どこまで行っても富士山が見守ってくれます。(晴れの日限定)

2002年10月13日

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9:10 吉原宿をあとに、蒲原宿へ向かいます。

道祖神

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富安橋

潤井川に架かる富安橋は、明治以前は「三度橋」と呼ばれていました。元々は丸太橋でよく流されており、村人は橋をかけ直したかったのですが、お金がありませんでした。その頃、三度屋といって1ヶ月に三度づつ東海道を上り下りして江戸と上方の間で手紙や小包を届ける「三度飛脚」という問屋がありました。この問屋が42両の費用を出し、橋を架けました。

間の宿 本市場

吉原と蒲原の間にあり、間宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び、旅人たちで賑わいました。

江戸時代の本市場地図

広重 吉原

本市場の名物として白酒・ネギ雑炊・肥後ずいきなどが知られ、広重の浮世絵には白酒売の茶屋で憩う人々が描かれています。

鶴芝の碑

1820年(文政3)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたそうです。京都の画家、盧洲が鶴を描きこれに江戸の学者亀田鵬斎が詩文を添えて碑としました。今ここから富士を眺めると、残念ながら住宅に遮られて富士は見えません・・・・・

本市場一里塚跡

札の辻跡

橋の名称は現在でも「札の辻橋」です。かつてはこのあたりに平垣村の高札場がありました。

雁堤

富士川の流れは江戸時代の初めまでは加島平野をいくつもの支流を作って流れ、度重なる洪水は人々を苦しみました。古郡氏は、1615年〜1623年(元和年間)に岩本山の麓に一番出し、二番出しの水制(石積みの小堤防)を築き、親子三代に渡り富士川との戦いの末に雁堤を完成させたのは、1674年(延宝2)でした。

雁堤案内図

松崎鉄之介句碑

 『雁堤 秋富士に つばさ張る』 雁堤は雁が翼を広げたようなWの形をしていたので、このような句ができたのでしょうね。
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雁公園

雁堤は公園になっています。桜も有名ですが、秋にはコスモスも咲き乱れます。

水神社

境内にある1818年(文政元)の常夜燈は、岩本村船方講中によって建立されています。水神は富士登山道の起点でもあり、「富士山道」の道標も境内に移されて残っています。

渡船場の碑

東岸の渡船場は上船居、中船居、下船居の3箇所があり、川瀬の状況で使い分けていました。用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり、通常の定渡船には人を30人、牛馬4頭を乗せ船頭が5人着きました。周辺は今でも「舟場」と呼ばれているそうです。
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富士川橋

明治時代まで橋を架けることは許されず、渡船のみでした。1873年(明治6)安倍川に木造の橋が架けられると富士川でも岩淵村の大村惣一郎が架橋に挑みますが、急流に流されてしまいました。明治9年からは夏は渡船、冬は有料木橋となります。1922年(大正11)に鉄橋架橋工事が始まり、1924年(大正13)に竣工しました。

富士川

富士川は最上川、球磨川と並び日本三大急流として有名です。江戸時代の1602年に駿河国と甲斐国との間に富士川渡船が始まり、水運の要所として重要な輸送路でしたが、明治になると鉄道が敷設され、水運は衰退していきました。

八坂神社

本殿はこの奥、東名高速を越えた場所にあります。神社参道の上を東名高速道路が走っています。1602年(慶長7)創建。1746年(明和元)に焼失しましたが、1795年(寛政7)現在地で再興されました。毎年7月に京都八坂神社の流れをくむ「岩淵祇園祭典」が開催されます。

上水道築造記念碑

昭和4年と刻まれています。岩淵村に上水道が敷設されたのが昭和4年ということでしょう。

岩渕の一里塚

日本橋から37里目の一里塚です。両側が残っており嬉しいですね。このあたりは岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が並んでいました。東塚の榎は害虫のため昭和42年に枯死してしまい、現在は2代目です。

不動明王碑・薬師如来碑

 「東京 三田講」が建立したようで、野田山実相院、山頂の大師堂への案内を兼ねて建てたものでしょう。東海道はここで左へ曲がりますが、このまま直進すると道が左右に分かれます。右は実相院、野田山、左は四十九山田薬師堂へ行きます。薬師堂には薬師如来が収められ、実相院の御本尊だと伝えられています。昔、日蓮聖人が実相寺へ来たときに寺主と問答され、その後日蓮上人の弟子となりました。四十九院の院主は破山し、薬師如来を中之郷山に奉り、ここへ住居を定め四十九村と称しました。

明治天皇御駐輦之跡

新坂

上り坂になってきました。昔は七難坂を通りましたが、富士川の氾濫で道が流され、1843年(天保14)に新坂が開削されました。
TOO001 峠にさしかかります。東名に分断されて旧道は消滅してしまいましたが、橋を渡ると下り坂が始まります。

光蓮寺

1620年(元和6)、古来戦死万霊を弔うために蒲原駅の近くに建立されました。地震や津波などの災害を免れ、旧観を留めていましたが、昭和10年国道敷設のため、ここへ移転しました。

広重 蒲原「夜の雪」

東海道五拾三次中で「亀山 雪晴」、「庄野 白雨」と並び傑作と言われています。

蒲原一里塚跡

江戸より38番目の一里塚です。当初の一里塚は1699年(元禄12)の大津波で流失し、宿の移転に伴ってここへ移されたものです。

北条信三郎の墓

北条信三郎は、北条早雲の第三子です。1568年(永禄11)武田信玄の駿河侵攻を控え、駿河へ出兵し蒲原城主となります。元禄12年に武田軍の侵攻を受け籠城しますが、落城してしまいます。北条信三郎は、真田氏により討たれたと言われています。三島の祐泉寺にも北条信三郎の墓とされているものがあります。

東木戸跡・常夜燈

常夜燈には「宿内安全」と刻まれており、1831年(文政13)建立とされています。ここから蒲原宿が始まります。蒲原は昔、蒲(ガマ)が多く自生していたことからついた名前だそうです。ガマが多いということは池や沼、湿地が多かったということだと思います。富士川西岸一帯が「蒲原」と呼ばれるようになつたのは、鎌倉時代になってからと言われています。蒲原は度々洪水にあいますが、1854年の安政の大地震により西岸一帯の地盤が隆起したため。以降は洪水の被害がなくなったそうです。

木屋の土蔵

渡邊家は江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。材木を商っていたことから「木屋」という屋号で呼ばれていました。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟木から1838年(天保9)上棟であり、町内最古の土蔵であると考えられています。

蒲原宿は現在地よりも海側、現JR線路よりも南に位置していましたが、元禄元年の津波により、現在地へ移転しました。 蒲原宿まではほとんど人通りがなかったですが、宿内は観光客でいっぱいでした。

なまこ壁と「塗り家造り」

佐藤家は元「佐野屋」という商家でした。壁は塗り壁で、このような町家を「塗り家造り」といいます。塗り家造りは土蔵造りに比べて壁の厚みは少ないですが、防火効果は大きいです。元々は城郭などに用いられた技術であり、一般的には江戸時代末期以降に広まったと考えられているそうです。

広重 蒲原「夜の雪」記念碑

「夜の雪」はこのあたりから描かれたものとして、記念碑が建てられています。
TOO001 浮世絵に描かれている山は御殿山だと思われますが、ここから見る蒲原の景色は全く浮世絵とは違います。温暖な蒲原でしんしんと降る雪が想像できません。広重がなぜ雪景色を描いたのか謎ですね。

平岡本陣跡

蒲原には東本陣と西本陣の二軒の本陣がありました。ここは西本陣の跡で100m程東には東本陣(多芸本陣)がありました。平岡家の邸内には大名が籠をおろしたとされるお籠石が残されています。

『東海道中膝栗毛』

蒲原宿では、弥次さん喜多さんは大名行列の一行に鉢合わせます。喜多さんはどさくさに紛れて本陣へ上がり込み膳を食べ、弥次さんへのお土産に飯を手ぬぐいに入れて持ち出すという、とんでもないハチャメチャぶりでした。

和泉屋

安政年間(1854〜1860)に建てられました。旅籠時代の構造をそのまま維持しています。

手作りガラスと総欅の家

1909年(明治42)に建築された磯部家は柱や梁、戸袋にいたるまで全てが欅で造られています。二階の窓ガラスは、波たつ面が美しい手作りガラスです。日本において板ガラスが生産されたのは明治40年ですが、国産か輸入品なのかは見分けがつかないそうです。

旧五十嵐歯科医院

町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれる建物で、外観は洋風、内観は和風だということです。大正3年に自宅を3回に渡り洋風に改造したそうです。

向田川橋

向田川(二級河川)に架かる小さな橋です。このあたりで蒲原宿は終わりです。

蒲原宿は、江戸時代の面影が色濃く残る宿場でした。また、説明板があちこちに設置してあり、たいへん解りやすく、歩いていても楽しいですね。宿場だけを観光する観光客が多いのもうなずけます。

15:00 蒲原宿をあとに由比宿へ向かいます。