は、近年になってここへ集められたそうです。

大山詣

大山は丹沢尾根の東側、伊勢原市、厚木市、秦野市の境にある標高1252mの山です。古くから山岳信仰の対象となっており、平安時代には朝廷の庇護を受け、源頼朝、足利尊氏、北条氏など多くの武将も大山を信仰しました。しかし、大山が全国的に信仰されたのは、江戸時代になってからでした。

大山信仰を広めたのは元々大山で修行をしていた「先導師」と呼ばれた人々でした。先導師は、大山講というグループを作り、各地の人々に大山詣を薦めていったのです。江戸時代、庶民も自由に旅行を楽しんでいた時代ですが、伊勢参りなどは結構な時間と費用がかかります。ですが、大山であれば3日程度で出かけられるちょうどいい観光地だったようです。

増田家のモチノキ

大きなモチノキは、2本。樹高18m、幹周2.4m、もう1本は樹高19m、幹周3.2m。「相模モチ」の愛称で親しまれ、県の天然記念物に指定されています。

この時は立派で大きな樹木でしたが、最近(2018年)ここを通ったときは、増田家の敷地は人手に渡ったのか、造成されてモチノキの周囲だけを残し、切土されモチノキも小さく剪定されてしまっていました。 そろそろ建物が建ってしまったかもしれません。

首洗井戸

後醍醐天皇の第一皇子の護良親王(もりながしんのう)は、武に優れ征夷大将軍として父の建武新政権を支えましたが、南北朝の動乱により足利氏により鎌倉二階堂(現在の鎌倉宮)に幽閉されました。その後、1335年に足利直義の家臣により殺害され、さらし首にされましたが、護良に仕えていた侍女が首を盗み取り、柏尾の斎藤氏の元に逃れてきたそうです。首を井戸で洗って清め、近くの王子神社に葬ったといいます。

井戸枠

この井戸枠は、とても鎌倉時代からある井戸枠には思えません。後世に付けたものでしょう。

四つ杭跡

裏に彫られた碑文からすると、首を清水で清めた後、「4本の杭をうち、祀壇とし平伏し」とあり、祭壇を作ってそのうえに首を置き、ひれ伏せた、ということでしょう。そこから、このあたりを「四つ杭谷戸」と呼ばれていたそうです。

鎌倉ハムの倉庫

日本最初のハム工場です。異人館のウイリアム・カーティスが製造したハムは主に横浜居留地の外国人向けに販売していました。製造法は日本人には一切教えなかったのですが、工場が出火した際に近隣住民が消火活動にあたり、その恩に応え、増田家へ伝授。また、カーティスの妻、かねは世話になった奉公先の斉藤家に伝授したともいわれています。

鎌倉ハムの倉庫の隣、立派な門の旧家

このあたりの東海道は、当時のままの道幅だそうです。この旧家、現在(2018年)はなくなってしまいました・・土地は小さく分割されて、小さな戸建住宅がたくさん建っています。

江戸方見附跡

妙秀寺

広重「戸塚」の浮世絵には吉田橋の手前に「左かまくら道」の道標が描かれています。この道標は、ここ妙秀寺に移されて、現存しているといわれていますが、ここに保存されているものは「かまくらみち」とすべて平仮名なので、違うという説もあります。

広重「戸塚 元町別道」

左手の茶店「こめや」。こめやは元々米の販売をする商家だったそうですが、その利点を生かして旅人に軽食などを出すようになったそうです。「こめや」はなくなってしまいましたが、子孫の方が近くにお住まいだそうです。

吉田大橋 広重「戸塚」に描かれている吉田橋です。現在の橋は昭和61年に架け替えられたものです。 交通量も多い大きな立派な橋です。浮世絵がたくさん描かれています。

柏尾川

ここは春になると桜が咲き乱れて本当に綺麗です。最近は水質も良くなってきてシラサギやアオサギ、カモなど水鳥がたくさんやってきます。

戸塚駅の踏み切り

レールが6本もある有名な開かずの踏み切りです・・いったいどれくらい待っただろう・・やっと開いた〜と思い歩き出すと、踏み切りの中央に差し掛かったところで「カンカン・・」となり始めた。全くせわしない踏み切りでした。

2018年現在、鉄道と道路は立体交差になり、踏切はなくなりました。ここ数年で戸塚駅は再開発されて劇的に変わっています。

戸塚宿本陣(澤邊本陣)

戸塚宿には2軒の本陣があり、もう1件は内田本陣で現在は戸塚郵便局になっています。澤邊本陣は、戸塚宿開設に尽力され、現在も子孫の方がお住まいです。明治天皇巡幸の際の行在所ともなったようで、石碑が建っています。

八坂神社

通称「お天王さま」。境内には明治天皇東幸碑があります。毎年7月14日に女装した男性が5色のお札をうちわであおって舞わせる「お札まき」が行われます。横浜市指定無形民族文化財に指定されています。

富塚八幡宮

境内裏山にある墳墓は神社の祭神の一人、富属彦命の墓といわれています。「富塚」と呼ばれており、これが後に「富塚⇒戸塚」の地名となったという逸話があります。

また、前九年合戦の折に奥州平定に向かった源頼義・義家親子がこの地に露営し、富属彦命の神託を受けて戦功を挙げることができたとされます。

上方見附跡

当時はファミレスでしたが、2018年現在はコンビニになっています。16年も経つといろいろ変わってしまいます。
保土ヶ谷から戸塚まで、道を間違え、大山道道標や首塚が見つからなくてかなりウロウロしてしまい・・とんでもなく長い道のりでした。

11:20 これより戸塚宿を後にして、藤沢宿へと向かいます。