寄り道は三保の松原、久能山、日本平−家康が築いた駿府城へ

2002年11月2日

「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。 KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。

11:40 江尻をあとに、府中へ向かいます。

追分道標、追分羊羹

久能山へ向かう道標です。追分羊羹は1695年(元禄8)創業の老舗です。江戸幕府の政策により江尻を中心に始まった甘藷(サトウキビ)栽培を契機に生まれた羊羹は諸大名や旅人に人気でした。竹の皮に流し込み、折りたたんで作る粒栗入り羊羹はお土産に最適です。

追分羊羹

江戸時代初期、とある砂糖商人が箱根の山中で、旅の途中ながら病気で苦しむ明の僧侶に出会いました。手厚く介抱したところ病は癒え、僧侶は深く感謝し小豆のあつもの(羹)づくりの秘法を伝授して旅立っていったといいます。

都田吉兵衛供養塔

都田吉兵衛は、「都鳥」とも呼ばれていましたが、森の石松を殺した報復として清水次郎長一家に殺されてしまいました。誰も供養する人がいないことを哀れんだ里の人々が建てた供養塔です。

清水次郎長

清水区の船頭であった高木三右衛門の次男として生まれ、母方の叔父である米商人、山本次郎八の家に養子に出されました。養父がなくなると米屋の跡を継ぎますが、博打と喧嘩の日々でした。跡を継いだ米屋を姉夫婦に譲り、自らは無宿人(浮浪者)となり、日本全国を旅してまわり後に清水へ戻り、一家を構えました。その後、博徒同士の抗争で頭角を現すなど、親分としての地位を築き、個性的な子分、大政、小政、森の石松など共に勢力を広げていきます。幕末の動乱期になると官軍より清水港の警備を任せられます。旧幕府軍の脱走艦隊のうち咸臨丸が暴風雨に遭い、清水港に寄港したところを、新政府軍によって乗組員が全員討たれましたが遺体は駿河湾に放置されていましたが、次郎長が収容し手厚く埋葬しました。これを知った元幕臣で静岡県大参事の山岡鉄舟は次郎長に感謝し、以後、次郎長は博打をやめ、山岡や榎本武揚と交際するようになりました。晩年は実業家として活躍し、清水港の改修工事、定期航路線の運航や開墾、英語教育などに力を入れたそうです。

旧東海道記念碑

昭和37年、旧東海道はJRの敷設により、姿を消してしまいました。この地に東海道が通っていた証として、住民の声によって建てられた記念碑です。

長沼一里塚跡

両側ともに塚は既になくなり、石碑が建つのみです。

花陽院門前町

「けよういん」と読みます。町名となった「玉桂山華陽院」は元は智源院と呼ばれていましたが、家康の祖母、源応尼の法名に因み「華陽院」と改めました。松平竹千代、後の徳川家康が人質時代には、祖母を慕ってよく華陽院へ遊びに来ていたそうです。華陽院には、源応尼の墓と並び、家康の五女、市姫の墓があります。

駿府城

徳川家康は、1585年(天正13)から居城として駿府城の築城を始めます。1605年(慶長10)将軍職を秀忠に譲り、再び駿府城の修築と城下の整備を進めました。家康が亡くなった後は、秀忠の息子、秀長(家光の弟)が城主となりますが、1633年(寛永10)忠長は問題行動ばかり起こし、高崎城へ幽閉を命じられます。以後、城主不在となりました。

府中は、大政奉還後の徳川慶喜も30年間、隠居生活を送っていました。現在は「料亭 浮月楼」となっており、門前に石碑があります。

わさび漬け発祥の地

わさびを加工する技術は江戸時代中期から向上しはじめ、酢漬け、糠漬け、どぶろく漬けなど多種多様な料理が考えられました。酒粕に漬けるようになったのは清酒が出始めてきた江戸時代後期、府中の商人が考考案したとされます。わさび漬けは刻んだわさびの葉や茎、根を酒粕に漬けたものです。

15:00 府中宿到着。

府中宿は近代的なショッピング街になっていました。昔の面影は全くありませんが、「伝馬町」「札の辻」「呉服町」「梅屋町」「七間町」などの町名が残されています。「東海道中膝栗毛」の十返舎一九も府中の生まれで、一時期は伝馬町に住んでいたそうです。

静岡駅前に一泊し、次の日はレンタカーを借りて観光地へ向かいました。

登呂遺跡

昭和18年の軍需工場建設の際、多量の木製品や土器片が出土したため、同年第一次の発掘調査が行なわれました。戦後間もない昭和22年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての学際的発掘調査が行なわれました。発掘調査により東西に長い自然堤防上に、12軒の家、2棟の倉庫、井戸、森林の跡や、南側には水田の広がりが見つかりました。

登呂遺跡

遺跡からは、壺・甕などの土器、石器の狩猟漁撈具、木製の農耕具・機織具・日常生活用具、青銅製装身具など、多種多様な生活に関する道具が出土しています。

登呂遺跡

遺跡内には、復元住居や復元倉庫、赤米など米づくりを行っている復元水田が広がっています。

日本平

標高307mの有度山、この丘陵は10万年前に隆起し海側が波などで削り取られ、この土砂が沿岸流に流され三保半島を形成する要因となったようです。日本武命がこの地で野火攻めにあい、火に囲まれた際に「倭姫命」より授かった「天叢雲剣」で周囲の草をなぎ払い、活路を見出したとされ、その昔は「ヤマト平」と言われていたこともありました。ここから「日本平」という名になりました。

日本平

「広重 江尻」は日本平からの景色を描いたと言われます。右手に三保の松原、富士山が見えますが、広重はあえて富士山を描かなかったようです。

久能山東照宮

標高216mの久能山は隆起によって生じた日本平の先端が浸食により削られて現在のような独立した山になりました。推古天皇の頃、久能忠仁が久能寺を建立します。1568年(元禄11)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部へ移し、この要害の地に久能城を築きました。武田氏滅亡と共に駿府は徳川家康の領有となります。家康の死後、遺命により久能山へ葬られ、1617年(元和3)、2代将軍秀忠によって社殿が造営されました。現在、静岡市根古屋から登る表参道の石段は17曲がり、1159段と登るのはかなり大変でした。このあたりは石垣イチゴが有名です。

羽衣の松

天女が魚師のために美しい舞を舞いながら天へ帰ったという伝説の松です。初代の羽衣の松は1707年(宝永4)の富士宝永山噴火の際に海中に沈んだと伝わっていますが、二代目の羽衣の松も樹齢600年以上です。となりには羽車神社があります。能「羽衣」の舞台になっていることから毎年10月に薪能が上演されています。

三保の松原

平安の頃より景勝地として知られていました。約7kmにわたり白砂の海岸が続きます。クロマツは54000本も植えられています。江戸時代には興津から船で三保へ渡り、三保の松原、久能山を経由して駿府へ入るルートをとる旅人も多く、渡し船屋と江尻宿で揉め事が起きたこともあったそうです。