ようやく静岡県から愛知県へ入る−そしてひたすら歩く

2003年8月24日

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14:40 白須賀をあとに二川へ向かいます。

ようやく愛知県豊田市へ入ります。静岡県は本当に長かったです。東名高速道を車で走っていてもいつも静岡県は長いと思っていましたが、歩きではなおさら。しみじみ長かったと感じます。

一里山の一里塚

南塚は壊され、僅かに残っていた痕跡も大正末期には全く消滅しました。説明文では北側は残っているとなっていますが、どのあたりが塚なのか、森なのかよくわからない状況でした。
ここから国道1号へ入ると畑や工場などが多く、見どころもありません。2kmほど進みましたが、ただただひたすら歩くのみでした。そのため前から行って見たかった豊田佐吉記念館へ寄ることにし、タクシーを呼んで向かいました。

豊田佐吉記念館

母親の機織り仕事の重労働を楽にするため、夜な夜な納屋で研究に励み、ついに革命的な機械を作製しました。記念館には復元した生家と発明した機織りの展示があります。後に世界のトヨタを創立したのが佐吉の長男、喜一郎ですが、彼もここで生まれました。

G型自動織機

『岩津の天神さまに誓う』

あまり体が丈夫でなかった佐吉は、両親が心配しているのを知りご利益があると評判の岡崎の岩津天神へ往復86kmもの道のりを歩いて参拝しました。少年の頃より意志の強さをもっていました。

『観音堂で夜学会』

村の若い仲間を集め「日本を良くするには我々の若い力が必要だ」と新しい知識の吸収に励みました。

『発明家を志す』

父の大工仕事を手伝っていた時、佐吉は小学校の佐田先生が話す外国の発明家の話に感銘し、人のために役立つ発明家になろうと決心します。

『手織機の改良』

毎日遅くまで機織り仕事をしている母親を見て、能率の悪い手織機を改良しようと決心しました。

『発明に打ち込む佐吉』

父には家業に励めと言われ、村人には変人扱いでしたが、母が唯一の理解者でした。

『内国勧業博覧会を見学』

外国製品の優秀さに驚いた佐吉は会場に通いつめ、多くのものを学ぼうとしました。会場警備員に不審がられ咎められるほどでした。

『豊田式木製人力織機を発明』

1890年(明治23)ついに豊田式木製人力織機を発明し、まず母に織ってもらいました。能率よく織り上がる布を見た母は感激します。佐吉はもっと素晴らしいものを作ろうと決心しました。

『木鉄混製動力織機の発明』

29歳にしてついに動力織機を発明します。発明家としての佐吉の名は広く知られるようになりました。多くの名士が工場を訪れますが大隈重信も訪れ、敬意を表しました。

『日本人の手による最初の自動織機』

横線の補給を自動的に行う装置を発明し、ついに自動織機を完成させました。織機は高能率であるうえ、織物の品質も大変良くなり、日本の織物の輸出が盛んになりました。

『海外に目を向けます』

さらに知識を世界に求め、アメリカ・ヨーロッパの視察をしました。諸外国の織機を見て、自分の作った織機に自信を深めて帰国しました。

『環状織機の完成』

真の国際親善は助け合うことだと、佐吉は中国へ渡り上海に大規模な紡績工場を建設しました。そして発明への情熱は全く新しい発想による環状織機の完成に注がれました。

『世界に認められる』

当時、世界の繊維産業をリードしていたイギリスのプラット社は佐吉の発明した自動織機の優秀さを認め、特許の買い取りを申し入れました。「ついに世界一になった」と佐吉の感動はひとしおでした。

『日本人の手で自動車を』

上海から覇国した佐吉は、街を走る外国製の自動車を見て、長男喜一郎へいいます。「俺は織機をやっから、お前は自動車をやれ」佐吉と喜一郎の発明に対する情熱が日本の産業を牽引してきました。

木鉄混製動力織機

2005年5月3日

9:00 前回の一里山の一里塚手前2kmほどまでタクシーで戻りスタートしこのあたりは「江戸道中記」には、「夜道つつしむべし」と記されていました。現在も殺風景な道が延々と続いています。

そして、新幹線の高架をくぐれば三河国に入って最初の宿場、二川宿への旧道へ入り、ほっとひと息です。

脇本陣跡

松坂家が務めていましした。1807年(文化4)本陣が紅林家から馬場家へ移った際、本陣を建築するため、街道の南側にあった脇本陣はこの地へ移りました。建物は間口13m、奥行35m、畳数は93畳でした。

本陣資料館

馬場本陣は、かつての姿がほぼ完全に残っています。復元・修理し平成3年に資料館として開館しました。二川宿の本陣は、後藤家、紅林家、馬場家と3度変わっています。火災にあった後、困窮し他家へ交代しました。馬場家は質屋を営んでおり、この収入にて本陣経営の赤字を補っていたようです。

本陣での宿泊

大名はほぼ全ての道具を持参し、本陣が提供するのは薪と炭だけというのが多かったようです。中には風呂桶まで持参する大名もいたといいます。大名の食事も同行の料理人が作ります。宿泊中は家紋入りの幔幕(まんまく)と提灯を玄関前に掲げていました。大名が本陣を利用する場合の利用金も特に決まっておらず、また一般の旅人を泊めるわけにも行かず、本陣経営は赤字が常でした。

高札場 

本陣資料館の中に設置されています。本陣資料館はとても広く、一回り見と回るのもかなり時間がかかります。かなり楽しく、1時間ほど見て回ってしまいました。本陣遺構や展示も興味深いのですが、特に宿場の日常をドラマ化したものは楽しく、また東海道すごろくなども面白そうでした。

旅籠 清明屋

本陣の東側にあり、本陣の一部のようにも見えます。清明屋は江戸時代後期から明治時代まで営まれた旅籠で、当主は代々八部兵衛と名乗っていました。大名行列が本陣に宿泊する際には家老などの上級武士の宿泊所としても利用されました。

旅籠 ミセの間

街道に面しており、板の間になっています。荷物置場や帳場として使われていました。

旅籠の食事

旅籠では朝と晩、二度の食事が出されました。煮物と魚の一汁二菜かもう一品付く一汁三菜が多かったようです。

二川宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒がありました。 1601年(慶長6)の東海道設定当初から二川村と大岩村の2村で人馬継立業務を行ってきました。しかし小さな村であったため負担に耐えられなくなり、1644年(正保元)江戸幕府は二川村を西へ大岩村を東へ移動させ、二川宿と加宿大岩村として再構成しました。

西駒屋

安政2年創業の「たまり醤油」製造店ですが、かつては赤味噌も製造していました。

高札場跡・道路元標

二川宿では二川・大岩境の桝形南側に東向きに建てられていました。

西問屋場跡

二川宿では二川と大岩の2ヶ所の問屋場が交代で勤めていました。

大岩町郷蔵跡

郷倉は年貢米などを蓄えておいた村の共同の倉です。二川宿内には二川村、大岩村にそれぞれ1ヶ所ありました。

消防倉庫

大岩神明社

社伝によると、698年(文武天皇2)岩屋山、南山麓「かささ」に巌根の庄大岩の里人によって創建祭祀されたと伝えられています。古来より武門武将の崇拝が厚く、織田信長は陣太鼓を寄進して戦勝を祈願し、徳川家康からは、御朱印社領三石五斗を奉ったといいます。

二川駅

1896年(明治29)に建築、開設された木造の駅舎は100年以上使用され、東海道本線では最古の駅舎となっていました。1998年(平成10)より再整備事業が始まり、2000年(平成12)に木造の駅舎は役目を終えました。現在はモダンな新しい駅舎となっています。

11:30 二川宿をあとに吉田宿へ向かいます。