源義経伝説や説経節、相模川の橋脚など鎌倉時代の史跡を残す

2002年5月12日

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13:40 藤沢宿から平塚宿へむけてすすみます。

おしゃれ地蔵

女性の願い事なら何でも叶えてくださり、願いが叶ったらおしろいを塗ってお礼をすると伝えられているそうです。たくさんの願い事を叶えてくださるようで、お顔が真っ白ですね。「地蔵」となっていますが、双体道祖神ですね。

四谷不動、大山道道標

後ろの堂の中に入っている道標は二代目で、正面に「大山道」、両側面に「これより大山道」と彫られ、1676年(延宝4)に江戸横山町の講中が建立したものです。堂外のものが初代で1661年(万治4)、浅草の講中により建立されました。

当時のここ、四谷は多くの茶屋が立ち並んでいたそうです。

茅ヶ崎市へ入ります。
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茅ヶ崎一里塚

日本橋から14番目の一里塚です。片側は失われてしまいましたが、塚らしく残っています。松は新しいもので、当時の樹木はもう失われてしまったようですね。

鳥井戸橋と鶴嶺八幡宮大鳥居

相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高いそうです。社伝によると、源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社ということです。

南湖の左富士之碑

広重が描いた「南湖の松原左富士」があります。東海道の中でも左手に富士が見えるのはここと、吉原(静岡)の2か所です。今日は曇っていて、富士山は見えません。

旧相模川橋脚

1923年の関東大震災と1924年の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現しました。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見されました。当時、沼田頼輔氏が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されています。沼田はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛三郎重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定しました。 鎌倉時代にかけられたこの橋は一度修復はされたものの、その後明治時代に入るまで、相模川に橋が架けられることはなく、江戸時代は渡し船で渡っていました。

相模川橋の伝説

相模川(馬入川)を渡る東海道に初めて橋を架けた稲毛三郎重成は、頼朝の忠臣だった畠山重忠の親族です。また妻は北条時政の娘で、頼朝の正室・北条政子の妹でもありました。鎌倉幕府成立後に妻を亡くした重成は、出家して相模川付近に寺を建て念仏を唱える日々を送っていましたが、相模川の渡し船で命を落とす人々の多さを見て、妻への追福のために橋を架けることを決意すると、1198年(建久9年)に頼朝の許可を得て独力で橋を架けたと伝えられています。

頼朝もこの橋の竣工式に出席した帰りに、平家の亡霊に驚いた馬が暴れて川へ落ち、寒さに触れて病となり、翌年死亡したと伝わります。『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬し亡くなったことが記されています。この時、警護の武士10人が責任をとって自害し、その墓が龍前院の境内の10基の五輪塔であるとも言われています。さらに、この事件によって相模川の下流部分を馬入川(ばにゅうがわ)と言うようになったという伝説もあります。

湘江古橋行の碑

橋脚が発見された当時の歴史学者沼田頼輔氏によって、1198年(建久9)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考証されました。調査に当たった沼田頼輔氏によって漢詩で詠んだ橋の由来碑です。

ようやく平塚市に入ります。

もうへとへとです。今日はここまでに30kmほどは歩いています。馬入橋が果てしなく長く感じます。信号機でストップするともうここでやめようか・・いや次の信号まで・・・と。そして次の信号に来るとまた次の信号まで・・と励ましながらなんとか、かんとかたどり着きました。
5:40 平塚駅到着です。なんとかたどり着きました。